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ドーセットシャー (重巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドーセットシャー
基本情報
建造所 イングランドの旗 イングランドポーツマス海軍基地
運用者  イギリス海軍
級名 カウンティ級ノーフォーク級重巡洋艦
モットー ラテン語: Pro Patria Et Comitatu
英語: For Country and County
艦歴
起工 1927年9月21日
進水 1929年1月29日
就役 1930年9月30日
最期 1942年4月5日、セイロン沖海戦にて戦没。
要目
基準排水量 10,035 トン
満載排水量 13,420 トン
全長 632 ftin (192.86 m)
最大幅 66 ft (20 m)
吃水 18 ft (5.5 m)
主缶 アドミラリティ式三胴型水管ボイラー×8基
主機 パーソンズギアード・タービン×4基
出力 80,000馬力 (60,000 kW)
推進器 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 31.5ノット (58.3 km/h)
航続距離 12,000海里 (22,000 km)/12 ノット
乗員 653 名
兵装
搭載機 スーパーマリン ウォーラス×2機(第700海軍航空隊英語版運用)
その他 艦載機用カタパルト×1基(後に撤去)
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ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40) は、イギリス海軍カウンティ級重巡洋艦の最終型[1]。本艦と姉妹艦ノーフォーク」をサブグループとする資料もある。ノーフォーク級重巡洋艦[2]、もしくはドーセットシャー級重巡洋艦に属する[1]。艦名はイングランド南西部ドーセット州の旧称に由来する[要出典]

1941年5月27日、航行不能になった戦艦「ビスマルク」を魚雷攻撃で撃沈した[3][4]。 1942年4月5日[5]セイロン沖海戦で日本海軍機動部隊から飛来した九九艦爆急降下爆撃により撃沈された[6][7]

艦歴

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1941年まで

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1927年9月21日に起工、1929年1月29日に進水し、1930年9月30日に就役[1]。1933年まで大西洋艦隊に所属し[8]、その間の1931年9月、インヴァーゴードン反乱事件が発生した。次いで1935年までアフリカ艦隊に所属した[8]

1935年9月時点では中国艦隊に配備されている[9]。10月から11月にかけて、「ドーセットシャー」を含めイギリス艦隊は大日本帝国を訪問[10]日本列島各地に寄港する[11][12]。 「ドーセットシャー」は10月3日から10日まで大分県別府港に滞在する[13][14]。その後は14日まで広島湾[15][注釈 1]、16日から28日まで横浜港に滞在した[17]。本艦が横浜港に入港した16日[18]アメリカ海軍の重巡洋艦チェスター (USS Chester, CA-27) と[19]フランス海軍の軽巡洋艦プリモゲ (Primauguet) も停泊していた[14][注釈 2]22日帝国ホテルにおいて「ドーセットシャー」艦長の歓迎を兼ね、高松宮親王夫妻や各国大使を招いて日英協会の例会が開催された[21]。 10月30日から11月3日まで本艦は鹿児島に滞在する[14]。その後、九州を出発して上海市にむかった[22]。なお瀬戸内海所在時には江田島に親善訪問し、乗組員が海軍兵学校を訪れたり、66期生が本艦を見学するなど交流を深めた[7]

1938年の時点でも、本艦は中国艦隊に所属しており[23]、シンガポールを拠点に行動した[24]。 1939年9月に第二次世界大戦がはじまると、東南アジアからインド洋へ移動した。大西洋ではドイツ海軍の装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」が通商破壊作戦を開始した[25]。10月初頭、イギリス海軍本部は通商破壊艦対策として複数の任務部隊を編成して各地に配備する[26]。空母「イーグル」、重巡洋艦「ドーセットシャー」、「コーンウォール」はI部隊に所属し、セイロン島を拠点に行動した[26][27]

