ノート:アルピコ交通上高地線
なぜか、上高地線の未成線が龍島までしかないのですが…誰か削除しましたか?--125.202.76.112 2006年10月22日 (日) 06:44 (UTC)
- 当該節のコメントを確認してください。検証ができないものは記載できませんので。--e56-129 2006年10月22日 (日) 07:05 (UTC)
「竜島温泉駅」等に疑問
[編集]「廃止区間」の見出しと表の下にコメントがあります。このコメントは、理解しがたい記述です。コメントの根拠・出典をぜひ知りたいところです。竜島温泉が掘削されたのは1990年代後半のはずです。旧島々駅の開業は、年表にあるように1922年でしょう。その名称決定に際し「龍島温泉がある事から駅名を龍島か龍島温泉」にしようとしたということはあり得ません。仮に、島々宿まであの線路が延長されていたとすれば、確かに、右岸の竜島か、左岸の大野田に途中駅が造られたでしょう。しかし、竜島側は川岸まで山側の巨岩がせり出しており、大野田側も現在の国道に見る通り国道わきまで巨岩がせり出しています。この巨岩を撤去して線路を敷設するなど、現在でも難工事であり中部縦貫自動車道は工費ばかりかかる計画なので着工できません。いわんや、1920年代に地方の民間資本がお金を出して運賃で収支つぐなうことは不可能でありえないことなので着工できなかったわけです。1920年代に「説明会で一部の住民から」というのも考えられないし、「バスターミナル建設なども予定されていたため、この地では用地が足りない」ということも時代状況からあり得ないことです。記述内容を納得できず、この部分のコメントは信用できません。はっきり言って、「この見てきたような嘘は何?」と感じております。私は幼児期、渕東駅付近で遊んで育っています(関係ないか?)。--ジガンザン8108(会話) 2012年4月12日 (木) 02:56 (UTC)
- 上述の範囲に「要出典タグ」を張らせていただきました。このコメントは、10年2月28日にIPアドレスの方によって書かれています。何を根拠に書かれたのか、大いに気になります。あの線路は少し先まで敷設する意図があったとは、以前から聞いていますが、詳細も知らず、資料も今は持ち合わせません。高山までの壮大な計画があったとは、ここを読んで初めて知りました。ただやはり出典がありません。しかし、意図はわかります。脱線したことを書いてみます。『女工哀史』で知られるように、明治時代には、野麦峠・野麦街道を介して高山と松本には交流があった。江戸時代に高山から江戸に出るためには、松本に来て、上田に出ることが当然でした(松本から上田は東山道の一部)。だから明治初年の廃藩置県に際しては、飛騨高山一帯は筑摩県とされたのです。しかし、山越えは大変でした。鉄道が発達すると、高山は完全に岐阜と一体になり、松本と高山は隔絶されました。長い間、松本から高山に行くには、鉄道で名古屋・岐阜を経由するのが当然という縁のない僻遠の地になってしまっていたのです。ところが、安房峠道路(安房トンネル)の開通により、松本と高山の交通は再び盛んになっています。東京発北陸行きのバスツアーもここを通るわけです。だからあの線路を高山まで伸ばすという構想は壮大にして役に立つものでした。しかし、いかんせん工費は天文学的数字になったことでしょう。科学技術が進んだ今日であっても、中部縦貫自動車道があれば役には立つけど、赤字国債(実際には建設国債でも、中味は同じこと)で未来に借金を残してまで造るべきものではないでしょうよ。--ジガンザン8108(会話) 2012年4月13日 (金) 00:13 (UTC)
