ナーラーヤン・ラーオ
ナーラーヤン・ラーオ Narayan Rao | |
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マラーター王国宰相 | |
ナーラーヤン・ラーオ | |
在位 | 1772年12月13日 - 1773年8月30日 |
戴冠式 | 1772年11月28日 |
別号 | ペーシュワー |
出生 |
1755年8月10日 |
死去 |
1773年8月30日 プネー、シャニワール・ワーダー |
配偶者 | ガンガー・バーイー |
子女 | マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤン |
王朝 | ペーシュワー朝 |
父親 | バーラージー・バージー・ラーオ |
母親 | ゴーピカー・バーイー |
宗教 | ヒンドゥー教 |
ナーラーヤン・ラーオ(マラーティー語:नारायणराव पेशवे, 英語:Narayan Rao, 1755年8月10日 - 1773年8月30日)は、インドのデカン地方、マラーター王国の世襲における第5代宰相(ペーシュワー、在位:1772年 - 1773年)。マラーター同盟の盟主でもある。
生涯
[編集]1770年以降、ナーラーヤン・ラーオは病状の悪化していた兄宰相マーダヴ・ラーオの補佐にあたっていた。彼は息子のいない兄の事実上の後継者だった。マーダヴ・ラーオ自身は、野心家の叔父ラグナート・ラーオのもとではナーラーヤン・ラーオはうまくやっていけないと悟っていたようである。
1772年11月28日、偉大な宰相であった兄マーダヴ・ラーオが結核で死亡し、ナーラーヤン・ラーオが新たな宰相として即位した[1]。ラグナート・ラーオがその摂政となった。
だが、ナーラーヤン・ラーオとラグナート・ラーオはすぐにすれ違うようになっていった。 ナーラーヤン・ラーオ自身も未熟だったが、それでも野心を持つラグナート・ラーオに対して怒りの感情を持つようになっていった。
そして、1773年8月30日、ガネーシャの祭りの最終日、ナーラーヤン・ラーオはプネーのシャニワール・ワーダーの自室で暗殺された[1]。遺体はその日の深夜にひそかに川で火葬されたという。
その後
[編集]ラグナート・ラーオの犯行であることは明らかだったが、証拠がなかったため、10月10日に彼がナーラーヤン・ラーオの跡を継いで王国の宰相となった[1]。
だが、大臣の一人ナーナー・ファドナヴィースは事件の徹底究明に努め、ラグナート・ラーオとその妃アーナンディー・バーイーおよび実行犯と思われたシュメール・シング・ガールディーの調査を行った。
そうしたなか、1774年4月18日にナーラーヤン・ラーオの未亡人ガンガー・バーイーが息子マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを生んだため、ラグナート・ラーオは廃位され、この幼児が宰相位につけられた[1]。
しかし、ラグナート・ラーオはこれを認めず、イギリスに援助を求めたためにマラーター同盟は長くつづく争い、第一次マラーター戦争に突入したのであった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年