ノート:くるみ割り人形とねずみの王様

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出典について[編集]

言うまでもなくこのご時世ですので、普段よりも情報収集がしづらいこともありますので、できるところから随時埋めていきたいと考えております。一旦個人的に気になったところをリストアップいたしました。ご確認いただけますようよろしくお願いいたします。なお、これらの文はくるみ割り人形とねずみの王様 2020年5月20日 (水) 14:16‎(UTC)版をベースにしております。

  • 「1816年に発表され、」の箇所
  • 発表の年代が何に基づいているのかが不明瞭。
  • 記事の発展なので今回の主な議題からは少しそれるが、どういった形で発表されたのかがあるとなお良し。ゼラピオン同人集に関しては少なくともドイツ語版他2言語で記事があったため、単体記事を作るなどしてこの記事で詳細を記すことは必須ではないと思案。
  • 「チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』の原作として知られる作品である。」
  • 「知られる」のは誰に対してか。またどうやって知られるようになったか。
  • 余談だが「知られる」ようになるまでに必ず経緯があるはずなので、そこを書くと記事の発展には繋がり易いと考えられる。
  • 「知られる」地域にも差があると考えられるので、どの辺で知名度が高いという話ができると記事が充実するが、本題からも逸れるので頭に置いておく程度はしたい。
  • 「~即興で作ったものであった。」の文
  • 断言しているが複数資料に同一の記述があったのか、本人が断言したのか、それとも後世の有識者が判定したかが不明瞭。
以下同様の疑問に関してパターンAとする。
  • 「~自分の娘を幼くして亡くしていたホフマンはこの子供たち、特にマリーをよく可愛がっていた」の文
  • ほぼ引用箇所がパターンA。
  • 「この話はマリーのためのクリスマスプレゼントとして作られたものであったらしい。」
  • 「誰が」そう判定したかが不明。独自研究ととられかねない。「らしい」ということは著者ではないと思案。
以下同様の疑問に関してパターンBとする。
  • 「~作者ホフマンのイメージが重なる。」の文
文全体がパターンB。
  • 「~フランス語版が元になっている」の文
記載箇所がパターンA。
  • 「~人形の国(お菓子の国)での様々な登場人物の描写に後半部の大半を使っている」の文
文全体がパターンB。
  • 「また、主人公の少女の名前がホフマン版やデュマ版の「マリー」から「クララ」(原作では冒頭でマリーが貰った人形の名前の愛称)に変更されている。」
第三者からの判断が欲しいと思案(Wikipediaの一編集者の判断ではないと言いたい)。
余談だが、これは三種類の『くるみ割り人形とねずみの王様』があり、それぞれ原作のホフマン版、フランス語で書かれたデュマ版、著名なバレエのバレエ版それぞれの違いをある程度まとめたものが調査があってもいいと思案。

概ね、あらすじ以外の箇所全般になります。あらすじはホフマンの原作ベースという認識でよろしいでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年5月20日 (水) 14:34 (UTC)[返信]

