ノート:めぞん一刻/過去ログ2
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一刻館の所在地
原作に練馬区とある以上、一刻館の所在地は練馬区とすべきです。 ノンフィクションではなく、想像力の産物なのですから、所在地が明確ではなく、やや混同されている部分があるのは当たり前では…。それでも原作の所在地を何より優先すべきだと思いますね。 高橋さん自身、練馬区の大泉サロンの出身であり、執筆当時も大泉サロンと同じ西武池袋線沿線の練馬区から程近い東久留米市在住だったわけですから。アニメ版では、電車の標識に「船橋」などと出てくるのは、アニメ制作会社が原作の一刻館の所在地を(本人に断わったのかは立証できませんが)自社のある沿線に作り変えたのだと推測されます。 でも、やはり原作を重視すべきではないでしょうか。--218.110.116.190 2007年6月9日 (土) 13:28 (UTC)
「市役所」を無視してはいけない。仮想世界では何がおこっても良いのが原則である。もしかすると「練馬区」とあるのは私書箱かも知れないし、そもそもこの話の舞台は地球上では無いかもしれない。いやいや、ワームホールで繋がっているのかもしれない。また北海道から絵葉書を送った先が一刻館であるとも限らない。--58.95.142.253 2007年6月9日 (土) 15:57 (UTC)
- 私書箱が練馬区ということは、即ち、一刻館は練馬区ということである。
想像上の世界なのだから実際は何処にも存在しないのは当たり前。 だが、原作には「一刻館宛」と届いた郵便物などに「練馬区」とある事実を無視してはいけない。所在地は、やはり練馬区内とすべきだろう。「市役所」はやや混乱する点だが、多少の辻褄の合わなさは許容されるのがアニメや漫画というものであろう。--218.41.181.172 2007年6月11日 (月) 05:29 (UTC)
そもそも大泉サロンと作者は関係あるのか?ちょっと知らなかったので調べてみたけど、関係が発見できないんだけど・・・--58.95.142.253 2007年6月9日 (土) 16:09 (UTC)
手塚治虫が東久留米居住で、虫プロが練馬区、手塚プロが新宿、ということから中央線沿線や西武池袋線沿線が漫画家・アニメーターの集積地だということにつなげる事が自然では?トキワ荘も西武池袋線(東長崎)ということもある。いずれにせよ明白な出典がないので、「大泉サロン」説にはちょっと疑問があるなぁ。--58.95.142.253 2007年6月9日 (土) 18:33 (UTC)
- アニメ版めぞん一刻の制作会社のある最寄り駅は荻窪。東京西部の各所がごちゃ混ぜになって舞台になっているのは事実のようだ。しかし、58.95.142.253にも書いたことだが、 原作に練馬区とあることを無視してはいけない。やはり練馬区とするのが自然であろう。取り敢えず、わたくしの版の戻させていただきます。--218.41.181.172 2007年6月11日 (月) 05:29 (UTC)
- 原作に市役所とあることを無視してはいけない。乱暴な編集はトラブルの元ですので控えましょう。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 05:34 (UTC)
- あと、大泉サロン説の出典やら情報やら開示してくださいよ。言いっぱなしではなくて。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 05:36 (UTC)
- 独自研究テンプレートを導入しました。乱暴すぎます。なにさまですか?大泉サロンがあなたの論拠ですから、説明を開陳しなさい。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 05:55 (UTC)