12月、G部隊(指揮官ハーウッド代将)の重巡洋艦「エクセター」が南アフリカサイモンズタウンで修理する間、その代理を「ドーセットシャー」が務めるよう命じられた[28]。「ドーセットシャー」はインド洋を離れ、フォークランド諸島ポートスタンリーに向かう[28]。12月12日の時点で、「ドーセットシャー」はサイモンズタウンで明日の出港に備えていた[29]。翌13日のラプラタ沖海戦により「アドミラル・グラーフ・シュペー」がウルグアイモンテビデオに逃げ込んだ時、ケープタウンにいた「ドーセットシャー」も同地への進出を命じられた[30]。だがモンテビデオ到着予想日時は12月21日であった[31]。「ドーセットシャー」がモンテビデオに到着してG部隊(エイジャックスアキリーズカンバーランド)に合流した時[注釈 3]、シュペーは既に自沈して残骸になっていた。

1940年1月より、「ドーセットシャー」は南大西洋での船団護衛任務に従事した。

7月28日、仮装巡洋艦「アルカンタラ」がドイツ仮装巡洋艦「トール」と遭遇、交戦。それを受けてフリータウンに居た「ドーセットシャー」は出撃を命じられている[33]

11月以降、インド洋での船団護衛任務や通商破壊艦対策に従事する。その頃、装甲艦「アドミラル・シェーア」が大西洋やインド洋で行動していた[34]。12月、イギリス海軍は「アドミラル・シェーア」が大西洋にいることに気付き、K部隊を再編する[35]。さらに多数の巡洋艦を哨戒任務に投入した[36]。「ドーセットシャー」と軽巡洋艦「ネプチューン」は、フリータウン西方500マイルの海域を警戒するよう命じられた[36]

ビスマルク追撃戦

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1941年5月、ドイツ海軍はライン演習作戦を発動し、リュッチェンス提督率いる戦艦「ビスマルク」と重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」が大西洋に進出した[37][38]。5月24日、リュッチェンス部隊はデンマーク海峡海戦で勝利を収めたが[39]、「ビスマルク」も小破して燃料不足となる[40]。リュッチェンス提督は作戦を中止して、フランス西海岸の基地にむかうことにした[41][42][注釈 4]。 イギリス海軍は巡洋戦艦「フッド」の仇をとるため、全力を挙げる[45]本国艦隊H部隊の他に、輸送船団を護衛中の艦艇もビスマルク追撃を命じられた[46][47]。「フッド」が沈没したとき、「ドーセットシャー」はシエラレオネからの輸送船団SL74を護衛して大西洋を北上中だった[48]

5月26日午前11時ころ、PBYカタリナ飛行艇がフランスにむけて東進するビスマルクを発見し、各部隊に通報した[49]。「ドーセットシャー」の艦長ベンジャミン・マーティン英語版大佐は位置を計算し、「ビスマルク」が「ドーセットシャー」の北方360浬にいること、「ドーセットシャー」が仇敵たるドイツ巨大戦艦を迎撃できることに気付いた[50]。マーティンは海軍本部の許可を得ず、船団の護衛任務を特設巡洋艦にまかせて東進を開始した[51]

5月27日午前8時47-50分、本国艦隊司令長官トーヴィー大将直率の戦艦「キング・ジョージ5世」、戦艦「ロドニー」、重巡洋艦「ノーフォーク」が砲撃を開始、「ビスマルク」も応戦した[52]。「ドーセットシャー」は砲撃戦がはじまってから約30分以上が経過して「ビスマルク」が沈黙したころ戦闘に加入し、午前9時40分から砲撃を開始した[53][54]。「ドーセットシャー」が突如戦場に出現したため、トーヴィ戦隊は「ドーセットシャー」を「掩護にかけつけた独重巡プリンツ・オイゲン」と錯覚したという[55]。本海戦で「ドーセットシャー」は20.3cm砲弾254発を発射した[56]

