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トゥロン・メアリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トゥロン・メアリー[1]クメール語: ទ្រឿង មាលី英語: Truong Mealy1937年 - 2018年12月15日)は、カンボジア政治家外交官コーチシナ共和国ソクチャン省(現・ベトナム領)出身。王党派シハヌーク派)としてシハヌークラナリット父子を輔弼し、王政復古が成就した後にシハヌーク国王とラナリット第一首相より駐日大使を拝命。駐日大使離任後は国民議会下院)顧問などを務めた。

経歴

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1937年[2]コーチシナ共和国ソクチャン省(現・ベトナム領)に生まれる[3]

1987年から1991年にかけて、トゥロンは王党派シハヌーク派)としてノロドム・シハヌークに従いながら、民主カンプチアポル・ポト政権)の恐怖政治と続くベトナム人民軍占領で荒廃したカンボジア王国再興に奔走[4]

1990年6月、日本カンボジアに関する東京会議が開催されて、プノンペン政権(名目上はヘン・サムリン政権だが、実態はフン・セン首相兼外務大臣が実権を掌握するフン・セン派)やシハヌーク派、ソン・サン派を含むカンボジア各派が参加した[5][6]。この時トゥロンは、シハヌーク派の教育文化担当としてノロドム・ラナリットに随行している[7]。また、1991年10月23日にパリ平和協定が締結された際にも、カンボジア代表団の一員として随行した[4]

1993年5月、カンボジアで新しい憲法を制定するための総選挙が執行された結果、立憲君主制に基づく王政復古が成ってシハヌークが国王に復権し、ラナリット第一首相とフン・セン第二首相の共同統治が始まった[8]。 ラナリット政権時代の1994年にトゥロンは駐日大使を拝命し、同年12月26日、皇居天皇(当時。令和時代の上皇明仁)に信任状を捧呈した[9]1975年以来閉鎖されていた駐日カンボジア大使館が再開された[8]1997年にラナリット第一首相が失脚してフン・セン首相の単独統治が始まったが[8]、トゥロンは引き続き駐日大使に留まり1999年2月に離任するまで大使を務め上げた[10]

帰国後は、王党派の重鎮として国民議会下院)顧問などを務めた。2018年12月15日、老衰のためフランスにて80歳で逝去[4]

著作

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  • 幸運の法則: カンボジアの悲劇を生き抜いた (Conquer Our Destiny: A Living Witness to the Cambodian Tragedy) ISBN 9784946492204
  • ヴェトナムの中のカンボジア民族: メコンデルタに生きるクメール・クロム ISBN 978-4772210508

出典

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  1. ^ カナ表記は、日英両言語で書かれた著作『幸運の法則: カンボジアの悲劇を生き抜いた (Conquer Our Destiny: A Living Witness to the Cambodian Tragedy)』に基づく。他に、トロン・メアリートルオン・メアリーなどと表記されることもある。
  2. ^ 幸運の法則: カンボジアの悲劇を生き抜いた (ヤック企画): 1999 | 書誌詳細 | 国立国会図書館サーチ
  3. ^ ヴェトナムの中のカンボジア民族 メコンデルタに生きるクメール・クロムの通販/大橋 久利/トロン・メアリー - 紙の本: honto本の通販ストア
  4. ^ a b c ពិធីដារបង្សុកូល ឧទ្ទិសកុសល ជូនដួងវិញ្ញាណក្ខន្ធ លោក ទ្រឿង ម៉ាលី ជាព្រឹទ្ធាចារ្យនយោបាយជើងចាស់កំណើតខ្មែរក្រោម – សំឡេងកម្ពុជាក្រោម (クメール語)
  5. ^ 外務省: カンボジア和平及び復興への日本の協力
  6. ^ All-out effort led to Cambodia peace conference in Tokyo in 1990 – a look back at history - Khmer Times (英語)
  7. ^ シハヌーク殿下一行名簿 日本国外務省南東アジア第一課
  8. ^ a b c カンボジア基礎データ | 外務省
  9. ^ 信任状捧呈式(平成6年) - 宮内庁
  10. ^ メアリー・カンボジア大使 「援助にふさわしい国に」 の写真・画像 : 報道写真の共同通信イメージリンク
公職
先代
クン・ウイック(駐日クメール共和国大使)
メアス・チャン・リープソン・サン派駐日代表)
カンボジアの旗 駐日カンボジア大使 日本の旗
1994年 - 1999年
次代
イン・キエト