論点整理ありがとうございます。出典検索の方針自体が自明でないものがあるので、御意見をいただければと思います。
「人形の国(お菓子の国)での様々な登場人物の描写に後半部の大半を使っている」「また、主人公の少女の名前がホフマン版やデュマ版の「マリー」から「クララ」(原作では冒頭でマリーが貰った人形の名前の愛称)に変更されている。」の2件については、「原典を読めば誰にでも明らかな事実」で独自研究にも値しない内容です。このことに言及した文献はいくらでもありますが、ありすぎて困る、つまり根拠文献として特定するに値するものが存在しないという状況です。こういう場合はどうするべきなのでしょうか。
--Dakarananyanen会話2020年5月21日 (木) 11:46 (UTC)[返信]
前提として、当方はWikipedia:空が青いということに出典は要るWikipedia:空が青いということに出典は要らないという話だと、前者の人間だと考えております。もし、Dakarananyanenさんが反対側の考えを重んじる方だった場合、議論を行ったところで少なくとも二者間の場合平行線になる可能性が高いと考えております。それだと疲弊するだけで得るものがなさそうなので、一旦その2点を後回しにして、出典が示せそうな箇所や記事の発展に繋がりそうなところを優先して調べていくのが効率がいいと考えます。その過程でもし同様のことを明示的に示すものが見つかった場合、専門的な内容に近いものを代表として2点程度出典に示すのがいいかと考えております。明示されている出典がなさそうであればコメント依頼を出すなりして、改めてどうするかを考えるというのはいかがでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年5月21日 (木) 12:19 (UTC)[返信]
すみません、追加なのですが、後半部の大半、というのはできれば定量的に示せた方がWikipedia:言葉を濁さないという観点からするとベターなのかなと思いますがいかがでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年5月21日 (木) 12:28 (UTC)[返信]
この場合、Wikipedia:空が青いということに出典は要るの趣旨とは少しズレると思います。出典が必要でない理由について議論するより、出典を見つけるほうが楽が成立しないんですよ。適切な出典が存在しないことが自明なんです。
なぜかというと、もう1段階前の情報である「原典」、具体的には「参考文献」や「出典」に既に記載されているホフマン版とデュマ版に加えてプティパ版(バレエの台本)のテキストがあれば、そこから自明な論理で導出できることだからです。従って、それを敢えて主張する文献を誰かが遺す動機が無い。「教科書」的な文章で「解説」として触れられている可能性はありますが、確実に存在する保証は全く無いし、発見したとしてもそれが他の文献を押しのけて挙げるに適切と判断できる可能性は限りなく低い。だったら、出典としては「原典」を挙げれば充分で、そこから目的とする記述に必要な情報を導出する「理路」の出典は不要なんじゃないかという考え方も有り得ます。
自明なのは「空が青い」に相当する事実ではなく、現実的に可能な出典文献から結論を導出する「理路」なんです。そこの違いは認識していただきたいところです。
--Dakarananyanen会話2020年5月22日 (金) 12:50 (UTC)[返信]
ご意見を汲み取り切れておらず、申し訳ございません。その理路の話が出てしまうこと自体が、大変申し訳ございませんが疑問符だらけになってしまいます。当方は「なければ我々素人があれこれ言う話ではないのでは?」という考えで、それこそ自明なのであれば我々が百科事典の記事の中に書くことではなく、Wikipediaの枠の外で読み手個々人が自分たちで導き出すものであるものだと考えています。ゆえにそのことを書かないで読み手の判断に任せればいい、我々が変に決まった理路を作る必要性はないのではないかというのが当方の考えです。--遡雨祈胡会話2020年5月22日 (金) 13:39 (UTC)[返信]
二者間であれこれ言っていても進まなそうなので、コメント依頼を提出致しました。--遡雨祈胡会話2020年5月23日 (土) 11:59 (UTC)[返信]
「変に決まった理路を作る」というのは、この場合には全く当たらないと考えます。「作るほどのこともない理路」なのですから。そもそも百科事典というのは出典を必ずしも「そのまま引用」するものではなく、必要に応じて「要約引用」するのは当然のことです。「要約引用」に際して2点ないし3点程度の出典の情報を併せて要約するのも、状況によっては可能です。問題になっている「登場人物の描写に後半部の大半を使っている」「主人公の少女の名前が変更されている」の2件を導く「理路」とは、その程度のものに過ぎません。
