コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

トーマス・ニューコメン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニューコメンから転送)

トーマストマス[1]・ニューコメン(Thomas Newcomen、1664年2月24日 - 1729年8月5日)は、イギリスの発明家、技術者であり、鉱山の排水のために、最初の実用的な蒸気機関を建造した。その後の産業革命の動力を担った蒸気機関の実質上の発明者とされている[2]。この蒸気機関は、真空と大気圧との差だけを利用した点で、大気圧機関と呼ばれることもある。生涯にわたって敬虔なプロテスタントバプテスト信徒であった。

確認された肖像画は見つかっていない。[3]

生涯

[編集]

生い立ち

[編集]

トマス・ニューコメンは、イングランド南西部のデヴォンダートマスで生まれ、1664年2月24日[注釈 1]にセント・セイヴィア (St.Saviour) 教会でバプテスマ洗礼)を受けた。父はイライアス (Elias) 、母はサラ (Sarah) で、一家は金物商 (ironmonger) を営んでおり、トマスは5人兄弟姉妹の3番目(次男)であった。

1678年頃からエクセターへ金物商の徒弟奉公に出て、1685年頃には、ダートマスへ帰って家業の金物商となっていた[注釈 2]。彼はコーンウォールやデヴォンの鉱山をしばしば訪れており、鉱山産業のための機器の製造・販売が彼の仕事の一部となっていた[4]

当時の鉱山では、坑道内の出水をいかにして排出するかが大きな問題であり、ニューコメンは間もなく、この鉱山の排水方法の改善に従事するようになった。この頃、同じくダートマスのバプテストの配管工でガラス職人のジョン・コウリー(John Calley;1663年 - 1717年)と出会い、その後2人で共同して鉱山の排水のための機関の開発を行うようになった。

ニューコメンは1705年に、同じくデヴォン州のマールバラ英語版の農夫の娘ハンナ・ウェイマス(Hannah Waymouth; 1682年 - 1756年)と結婚し、その後3人の子供をもうけた[5]

信仰

[編集]

トマス・ニューコメンの曾祖父はダートマス近隣の村の著名な教区牧師であり、祖父の代からバプテスト信徒となり、トマスの父は有名な伝道者ジョン・フラーヴェル英語版をダートマスへ連れてきたグループの一員でもあった。トマスもフラーヴェルのもとで教育を受けたと考えられる。トマス自身、地元のバプテスト教会で信徒説教者 (lay preacher) を務め、後年、機関の仕事で地元を離れても、日曜日には説教者の仕事に専念していた[5][6][7]

後年、彼のロンドンでの仕事仲間であったエドワード・ウォリン (Edward Wallin) は、著名なバプテストのジョン・ギル英語版と繋がりのある牧師であった。ジョゼフ・ホーンブロアー英語版(1696年 - 1762年)は10代はじめにニューコメンから説教を受け、熱心な信徒になるとともにニューコメン機関の建造を手がけるようになり、彼の子や孫たちも、その後の蒸気機関の開発と建造に大きく関わることになった[8]

蒸気機関の開発

[編集]

ニューコメンの機関は、後述の図に示すように、ピストンで蒸気を閉じ込めたシリンダの下端に蒸気の入口と冷水の噴射口とを設けたものであった。冷水入口のコックを回して冷水を噴射して中の蒸気を凝縮すると、シリンダ内が真空(負圧)となるため、ピストン背面の大気がピストンを下へ押し、ピストンを鎖で吊っているビーム(大きなてこ)の一端を引き下げて、ビームの他端から吊り下げたロッドを介して坑道底の排水ポンプで水を汲み上げる。次に蒸気入口の弁を開くと、ポンプの自重でピストンが持ち上げられて、シリンダは、その下のボイラから入ってくる蒸気で再び満たされる。この動作を繰り返してポンプを駆動し、坑道の底に溜まった水を排水するものであった。

