ノート:アララト山
ざっと、他のホームページや手もとの文書を見てみたら、標高が異なっていて、ここでの記事の内容の他にも、(単位:メートル)「大アララト~5,137、5,165」、「小アララト~3,925」など様々なのですが、一体、どういう意味なのでしょうか?こんなことを書いても答えられる方はいないかもしれませんが。 WR 2004年7月5日 (月) 05:21 (UTC)
1 E3 mの下の方にちょっと書いてあるみたいに測量の方法がいくつかあり、また、同じ測量法を用いても、測量する団体や時によって、どのように基準点を設置するか、どのように補正するかが異なるため、正確な標高を出すのは難しいようです。富士山でさえ、測量の度に異なる結果が出ている有り様で、国土地理院が3776メートルだと発表してるから、そういうことにしてるだけというのが実態です。アララト山の場合は、どこの機関のデータが最も権威があるのか分からないのですが、いずれにせよ、こういう数値データを明記する場合は出典情報が欲しいですね。oxhop 2004年7月5日 (月) 10:46 (UTC)
- 本文にも、出典先や関連した説明がなく、単に素人の疑問ということで書いたものですから。しかし、非常に分かりやすいご説明で納得がいきました。富士山の件も、そういえば、そういった話があったなどと思い出したりもしました。わざわざ、ありがとうございました。 WR 2004年7月6日 (火) 13:30 (UTC)
世界大戦と虐殺
[編集]「オスマン帝国がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人やトルコ人と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。このとき、相当の数のアルメニア人の人命が失われ、アルメニア人ジェノサイドとして国際的非難を浴びたが、トルコ政府はジェノサイドの事実を否認しており、長らく論争となっている(アルメニア人虐殺)。」とありますが、
- アララト山は、当時、ロシア帝国とオスマン帝国の国境にあり (1883年の地図)
- 第一次世界大戦中の虐殺は1915年以降のお話でして、そのときすでにロシア帝国軍がアナトリアに進撃していて、1914年12月にはロシア帝国軍の占領下にありました (第一次世界大戦コーカサス戦役の地図)
ということで、アララト山およびその麓で起きたわけではありません。アルメニア人虐殺当該部分を修正したほうがよいと思います。Takabeg 2012年2月20日 (月) 03:03 (UTC)