--Dakarananyanen会話2020年5月23日 (土) 12:55 (UTC)[返信]
  • コメント 出版の経緯や当時の評価など加筆しました。出典に加えた若宮 (2008)ではバレエ・ホフマン版・デュマ版の相違について触れており、その注釈では15)で登場人物の違いに触れていて、16)では「ホフマン版とデユマ版の相違については、平林1998で詳しく論じられている」とありますので、資料がないことは無いのでしょうね。
ウィキペディアの編集者が行うのは編集であって検証・分析ではないので「各作品の違い」はどこかで発表されている内容を基にすべきでしょう。ところで「この物語はもともと~(中略)~イメージが重なる。」の出典はどこでしょうか。--Strangesnow会話2020年5月26日 (火) 06:34 (UTC)[返信]
  • コメント ところで「~として知られる」という表現は私も使ってしまいがちなのですが、そのように紹介されている資料がなく「~である」に留めても説明できる内容が大きく変わらないのであれば、避けたほうが良いかもしれませんね。河出文庫の種村訳本の販促あおり文に「バレエで有名な「くるみ割り人形」の知られざる原作」とあるのをみつけて少し笑ってしまいました。--Strangesnow会話2020年5月26日 (火) 07:19 (UTC)[返信]
別に時間はとってもいいとは思うのですが、現在議論になっている箇所に関して出典を提示できない場合、除去もやむを得ないと思うのですが、ご意見を伺えますでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年6月3日 (水) 12:00 (UTC)[返信]
コメント 恐らくですが、解題の内容は参考文献にあげている日本語訳書籍の訳者解説あたりから引っ張ってきたんだろうなあと推測できるのですが、それならそう編集した利用者:頭痛さんに指していただかないとわからないです。しかし、頭痛さんはブロックされていますのでこれは期待できないでしょう。「出典を示す責任は掲載を希望する側に」(WP:BURDEN)に照らし合わせれば現状では除去でも良いと考えます。長らく放置されていた記述なので簡単に改善されるとも思えません。あとで出典をつけて復帰や加筆できる内容があるのならば、そうすればよいのではないかなあ。--Strangesnow会話2020年6月4日 (木) 04:00 (UTC)[返信]
いったん除去して、復帰する際は出典付与をお願いする形にしたほうがよさそうですね。ありがとうございます。--遡雨祈胡会話2020年6月18日 (木) 11:33 (UTC)[返信]
既に指摘している通り、原典の「要約引用」に過ぎない後半部分について原典以外の出典を要求する理由はありません。また、前半部分についてもたった4週間の議論で百科事典としての有用性を損なう処置をすることには賛成できません。一旦復帰したうえ、問題箇所に「要出典」テンプレートを細かく指定する形に改めます。--Dakarananyanen会話2020年6月19日 (金) 09:04 (UTC)[返信]
コメント 「ウィキペディアの編集者が行うのは編集であって検証・分析ではない」と申し上げた通り、差異について書きたいのであればそれなりの専門家が分析したものを元にすべきでしょう。前掲の平林正司『胡桃割り人形』論―至上のバレエ』(1999/3/1)あたりを調べてみてはいかがでしょうか。
シンプルな疑問なのですが、バレエ版での改変内容をこの記事で詳しく説明する理由は何でしょう。すでにバレエの記事があるわけで、バレエの内容はバレエの記事に書けばよく、バレエでの特別な改変内容や詳しい原作との違いなどはそちらに書いたほうが読者に親切であろうなと考えています。この記事では簡単にこの作品を原作にした翻案(『はしばみ割り物語』)がバレエの原作になったことに触れているだけで充分ではないかなあと思うのです。(『はしばみ割り物語』は単独記事がないので、この項目で節を建てて説明してもよいかもしれませんが)--Strangesnow会話2020年6月19日 (金) 14:28 (UTC)[返信]
コメント いったん1-3ヶ月程度調査に充てましょう。それで上手く情報が集まらなかった場合、WP:DRのステップ1-3は果たしたので、ステップ4の投票に移らざるを得ないと考えます。--遡雨祈胡会話2020年6月20日 (土) 12:02 (UTC)[返信]

