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ノルトヴィント作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノルトヴィント作戦

ノルトヴィント作戦
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日:1945年1月1日 - 1月25日
場所フランスアルザス=ロレーヌ
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ナチス・ドイツ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フランスの旗 フランス
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗 ヨハネス・ブラスコヴィッツ
ナチス・ドイツの旗 ハンス・フォン・オープストフェルダー
ナチス・ドイツの旗 ハインリヒ・ヒムラー
ナチス・ドイツの旗 ジークフリート・ラスプ(en
アメリカ合衆国の旗 アレクサンダー・パッチ(en
フランスの旗 ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ
戦力
ドイツ第1軍ドイツ第19軍
兵力:不明
アメリカ第7軍、フランス第1軍
兵力:230,000人
損害
死傷者:22,000~23,000 アメリカ合衆国の旗 アメリカ軍
死傷者:11,609~17,000
フランスの旗 自由フランス軍
死傷者:1,000~7,000
西部戦線 (1944-45)

ノルトヴィント作戦(ノルトヴィントさくせん、: Unternehmen Nordwind)は、第二次世界大戦中、西部戦線におけるドイツ国防軍による最後の攻撃作戦のことである。作戦は1945年1月1日、フランス北東部のアルザス=ロレーヌで開始、1月25日に終了した。

目的

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1944年12月16日にベルギーのアルデンヌの森にドイツ軍が侵攻してバルジの戦いが始まったが、12月末にはドイツ軍の勢いは衰え、連合軍は各所で強力な反撃を開始していた。バルジの戦いでドイツ軍に包囲されたバストーニュでは、これを救援するためにアメリカ第3軍が南から進撃し、12月26日には第3軍の先頭部隊がバストーニュに達して、両軍の激戦が始まっていた。ドイツの総統アドルフ・ヒトラーはバルジの戦いの傾きつつある戦況を打開するために2つの作戦を認可した。1つは連合軍の飛行場に対して大規模空襲を行うボーデンプラッテ(大鉄槌)作戦で、もう1つがノルトヴィント(北風)作戦である。この作戦の目的は第3軍の南側のアルザス平原で新たな戦線を開くことにより、第3軍のバストーニュへの増援を牽制することであった[1]

ヒトラーは、ノルトヴィント作戦開始3日前の1944年12月28日、師団長らへの演説において宣言した。

この攻撃には、非常に明確な目的、すなわち、敵軍の破壊という目的が存在する。ここに伴う威信の問題は存在しない。それは我々が見つけた敵軍をどこであろうと破壊、根絶するという問題である。この時、アルザスの全てを解放する問題も簡単になるであろう。それはドイツの人々に計り知れない心理的に決定的な好印象を与え、フランスの人々に憂鬱な世界の印象を与えるという素晴らしいことになるであろう。しかし、それは重要ではない。私が言ったように、敵の人的資源を滅ぼすことがより重要なのだ。

目的は単純であった。ヴォージュにあるヴォージュ山脈とアルサティアン平原(Alsatian)アメリカ第7軍、フランス第1軍の防衛線を突破、殲滅することであった。これはツァーンアールツト作戦(en)のための通路を開き、主力はこれを撃破しようとするアメリカ第3軍の背後に回りこむ予定であった。

攻勢

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1945年1月1日、ドイツ軍のG軍集団(司令官ヨハネス・ブラスコヴィッツ)、オーバーライン軍集団(司令官ハインリヒ・ヒムラー)らはアメリカ第7軍の110kmに薄く広がった防衛線に大規模攻撃を行うよう命じられた。ノルトヴィント作戦の発動により、アメリカ第7軍は戦力不足でひどい苦境に立たされた。アメリカ第7軍は連合軍総司令官ドワイト・D・アイゼンハワーの命令で「バルジの戦い」に関連するアルデンヌのアメリカ軍を補強するために、北方へ部隊、器材、軍需品を送り込んでいた。

ドイツ軍がノルトヴィント作戦を開始した同じ日、ドイツ空軍は航空機1,000機を支援に回した。ヨーロッパ北西部に拠点を置いていた連合軍の空軍を麻痺させるこの試みはボーデンプラッテ作戦en)として知られている。

