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デイヴィッド・モカッタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デイヴィッド・モカッタ
生誕 1806年2月17日
イギリスの旗イギリスロンドン
死没 1882年5月1日(1882-05-01)(76歳没)
イギリスの旗イギリス、ロンドン
国籍 イギリスの旗イギリス
職業 建築家
プロジェクト ロンドン・アンド・ブライトン鉄道駅舎

デイヴィッド・アルフレッド・モカッタ(David Alfred Mocatta, 1806年2月17日 - 1882年5月1日)はユダヤ系イギリス人建築家

経歴

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建設当初のブライトン駅舎(1841年)
ラムズゲートにあるモーゼス・モンティフィオーレのシナゴーグ

1806年ロンドンセファルティムの家に生まれた。父親は地金仲買人であった[1][2]1821年から27年までロンドンジョン・ソーンに師事し[3][4]1829年から1年間イタリアで学んだ[3]。その後1839年までにW・J・モカッタと共にブルームズベリーで開業し、46年まで勤務したのちロンドンに移転した。1833年には、イングランドのユダヤ人建築家として初めて国内のシナゴーグを設計した[5]。このシナゴーグはケント州ラムズゲートにあり、モーゼス・モンテフィオーレのために設計されたものである。また、ユダヤ系イギリス人によるウェスト・ロンドン・シナゴーグ英語版は、バートン・ストリートの仮設建築(1841年)と、マーガレット・ストリートの建築物(1851年)の設計をモカッタに依頼した。後者は400席の座席が設置され、建設費4千ポンドを要した[5]。また1846年には英国建築研究所(後の王立英国建築家協会)のフェローに選ばれた[5]

鉄道建築

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1839年、モカッタはロンドン・アンド・ブライトン鉄道の設計士に就任し、ブライトン駅とその他10駅の設計を任された[6]。彼が設計したブライトン駅のデザインは、ウィリアム・タイト英語版が設計したナイン・エルムス駅英語版と似ていると言われており、他の駅はイタリア風建築の影響が見られる[7]。そのほか、同社のウース・ヴァレー高架橋英語版の装飾デザインも担当した[8]

また、ファリンドン通りにセントラル・ロンドン鉄道の駅を建設する計画にも関わり1845年頃に計画書を作成したが、実現には至らなかった[8]

その後の経歴

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1848年、モカッタはロンドン発熱病院英語版の設計コンペで優勝した。また1846年頃、サフォーク州のストウラングトフト・ホールの設計を行い、現在の建物(1859年築)は彼の設計に基づいて建てられたものと考えられている[9]。その後1850年代に一族の財産を相続したモカッタは、早々に建築家を引退した[5]

その後、彼はサー・ジョン・ソーンズ美術館の上級理事となった[5]。またウェスト・ロンドン・シナゴーグ英語版の創設メンバーでもあった彼は、委員会の議長にも就任した。

脚注

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  1. ^ Jewish Currents: "A Golden Age of Jewish Architects" by Abbott Gorin[リンク切れ]
  2. ^ Orbell, John. "Mocatta family (per. 1671–1957)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/53953 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ a b Brodie, 2001, page 194
  4. ^ Kadish, 2002
  5. ^ a b c d e Jamilly, Edward, Anglo-Jewish Architects and Architecture in the 18th and 19th Centuries (Paper read before the Jewish Historical Society of England on 8 March 1954)
  6. ^ Brighton & Hove Museums, The Royal Pavilion, Libraries & Museums Collections[リンク切れ]
  7. ^ Cole (1958), pp.150.
  8. ^ a b Cole (1958), pp.151-55.
  9. ^ Cole (1958), p.156.

参考文献

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