複数の問題が絡み合っているので整理して議論する必要があるかと思います。ざっと思いつくだけでも

  • 出典不備状態で、そのことに対する指摘も無い状態で長期間放置された内容を安易に除去することの是非
  • 出典が明示されている内容(具体的には文学作品の原典)を単に要約した記述に対して、その「要約行為」の出典が必要かどうかという問題
  • 出典が明示されている内容を単に比較した記述に対して、その「比較行為」の出典が必要かどうかという問題
  • 対象作品とその派生作品の関係を、どちらのページでどこまで記述するかという問題

があります。全てをまとめて論じると、私自身も混乱してしまうので、とりあえず話を絞ります。

当面の手続きの問題として「安易に除去することの是非」とそれへの対応に関連して、私は遡雨祈胡さんの 2020年6月18日 (木) 11:34 (UTC)の編集はHelp:以前の版にページを戻す方法の冒頭にある「記事が乱暴に破壊された場合」に該当する(少なくともそれに準じる)と考えています。確かに、遡雨祈胡さんは編集行為の目的を明確に表明されており、その目的自体は極めて妥当なものですが、その目的に対する手段としては全く不適切で乱暴であり、しかも影響が深刻で緊急の対処が必要と判断しました。

長期間放置された状態というのが、単なる「出典不備状態」ではなく、それに対する「指摘が全く為されていなかった」状態であることを軽視しないでいただきたい。しかも、それが認識されたあと、少しだけ議論して、議論をまとめる動きも無く、単に議論が止まっていたのです。この状態で、いきなり悪影響の大きい処置を採ることが妥当とは全く思いません。

--Dakarananyanen会話2020年6月20日 (土) 13:58 (UTC)[返信]

まずDakarananyanenさんの仰る1点目「出典不備状態で、そのことに対する指摘も無い状態で長期間放置された内容を安易に除去することの是非」ですが、Wikipedia:ページの編集は大胆におよびWP:BURDENをベースに実施しております。確かに議論が成立していないところで強行したのは安易すぎたとは思います。そちらに関しては申し訳ございません。そもそもの話ですが、Dakarananyanenさんはこの対立する意見のやりとりに関して、妥協点を探られるおつもりがございますか。現時点でDakarananyanenさんのご意見の出し方を伺っていると、ご意見は述べられてますが、どうされたいのか、WP:BURDENに対する反対意見で方針やガイドラインを参照するでもなく「自明な論理で導出できること」としか言葉を伺えておらず、ご自身が妥協点を探るためにどういった行動を取るおつもりなのか、見えてこないように感じております。それですとゴールが見えないので、申し訳ないのですが示してもらうことはできますか(変更することになったらそれはそれでしょうがないものと思っております)。
2点目はどちらのセクションについて述べられているか確認させて頂きたいです。
3点目に関しては井戸端を見てきました。Wikipedia:井戸端/subj/出典はどこまで明記すべきか?Wikipedia:井戸端/subj/Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈Wikipedia:井戸端/subj/過剰脚注・出典についてあたりが参考になるのではないかと考えております。基本的に出典はあらすじも含めて書けるものなら書いた方がいいのでしょう。あらすじで載せる場合の気になる点としては、今回は文章だからまだいいですが、映像作品や別種のメディアだった場合、どこまでやればいいのか(文章ならページで、ビデオなどであれば章や秒数の区間などで示せるかもしれませんが)というので悩む気はしますが、いったんそれは今回の議題から逸れるので外します。
4点目については、当方の意見ですとこちらの記事でなくてバレエの記事に書いた方がいいと思います。理由としては、バレエが著名なのは予想できるのですが(こちらに関しても調べた方が確実ですので調べますが)、結局バレエがメルヒェンをベースにした作品であれば、バレエが元と比べてどう変わったのか、という話の展開をしたほうが、棲み分けがきれいにできるように感じられます。それに「バレエは書いているのに他の作品は書かないのか」という議論を避けられる可能性が高いとも考えています。それを対象が増えるたびにやると、膨らむのはいいのですがそこばかり膨らんでも主たる「くるみ割り人形とねずみの王様」のページよりそちらの要素が大きくなり過ぎる気がします。要は「二次作品の全般的な話について触れるのは構わないが、個々の詳細は個々の記事の方が適している」という考えです。いずれにしても二度も三度も同じ話をするのはしんどいので、出典付けてからそうするようにはしたいです。
Help:以前の版にページを戻す方法に関しては差し戻すのであれば過去の版から編集ができると思うので、今後はそちらでお願いしたいです。差し戻すたびに告知が来るので。
「指摘が全く為されていなかった」といっても、そもそも指摘してもDakarananyanenさんが情報不足を理由に差し戻されていたというところについても、伺っても宜しいでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年6月20日 (土) 14:58 (UTC)[返信]

コメント 概要の内容を解題へと移動させました。このとき、元々の解題節の「バレエ『くるみ割り人形』(1892年初演)の~フランス語版が元になっている。」はもともとの出典(と予測される大島訳版)とは別の電子版で確認しており、元版から変更があるのか不明なので概要で書いたものを利用しました。