ニューコメンの蒸気機関の動作原理。ボイラーの蒸気圧は低くピストンの上昇はポンプの自重による結果であり、動力を発生するのはピストンを押し下げる大気圧による。

この新しい機関は、全体的には既知の部品の組み合わせであり、また当時の技術をうまく総合すれば、不可能なものではなかった。シリンダとピストンは、大きさは異なるが、ゲーリケパパンらが用いたものであり、ボイラ設備は大きな醸造用の銅製ボイラそのものであり、ポンプ類は以前から鉱山でよく使われていたものであった。当時の職人の手になるこれらの部品を一つの設備として組み上げたことに、大きな特徴があった。個別の独自のアイデアとしては、蒸気の凝縮に冷水の直接噴射を用いること、弁の開閉を自動で行う工夫がされていることなどが挙げられる。

少し以前の1698年にセイヴァリが発明した「火の機関」と比べると、ピストン・シリンダを用いて間接的にポンプを駆動する点、および蒸気の圧力は用いずに蒸気を真空を作り出す用途にだけ利用する点で、大きく異なっていた[9]

金物商であったニューコメンが、どのようにしてこの機関の着想を得たのか、正確には分からない[注釈 3]。セイヴァリはダートマスから15マイル(24km)ほど離れたモッドベリー英語版に住んでいたため、ニューコメンとセイヴァリの間で以前から交流があったのではないかとの説もあるが、ニューコメンがセイヴァリの実験を事前に知っていた事実は確認できない。セイヴァリが「火の機関」の特許を取った頃には、ニューコメンらは蒸気機関の考案と試作を独自に行っていたとされ、後でセイヴァリの特許を知ったニューコメンは、やむなくセイヴァリの特許のもとで機関の建造に当たったと考えられている[10][11]

最初の蒸気機関

[編集]

ニューコメンとコウリーは、10年余りの思考と実験の末、1710年頃に彼の機関をほぼ開発できたとされている。その頃、コーンウォールのどこかの鉱山で建造されてうまくいかなかった可能性があるが、確認されていない[12] [13]

確認されている最初の成功した機関は、1712年にスタッフォードシャー州のダドリー城英語版近くのコウニーグリー (Coneygree) 炭鉱[注釈 4]で建造された機関である。そこはバーミンガムの近くであったので、鉄製品、弁類、バケットなどの多くの部分はバーミンガムで作って現地へ運んで組み立てられた。

その機関は、シリンダの直径21インチ(533mm)、長さ7フィート10インチ(2.39m)、毎分12行程で動作し、1行程あたり10ガロン(45.5リットル)の水を51ヤード(46.6m)深さの坑道からくみ上げた。約5.5HP相当であった[注釈 5]

この機関は鉱山主たちの間で評判を呼び、イギリスおよびヨーロッパ各地から訪問者が訪れた[注釈 6]。ニューコメンおよびそのパートナーによるこの発明を、技術史家のL・T・C・ロウルトは「技術の歴史の中で、一人の人間によりこれほど短期間で、これほど最終的な形で開発された重要な発明は、まれにしか見られない」と評している[14]

蒸気機関の普及

[編集]

ダドリー城の炭鉱での成功により、他の炭鉱所有者がニューコメン機関を採用する方向へ動き出した。1720年頃までに、ニューコメンとコウリー(および息子)は、イングランドおよびウェールズの鉱山で5台から7台の機関を建造した。ほぼ確認されているものを下記に示す[15][16]

科学者のヘンリー・バイトン英語版(1686年 - 1743年)はグリフに住んでいて、家の近くに据え付けられていた機関を見ることができた。数年後に自身が、ニューカースル・アポン・タインでニューコメン機関を建造した。

オースソープの機関の建造とその後の運転の監督は、コウリー父子が行っていた。完成後の1717年に、留まっていた父コウリーはオースソープで死去した。また、オースソープに生家があった少年ジョン・スミートン(1724年 - 1792年)は、この機関が動いているのを見て技術に関心を持ち、後年、ニューコメン機関の改良を手がけるようになった[17] [18]

