ドゥアンチャイ・ピチット
ドゥアンチャイ・ピチット ດວງໃຈ ພິຈິດ Douangchay Phichit | |
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生年月日 | 1946年4月5日 |
出生地 | フランス領インドシナ、アッタプー県 |
没年月日 | 2014年5月17日 |
死没地 | ラオス、シエンクワーン県 |
出身校 |
ベトナム軍事アカデミー ソ連軍事アカデミー |
所属政党 | ラオス人民革命党 |
内閣 |
ブンニャン・ウォーラチット内閣 ブアソーン・ブッパーヴァン内閣 トーンシン・タムマヴォン内閣 |
在任期間 | 2001年 - 2014年5月17日 |
国家主席 |
カムタイ・シーパンドーン チュンマリー・サイニャソーン |
内閣 |
ブアソーン・ブッパーヴァン内閣 トーンシン・タムマヴォン内閣 |
在任期間 | 2006年 - 2014年5月17日 |
国家主席 | チュンマリー・サイニャソーン |
ドゥアンチャイ・ピチット(ラーオ語: ດວງໃຈ ພິຈິດ / Douangchay Phichit, 1946年4月5日 - 2014年5月17日)はラオスの軍人、政治家。ラオス人民軍副総参謀長、国防大臣、副首相を歴任。ラオス人民革命党政治局員。最終階級は中将。
経歴
[編集]ドゥアンチャイは1946年、ラオス南部のアッタプー県サイセーター郡に生まれた[1][2]。ベトナムの軍事アカデミーに派遣され、内戦末期にラオス人民解放軍に参加[1]。人民民主共和国の建国後も軍に留まり、1982年にはソビエト連邦の軍事アカデミーでも訓練を受けた[1]。
国防省参謀本部部長、国防副大臣を歴任[3]。1991年3月の第5回人民革命党大会において党中央委員に選出され、党内序列第53位となる[4]。翌1992年には副総参謀長に任命[1]。
1996年3月の第6回党大会においては、人民軍准将の階級で党中央委員に再選出され、序列22位へ昇格した[5]。
2001年3月の第7回党大会においては、人民軍少将の階級で党中央委員および党政治局員に選出され、序列第10位に昇格[6]。同年3月27日、第4期第7回国会において新たにブンニャン・ウォーラチット内閣が成立すると、チュンマリー・サイニャソーン中将に代わって国防大臣に就任した[1][7]。チュンマリーとドゥアンチャイはサイセーター郡の同郷であり、チュンマリーが引退後も影響力を行使するための人事であったと見られる[2]。
2006年3月の第8回党大会において党政治局員に再選出され第9位となり[8]、大会後は中将に昇格した[1]。同年6月の第6期第1回国会においてブアソーン・ブッパーヴァン副首相が首相に昇格すると、それに伴い副首相の兼務となった[1][8]。
2014年5月17日、ドゥアンチャイはジャール平原における対王党派軍戦勝55周年式典に出席するため、首都ヴィエンチャンから空路でシエンクワーン県ポンサワンに向かった[9]。しかし、搭乗したアントノフAN-74TK-300が同県西部に墜落[9][10] [11]。この事故ではドゥアンチャイや他の党・政府要人を含む15名が死亡し、2名が生存した[12]。
後任には、5月末にセンヌアン・サイニャラート副大臣が国防大臣代行に任ぜられ、7月の国会で国防大臣として正式承認された[13]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g Stuart-Fox(2008), p.83.
- ^ a b 山田(2015年)、306ページ。
- ^ NEW CENTRAL COMMITTEE LINEUP, 2006 March 31
- ^ 山田(2002年)、128ページ・表4。
- ^ 山田(2002年)、131ページ・表5。
- ^ 山田(2002年)、123ページ表1、139ページ・表6。
- ^ 山田(2002年)、143ページ・表7。
- ^ a b 山田(2007年)、261ページ。
- ^ a b 「【ラオス】軍用機墜落で副首相ら閣僚含む14名が死亡」『GLOBAL NEWS ASIA』 2014年5月18日
- ^ Lizzie Dearden (2014年5月17日). “Laos plane crash: Defence minister Douangchay Phichit and government officials presumed dead”. INDEPENDENT 2015年11月4日閲覧。
- ^ 搭載機はAN-74TK-300Dとも伝えられている。“Lao defence minister killed in plane crash”. Bangkok Post. (2014年5月17日) 2015年11月4日閲覧。
- ^ 山田(2015年)、304ページ。
- ^ 山田(2015年)、307ページ。
参考文献
[編集]- 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会 ― 残された課題 ― 」石田暁恵編 『2001年党大会後のヴィエトナム・ラオス - 新たな課題への挑戦』 アジア経済研究所、2002年3月。
- 山田紀彦「貧困問題解決への強い意志を示した新指導部 - 2006年のラオス」『アジア動向年報2007』 アジア経済研究所、2007年。
- 山田紀彦「燻る政治・経済の不安と党大会への準備 - 2014年のラオス」『アジア動向年報2015』 アジア経済研究所、2015年。
- カム・ヴォーラペット 『現代ラオスの政治と経済』 めこん、2010年。
- Stuart-Fox, Martin (2008). "DOUANGCHAY PHICHIT (Duangchai Phichit) (1946- )". Historical Dictionary of Laos (Third ed.). Scarecrow Press. p. 83. ISBN 9780810856240。
関連項目
[編集]- トンパン・セーンアポーン - 党中央委員、党書記局書記、公安大臣。同じ機で墜落死。
- スカン・マハーラート - 党中央委員、党書記局書記、首都ヴィエンチャン市長。同じ機で墜落死。
- チュアン・ソンブンカン - 党中央委員、党書記局書記、党中央委員会宣伝・訓練委員会委員長。同じ機で墜落死。