最初の攻撃はG軍集団配下の第1軍所属の3個軍団で行われ、1月9日、同様に第XXXIX装甲軍団も濃密に関係していた。1月15日までに、少なくとも第10SS装甲師団、第7降下猟兵師団、第21装甲師団、第25装甲師団を含む17個師団(コルマールで包囲された部隊も含む)がG軍集団、オーバーライン軍集団から作戦に関係していた。もう一つの小さな攻撃がストラスブール南のフランス軍に対して行われたが、これは最終的に阻止された。

ドイツ軍の攻撃の直撃を受けたアメリカ第VI軍団は1月13日の時点で3つの局面で戦っていた。損害が増え、戦車、弾薬、及び補給品が不足する状況でアイゼンハワーはアメリカ第7軍の破滅を恐れ、第7軍を補強するために、100kmはなれたアルデンヌ南東から急いで集められたぼろぼろの師団を急行させた。彼らの到着は遅れ、1月21日、アメリカ軍はモーデル川南岸の防衛拠点まで撤退することを余儀なくされたが、1月25日にアメリカ軍の増援がアルデンヌから到着し始めると、ドイツ軍の攻撃は終わりを迎えた。そして、ストラスブールは救われたが、コルマールで包囲されたドイツ軍は除かねばならない脅威であった。

結果

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ノルトヴィント作戦による激しく絶望的な戦いにおいてアメリカ第6軍団は合計で14,716名の犠牲者を出した。アメリカ第7軍全体の損害は不明瞭ではあるが、戦死3,000名、戦傷9,000名、戦病・負傷17,000名であった[2]

同時に行われたボーデンプラッテ作戦は多数の連合軍機を地上破壊することに成功したが、ドイツ空軍も多数の航空機とパイロットを失うことになり、「効果的なドイツ空軍の最終的破壊に至り、連合軍に絶対的制空権を全体に与えることになった[3]。」

1945年2月、アメリカ第21軍団の支援を受けたフランス第1軍はコルマール・ポケットを殲滅、ライン川西岸のストラスブール南地域にいるドイツ軍を殲滅した。

参加兵力

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G軍集団 (Heeresgruppe G)

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第1軍(1. Armee)

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第13SS軍団
(XIII.SS-Armeekorps)
第90軍団
(LXXXX.Armeekorps)
第89軍団(LXXXIX.Armeekorps) 支援部隊
  • 第19国民擲弾兵師団

(19. Volksgrenadier-Division)

(36. Volksgrenadier-Division)

(17. SS-Panzergrenadier-Division „Götz von Berlichingen“)

  • 第559国民擲弾兵師団

(559. Volksgrenadier-Division)

  • 第257国民擲弾兵師団

(257. Volksgrenadier-Division)

  • 第361国民擲弾兵師団

(361. Volksgrenadier-Division)

  • 第245歩兵師団

(245. Infanterie-Division)

  • 第256国民擲弾兵師団

(256. Volksgrenadier-Division)

  • 第25装甲擲弾兵師団

(25. Panzergrenadier-Division)

  • 第21装甲師団

(21. Panzer-Division)

(6. SS-Gebirgs-Division „Nord“)

  • 第7降下猟兵師団

(7. Fallschirmjäger-Division)

  • 第11装甲師団

(11. Panzer-Division)

  • 第47国民擲弾兵師団

(47. Volksgrenadier-Division)

第19軍(19. Armee)

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第64軍団
(LXIV.Armeekorps)
第63軍団
(LXIII.Armeekorps)
第14SS軍団
(XIV.SS-Armeekorps)
予備軍
  • 第16国民擲弾兵師団

(16. Volksgrenadier-Division)

  • 第189歩兵師団

(189. Infanterie-Division)

  • 第198歩兵師団

(198. Infanterie-Division)

  • 第708国民擲弾兵師団

(708. Volksgrenadier-Division)

(Panzerbrigade 106)

  • 第159歩兵師団

(159. Infanterie-Division)

  • 第259歩兵師団

(259. Infanterie-Division)

  • 第338歩兵師団

(338. Infanterie-Division)

(716. Infanterie-Division)

  • 第553国民擲弾兵師団

(553. Volksgrenadier-Division)

  • 第405工兵大隊

(Pionier-Bataillon Nr. 405)

(10. SS-Panzer-Division „Frundsberg“)

  • 第269歩兵師団

(269. Infanterie-Division)

脚注

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  1. ^ ライフ バルジの戦い P.185
  2. ^ Smith and Clark, Riviera To The Rhine, p. 527.
  3. ^ Beevor, Antony, The Fall of Berlin 1945 (Viking, 2002)

参考文献

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関連項目

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