特許問題

[編集]

ニューコメンは実用的な蒸気機関を作ったが、既に1698年に、セイヴァリが「火力によって揚水する装置」という広い特許を保持しており、1733年まで有効とされていた。機関の原理も形式も大きく異なっていたが、セイヴァリの特許はいわば「基本特許 (master patent)」であり、ニューコメンは自身の機関をセイヴァリ機関として建造販売せざるをえなかった。

両者の接触は、セイヴァリが自身の機関の鉱山への設置を諦めた1705年頃に始まったとされる。この頃セイヴァリは、海軍省傷病者委員会収入役として定期的にダートマスの市長を訪れており、市長を介してニューコメンに会っていたと思われる。ニューコメンとセイヴァリまたはその代理人との間で、どのようなやり取りがあったか分からないが、この前後に両者の協力関係が成立し、ニューコメンにとっては、それは必ずしも不本意かつ不利益なものではなかったと考えられている。ニューコメン自身は、一切特許を取得していない[19] [20][13]

1715年にセイヴァリは死去し、その特許は遺言により未亡人が引き継いだ。それを、ジョイント・ストック・カンパニー 「火による揚水の発明の所有者団 (Proprietors of the Invention for Raising Water by Fire)」 が、年金と引き換えに未亡人から買い取った。「所有者団」は、その後ニューコメンやその他の技術者らにより建造された全てのニューコメン機関の、建造と運転にかかわる全ての特許権を行使した。ニューコメン自身は、その初期にのみ構成員として名前が入っていた。またニューコメンの親しい友人や遠い親戚、同じバプティスト仲間も構成員に含まれていた[21][7]

ニューコメンの死とその後

[編集]

ニューコメン自身による機関建造は、1720年のホイール・フォーチュンの機関が最後となった。ニューコメンは、ビジネスでロンドンに滞在する日が多くなっていたが、ロンドンでのパートナーで友人のエドワード・ウォリン[注釈 7]の家で2週間病床に伏し、1729年8月5日に死去した。熱病であったとされている。彼は非国教徒が埋葬されているロンドン、シティー・ロードのバンヒル (Bunhill) 墓地に、8月8日に埋葬された。そこは共同の地下納骨所であり、墓の正確な位置は不明である[22][23]

セイヴァリの特許のもとで、特許期限の1733年までに少なくとも104台のニューコメン機関が建造された。大部分はイングランド、スコットランド、ウェールズの鉱山であったが、1721年から1732年の間に少なくとも12台が、ヨーロッパ大陸のハンガリー(3台)、フランス(3台)、ベルギー(2台)、ドイツ(1台)、オーストリア(1台)、スペイン(1台)、スウェーデン(1台)で建造された[24][25]

ニューコメン機関は、およそ75年の間、大きな変更なくその位置を占め続けた。当初は真鍮鋳物のシリンダが使われたが、やがて安価な鋳鉄に変わり、より大口径となった。また並行してボイラの改良も行われた。これらの機関の建造には、ニューコメン、コウリー父子の他に、ポッター一族(Isaac, Humphrey Potter 他)、ストウニア・パロット(Stonier Parrott)、ジョージ・スパロウ(George Sparrow)、バイトン、スミートン、ホーンブロアー一族、ジェームズ・ブリンドリ英語版(1716年 - 1772年)、モルテン・トリヴァルド(Mårten Triewald; 1691年 - 1747年)など、多くの人々が関わった。ニューコメンの甥のイライアス(Elias Newcomen)も機関建造者に加わった。

1769年にワットが分離凝縮器の特許を取得し、ニューコメン機関の大きな改良を行った。その後、1776年から燃料消費の少ないワット機関の建造を始めると、石炭を外部に頼っていたコーンウォールの錫鉱山から、徐々にワット機関に置き換わっていった。

