バーラージー・ヴィシュヴァナート
バーラージー・ヴィシュヴァナート Balaji Vishvanath | |
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マラーター王国宰相 | |
バーラージー・ヴィシュヴァナート | |
在位 | 1713年11月16日 - 1720年4月12日 |
戴冠式 | 1713年11月16日 |
別号 | ペーシュワー |
出生 |
1660年頃あるいは1662年1月1日 |
死去 |
1720年4月12日 プネー近郊、サースワド |
配偶者 | ラーダー・バーイー |
子女 |
バージー・ラーオ チンナージー・アッパ |
王朝 | ペーシュワー朝 |
父親 | ヴィシュヴァナート・パント |
宗教 | ヒンドゥー教 |
バーラージー・ヴィシュヴァナート(マラーティー語:बाळाजी विश्वनाथ, 英語:Balaji Vishvanath, 1660年頃あるいは1662年1月1日 - 1720年4月12日)は、インドのデカン地方、マラーター王国の世襲における初代宰相(ペーシュワー、1713年 - 1720年)。マラーター同盟の盟主でもある。
彼の宰相就任以降、その後一世紀にわたりその子孫がマラーター王国の宰相とマラーター同盟の盟主を独占することになり、その地位が世襲される形が19世紀まで続いた。
生涯
[編集]幼少期・青年期
[編集]1662年1月1日、バーラージー・ヴィシュヴァナートは、コンカン地方のバラモン・カーストであるコンカナスタあるいはチットパーワンの家系に生まれた[1]。ただ、生年に関しては諸説あり、だいたい1660年頃とされている。
バーラージー・ヴィシュヴァナートに関する幼少期および青年期は殆ど知られておらず[1]、もはや伝承といった形でしか伝わっていない。彼はコンカン地方シュリーヴァルダンの郷主ヴィシュヴァナート・パントの息子として生まれたが、その地域のシーディーと呼ばれるムスリムの迫害を受け、コンカン地方を離れてデカンに向かった[1]。その間、彼はずっとチプルーンで製塩職人として働いていたという。
マラーター王国の役人として
[編集]1689年、バーラージー・ヴィシュヴァナートの名が史料という形でようやく表れる[1]。このとき、彼はマラーター王国の官僚ラームチャンドラ・パント・アマーティヤのもと、下級役人として働いていた[1]。
1695年の文書によると、バーラージー・ヴィシュヴァナートはデカンのプネーとダウラターバードの州長官(サル・スバー)となっている[1]。だが、1689年以降、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブによるデカン戦争で、この地域はからはマラーター王国の勢力が放逐されており、彼はマラーター王国側の名目上の行政官であった[1]。
ただ、この地域にはマラーターの影響力もあり、バーラージー・ヴィシュヴァナートはムガル帝国との何らかのやり取りをしていたともいう[1]。その証拠にマラーターの王子シャーフーのやり取りが見られている。
1689年3月にマラーター王サンバージーが殺されたのち、その息子シャーフーはムガル帝国の捕虜として、帝国の宮廷に滞在していた[2]。つまり、シャーフーとのやり取りはムガル帝国を介してでないとできなかった。
そして、このシャーフーとのやり取りで地方役人にすぎなかったバーラージー・ヴィシュヴァナートはその信頼を得ることに成功し、その運命に大きくかかわってくるようになる[1]。
マラーター王国の宰相として
[編集]18世紀初頭、マラーター軍はムガル帝国に対して反撃に出て、1707年3月に老帝アウラングゼーブが死ぬと、同年5月にシャーフーはデリーを出た[2]。こうして、同年帰国したシャーフーは王位継承権を主張し、マラーター王にであることを宣言した。
だが、マラーター王シヴァージー2世の摂政のターラー・バーイーが反対したため、マラーター王国は二分された[1]。このとき、バーラージー・ヴィシュヴァナートはシャーフーの支持を素早く表明し、かねてから二人は連携を取り合っていたため、状況を有利に進めることができた。
そして、同年10月にシヴァージー2世とターラー・バーイーを打倒し、1708年1月12日にシャーフーは第5代国王となった[1]。なお、シャーフーが即位した1708年は、マラーター王国を中心にマラーター諸侯らによるマラーター同盟結成の年とされる(とはいえ、マラーター同盟の確立はもう少し後である)。
バーラージー・ヴィシュヴァナートはその功績で側近となり、1713年11月16日にマラーター王国の宰相(ペーシュワー)となった[1][3]。また、彼はコンカン地方のバラモンを多く登用し、同盟内における彼らの地位を固め、その後一世紀近くにわたり彼の家系がマラーター王国の宰相位を独占する基礎を作った。
ムガル帝国への介入
[編集]一方、ムガル帝国もまた、アウラングゼーブの死後に3人の息子が争うなど、長期にわたる帝位継承戦争が続いた。この戦争はファッルフシヤルがサイイド兄弟の力を借りて、1713年1月にジャハーンダール・シャーを打ち破り終わったが、ムガル帝国の国力を大きく削いだ。
デリーの実権を握ったサイイド兄弟は、マラーターに対する脅威を払拭しようと考えた。そして、1715年から軍務大臣サイイド・フサイン・アリー・ハーンはデカン総督として着任し、マラーターと戦闘を行った。
1718年7月、バーラージー・ヴィシュヴァナートとフサイン・アリー・ハーンは、ムガル・マラーター間で次のような協定を結んだ[4][5]。
- ムガル帝国はシヴァージー時代の領土をマラーター王国の領土として認める。
- ムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタ(諸税の4分の1を徴収する権利)およびサルデーシュムキー(諸税の10分の1とは別に徴収する権利)をマラーターに認める。
- マラーター王国はムガル帝国が必要としたとき、騎兵15,000兵を援軍として派遣する。
- マラーター王国はデカンにおける略奪及び反乱に歯止めをかけ、毎年100万ルピーを支払う。
また、同年9月にフサイン・アリー・ハーンが皇帝ファッルフシヤルにデリーに帰還するように命じられると、11月にバーラージー・ヴィシュヴァナートは彼に同行し、1719年2月に皇帝の廃位に加担した[4][5]。ファッルフシヤルはムガル・マラーター間での締結された条約を認めていなかったため、3月に新たな皇帝ラフィー・ウッダラジャートが条約を承認した[6]。
バーラージー・ヴィシュヴァナートは条約が承認されたのちに帰還したが、彼と随行したサルダールらはムガル帝国の弱体化を目にし、デカンを越えて北インド侵略を考えるようになった[5]。彼は北インドを侵略しようとはしなかったが、デカンのチャウタとサルデーシュムキーを効率的に徴収するため、サルダールらにその地域を割り当てて足場を固めた[5]。
引退と死
[編集]1719年10月、バーラージー・ヴィシュヴァナートは主君シャーフーに引退を申し出て、政界を引退し、1720年4月12日にプネー近郊サースワドで死亡した[3][7]。
あとを継いだのは有能な息子バージー・ラーオであり、父の築いたマラーター同盟の確立に努め、デカンと北インドにまたがる「マラーター帝国」へと仕立て上げた。
バーラージー・ヴィシュヴァナートの功績はマラーター同盟の基礎を築いたことと、彼自身の家柄の権威を高め、一世紀にわたり王国の宰相位を一族の世襲制にしたことにあった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年
- ビパン・チャンドラ著、栗原利江訳 『近代インドの歴史』 山川出版社、2001年