トマス・ポウィス (第4代リルフォード男爵)
第4代リルフォード男爵トマス・リトルトン・ポウィス(英語: Thomas Littleton Powys, 4th Baron Lilford FLS FZS、1833年3月18日 メイフェア – 1896年6月17日 リルフォード)は、グレートブリテン貴族。鳥類学への興味で知られ、1867年から1896年までイギリス鳥学会会長を務めた[1]。
生涯
[編集]第3代リルフォード男爵トマス・アザートン・ポウィスと妻メアリー・エリザベス(Mary Elizabeth、旧姓フォックス(Fox)、1806年2月19日 – 1891年12月7日、第3代ホランド男爵ヘンリー・リチャード・ヴァサル=フォックスと妻エリザベスの間の娘)の長男として、1833年3月18日にメイフェアのグレート・スタナップ・ストリート14号(14 Great Stanhope Street)で生まれた[2][1]。1843年から1848年までバークスウェルで教育を受けた後[3]、1848年から1850年までハーロー校に通い[2]、1850年夏に家庭教師とともにローザンヌを訪れた[3]。1851年6月12日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学したが[4]、学位は修得しなかった[3]。
ハーロー校在学中に動物を飼い始め、動物に関する論文をはじめて書いた[3]。大学在学中には動物の大群を飼うに至り、以降も動物研究のために各地を旅した[3]。1852年にロンドン動物学会フェローに選出された後、1853年にシリー諸島、ウェールズ、アイルランドを旅してタカ使いのエドワード・クロウ・ニューコム(Edward Clough Newcome)と知り合い、のちに自身もタカを飼うようになった[1]。1856年から1858年までハーキュリーズ・ローリー閣下(Hon. Hercules Rowley、1828年6月19日 – 1904年3月20日、第2代ラングフォード男爵ハーキュリーズ・ローリーの次男[5])とともにヨットで地中海を旅し、1859年に帰国した[3]。1862年3月、ロンドン・リンネ協会フェローに選出された[3]。
1861年3月15日に父が死去すると、リルフォード男爵位を継承した[2]。貴族院でははじめ自由党に属したが、1874年に保守党に転じた[2]。
1883年時点でノーサンプトンシャーに7,998エーカーの、ランカシャーに7,552エーカーの、ハンティンドンシャーに4エーカーの領地を所有し、合計で年収26,398ポンド相当だった[2]。
1858年にイギリス鳥学会の創設者の1人になり、1867年3月に会長に就任した[3]。1864年から1882年まで度々スペインと地中海を訪れ、アカハシカモメを再発見したほか、友人のハワード・アービーとともにスペインにおける鳥類学の先駆者の1人とされた[1]。しかし、1882年に長男が、1884年に妻が死去すると、リルフォード男爵は深く悲しみ、持病のくる病が悪化してしまった[3]。
1876年にノーサンプトンシャー自然史学会(Northamptonshire Natural History Society)の初代会長に就任した[3]。
1896年6月17日にリルフォードで死去、20日にノーサンプトンシャーのエイチャーチで埋葬された[2]。息子ジョンが爵位を継承した[2]。
著作
[編集]- Powys, Baron Lilford, Thomas Littleton; Salvin, Osbert; Newton, Alfred (1885). Coloured Figures of the Birds of the British Islands (英語).
- Powys, Baron Lilford, Thomas Littleton (1895). Notes on the Birds of Northamptonshire and Neighbourhood (英語).
- 全2巻、ロンドンで出版[3]
家族
[編集]1859年6月14日、エマ・エリザベス・ブランドリング(Emma Elizabeth Brandling、1884年7月9日没、ロバート・ウィリアム・ブランドリングの娘)と結婚[2]、3男をもうけた[6]。
- トマス・アザートン(1861年4月5日 – 1882年11月22日) - 1875年から1878年までイートン・カレッジで教育を受けた。生涯未婚[2]
- ジョン(1863年1月12日[6] – 1945年) - 第5代リルフォード男爵[7]
- スティーブン(1869年3月8日[6] – 1949年) - 第6代リルフォード男爵[7]
1885年7月21日、クレメンティナ・ジョージナ・ベイリー=ハミルトン(Clementina Georgina Baillie-Hamilton、1839年 – 1929年4月7日、カー・ベイリー=ハミルトンの次女)と再婚した[2][6]。
出典
[編集]- ^ a b c d Woodward, Bernard Barham; Foote, Yolanda (23 September 2004). "Powys, Thomas Littleton, fourth Baron Lilford". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/22680。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Husee to Lincolnshire). Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 658–659.
- ^ a b c d e f g h i j k l Woodward, Bernard Barham (1901). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (1st supplement) (英語). Vol. 3. London: Smith, Elder & Co. p. 284.
- ^ Foster, Joseph (1888–1892). . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 1. Oxford: Parker and Co. p. 1141. ウィキソースより。
- ^ Mosley, Charles, ed. (1999). Burke’s Peerage and Baronetage (英語). Vol. I (106th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1631. ISBN 2-940085-02-1。
- ^ a b c d Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1931). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, The Privy Council and Knightage (英語) (89th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 1491.
- ^ a b Morris, Susan; Bosberry-Scott, Wendy; Belfield, Gervase, eds. (2019). Debrett's Peerage and Baronetage (英語). London: Debrett's. p. 3880. ISBN 978-1-999767-0-5-1。
外部リンク
[編集]職能団体・学会職 | ||
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イギリス鳥学会会長 1867年 – 1896年 |
次代 フレデリック・デュケーン・ゴッドマン |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 トマス・アザートン・ポウィス |
リルフォード男爵 1861年 – 1896年 |
次代 ジョン・ポウィス |