ワットの改良にもかかわらず、ニューコメン機関はワット機関より安価で、さほど複雑ではなかったので、ワットの特許期間内の1770年から1800年の間にもワット機関より多くのニューコメン機関が建造された。18世紀の間にイギリスおよびヨーロッパの各地で建造されたニューコメン機関は、1500から2000台にのぼった。イギリスで最後まで動いていたニューコメン機関は、1795年にサウス・ヨークシャー州のエルセカー新炭鉱 (Elsecar New Colliery) に建造されたもので、1923 年まで継続して運転され、1950年代でも運転可能な状態であった[25]

1920年にロンドンに設立された科学史の学会は、ニューコメンの名にちなんで、ニューコメン協会 (Newcomen Society) という名前になった。ニューコメン協会は 1922 年より機関誌 Transactions of the Newcomen Society を発行し、その後アメリカなどにも支部(合衆国ニューコメン協会)が設立された。

注釈

[編集]
  1. ^ 1752年以前のイングランドでは、年の開始を3月25日とする習慣であったため、トマスの誕生年を1663年と表記する場合もある。ここでは現在の表し方で示す。
  2. ^ 当時の "ironmonger" の語は、小さい金属製品の小売業だけでなく、原料としての鉄の交易を行う国内商人にも使われていた。ニューコメン自身、年間25トン近くの鉄を購入した記録が残っている (Rolt & Allen(1997) p. 34.)。
  3. ^ ニューコメンがピストンの使用を思いついたきっかけについて、当時王立協会の書記をしていたロバート・フックと手紙のやりとりをして、その中でパパンの蒸気機関の情報をフックから知らされた、との話がある。しかし、それを肯定する資料も否定する資料も見つかっていない(Dickinson(1939) p.32.)。
  4. ^ ウルヴァーハンプトン近郊の炭鉱とする資料もあるが、同じものと考えられている (Dickinson(1939) p.32.)。
  5. ^ 十数年後の1725年には揚水量は半減していたが、なおも動作していた記録が残っている (Dickinson(1939) p.32.)。
  6. ^ この時、当初ニューコメンらはアイデアが模倣されるのを恐れて、詳細を明かすのをためらったとの記録がある。
  7. ^ エドワード・ウォリンも「所有者団」の構成員に名が入っていた。

ニューコメンの蒸気機関

[編集]

構造と動作

[編集]

初期のニューコメン機関の構造を右図に示す。

ニューコメン機関の構成(概略図)
A: ボイラ、 B: シリンダ、 C: 蒸気弁、 D: ピストン、 E: ピストン棒、 F: ピストン棒の鎖、 H: 排水ポンプの鎖、 I: 排水ポンプ棒、 K: バランスおもり、 L: 冷水タンク、 M: 補助ポンプ棒、 N: 冷水配管(床下貯水槽より)、 P: 冷却水弁、 R: 排水管、 S: 逆止弁(漏らし弁)

機関はボイラA、シリンダB、ピストンDから成り、ピストンDはピストン捧Eと鎖により木製のビームFにつながっている。ビームの他方の端Hは鎖を介して排水ポンプの棒Iにつながっている(排水ポンプはピストン式で、当時はポンプピストンが上昇する行程で下方から水を吸引し、同時に上方へ揚水する構造のものが使われていた)。ポンプ側には必要に応じておもりKを付加して、ポンプ側を重くしている。

