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ノート:イエスの知恵

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この記事の初版について

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現在までにこの記事に言及されていませんが「Wikipedia:コメント依頼/Tokinokawa」にて、初版[1]投稿者についてその「独自研究」指摘されています。--Lmkjgmo会話) 2024年10月26日 (土) 18:14 (UTC). --Lmkjgmo会話2024年10月30日 (水) 20:14 (UTC)[返信]

本文から転記

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独自研究を含むおそれのある部分を本文から下記に転記します。

== 啓示認識としての神観 ==

救い主は、不可視のの姿で、著者に訪れ、大いなる天使のような姿で啓示したという設定になっている[1]。彼は、「無限の光(終わりのない光)」から来たものであるとされている[2]。「大いなる救い主」という概念は、この書の元となったとされる『エウグノストス』にはない概念である。その彼が、新たに登場し、弟子たちに真理を説いてゆく、という内容である。

=== 世界について ===

「万物の主」を、「原父」としている[3]。「万物の主」は、「人の子」、「至高者」、「全能者」、「万物の泉」等と呼ばれている。

この世界を創ったのは、「全能者」である。この世界は「混沌(カオス)」の状態にあるとされ、忘却と高ぶりと盲目と貧しさがこの世界を覆っているとされる。

「この世界の支配者たちは、自分のことを神々であるといって高ぶっている」とされている。なお、四福音書では世の支配者は悪魔であるとされている。

最大の変更点は、当初は、善であるとされる神がこの世を創ったとされていたのが、この世を創った神は卑しい存在であり、世界は貧しいとしているところである。忘却と高ぶりと盲目と貧しさがこの世界を覆っているので、人は、この世界に対するときに、失意を感じるように誘導されていると言える。それは、神への愛が不満に転化していると見ることができる。神の位置と、批判者の位置が逆転しているようでもある。

=== 人間について ===

人間のことを、光の雫であるとしている。神的領域から来た者たちは、肉体をまとうことにより、自分がどこから来たのかを忘れさせ、眠り込ませ、焼失させてしまうとされている。

== 内容 ==

  • この書では、「生まれざる者」、「存在者」についてはよくわからない、となっている。「生まれざる者」は、『エウグノストス』においては、「至高者」、「先にあった父」、「原父」と呼ばれている。また、『エウグノストス』には無かった概念として、『仲介者』イエスが新たな啓示として出現し、彼が『大いなる救済者』となったことが、告げられている[4]宇宙がはじまる前にあった状態についての記述は曖昧なものになっている。形式として見るならば、『イエスの知恵』では、「生まれざる者」について、『エウグノストス』における「不死の人間」と同一視されているようだ。2写本を比較してみると、『イエスの知恵』については、原理の面で、混乱していて、曖昧であると言うことができる。
  • 「万物の主」は、「原父」の位置にあるとされている[5]
  • 「万物の主」(原父)の自己認識として、「父」が生まれる。
  • 「不死の人間」から、神聖と主権を持った王の存在する王国の要素としての名(イデアのようなものからくる名前)が出現する[6]
  • 「不死の人間」は、「神々」(人の子の分霊)と、天使長たちをつくる。
  • 「不死の人間」は、天使たちを、数えきれないほどつくる。
  • 「不死の人間」から、神性と主権と王国とこれらについて行く者たちがつくられる。しかし、これらの創造物は貧しいとされている[7]
  • この後は、人間がおかれた貧しい状況の中で、救い主のしたことは、盗人たち(この世の支配者たち)の巣を断ち切った。大いなる救い主は、この世界の支配者たちの縛りを説き、門を破り、慮りを卑しめた、とされている。だから、あなたがたは、彼らの墓を踏みにじれ、という命令に至っている。この救い主の行動は、良きサマリア人のように人に親切にせよ、という行動規範とは、大きく異なっている。

== グノーシス主義との関係 ==

この書は、キリスト教と関係のない宗教哲学的な書簡が、キリスト教の啓示説話に変えられてゆくのを確認できるとされている[8]。また、この書は、天地を創造した神とは、実は、人間の救済を阻害する存在であった、ということを明らかにすることで、グノーシスとしての実存的な「神の国」から人間を遠ざけようとしているものであると言える。このことは、編集者が、グノーシスにおける宇宙開闢の認識を、「大いなる救い主」と、「高ぶった卑しい創造主」という概念の導入によって、全体的に崩壊させた結果となっている。この書における「大いなる救い主」が啓示したとする救済は、イエスの説いたとされる神の愛とは逆の救済理論であるといえる。イエスは、世は悪魔によって支配されている、としていたが、この逆転は、神ならざる者が、神やイエスの位置に自分の身を置こうと企んだ、ということが言えるようである。こうしたことについて、ブッダは「悪魔のわな」ということを言っている[9]。大天使の姿をした存在から啓示を受けたからといって、その言葉に矛盾がある場合は、天使の姿を用いたわなであると判断すべきであろう。大天使の姿をしている魔も存在している、という見解があるためである[10][信頼性要検証]

脚注

  1. ^ 小林 訳「イエスの知恵」、93:8-12。
  2. ^ 小林「解説 イエスの知恵」、386頁。
  3. ^ 小林 訳「イエスの知恵」、74頁。
  4. ^ 小林 訳「イエスの知恵」、94:9-14。
  5. ^ 小林 訳「イエスの知恵」、98:22。
  6. ^ 小林 訳「イエスの知恵」、94:14 - 95:18。
  7. ^ 小林 訳「イエスの知恵」、101:20 - 102:19。
  8. ^ 小林「解説 イエスの知恵」、388頁。
  9. ^ 「第19経 二種の思い - 双考経」『原始仏典第4巻 中部経典 I』中村元 監修、及川真介 訳、春秋社、2004年、292頁。
  10. ^ 高橋佳子『真創世記 地獄篇』祥伝社、1977年、230頁。

以上、転記終わり。--Lmkjgmo会話) 2024年10月26日 (土) 19:20 (UTC). --Lmkjgmo会話) 2024年10月26日 (土) 21:16 (UTC). 転記内の見出しを nowiki にして目次で表示しないように変更。--Lmkjgmo会話2024年11月3日 (日) 01:01 (UTC)[返信]