  • 解題の「この物語はもともと~~イメージが重なる」のあたりは出典が明らかになれば有用であろうなと考えています(友人の子供のために作ったという話は何かのエッセイでちらっと読んだ気がするのですが…)。一応は参考文献として出典が挙げられていますので、確認できるようであればこの箇所は残したいです。
  • 「デュマ版は登場人物の行動を~~に変更されている。」の部分については、除去してもこの作品の解説はできると考えています。差異に触れるとしても主役の名前の変更程度ではないかなと。

なんにせよ記事作成直前の「Wikipedia:出典を明記する」(2013年8月26日 (月) 20:56 時点)でも記事末尾に参考文献を記載する場合の注意点として「2.参照すべき場所、範囲を明確に示す。通常はページ番号を付記する。」とされていますので、記事作成当時から出典の示し方が不適当であったのでしょう。参考文献に示されている資料はできるだけ調査したいなとは思いますが、近くの図書館には無いのでちょっと厳しいです。--Strangesnow会話2020年6月22日 (月) 01:38 (UTC)[返信]

「安易に除去することの是非」に関しては、Wikipedia:ページの編集は大胆に#ただし、配慮を忘れないの記述は、特に除去に関しては「弱すぎる=安易に過ぎる」と、このガイドラインを最初に読んだときから思っておりました。特に、今回のように

  • 出典情報に不備があるが、確かな出典が存在するのではないかと推測できる
  • しかし、状況から考えて元の執筆者による補記は期待できない
  • 新たに出典検索することも容易とは思えない

という状況の場合には、出典不備であるという注釈を付したまま長期間公開し続けることは已むを得ないというのが私の個人的な考え方です。出典不備という意味で質が劣ることを明示することは当然に必要なことですが、そのうえで公開し続けることは、Wikipediaとしての社会的責務だと考えます。

「要約行為の出典」と「比較行為の出典」はいずれも2020年5月21日 (木) 11:46 (UTC)に私が挙げた部分です。本件ではこの2つの問題が常にセットになっていますが、一般論としては別々なので別個に列挙しました。御紹介いただいた「井戸端」をざっと拝見しましたが、似て否なる論点が多いようですね。熟読しきれていないので、実は直接的に関わる議論があるのかもしれません。もう少し熟読してみたいと思います。いずれにしても、このような出典は、2020年5月22日 (金) 12:50 (UTC)に書いた理由で、あるに越したことは無いが、無いからといって無理に探すものでもないと考えています。

「どちらのページでどこまで記述するか」については、私の頭の中でも論点が整理しきれていないので、現時点では言及を差し控えておきます。多数の要因が複雑に関わっており話がややこしいということだけ御伝えしておきます。Strangesnowさんのように簡単に結論を出してしまうことには強い違和感を覚えます。

--Dakarananyanen会話2020年6月22日 (月) 09:17 (UTC)[返信]

