トマース・パドロ
トマース・パドロ Tomàs Padró | |
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アルトゥロ・カレテロによる版画 (1877年) | |
生誕 |
Tomás Padró y Pedret 1840年2月11日 スペイン王国・バルセロナ |
死没 |
1877年4月16日 (37歳没) スペイン王国・バルセロナ |
国籍 | スペイン |
著名な実績 | |
運動・動向 | |
影響を受けた 芸術家 |
トマース・パドロ (西: Tomás Padró、1840年2月11日 - 1877年4月16日) はスペインの画家、イラストレーター、風刺画家、漫画家。
カタルーニャ州の芸術家一家に生まれ、油彩画や国内外の定期刊行物のイラストを描いた。政治風刺画の署名には AºWº も用いた。
経歴
[編集]彼は1840年2月11日[1]にバルセロナの芸術家一家に生まれた(→系譜)[1][2]。出生名はトマース・パドロ・イ・ぺドレットといい、父親のラモン・パドロ・イ・ピホアンは彫刻家で、弟のラモン・パドロ・イ・パドレットものちに画家となった[3][4]。彼はクラウディ・ロレンツァーレとともに、バルセロナ美術工芸学校で学び[3][5]、その後マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学した。当時の教師陣にはカルロス・ルイス・デ・リベーラやフェデリコ・デ・マドラーソらがおり[5][6]、同級生にはマリアノ・フォルトゥーニがいた。フォルトゥーニはパドロにフランスの画家、ポール・ガヴァルニのデッサンを見せた[7]。
1867年、パドロは作家のフランシスコ・ホセ・オレリャーナとともにフランスへ行き、パリ万国博覧会の模様をスケッチした[8]。 1868年には、サンタ・マリア・デル・ピノ教会の後陣にあるステンドグラスと、聖ヨハネ騎士団教会で女子修道院長の肖像画を描いた[5]。1869年、パドロはバルセロナにある聾唖学校の図画教授の職を得て、1875年まで同校で教えた[8]。
パドロのイラストレーターとしての最盛期は、1868年の名誉革命の時期と重なっている[9]。彼は1870年に結婚し、3人の子供をもうけた[9]。スペイン王アマデオ1世 の短い治世期間にはカルタヘナに住み、そこで雑誌「ラ・イルスタシオン・エスパニョーラ・イ・アメリカーナ」[8]の芸術特派員となった。彼は1877年4月16日[8]にバルセロナにて37歳で死去した[10]。
業績
[編集]パドロはカリカチュア、歴史画[11]、漫画[注 1]などさまざまなジャンルの作品を手がけた[11]。とくに、彼はスペインの政治風刺雑誌「ラ・フラカ」の主要な寄稿漫画家であった[13][注 2]。ほかにも彼がイラストを描いた雑誌は多数あり、「エル・ムセオ・ウニベルサル」[7]、「ラ・カンパーナ・デ・グラシア」、「ラ・マデハ・ポリーティカ」のほか、年鑑の「El Tiburón」、「L'any nou」、「Lo Xanguet」にもイラストを描いている[8]。一方、海外の定期刊行物では「イリュストラシオン」、「イルストリールテ・ツァイトゥング」、「ル・モンド・イリュストレ」などに寄稿した[9]。また彼は油彩画家としても活動し、アストゥリアス王ペラーヨやコバドンガを描いた作品で高い評価を受けた[8]。1863年にはマドリードで開かれた展覧会に『電車が発車する前の鉄道駅』と題するカンヴァス画を出品した[8]。一方、書籍の仕事でも、劇的な「El teatro selecto」のほか、作家のビクトル・バラゲールの「バルセロナの街並み」に挿絵を描いた[8]。スペインの歴史家、アントニオ・エリアス・デ・モリンスによれば、パドロの書籍の仕事ではモデスト・ラフエンテの「スペイン史」に描いた挿絵が際立って優れていると評した。
作品
[編集]-
『アラゴン王ドン・フェルナンドの戴冠式パレード』
(1860年10月9日) -
『パリ万博スペイン館』
(1867年) -
『ブランカ1世』
(1868年) -
「ル・モンド・イリュストレ」表紙
(1870年)[注 3]
-
『進歩の世紀における灯火管制は必ずしも退行とは限りません』
(1873年)[注 4] -
『カルタヘナ火山』
(1873年)[注 5] -
『カステラールの学校』
(1873年)[注 6] -
『君主制までの6年』
(1874年)[注 7]
系譜
[編集]- 曽祖父 - ジャウマ・パドロ・イ・コッツ (1720-1803) - 建築家、彫刻家
- 祖父 - トマース・パドロ・イ・マロー (17??-18??) - 彫刻家
- 父 - ラモン・パドロ・イ・ピホアン (1809-1876) - 彫刻家
- トマース・パドロ・イ・ペドレット (1840-1877) - 画家、イラストレーター、風刺画家
- 弟 - ラモン・パドロ・イ・ペドレット (1848-1915) - 画家、イラストレーター
- 姪 - メルセデス・パドロ・イ・グラネ (1890-1958) - 画家
- 甥 - ホセ・パドロ・グラネー (José Padró Graner) (1900-1931) - 写真家
参考文献
[編集]- Alcaraz Quiñonero, Joaquín (1993). «El Cantón murciano en la Prensa gráfica contemporánea». Anales de Historia Contemporánea 9. ISSN 1989-5968.