「ビスマルク」が抵抗の手段を失って航行不能になったとき、サマヴィル提督が率いるH部隊の3隻[注釈 5]が出現し、サマヴィルは自らの手でとどめをさして良いかをトーヴィーに問い合わせた[60]。だがトーヴィーは戦闘を中止し「魚雷を有する艦はビスマルクに接近し、これを攻撃せよ」と命じた[60]。この時点で戦場に居合わせた駆逐艦は燃料不足で離脱するか、前夜の「ビスマルク」への夜間雷撃で魚雷を使い果たしており[61]、魚雷を持っていたのは「ドーセットシャー」だけだった[62]。午前10時20分、「ドーセットシャー」は「ビスマルク」の右舷に魚雷2本を発射し、左舷側にまわると、午前10時36分に魚雷1本を発射した[63]。午前10時39分、「ビスマルク」は左舷に転覆して沈没した[62][64]

リュッチェンス提督とリンデマン艦長は「ビスマルク」と運命を共にした[65][66]、まだかなりの乗組員が海面に浮いていた[67][68]。「ビスマルク」にとどめの魚雷を撃ちこんだ「ドーセットシャー」は停船し、泳いできた生存者の救助を開始した[67][69]。約1時間で「ドーセットシャー」が85名[70]、駆逐艦「マオリ」が24名を救助した[71][注釈 6]。 なおも静止救助中、Uボートの存在が予測されたため[73]、生存者数百名を水面に残して沈没現場を離脱した[74][注釈 7]。 その後、「ドーセットシャー」は修理のためイングランド北東部のニューカッスルに移動する[79]。航海中に「ビスマルク」生存者1名が死亡し、水葬に付された[80]。5月30日、ニューカッスルに入港して「ビスマルク」生存者は陸軍に引き渡された[81]。「ドーセットシャー」乗組員は「ビスマルク」生存者を厚遇し、好意をもって接した[81]。「ドーセットシャー」の水兵達は厚遇の理由について「今日はあんた方だが、明日は我が身だから」と語ったという[81]。「ドーセットシャー」の "明日" は、さほど間をおかずにやってきた[81]

1941年(昭和16年)8月、オーガスタス・エイガー英語版大佐が新艦長となる。11月22日、重巡洋艦「デヴォンシャ―」 (HMS Devonshire, 39) が[82]、ドイツ潜水艦「U126英語版ドイツ語版」に補給中だった仮装巡洋艦「アトランティス」 (Atlantis) を撃沈する[83]。アトランティスの生存者はUボートの支援により補給船「ピトンドイツ語版」(Python) に収容された[84]。12月1日、「ドーセットシャー」はセントヘレナ島南西720浬でドイツ潜水艦2隻(U68ドイツ語版UAドイツ語版)に補給中の「ピトン」を発見し[85]、撃沈した[86][1]。Uボートの襲撃を警戒して、生存者の救助はおこなっていない[86][注釈 8]

沈没

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攻撃を受けるドーセットシャー

東洋艦隊(司令長官ジェームズ・サマヴィル中将)に配属された「ドーセットシャー」は、1942年4月1日の時点で、サマヴィル提督直率のA部隊としてインド洋を航行していた[注釈 9]。 東洋艦隊は南雲中将が率いる日本軍機動部隊インド洋襲撃に備えていたが、事前の情報に反して日本艦隊が出現しなかったので、燃料補給のために大部分はモルディブ諸島アッドゥ環礁に後退した[88]。重巡洋艦「ドーセットシャー」、「コーンウォール」と軽空母「ハーミーズ」および護衛艦艇などが、修理や次任務のためセイロン島にむかった[注釈 10]

4月4日夕刻、PBYカタリナ飛行艇がセイロン島に向けて進撃中の日本海軍機動部隊を発見し、各方面に通報した[89]。サマヴィル提督は「ドーセットシャー」と「コーンウォール」に、コロンボを出発して東洋艦隊(A部隊)に合流するよう命じる[88]。4月5日、日本海軍はコロンボを空襲した[88]。その時、英重巡2隻はセイロン島の南西320kmを航行中だった[90]。そこに、南雲機動部隊から江草隆繁少佐(蒼龍飛行隊長[91]海兵58期[6]率いる九九式艦爆計53機(蒼龍18機[91]、飛龍18機[92]、赤城17機[93])が飛来し、英重巡2隻に対し急降下爆撃を開始した[94]