- 原作に練馬区宛とある事実を無視してはいけません。練馬説を裏付ける重要な、決定的な、科学的な証拠だと思います。私の編集を勝手に乱暴に編集し直さないでください。大泉サロンに高橋さんが関わっていたというのは、昔、竹宮恵子さんが、雑誌で語っていたことですので、はっきり覚えています。今、その雑誌は処分してしまった為、ここでそれを提示することは残念ながらできませんが、もっとネットで調べてから開示致したいと思っています。手塚治虫もトキワ荘の要町の他、一時は練馬区に在住していたという噂もあります(真偽のほどは明らかではありません。練馬区富士見台の虫プロを事務所兼住居にしていた可能性もあります)。それに「ドラえもん」も藤子不二夫氏自身、のび家の住所は練馬区だといい、テレビ朝日の特番でも、子供たちからの質問に、テレ朝アナが「ドラえもんの家は練馬区だそうです」と答えています。ゲストの筋肉少女隊大渕健次さんも「ふ~ん。練馬に行けばドラえもんに会えるんだ」と語ったことがあります。しかしアニメには、多摩川という台詞がよく出てきます。練馬から近いのは石神井川か荒川のはずですが。このようにノンフィクションではないのだから、辻褄の合わない点は多々あるものです。でも原作の表記を重視する、原作中心主義がわたくしの立場です。--218.41.181.172 2007年6月11日 (月) 06:01 (UTC)
- あなたの立場などどうでもいいので、出典を探して来なさい。これだけ乱暴に振舞うのだから、情熱とやる気は有り余ってるでしょう。みなさんの編集を乱暴に編集しなおしているのはあなたです。市役所が無視してよい出典についても開示しなさい。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 06:22 (UTC)いやいや。勘違いされては困るのだが、期待しているのだよ。思い出したまえ。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 06:28 (UTC)
- 残念ながら竹宮氏の雑誌は処分してしまいました。ですが、中野(多分、西武池袋線の江古田界隈だと思われます)や東久留米に住んでいたことから、そこからほど近い大泉学園の大泉サロンに通って、竹宮氏や萩尾氏らと交流があったことは間違いないでしょう。大泉サロンの近くに住んでいた可能性もあります。--218.41.181.172 2007年6月11日 (月) 07:53 (UTC)
- 自分の推理だけを根拠にしてはダメです。独自研究を参照あれ。当作品を執筆中に東久留米から引越しをして練馬に移ったという情報はWEB検索で発見できますが、大泉サロンについては全く関連が発見出来ない。練馬に住んでいるだけで大泉サロンに結び付けるのは根拠がなさ過ぎる。情熱をもって竹宮氏の雑誌を思い出すのだ。--58.95.142.253 2007年6月11日 (月) 08:02 (UTC)
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さて、「原作にある」と主張される「練馬区」説ですが、たったひとコマにうっすらと荷札が見えるところと、かろうじて「練」の文字がハガキに確認できる2コマのみです。よくよく見ようとしないと見えないような記載は「決定的・科学的証拠」とはとても言えません。セリフや地の文には一度も登場しないのですから、「一刻館は練馬区に存在する前提で描かれている」とは、誰にも証明できないでしょう。--Bossa 2007年6月11日 (月) 11:13 (UTC) ちなみに「市役所」は、きちんとセリフ中に活字で登場しています。たとえそれが作者の勘違いや印刷ミスだったとしても、「証拠」としては強いわけです。版を重ねても「区役所」に修正されるようなことは現在まで起こっていませんし。--Bossa 2007年6月11日 (月) 11:20 (UTC)一部訂正--Bossa 2007年6月11日 (月) 11:31 (UTC)
- 218.41.181.172さんのご主張なさる「原作中心主義」、本当にいいことだと思います。ここで、『めぞん一刻』の謎本として定評がある『一刻館の思いで』ISBN 4-8470-3097-4(P.17-19の☆1980年11月東京都東久留米市一刻館)から、一刻館の位置についての考察を抽出してみます。
- 以上から、『一刻館の思いで』では一刻館の所在は東久留米市としています。--Janus01 2007年6月11日 (月) 13:51 (UTC) (追記) 少しファンサイトを回ってみましたが、映画完結編を含むアニメでは、一刻館の位置は練馬区の方が主流のようです。[2] [3]。--Janus01 2007年6月11日 (月) 14:15 (UTC) (追記2)2007年5月TVドラマでは、響子さん(伊東美咲)が初めて一刻館を訪ねるシーンで出てくる住所のメモは「練馬区時計坂2-6-5」です。やはり、一刻館の住所は、原作のどの記述を重視するかで違ってくるようですね。--Janus01 2007年7月19日 (木) 17:20 (UTC)おぉお!~(゜∀゜)すばらしいですね。--125.205.185.237 2007年7月19日 (木) 17:37 (UTC)