ニューコメン機関の動作は次のようになる。

  1. 蒸気弁Cを開くと、ボイラAの蒸気がシリンダBへ入り、ピストンDはポンプ棒l、錘Kに引かれて持ち上がる。
  2. ピストンが上端近くへ上がると弁Cを閉じて冷却水弁Pを開き、冷水タンクLの冷却水をシリンダ内に所定量だけ噴射する。
  3. シリンダ内の蒸気が凝縮するとシリンダ内は真空(負圧)となり、ピストン背面の大気圧でピストンが下げられ、排水ポンプ棒Iが持ち上がって坑道から水を引き揚げる。
  4. ピストンが下端近くまで来ると蒸気弁Cを開いて蒸気を入れ、シリンダ内を大気圧に戻す。
  5. シリンダ内が大気圧になると、他方の排水ポンプやおもりがその自重で下へ下がり、シリンダにはボイラの蒸気が入ってきてピストンが持ち上がる。
  6. 同時に、シリンダ内の凝縮水は排水管Rと逆止弁Sを通って排水され、シリンダ内の空気を多少含む蒸気の一部も排出される。
  7. 以上の操作と動作を繰り返す。

特徴と技術的工夫

[編集]

ニューコメン機関にはいくつかの技術的工夫がされていた。その主なものを下記に示す。

シリンダとピストンの使用
パパンの機関はボイラとシリンダが一体であり、シリンダを直接加熱するため、動作を反復することが困難である。セイヴァリの機関はシリンダとピストンがなく、蒸気が揚水に接触して出し入れしていた。ニューコメン機関はピストンとシリンダを持ち、分離したボイラからの蒸気(と大気の圧力)でピストンを駆動した。
当時のポンプなどで使われていたシリンダの直径はせいぜい7インチ程度であり、直径20インチを越えるシリンダの製作は至難の業であった。ニューコメンらは、砂やグリスを使って内面を研磨した真鍮鋳物のシリンダを用い、ピストンとの隙間を埋めるために、ピストンの周囲に皮ひもや麻繊維(オーカム)を巻いて、さらにピストンの上に水を張ることにより空気の進入を防いだ[26]
水噴射による凝縮
当初の試作段階でニューコメンらは、シリンダの側面を取り巻くように鉛製のジャケットを巡らし、そこに冷水を流してシリンダ中の蒸気を冷却していた。その場合は蒸気の凝縮速度は遅く、機関の動作は極めてゆっくりしたものにならざるを得なかった。
実験中のある時、突然ピストンが急に下方へ引かれて鎖を引きちぎり、シリンダの底とボイラの蓋を破壊してしまった。その事故の原因を調べてみると、シリンダ壁の鋳物欠陥を補修して埋めていたハンダ(またはフラックス)が溶け、その穴から冷水がシリンダ内へ噴き出して蒸気が急速に凝縮し、ピストンが下方へ急に動かされたことが分かった。この発見がもとになって、シリンダの底に冷水の噴射管を取り付け、冷水の噴射で蒸気を直接凝縮する方法に変更されたとされている[27] [13]
スニフティング弁(漏らし弁)
蒸気を凝縮して凝縮水だけを取り除きながら繰り返していると、蒸気や冷水と共に持ち込まれる空気がシリンダ内に溜まって濃縮され、やがて機関は動かなくなる。ニューコメンらは試行錯誤するうちにこのことに気づいて、対策を考えていた。
シリンダへ蒸気を入れる行程の間、凝縮水を排水管 (eduction pipe) から排出するが、その行程の後半で数秒間だけ蒸気と空気をシリンダから噴き出すことで、空気の濃縮を防ぐことができる。排水管の先をU字形に曲げて出口に逆止弁をつけて水槽中へ入れ、そこから空気の泡が出ることから、空気が除去されていることが分かる。この弁は、動作時に発する音から「スニフティング弁」(snifting valve; 漏らし弁)と呼ばれた[19][注釈 1]
自動運転機構
この機関の動作のためには、シリンダ内でピストンが上端に来たとき蒸気弁を閉じて、冷水弁を開き、下端に来たときに逆の操作をして、冷水の噴射や蒸気の注入を正確に行うことが不可欠である。試験段階ではこれを手動で行っていたが、1712年の最初の機関では、ビームの動きに応じて弁操作を自動的に行うようになっていた。
ニューコメンらはピストンと共に上下に揺動する頭上のレバーに棒(プラグ・ロッド)をぶら下げ、プラグ・ロッドに取り付けた留め釘とリンクとを組み合わせて弁を開閉した。特に冷水噴射弁は、おもりの落下を用いて急速に開き、プラグ・ロッドで重りを持ち上げながらゆっくり閉じるように工夫されていた。さらに、当時のボイラの蒸発量が不足気味であったため、蒸気量(ボイラ圧力)が不足する際は冷水弁を閉じたまま機関を待機状態とする工夫(スコガン scoggan)もあり、その動作を紐を用いて行っていたため、多少複雑となっていた[注釈 2][28]
この自動運転機構は、ヘンリー・バイトン (Henry Beighton) による1717年のニューカースル・アポン・タイン機関で、さらに改良された[29](上の概略図では、この機構は省略されている)。
ボイラ
ボイラは当時使われていた醸造用の銅製ボイラ(いわゆるヘイスタック・ボイラ haystack boiler)であり、給水のための固定配管、1対のゲージ管を用いた水面位置検出器、パパンの発明による安全弁などが追加された[30]
必要な多量の蒸気をまかなうために、ニューコメンはボイラの背丈を高くして保有水量を増やした。当時は、ボイラの水量に比例して沸騰水から蒸気が立ち上がるとの誤った理解がなされていたようで、ニューコメンも例外ではなかった。伝熱面増加を含めたボイラの改良は、その後の発明家まで待たねばならなかった[31]
廃熱の回収
ピストンが上端にくるたびに、ピストン背面上の温水がオーバーフローして配管から流下する。また、シリンダから排水された凝縮水も温度が高い。これらを集めて、ボイラへの給水の一部として利用していた。
冷却水の補給
ビームの別の位置に補助ポンプ棒Mを取り付け、補助ポンプで貯水槽Lに水を補給していた。