当初、南雲機動部隊の重巡「利根[注釈 11]の偵察機(九四式水上偵察機)は「敵巡洋艦らしきもの2隻見ゆ」と報告し[96][97]、確認にむかった軽巡「阿武隈」の偵察機は「敵駆逐艦2隻見ゆ」と報告した[96][98]。 機動部隊参謀長草鹿龍之介は「駆逐艦2隻なら見逃してコロンボ港の商船撃滅を優先しよう」と考えていた[99][注釈 12]。 ところが航空参謀源田実が「商船は丸腰だから町人で、駆逐艦両刀を帯びた武士です。無辜の町人を目標として、武士を見逃すのは、ふだん武士道精神をやかましくいわれる参謀長らしくない」と進言し、第二波攻撃隊は敵駆逐艦2隻にむかうことになったという[101][注釈 13]。 結局、阿武隈機が報告した「駆逐艦2隻」は重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)の誤認であり[102]、利根の零式水上偵察機が「敵巡洋艦はケント型なり、付近に敵を認めず」と報告して決着がついた[103]。なお第五航空戦隊九七式艦上攻撃機は当初魚雷を装備していたが、コロンボ港第二次攻撃のため南雲司令部の命令により爆弾に兵装転換したところ、利根水偵より「敵艦2隻発見」報告があって魚雷に再兵装転換を実施している[104]。兵装転換に時間がかかったため、機動部隊各艦(赤城、蒼龍、飛龍)から艦爆隊のみ先行して発進した[注釈 14]

日本時間午後4時30分前後から、日本空母3隻の各艦爆隊は急降下爆撃を敢行した[91][92][93]。「ドーセットシャー」に250kg爆弾多数が命中し、連合軍記録13時50分ごろ沈没する[注釈 15]。 「コーンウォール」も、急降下爆撃により撃沈された[106][注釈 16]。日本側の記録では、九九艦爆53機が急降下爆撃を敢行して、2隻に対し命中率80%以上を記録している[94]

2隻の生存者はサメのいる海を漂流することになった[108]。サメは多数いたが、生きている者には襲い掛からなかった[108]。4月6日の午後遅くに軽巡洋艦「エンタープライズ」と駆逐艦「パラディン」「パンサー」が現れ、1122名を救助した[108]。ドーセットシャーでは234名が死亡した[108]。戦死者の中には、乗艦していたイギリス海兵隊なども含まれてる[注釈 17]。 後日、本艦の救命具が日本軍に回収され、靖国神社で展示されたという[110]

ドーセットシャーのプラスチックモデルキット

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プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[111]
プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[112]
  • 1/700 ウォーターライン限定 英国海軍 重巡洋艦 ドーセットシャー インド洋セイロン沖海戦
プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[113]