- 「一刻館は現実世界のどこにあると設定されているのか?」については、興味ある方々にファンサイトなどでどんどん探求していただければいいのであって、ウィキペディアの記事上に反映させる必要性がありません。Janus01さんがまとめてくださったような事象は、それこそが、「一刻館の場所の特定は作品の重要事項ではない」「追求しても作品上に答えはない」証であり、作者が意図的に曖昧さを狙っている可能性も高いわけですから(だからこそ、ファンの研究心も刺激されるわけで)、記事の記述としては2007年6月9日 (土) 10:04の版までにあったような「23区にほど近い東京都西部の設定」のような記載で必要十分を満たしていると考えます。--Bossa 2007年6月11日 (月) 15:34 (UTC)
- 大泉サロンについて、愛好家の検証サイト[4]によると、成立時期はおよそ1970-1972~73年までとあり、高橋留美子の経歴によれば1957年生まれなので16-17歳当時のこととなるようだ。経歴上は新潟県立新潟中央高等学校を1976年3月に卒業である。また上記サイトやWikipedia上の大泉サロン、高橋留美子の各ページに記述が全く見られないことから、関連性を裏付ける情報が得られそうな期待がないのだが・・・どうするね?--58.95.142.253 2007年6月12日 (火) 09:39 (UTC)
- 「らんま1/2」を根拠に練馬説が書き込まれましたが、これは安直な類推であって、めそん一刻執筆中は東久留米在住であり、のち練馬に引越しをした事が愛好家の研究により報告されています。「らんま1/2」は練馬周辺が舞台となっていることは巡礼 (通俗)参照。--125.205.9.64 2007年6月19日 (火) 02:12 (UTC)
- それと218.41.181.172氏の「大泉サロン」根拠説はどうしますかね・・・。--125.205.9.64 2007年6月19日 (火) 02:12 (UTC)
- ノートもですが読んでて気分が悪いです。「本当にいいことだ」とか、読んでて何様かいといか思いません。押し付けやウィキを私物化するのはいかがかと思います。自分も編集で何度か一方的に消されました。自分の意見だけ押し通すならブログでやればいいかと思います。ウィキは誰でも編集できるものではないんでしょうか。
あらすじ
あらすじ、ということで投稿者の方から投稿がなされておりますが、独自研究にあたりますのでリバートしました。好意的に受容されているかぎりウィキペディアでは文芸作品のあらすじを原作そのものから作成することをとくに拒否するものではありませんが、やりすぎないようお願いします。読者は百科事典を読みに来るわけでして、編集者による「二次作品」をわざわざ読むためにウィキペディアを訪問するわけではありません。云々。(参照:Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連))--大和屋敷(会話) 2012年4月17日 (火) 16:46 (UTC)
- 一応「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)」には沿ってるはずですが、1次資料の出典提示のあり方、あらすじに対する2次資料の要求については私も問題意識を持っていて、フィクションの分野においてガイドラインや過去の慣例では必要十分とはいえない面もあるのかな、と思います。さらに記述を削り込むということであれば検討の余地はあると思いますが、少なくとも従来の「登場人物」節は雑多に過ぎるかなと。概要などの出典無しの記述も本当なら改善の優先順位は高いのでしょうけど、とりあえずテンプレート掲示で注意喚起と改善協力のアナウンスだけでもしておきます。--ディー・エム(会話) 2012年4月18日 (水) 15:05 (UTC)