- いや、驚きました。島々から高山までの線路を造る計画路線があったという話は誰がいつ書き込んだのかと調べていたら、もともとの記述がいつ始まったのかまでは分かりませんでしたが、2010年2月24日の項に、「宮脇俊三『夢の山岳鉄道』に上高地鉄道計画の話」というそれ以前に書き込まれた文章が出て来ました。「へえ、いちおう出典があるのか!」と思ったけど、先ほど、この本のことを調べてみました。この本を読んでの感想ブログもありました。そのブログにいわく、「本日紹介するのは、宮脇俊三『夢の山岳鉄道』(新潮文庫)です。“夢にまで見た『山岳鉄道』に編集者を誘って行ってきました”的な紀行文だと思い込み、中身をとくに見もせずに買って読んでみたら、架空の路線のお話でした。・・本書は、今ある観光道路や産業道路を活用して、輸送料の軽減もそれほど心配なく、敷地面積が半分になって、騒音や排気ガスも減って環境に優しい鉄道を、富士山に、上高地に、屋久島に敷いてみよう!というエッセイです。バスやタクシーで実地検証しながら、駅や信号所の予定地はもちろん、ダイヤグラムまでつくってしまう宮脇さん。恐れ入ります」。出典本の中味は架空のお話でした。ウィキペディアには、架空の話を事実であるかのように書かないでください。ただ私もこのブログだけを根拠に本文を変更するわけにいきませんから、実際に本を確かめてから、あの計画区間を削除させていただきます。また、免許区間につきましても、正しくは年表にある通り、「島々駅 - 竜島」が正しいはずです。途中に「大野田駅」を造るとか、「稲核駅」まで伸ばすは、いずれも間違いです。島々駅(梓川右岸)から、大野田駅(梓川左岸)と竜島駅(梓川右岸)を造るためには、梓川の深い部分を2回渡らなくてはなりません。松本駅寄りの田川・奈良井川に造った橋とは比べものにならない、当時としては難工事です(いったん造っても流される)。一方、島々駅(前渕集落)から竜島集落へは、前例に近いものがありました。ここは川岸に岩が連続して突き立っているような場所があり、そこを通過した前例(コースは少し異なるはずで、距離は未確認です)は、明治4~5年ころに掘削された波田堰の水路トンネルです。水路ですから鉄道トンネルより細いですが、それだって難工事だったわけです。鉄道計画は、そこにトンネルを造ることを考えたのでしょう。しかし、経費と収入のバランスを考えた場合、それは収支あいつぐなうことができないから着工すべきでないというのが当時の結論だったのではないでしょうか。国道158号線に新淵橋がある場所に鉄道橋を造ることも同様で、大野田までさえ伸ばすこともできなかったわけでしょう(竜島地区は戸数も30足らずで人口は少ないが、島々集落の人口はそれなりにあったはずです。しかし、延伸しなくても、島々や大野田から松本に出る場合には、島々駅からは必ず電車を利用することになりますし)。--ジガンザン8108(会話) 2012年4月16日 (月) 01:41 (UTC)
- なるほど、経過がかなりわかりました。私の最初の書込みからまだ短時日であること、ノートをご覧になられる方は少ないだろうことから、このノートページは今のところ私の一人芝居のように私だけが書き込んでいます。しかし、わかったことを書いておきます。いろいろな書込みの出発点は、2006年9月18日です。IPアドレスの方が「計画する予定だった区間」との見出しを立て、島々駅の先に「大野田駅」と「龍島駅」を書いています。その直後の9月22日にIPアドレス2つが、竜島駅の先を稲核駅に伸ばしたり、上高地駅まで伸ばしたりしています。それを見たある方が10月14日に、竜島から先の駅を「虚偽のおそれがあるためコメントアウト。宮脇俊三『夢の山岳鉄道』に上高地鉄道計画の話はありましたが」と書いて閲覧上での表示を消されています。ところが、4年後の2010年2月11日にまた、IPアドレスの方が隠しコメントで「高山を目指して建設されたのだから」と言い、未成区間を「島々 - 飛騨高山」としたり、私が上記12日に内容に疑問があるとしたコメントを書き加えたりしています。基本的には、この書込みが尊重されて、ウィキ的整理がなされる方向で、「虚偽のおそれがあるためコメントアウト」が消されたり、そのコメントアウトされた方自身が「未成区間を免許区間・計画区間にわける」という協力までなさっておられます。挙句の果て、「大正時代にそんな計画が立てられるはずがない」「人の住まないところに鉄道を造ってどうする!」と言うべき現在の内容になっているわけです。明日には『夢の山岳鉄道』が手元に届きます。しかし、「もともと高山を目指した」と書かれたIPさんが、その本を出典としているわけではないので、消去の根拠にはできません。しかしこんな記述を放っておいてよいものか。
- 先ほどは、うっかり署名なしで投稿してしまいました。--ジガンザン8108(会話) 2012年4月16日 (月) 07:01 (UTC)