五月雨で申し訳ございませんが、もう少しDakarananyanenさんの意見を伺いたいので、もう二点質問宜しいですか。
Wikipedia:免責事項に社会的責任に関するWikipedia側の在り方がある程度示されていると思うのですが、それについてどうお考えですか。
Wikipedia:五本の柱に「ウィキペディアは中立的な観点に基づきます。これは、どの観点に基づく主張もしないような項目を書くように努力することを意味します。時には、複数の観点を記述する必要もあるでしょう。その場合、各々の観点を正確に記述します。また、各々の観点の背景を説明することにより、その観点は誰の主張なのかを読者が理解できるようにします。そして、どの観点も「真実」や「最良の観点」と紹介しないようにします。中立的な観点に基づくということはまた、可能な限り検証可能で信頼できる出典を明記するということをも意味します。とりわけ論争となりがちな話題では出典の明示が求められます。どの版が最も中立的なのかで対立したときには、冷却期間を置くことを宣言して、項目に論争のあることを示すテンプレートタグをつけてください。ノートページで詳細を詰めて、手順に沿って論争を解決してください。」とありますが、こちらに触れる可能性についてはどうお考えですか。
お手数ですがお返事をよろしくお願いいたします。--遡雨祈胡会話2020年6月22日 (月) 10:29 (UTC)[返信]
「免責事項」についてですが、これはあくまで「そういう品質を保証しない」というものであって、「そういう品質を追求しない」というものではありません。もちろん、「感情を害するものでないこと」「専門家のアドバイスを提供する場ではないこと」などは、全くそういう品質を目指すものではないと規定しても良いかもしれませんが、合法性や正確性などには「方向としてはそれを目指してはいるが、結果的に到達できていないことは容認する」という側面があるでしょう。つまり「追求レベル」と「保証レベル」の間にギャップがあるということです。
そして、いま問題になっているのは、まさにこの「追求レベル」と「保証レベル」のギャップに挟まった状態にある情報をどうしようかということなのですから、そこの違いを正しく意識して議論する必要があると思います。
「五本の柱」に「触れる可能性」ということですが、何が「触れる」とお考えなのでしょうか。もし「出典不備であるという注釈を付したまま長期間公開し続けることは已むを得ない」という私の考えが「触れる」と主張されるのであれば、それは全くの誤りです。「不備である」という情報が伝わらない状態で公開しているのならともかく、「どのように不備であるか」つまり「どのような品質の情報であるか」を明瞭に明示して示すことが「中立的な観点」云々に反する余地は全くありません。
--Dakarananyanen会話2020年6月24日 (水) 10:44 (UTC)[返信]
出典が少し手に入ったので加筆するのと、議論をまとめるので少しお時間いただきます。しばしお待ちください。--遡雨祈胡会話2020年6月24日 (水) 22:58 (UTC)[返信]
Dakarananyanenさん、すみません、もう一つ質問宜しいでしょうか。こちらは何をベースに加筆されましたか。--遡雨祈胡会話2020年7月7日 (火) 12:30 (UTC)[返信]
反応が遅くなり申し訳ありません。デュマ(小倉訳)のページ情報を入れてからと思ったのですが、書式の理解に手間取りました。
さて、御指摘の編集は複数の内容から成っており、各々について別々にお答えすることになります。まず「父子の役割分担」云々は元々出典を明記していた通りです。
「デュマ版は」で始まる文のうち、「ストーリーの流れは同じ」に関しては、 2020年6月20日 (土) 13:58 (UTC) にも書いた「要約行為の出典」「比較行為の出典」が必要かという論点で、ホフマン版とデュマ版の原典テキスト以上の出典情報は不要(あればbetterだが必須ではない)と考えている部分です。
一方、「具体的に記述する傾向」に関しては少々微妙な部分があると思います。これは元のテキストに「ホフマンの作品とはかなり雰囲気に隔たりがある」というあまりにも典拠不明な記述があったので、より客観的に判断できる(=出典情報の必要性が低い)記述を補おうとしたものです。そもそもの原因である「雰囲気に隔たり」云々を削除してしまった現状では、むしろこちらが典拠不充分な(=記述者の主観的判断が入った)記述という性格を帯びてしまうかもしれませんね。「要約比較行為」の内容が誰にでも自明なものとは必ずしも断定し難いからです。
残るバレエ版との関係に関する部分は、 2020年5月21日 (木) 11:46 (UTC) に書いた通り「このことに言及した文献はいくらでもありますが、ありすぎて困る、つまり根拠文献として特定するに値するものが存在しない」の典型例です。プティパ版(バレエ台本)の原典ないし全訳の書誌情報があれば対応できるのですが。
--Dakarananyanen会話2020年7月9日 (木) 10:11 (UTC)[返信]
当方も反応は割と遅いのでゆっくりで大丈夫です。忘れてそうだなと思ったらノートでご一報いただけますか、当方の利用者ページのリンクを貼って頂けますと告知が入るので助かります。
とりあえず誰の訳を参照にしたかだけでも書いて頂くことはできませんか。翻訳家の訳し方で変わる可能性もあるので、どれを参考にしたかだけでも書いて頂けますと助かります(特に第三者が改めて検証する際には)。
「具体的に記述する傾向」のくだりは逆に誰がそう書いたのかを明確化すると懸念されている点は解消できそうかなと考えております。
「残るバレエ版との関係に関する部分」のところは代表的な出典(できるだけ信頼できそうなもの)を2-3点提示いただくことも難しいでしょうか。--遡雨祈胡会話2020年7月9日 (木) 12:20 (UTC)[返信]
あとこの話を伺った理由として、今出典の記載がない箇所は、新しくDakarananyanenさんが加筆されたところと、要出典タグがついているところに限られている状態であることから、とりあえず出典がない状態を解消して、そこから改めて精度を上げていきたいなと考えているので伺っています。--遡雨祈胡会話2020年7月9日 (木) 13:05 (UTC)[返信]
すみません、出典がないというと語弊がありますね。ページ情報が欲しいです。--遡雨祈胡会話2020年7月9日 (木) 13:08 (UTC)[返信]