出典

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注釈

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  1. ^ 宮島厳島神社参拝、江田島海軍兵学校見学など[16]
  2. ^ 三大海軍國 顔合せ 水兵京濱に氾濫(横濱十六日電通)[20] 十四日入港した米佛軍艦に引續き十六日朝英國一万トン巡洋艦トーセツシヤー號が入港はからずも三大海軍國の顔合せとなり、横濱は青い目の水兵服が氾濫海軍景気を現出してゐる(記事終わり)
  3. ^ G部隊のエクセターはラプラタ沖海戦で大破、フォークランドに退避した[32]
  4. ^ しつこく追尾する英重巡ノーフォークサフォークをかわすため、独重巡プリンツ・オイゲンは離脱して独自行動をとり[43]、6月1日ブレストに帰投した[44]
  5. ^ 巡洋戦艦レナウン(旗艦)、空母アーク・ロイヤル、軽巡シェフィールド[57]。前日、アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) のソードフィッシュ艦攻がビスマルクを雷撃し[58]、事実上の致命打を与えた[59]
  6. ^ 軽巡カイロと駆逐艦5隻(コサック、シーク、ズールー、マオリ、ピオルン)で輸送船団WS8Bを護衛していたが、ビスマルク追撃の命令によりフィリップ・ヴァイアン大佐が指揮する駆逐艦5隻はキング・ジョージ5世との合流を目指した[72]。各艦はビスマルクに夜間雷撃を敢行したとき、魚雷を使い果たした[61]
  7. ^ ビスマルク沈没現場にはU-74英語版ドイツ語版がいて、午前中に巡洋艦1隻と駆逐艦2隻を目撃した[75]。午後7時、ビスマルク生存者3名を救助した[76]。5月28日夜、ドイツ気象観測艦ザクセンヴァルト英語版ドイツ語版が2名を救助した[77]。他に生存者はいなかった[78]
  8. ^ パイソンとアトランティスの生存者414名が乗った救命艇18隻は、複数のUボートの助けを借りて曳航され、陸地に辿り着いた[87]
  9. ^ 旗艦ウォースパイト、空母インドミタブルフォーミダブル 、重巡洋艦ドーセットシャー、コーンウォール、軽巡洋艦エメラルドエンタープライズ、駆逐艦部隊。このほかにリヴェンジ級戦艦で編成されたウィリス提督のB部隊があった。
  10. ^ 重巡2隻はコロンボに、ハーミーズは同島トリンコマリーに向かった。
  11. ^ 第八戦隊(司令官阿部弘毅少将)旗艦[95]
  12. ^ 4月5日朝、南雲機動部隊から発進した第一攻撃隊(指揮官淵田美津雄中佐)はセイロン島コロンボ所在の商船を攻撃したが[100]、満足できる戦果ではなかった(コロンボ空襲[89]
  13. ^ 源田参謀の回想によれば、先任参謀などがコロンボ再攻撃を主張し、源田が「いやしくも敵の海上武力を発見した以上、それが駆逐艦であろうと見逃せない」と主張し、最終的に南雲長官が決定したという[102]
  14. ^ 五航戦(瑞鶴、翔鶴)は日本時間11時52分に南雲司令部より雷装から爆装に換装を命じられ、つづいて日本時間13時23分に爆装から雷装への転換を命じられ、雷装完了16時、雷撃隊発進は17時予定、英重巡2隻沈没は日本時間16時56分であった[104]。 結局、五航戦の兵装転換は間に合わなかった[105]
  15. ^ 小林道雄大尉が率いる飛龍攻撃隊は、日本時間16時38分から16時43分にかけてドーセットシャー型重巡に爆弾18発を投下、17発命中、攻撃開始より10分で沈没と記録した[92]阿部善次大尉が率いる赤城攻撃隊は、第2中隊8機が「敵1番艦」を攻撃して7発命中し午後4時48分沈没、第1中隊9機が「敵2番艦」を攻撃して8発命中し午後4時54分と記録した[93]
  16. ^ 日本時間午後5時までに[91]、2隻とも沈没した[93]。約20分間の戦闘であった[107]
  17. ^ 当初の発表では、戦死推定(士官19名、水兵169名、陸戦隊員24名、南アフリカ水兵19名)、戦傷死(水兵3名)、戦傷士官3名、合計239名[109]

