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ドミトリー・アレクサンドロヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドミトリー・アレクサンドロヴィチ
Дмитрий Александрович
ウラジーミル大公
在位 1276/7年 - 1281年1283年 - 1285年

出生 1250年頃?
死去 1294年
子女 イヴァン
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 アレクサンドル・ネフスキー
母親 アレクサンドラ・ブリャチスラヴナ
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ドミトリー・アレクサンドロヴィチДмитрий Александрович1250年頃? - 1294年)は、アレクサンドル・ネフスキーの次男。母はポロツク公女アレクサンドラ・ブリャチスラヴナペレヤスラヴリ。一時期ノヴゴロド公に就任した後、ウラジーミル大公(1276(或いは1277)年 - 1281年、1283年 - 1285年)。

父の存命中に頭角を現す。1262年には叔父にあたるヤロスラフ3世とともにドイツ騎士団と戦い、ユーリエフ(ドルパト)を攻め落とす。

1277年に、叔父のウラジーミル大公ヴァシーリー・ヤロスラヴィチを継ぎ、大公に就任。1281年以降は弟のアンドレイ・アレクサンドロヴィチ大公位を争った。ドミトリーにはノガイが、アンドレイにはジョチ・ウルスが付き、争いは熾烈を極め、両者は交互に大公位に就いた。1294年に死去。ペレヤスラヴリを彼の息子イヴァンが継ぐが、彼も8年後に父の後を追う。このイヴァンの遺言により、ペレヤスラヴリはドミトリーの弟のダニール・アレクサンドロヴィチに遺贈された。


先代
ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ
ウラジーミル大公
11代
1281年 - 1294年
次代
アンドレイ・アレクサンドロヴィチ