2020年7月23日 (木) 12:49 (UTC) に「さすがに自分で比較するのは独自研究です」とのコメントと共に「独自研究」テンプレートが貼り付けられましたが、全く同意できません。単に「比較」を行ったというだけでは、例えばWikipedia:独自研究は載せないの冒頭に論述されているどの条件にも該当せず、それだけの条件で独自研究と看做すのは明白な誤りです。

単に「比較」というだけで独自研究と判断するのであれば、例えば“バレエの表題には「くるみ割り人形とねずみの王様」という表題の「ねずみの王様」に相当する部分は無い”と記述するだけで、バレエの表題と小説の表題を比較したということになり、典拠が必要になってしまいます。

Wikipedia:独自研究は載せないの趣旨から考えて、文字通り「独自」であること、つまり「誰がやっても(考えても)同じ」ということにはならない判断が含まれている(主観的判断を含む場合や、判断のために必要な作業が容易でない場合など)ことが、「独自研究」と呼ぶための必要条件でしょう。

本件に関しては「ストーリーの流れはホフマン版と同じ」ということは双方を一読すれば明らかで見解の相違が生じる余地が無い事実ですから、「独自研究」に該当する余地は全くありません。

一方「登場人物の行動を具体的に記述する傾向」云々は、もしかしたら見解の相違が生じる可能性が絶対に無いとは言い切れません。そこで、この範囲に限定した「要出典」テンプレートに変更しておきます。ただ、これだけで「要出典」とするのは少々強引です。そこで、2020年6月19日 (金) 09:13 (UTC) に除去した、「要出典」と判断するのが妥当である可能性が高い「想像力」の記述を復活させたうえで「要出典」としておきます。除去した時点では「独自研究」に該当する可能性が高いものを可能な限り排除しようとしたのですが、当時から典拠を探し出して残したい記述だとも考えていたからです。

--Dakarananyanen会話2020年7月26日 (日) 04:00 (UTC)[返信]