脚注

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  1. ^ a b c d イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 36–37.
  2. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 78イギリス/重巡洋艦「ノーフォーク」級 NORFOLK CLASS
  3. ^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy p80
  4. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Taihoku Nippō, 1941.05.28、p.5、2023年5月20日閲覧 英海空精鋭の重圍に最後迄善戰沈没したビ號の海戰顛末 三度艦影を晦ましてならず 衆寡敵せず北大西洋怨み深し 
  5. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Manshū Nichinichi Shinbun, 1942.04.11、p.1、2023年5月20日閲覧 甲巡二隻撃沈 英海軍省遂に自認【リスボン九日發】
  6. ^ a b 海軍航空隊始末記 1996, pp. 97–101江草少佐、未曽有の戦果
  7. ^ a b 戦士の肖像 2004, p. 28昨日の友は……
  8. ^ a b Cruisers of World War Two, p. 91
  9. ^ The Last Century of Sea Power Volume 2, p. 50
  10. ^ 海軍公報 第2556号 昭和10年9月3日(火) pp.7-8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070351700 〔 ○英國東洋艦隊來航豫定 〕
  11. ^ #S10.09.02、英国東洋艦隊来訪 p.3(英国東洋艦隊来航豫定、ドーセットシヤー)
  12. ^ 海軍省年報、昭和10年 1937, pp. 24a-25(原本20-22頁)(3)艦船 10.外國軍艦本邦沿岸出入一覧…續 昭和10年度
  13. ^ #ファルマス大連寄港 p.6(入港)、同資料p.9(出港)
  14. ^ a b c 海軍省年報、昭和10年 1937, pp. 24b-25.
  15. ^ #S10.10.25、英国東洋艦隊来訪 pp.5-7(ドウセツトシャー行動)
  16. ^ #ファルマス大連寄港 p.14(厳島入港)、同資料p.15(江田島入港)、同資料pp.17-18(江田島、厳島発)
  17. ^ #ファルマス大連寄港 p.19(横浜入港)、同資料p.15(江田島入港)、同資料p.22(横浜発)
  18. ^ 「10月(2)」、昭和10年 海軍公報 下巻(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070352200  pp.12-13(海軍公報、第2592号、昭和10年10月16日)〔 ○艦船所在 ○十月十六日午前十時調【横須賀】【長浦】【浦賀】 〕
  19. ^ #チェスター入港 p.6(10月14日横浜税関)〔 米國軍艦チエスター入港ス。〕
  20. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1935.10.17、新世界朝日新聞/nws_19351017(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022069400  p.3
  21. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippu Jiji, 1935.10.23、p.1、2023年5月20日閲覧 日英協會例會 高松宮兩殿下御臺臨【東京二十三日聯合】
  22. ^ #S10.10.25、英国東洋艦隊来訪 p.8(10.11.03、鹿児島発)
  23. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippõ, 1938.01.15、p.3、2023年5月20日閲覧 印度艦隊も來航【十四日ロンドン發】
  24. ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Singapōru Nippõ, 1938.01.27、2023年5月20日閲覧 (シンガポール配備の艦艇一覧)
  25. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 169グラフ・シュペー航跡図
  26. ^ a b ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, pp. 102–103.
  27. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, pp. 162–163.
  28. ^ a b ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, pp. 180–181.
  29. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 188.
  30. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 298.
  31. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 300.
  32. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 325.
  33. ^ ロバート・フォーチェック、宮永忠将(訳)『ドイツ仮装巡洋艦vsイギリス巡洋艦 大西洋/太平洋1941』大日本絵画、2011年、ISBN 978-4-499-23046-9、49ページ
  34. ^ クランケ、ポケット戦艦 1980, p. 155.
  35. ^ クランケ、ポケット戦艦 1980, pp. 109–110.
  36. ^ a b クランケ、ポケット戦艦 1980, pp. 162–163.
  37. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 33.
  38. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 12–13(ライン演習作戦各部隊行動図)
  39. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 156–159.
  40. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 35.
  41. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 166–173.
  42. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 201–209(15)突然の変針命令
  43. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 210–219(16)プリンツ・オイゲンとの離別
  44. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 18–19(ライン演習作戦各艦行動図)
  45. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 173.
  46. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 174.
  47. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 231–235(19)トーヴィーの壮大な追跡艦隊
  48. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 218(北大西洋におけるビスマルク追撃態勢)
  49. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 263–271.
  50. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 357.
  51. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 270.
  52. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 252–253(ビスマルク追撃戦航海図、沈没まで)
  53. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 364–365.
  54. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 370(ビスマルク最後の戦闘、各艦行動図)
  55. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 358.
  56. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 430.
  57. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 374.
  58. ^ オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, p. 36.
  59. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 412.
  60. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 375.
  61. ^ a b ビスマルクの最期 1982, pp. 325–334.
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参考図書

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関連項目

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外部リンク

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