- Barrero, Manuel (2011). «Orígenes de la historieta española, 1857-1906». ejemplar dedicado a: La historieta española, 1857-2010. Historia, sociología y estética de la narrativa gráfica en España). Arbor: Ciencia, pensamiento y cultura (Nº Extra 2): 15-42. ISSN 0210-1963. doi:10.3989/arbor.2011.2extran2112.
- Bori, Salvador (1945). Tres maestros del lápiz de la Barcelona ochocentista: Padró, Planas, Pellicer: estudio crítico-biográfico. número 5 de Monografías históricas de Barcelona. Librería Milla.
- Coll i Mirabent, Isabel (1986). Institut d'Estudis Penedesencs, ed. Mostres d'un impuls cultural d'amplis horitzons a Vilanova i la Geltrú (en catalán). Separata de: Miscel·lània Penedesenca; IX, 1986. Vilafranca del Penedès. p. 202. Archivado desde el original el 3 de marzo de 2016. Consultado el 19 de enero de 2020.
- Elías de Molins, Antonio (1889). «Padró y Pedret (D. Tomás)». Diccionario biográfico y bibliográfico de escritores y artistas catalanes del siglo XIX: (apuntes y datos) 2. Barcelona: Imp. de Fidel Giró. Wikidata Q21686127.
- Fontanals i del Castillo, Joaquim (1877). Recuerdo al artista Tomás Padró. Barcelona: Tipografía-litografía de C. Verdaguer.
- Ibáñez Álvarez, José (2004). El Gabinete de Estampas del siglo XIX del Museo Romántico de Madrid (tesis doctoral). ISBN 84-669-1898-1.
- Martínez de Velasco, Eusebio (30 de abril de 1877). «Nuestros grabados». La Ilustración Española y Americana (Madrid) 21 (16): 275-278. ISSN 1889-8394.
- Ossorio y Bernard, Manuel (1868). Galería biográfica de artistas españoles del siglo XIX II. Madrid: Imprenta de Ramón Moreno. Wikidata Q17502094.
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ パドロはスペインにおける漫画のひとつの源流と呼べるが、マヌエル・バレロによれば、この分野における彼のイラストには連続した物語性はないものの、一貫したテーマを持った流れのある挿絵として表現されており、どちらかと言えば初源的な漫画に分類されている[12]。
- ^ イラストに関する限り、第3巻の目論見書に示されているように、パドロは「ラ・フラカ」の主要な芸術家だったようであるが、イラストに彼の署名は見られない。実際、彼はこの雑誌に描いたイラストに AºWº と署名している[14][15]。
- ^ 1870年4月23日号より。バルセロナの市庁舎前で集合住宅の居住許可証を燃やす女性。
- ^ 「ラ・マデハ・ポリーティカ」より。エミリオ・カステラールのカルタヘナ包囲への風刺。地域名を書いたマッチ箱や「会議」と書かれた鍵がある。
- ^ 「ラ・マデハ・ポリーティカ」より。政府によるカルタヘナ包囲戦中のカルタヘナへの砲撃。カントンの反乱における革命家の視点で描くと同時に、カルタヘナの惨状を訴える内容となっている。壁を背にして描かれている人物は左からロケ・バルシア、アントニオ・ガルベス・アルセ、フアン・コントレラス・イ・ロマン。
- ^ 「ラ・フラカ」より。さまざまな地域の衣服を着た子供姿のフランシスコ・ピ・イ・マルガルに連邦制を説くカステラール。
- ^ 「ラ・フラカ」より。1868年のスペイン名誉革命後から1874年12月にアルセニオ・マルティネス・カンポス将軍が歴史的君主制を取り戻すまでの6年間を描いている。AºWº の署名がある。
- ^ パドロが描いたカタルーニャの伝統的な四旬節のシンボルで、七本の足のある老婆として描かれており、期間が進むにつれて足の数が減らされる。
- ^ ヘッダのイラストはパドロが描いている。
出典
[編集]- ^ a b Fontanals i del Castillo, 1877, pp.1, 7
- ^ Elías de Molins, 1889, pp.273-274
- ^ a b Ossorio y Bernard, 1868, p.87 (vol. 2)
- ^ i Mirabent, 1986, p.183
- ^ a b c Fontanals i del Castillo, 1877, pp.2-3
- ^ Martínez de Velasco, 1877, p.275
- ^ a b Fontanals i del Castillo, 1877, p.3
- ^ a b c d e f g h Elías de Molins, 1889, pp.273-274
- ^ a b c Fontanals i del Castillo, 1877, p.5
- ^ D. Tomás Padró y Pedret, 21, Madrid, (30 april 1877), p. 284, ISSN 1889-8394
- ^ a b Bori, 1945, p.19
- ^ Barrero, 2011, pp.27, 31
- ^ Ibáñez Álvarez, 2004, p.200.
- ^ Alcaraz Quiñonero, 1993, p.90
- ^ Pilar Vélez (ed.), ed. (2008), L'exaltació del llibre al vuitcents: art, indústria i consum a Barcelona, ISBN 978-84-7845-028-2
外部リンク
[編集]- トマース・パドロの経歴 - プラド美術館 ホームページ
- 『電車が発車する前の鉄道駅』(カンヴァスに油彩、1862年頃) - プラド美術館
- ウィキメディア・コモンズには、トマース・パドロに関するカテゴリがあります。