返事が遅れる一方で申し訳ございません。ただ、Dakarananyanenさんが同意できるかどうかというよりは、当方を含めて他の利用者の方たちとも合意を作り上げるという方向で話すのが本来の筋だと個人的には考えます(基本的に議論が始まった瞬間、どこを終着点としてで妥協するか、という話があるというだけだと当方は考えております。意見が完全に異なる人物がまったく同意する、ということは、極めて少ないケースだと考えますし、最悪意見を出し合う中で完全に決裂してしまうことさえあると考えます)。比較を行ってその結果自分が見た結果を書いたというのは、「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に当てはまるのではないでしょうか。「単に『比較』というだけで独自研究と判断するのであれば」のくだりは、別に比較した資料を出典として提示すればいいだけの話ですし、それが多数派であるのであればWikipedia:中立的な観点#対立する観点との相対的な勢力差を示すからある程度その意見が主流だとする意見を示すことができるはずです。また、中立的な観点では「判断を下さない言葉遣いを好んで選択する|判断を下さない言葉遣いを好んで選択する」という約束事があります。私たちはヌーペディアの編集者のように専門家集団ではありません。それ故にできる限り情報源に従って客観的な記載をすべきだと考えます(参考:WP:INTEXT)。それから話は変わりますが、プティパの脚本そのものはこれだけ有名な作品で研究もされているのであれば、せめて英語版くらいはあるのではないかと考えております。個人的にもきょうみがありますので、調べてみようと思います。--遡雨祈胡会話2020年8月19日 (水) 16:47 (UTC)[返信]
“比較を行ってその結果自分が見た結果を書いたというのは、「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に当てはまる”という御主張は、「比較」が具体的にどのようなものかに依存するものであり、「比較」という言葉が「あらゆる種類の全ての比較」を指している限り全くの誤りです。もちろん「比較」という行動がそういうものである可能性が非常に高いことは確かです。しかし、いま話題になっている「比較」には該当しないと考えます。
“別に比較した資料を出典として提示すればいいだけ”云々は「出典を提示するべき」ということが前提になっており、今は「出典を提示するべき」かどうかが問題になっているのですから、この論点を持ち出すのは誤りです。本件では、強迫観念にかられて無理矢理に出典提示をすれば「過剰出典」として除去の対象になる可能性さえ考えられます。「過剰出典」については、先に御紹介いただいたような井戸端の記事程度で合意ルールは無いようですが、検証可能性を担保するのに資する程度を超えてはならないという考え方には賛同できます。
「専門家でなければできない判断」「立場や思想に依存する判断」に出典が必要ということに全く異論はありません。「中立性」云々というのはそういうことですよね。しかし、これは逆に言えば、中立性の維持に対して繊細な側面が無い判断に対して、ことさらに出典提示を求めるのは「過剰出典」になる可能性が高いということです。いま話題になっているのは、そういう判断の典型だと思います。
要するに、遡雨祈胡さんは一般論としては至極妥当な主張をされているのですが、いま話題になっている事例には全くあてはまらない議論をされているということです。
--Dakarananyanen会話2020年8月26日 (水) 11:57 (UTC)[返信]
過剰出典について気にされているようですが、そもそも過剰出典も何も出典がないところに出典を追加することは過剰出典ではないのではないでしょうか。それとも記事全体としての過剰出典を気にされてますか。--遡雨祈胡会話2020年8月26日 (水) 13:59 (UTC)[返信]
理屈の上では「出典情報の適正量がゼロであれば、ほんのわずかでも書けば過剰出典」です。今回の事例では「適正量がゼロ」とまでは言いませんが、わずかな記述でも過剰出典になる可能性が高い状況です。
「何の目的で出典情報を提示するのか」ということを冷静に考えてください。何らかの目的で手続きを明確に定めようとする場合、本来の目的が忘れられて手続きの厳守が目的化してしまう事態に陥ることがよくありますが、その危惧を強く感じています。意義を考えることなく「出典情報提示」という形式を整えることを目的にするのは有害無益です。
--Dakarananyanen会話2020年8月28日 (金) 21:28 (UTC)[返信]
Dakarananyanenさんの過剰出典の判断基準を伺えますか?それからさすがに2つ目の注釈にある「比較により明らか」というのは記事の編集側が判断をしている文面だと思うので、もう少し他の書き方にしませんか。--遡雨祈胡会話2020年8月29日 (土) 00:57 (UTC)[返信]

「基準」といっても当然ながら感覚的なものでしかありませんが、とりあえずは実務的に困るかどうかが手がかりになるでしょうね。つまり、この議論の出発点に戻って、2020年5月21日 (木) 11:46 (UTC) に書いた「このことに言及した文献はいくらでもありますが、ありすぎて困る、つまり根拠文献として特定するに値するものが存在しないという状況」あるいは2020年5月22日 (金) 12:50 (UTC) に書いた「それを敢えて主張する文献を誰かが遺す動機が無い。「教科書」的な文章で「解説」として触れられている可能性はありますが、確実に存在する保証は全く無いし、発見したとしてもそれが他の文献を押しのけて挙げるに適切と判断できる可能性は限りなく低い」という状況になっているというのは、無理に出典情報を記載すれば確実に過剰出典になるという典型的な条件だと思います。

“「比較により明らか」というのは記事の編集側が判断をしている文面”という御意見には賛同できません。「明らか」というのは「自分の主観的判断ではない」という主張ですよ。

--Dakarananyanen会話2020年9月1日 (火) 09:37 (UTC)[返信]