デニー白川
デニー白川 | |
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生誕 | 1942年??月??日 |
出身地 |
日本 兵庫県神戸市 |
活動期間 | 1960年 - |
レーベル | 日本コロムビア |
デニー白川( - しらかわ、本名:桑木 国照、1942年 - )は日本の歌手。別名は「日本のナット・キング・コール」。
バイオグラフィ
[編集]1950年から3年間ほど、ハンク・スノウ、ハンク・ウィリアムズなどのカントリーウエスタンを歌った[2]。
小学5年生の頃より米軍キャンプにプロ歌手として派遣される。
1960年10月、コロンビア・レコードよりデビューした。
19歳のころ、ベニー桑木という芸名で、横浜市の関内のナイトクラブで歌っていた[3]。
1961年5月にナット・キング・コールが来日した際、身の回りの世話や通訳を担当した[4]。
音楽誌「ミュージック・ライフ」の毎月の人気投票でベスト10に入った[5]。
1967年11月、キングレコードより、『伊勢佐木町ブルース』をリリースした。青江三奈の同名の歌よりも1カ月早いリリースであった。作曲の吉田矢健治からは第二のバーブ佐竹(1965年に作詞:山北由希夫、作曲:吉田矢の「女心の唄」で日本レコード大賞新人賞を獲得)として売り出したいとデニーは聞いた。この曲は2万8000枚売れた。
1970年12月、全日本歌謡選手権10週に挑戦、勝ち抜く[6]。
1980~81年、ハワイ・ロサンゼルス・サンフランシスコ・ニューヨーク・オーストラリア・シンガポール・タイ・マニラ・バンコク。香港にて巡業。
現在は音楽界の第一線から退いているが、クラブなどで歌唱を披露することもある[7]。
人物
[編集]神戸市立北長狭中学校時代は陸上部に在籍しており、健康診断で肺活量を測定したところ、8000ccを超えた[8]。
湯川れい子によるとナット・キング・コールそっくりのハスキーな優しい声で、非常に人気があった。言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、慎み深かった[5]。
脚注
[編集]- ^ 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』 p141
- ^ 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』 p76
- ^ 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』 p145
- ^ 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』 p90
- ^ a b 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』 p125
- ^ 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』 p58
- ^ 南部なおと (2015年3月23日). “日本のナットキングコール「デニー白川」さん来社!”. 南部なおとの【盛春ブログ】. Excite Blog. 2021年3月17日閲覧。
- ^ 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』 p95
参考文献
[編集]- 『日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川』神奈川新聞社、2007年、ISBN 978-4876454112