あらすじの作成の仕方と引用の仕方が不適切です。引用は「この表現はこの原作ページのことを記述していますよ」的に付与するものではなく「この表現はこの出典から引用しています」として付与するものです。つぎに「めぞん一刻」というフィクションの要約を五代裕作あるいは音無響子という人物から起筆要約する場合、ほとんどは登場人物#一刻館の住人#五代裕作ないし音無響子と重複してしまいます。このあたりをどうなさるのかな、と拝見しておりましたがやはり苦労なさってる様子だけが見て取られ、要約(あらすじ)というより、投稿者による修飾表現の公表の場所になってしまっていると思います。繰り返しになりますが読者は百科事典を読みに来るわけでして、編集者による「二次作品」をわざわざ読むためにウィキペディアを訪問するわけではありません。--大和屋敷(会話) 2012年7月8日 (日) 06:26 (UTC)コメントアウトした箇所について巻別にまとめ、「文芸表現」的な修飾句を取ってみると以下のようになります。
- あばら屋のような木造アパート「一刻館」に新しい管理人、音無響子がやってきた。5号室に住む浪人生の五代裕作は彼女に恋をする。響子は夫の惣一郎を1年前に亡くし、未だ気持ちの整理がつかないでいた。一刻館の大家である義父が彼女にこの仕事を薦めたのは、少しでも寂しさが紛れればという心遣いだった。一刻館の住み込み管理人として働き始めた響子は、多忙な毎日を過ごす。他の住人たちは冷やかし半分、裕作の部屋に押しかけては彼の恋路の一喜一憂を酒の肴に連日宴会騒ぎをして楽しむ(本作第1巻 (1982))。
- 響子はテニススクールで知り合ったコーチの三鷹瞬から熱心なアプローチを受けるが一向に答えは出そうにない。そのくせ五代がガールフレンドと親しげにしているのを見聞きするとついやきもちを焼く(本作第2巻 (1982))。
- 裕作の想いは知りながらも、いつも素知らぬ態度ではぐらかす(本作第6巻 (1984)) 。
- 大学を卒業し就職浪人を経験した裕作は周囲の人達に助けられながら保育士を目指す。犬が大の苦手だった三鷹は犬好きの見合い相手に惚れられ、勘違いが元で結局彼女にプロポーズまでしてしまう(本作第10巻 (1986))。
- しばらく続いた裕作―響子―三鷹の三角関係だが、徐々に響子は自らの裕作への想いを優先し素直に向き合おうとする。それでもすれ違いの関係は続き、裕作とのもどかしい距離を縮めて楽になりたいと考えた響子は自ら彼に体を許す決意まで見せるが、裕作が響子の亡き夫を意識する余り不調に終わる。お互いを想う二人は他の一刻館の住人のお節介にも支えられ、いつしか自然と心を通わせる。そうして一晩を共に過ごした裕作に対して、ようやく響子は本当はずっと好きだったのだと告白する(本作第14巻 (1987))。
- 裕作との結婚を控え、響子は惣一郎の遺品を義父へ返すことにしたが、それは響子なりの気持ちの整理と裕作の気持ちを配慮してのことであった。決意の報告のために響子は惣一郎の墓前へ赴くが、そこには裕作がいた。惣一郎の墓前で裕作は、自分が好きになった響子とは既に心に惣一郎を刻んでいた響子であり、それゆえに惣一郎への響子の想いをも全て含めて自分がこれからずっと響子を愛することを誓う。その裕作の言葉を気付かれぬ場所で耳にしていた響子は、裕作が自分を幸せにしてくれる人物であることを亡き惣一郎がきっと理解してくれると確信する。裕作が墓参するところに現れた響子は、新たな伴侶として裕作を惣一郎に紹介することに迷いはすでに無かった。惣一郎の遺品の返却については裕作は無理に返さなくて良いと言うが響子は「これでいいんです」と言い、惣一郎の墓前で改めて裕作との出会いに感謝する。結婚後も裕作と響子は一刻館で暮らしている。翌年の春には長女、春香も生まれた。裕作は早々に新居を探すつもりでいたが、引っ越し代も馬鹿にならないというのが響子の言い分である。しばらくは共働きで、管理人の仕事も続けるつもりでいる(本作第15巻 (1987))。
こうするとものすごく要約として跳んでしまっていることが分かるでしょう。--大和屋敷(会話) 2012年7月8日 (日) 06:48 (UTC)
・読んでいて気分が悪いです。偉そうに。「わざわざ訪問するんじゃありません」とか「わかるでしょう」とか・・・・
喧嘩を売ってるような書き方はいかがなものかと思います。
これだけつらつらと書いておいて最後にゴリ押しで押しつけはやめてください。何様か?としか思えません。
第3者が読んでいて気分のいいものではありません。