ニコラエ・ミレスク
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ニコラエ・ミレスク | |
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ニコラエ・ミレスク | |
生誕 |
1636年 モルドバのバスルイ近郊のミレシュティ |
死没 |
1708年 モスクワ |
別名 | ロシア名:スパファリー |
出身校 | 東方正教会の総主教府付属アカデミー(神学校) |
職業 | 文人、政治家 |
代表作 |
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宗教 | キリスト教(東方正教会) |
刑罰 | 鼻切りの刑 |
ニコラエ・ミレスク(Nicolae Milescu, 1636年 - 1708年)は、モルドバ公国(ルーマニア)の貴族出身の文人、政治家[1][2][3]。ミレスクは本名で、ロシア名はスパファリー(Спафа́рий)という[4]。
生涯
[編集]1636年にモルドバのバスルイ近郊のミレシュティで生まれた[1][5]。コンスタンティノープルにある東方正教会の総主教府付属アカデミー(神学校)で学び、モルドバの首都ヤシに帰り、軍の司令官(長官)になった[1][2][3]。1668年にモルドバ公国の君主の地位をねらった陰謀計画が露見し、鼻切りの刑に処された[1][2][3]。亡命してドイツ、フランス、スウェーデンで生活した[3]のち、1671年にモスクワに行き、ロシア外務省使節局の翻訳官(通訳)になった[1][5]。1675年にロシア皇帝の外交使節団団長として北京に派遣され、1678年にモスクワに戻った[1][3]。宮廷で叩頭することを拒絶したため[6]北京派遣の目的はかなわなかった[5]。この派遣によって書かれたミレスクの『トボリスクから中国国境までのシベリア王国旅行記』(1675年執筆、1882年刊)と『中国紀行記または使節団報告書』(1675年から1678年に執筆、1906年刊)は、「当時のシベリア、中国の自然、社会制度、風俗を知る貴重な文献」[1]と評価されている。他にギリシア語訳『旧約聖書』の[7]ルーマニア語への重訳や[2][8]東方教会の神学論などの著作がある[3]。1708年にモスクワで死去した[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 「ミレスク」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』コトバンク。2021年5月20日閲覧。
- ^ a b c d 直野敦「ミレスク」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、コトバンク。2021年5月20日閲覧。
- ^ a b c d e f 萩原直「スパファリー」『世界大百科事典』平凡社、エキサイト辞書。2021年5月20日閲覧。
- ^ スパファリとも表記される(吉田金一「ロシア大使スパファリの中国遣使について」『史学雑誌』89巻、1980年11号。2021年5月20日閲覧。「ニコライ・ガヴリロヴィチ・ミレスクウ・スパファリ、 Николай Гаврилович Милеску Спафарий」)。
- ^ a b c d 「スパファリー」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』コトバンク。2021年5月20日閲覧。
- ^ 今西春秋「(注)19 ミコライ」『異域録』平凡社〈東洋文庫〉1985年、30-31頁。ISBN 4582804454。
- ^ 「七十人訳聖書」参照。
- ^ 「ルーマニア語訳聖書」参照。