ナクシュバンディー教団
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ナクシュバンディー教団(ペルシア語: نقشبندی、アラビア語: نقشبندية, ラテン文字転写: Naqshbandīyah、ウズベク語: Naqshbandiya / Нақшбандия、トルコ語: Nakşibendilik、英: Naqshbandi, Naqshbandiyah)とは、イスラム神秘主義のスーフィー(スーフィズム)教団の一派である。
本拠
[編集]歴史
[編集]創設
[編集]創設者は14世紀ブハラで活動したバハー・ウッディーン・ナクシュバンド(Bahā' al-Dīn Naqshband、1318-1389)。彼の名にちなんでナクシュバンディー教団と呼ばれている[2]。
バハー・ウッディーン・ナクシュバンドは、もともとホージャ・アブド・アルハーリク・グジドゥワーニー(Abd al-Khāliq Ghijduwānī、1103-1179)が創設したホージャガーン教団に属していた[2]。
ホージャ
[編集]指導者アフマド・カーサーニー(マフドゥーミ・アァザム[3]、1464-1542)の子孫の称号はホージャとよばれた[要出典]。ホージャは、ティムール朝の崩壊以降[4]、東トルキスタンのウイグル人の指導者としての役割を担い、17世紀から19世紀にかけての東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区一帯)地域の政治に大きな役割を果たした。「カシュガル・ホージャ家」とも呼ばれる[3]。
イスハーキーヤ(黒山党)とアーファーキーヤ(白山党)
[編集]アフマド・カーサーニーの次男のムハンマド・イスハーク・ワリー(?-1599)はサマルカンドからカシュガル、ホータン、アクス、クチャに滞在し、1599年にサマルカンドに帰還した[5]。ムハンマド・イスハーク・ワリーの系統は、カシュガル・ホージャ家のイスハーキーヤまたはカラタグルク(黒山党)[5]とよばれた。
他方、アフマド・カーサーニーの長男のイーシャーニ・カラーン[6](ムハンマド・アミーン)の系統がある。ムハンマド・アミーンの子はホージャ・ユースフ(?-1652)といい、東トルキスタンに移住した。ホージャ・ユースフの子がホージャ・アファークとして知られるダーヤット・アッラーであった[7]。この系統は、アーファーキーヤまたはイーシャーニーヤまたはアクタグルク(白山党)と呼ばれた[7]。
ホージャ・アファークの没後、息子のホージャ・ヤフヤーが継いだが殺害された[3]。チャガタイ家のアクバシュ・ハーンはその他のホージャ・アファークの息子たちをインドへ送還したという[3]。
アーファーキーヤ(白山党)はイスハーキーヤ(黒山党)との抗争に敗北し、東トルキスタンを追放され、1671年から1672年にかけて西寧(現在の青海省西寧市)に移り[7]、そこで布教に成功し、おおくの中国ムスリム信徒(回民)を獲得した[7]。
分派
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 川本正知「バハー・ウッディーン・ナクシュバンドの生涯とチャガタイ・ハン国の終焉」『東洋史研究』第70巻第4号、東洋史研究会、2012年3月、768-738頁、doi:10.14989/196929、hdl:2433/196929、ISSN 0386-9059、CRID 1390009224834558720。
- 小松久男, 林俊雄, 梅村坦, 濱田正美, 堀川徹, 石濱裕美子, 中見立夫『中央ユーラシア史』山川出版社〈世界各国史〉、2000年。ISBN 463441340X。全国書誌番号:20122422。
- 新免康, 菅原純「カシュガル・ホージャ家アーファーク統の活動の一端 : ヤーリング・コレクション Prov.219 について」『東洋史研究』第61巻第3号、東洋史研究會、2002年12月、522-552頁、doi:10.14989/155440、hdl:2433/155440、ISSN 0386-9059。
- 河原弥生「『ホージャ・ハサン・サーヒブキラーン伝』 : フェルガナ盆地における民間所蔵史料の研究」『アジア・アフリカ言語文化研究』第71巻、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2006年3月、205-257頁、hdl:10108/20237、ISSN 0387-2807、CRID 1050564287660727040。
- 清水学『テクニカルレポート:中央アジアのイスラームとイスラーム運動』(レポート)Graduate School of Economics, Hitotsubashi University、2004年。hdl:10086/16969 。