スミートンの改良したニューコメン機関

[編集]

優秀な技術者であったジョン・スミートンの生家は、コウリーが機関を建造運転したオースソープの近郊にあった。ニューコメン機関を見て育った彼は、その後、土木工学、機械工学の広い分野で活躍し、水車や風車の大幅な性能改善などを行った。

スミートンによるニューコメン機関、チャスウォーター 1775

ニューコメン機関についても、イングランド各地で稼動していた機関の寸法や性能を調査し、また自らもオースソープの自宅近くに実験用模型機関を建造するなどして実験し、機関の寸法と出力の関係、最適な寸法比等を系統的に調べ、その結果を詳細な表にまとめた[32] [33]

彼はそれをもとに、1772年にノーサンバーランドニューカースル近郊のロング・ベントン (Long Benton) 炭鉱に巨大な機関を建造し、1775年にコーンウォール州チャスウォーター (Chacewater) 鉱山にさらに巨大な機関を建造した。後者の機関を図に示す[34]

この機関は、性能および大きさの点で最大のニューコメン機関であり、シリンダ径72インチ(1.83m)、行程長9フィート(2.74m)で、毎分9行程で動作した。ビーム長さは27.3フィート(8.33m)であった。ポンプは、直径16.75インチ(0.425m)でリフト102フィート(31.1m)のものを直列3段に用いて、306フィート(93.3m)の深さの立坑から毎分123.9立法フィート(3.51 m3)の水を排出した。補助ポンプ駆動分も含めて、ピストンにかかる荷重は31140lb(14130 kg)であり、動力は76.5HPであった。ボイラは同じサイズのものを3缶並列に用いていた。

機関建屋は36フィート(11m)×20フィート(6.1m)で、ビームの支柱壁(下部厚さ10インチ、上部厚さ5インチ)を含めて、すべての壁面は花崗岩ブロックを用いて作られていた。彼は、ピストンの下面を木で覆って放熱を防いだり、冷水噴射量の精密な制御を行い、部分負荷性能向上も含めて、ありとあらゆる改良を行った[35]

スミートンをはじめ、多くの発明家や科学者がニューコメン機関を改良し建造したが、ジェームズ・ワットが1769年に分離凝縮器の改良を行うまで、原理的な変更は行われず、基本的な部分は当初のニューコメンのアイデアのまま3/4世紀間使われ続けた。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 通常は、排水管とは別の管にスニフティング弁が取り付けられていた。
  2. ^ 当時の科学者のデサグリエ (J.T.Desaguliers) や技術者フェアリ英語版 (John Farey) らにより、手動弁操作担当の少年ハンフリー・ポッター (Humphrey Potter) が、この仕事から「逃れて遊ぶために」この自動運転機構自身を考えついたとの話が伝えられている。その後の調査で、この話は誤りであることが指摘されており、ポッター少年は、十分なボイラ容量がある際にスコガンの機能を自動的に解除する工夫を考案したとされている。ポッター少年の父はニューコメン機関のビジネスに深く関わったバプテストであり、その一族も機関の普及や建造に大きく関わった。

出典

[編集]
  1. ^ 岩波書店辞典編集部『岩波世界人名大辞典』 岩波書店(2013年) pp.1885-1886.
  2. ^ Dickinson(1939) p.29.
  3. ^ Rolt & Allen(1997) p.25.
  4. ^ Knowles(website) §early years.
  5. ^ a b Dickinson(1939) p.31.
  6. ^ Smiles(1865) p.61.
  7. ^ a b Knowles(website) §Baptist faith.
  8. ^ Rolt & Allen(1997) p. 59, 61, 85.
  9. ^ Dickinson(1939) p.29,39.
  10. ^ Dickinson(1939) p.32.
  11. ^ Knowles(website) §ironmonger and steam.
  12. ^ Rolt & Allen(1997) pp. 44-45.
  13. ^ a b c Knowles(website) §first atmospheric engine.
  14. ^ Knowles(website) §first atmospheric engine.
  15. ^ Rolt & Allen(1997) p. 57, 146, 148.
  16. ^ Knowles(website) §first atmospheric engine, §engines everywhere.
  17. ^ Dickinson(1939) p.43.
  18. ^ Rolt & Allen(1997) p. 55, 112.
  19. ^ a b Dickinson(1939) p.41.
  20. ^ Rolt & Allen(1997) pp. 38-40.
  21. ^ Rolt & Allen(1997) pp. 58-60.
  22. ^ Rolt & Allen(1997) pp. 85-86.
  23. ^ Knowles(website) §final years.
  24. ^ Dickinson(1939) p.51.
  25. ^ a b Knowles(website) §legacy.
  26. ^ Dickinson(1939) p.33.
  27. ^ Rolt & Allen(1997) pp. 41-43.
  28. ^ Rolt & Allen(1997) pp. 89-96.
  29. ^ Smiles(1865) p.66.
  30. ^ Dickinson(1939) p.35.
  31. ^ Rolt & Allen(1997) p. 90.
  32. ^ Dickinson(1939) p.61.
  33. ^ Farey(1827) pp.155-172.
  34. ^ Farey(1827) p.172.
  35. ^ Farey(1827) pp.172-192.

参考文献

[編集]
  • H. W. Dickinson (1939). A Short History of the Steam Engine. Cambridge at the University Press. ISBN 978-1-108-01228-7 
  • John Farey (1827). A Treatise on the Steam Engine, Historical, Parctical, and Descriptive. Printed for Longman, Rees, Orme, Brown and Green 
  • Eleanor Knowles, edited by Jane Joyce. “Engineering Timelines --- Thomas Newcomen”. 19 Jun. 2016閲覧。
  • L. T. C. Rolt and J. S. Allen (1997). The Steam Engine of Thomas Newcomen. Landmark Publishing, Ashbourne 
  • Samuel Smiles (1865). Lives of Boulton and Watt. J. B. Lippincott and Company 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]