ノート:イリオス
イリオスという名称
[編集]- このページで頻繁にイリオスという名称が使われていますが、何語なのでしょうか?明記する必要はないでしょうか。トロイはギリシア語では「イリオンilion」、ラテン語でも「イリウムilium」と呼ばれていると思います。つまりどちらも中性名詞です。「イリオス」という言葉はギリシア語の男性名詞の形ですが、もし「イリオス」がギリシア語のつもりで使われているなら、間違いではないでしょうか。また「イリオス戦争」という表現は聞いたことがありません。普通にトロイア戦争、トロイ戦争、トロイヤ戦争でいいと思います。—以上の署名の無いコメントは、Mid809(会話・履歴)さんが[2007年4月8日 (日) 09:07 (UTC)]に投稿したものです。
- 調べてみましたが、Liddel & Scott では Ἴλιος が見出し語になっていますので、ギリシア語としてはこちらの方がむしろ正しい表記でしょう。Ἴλιον も挙げられてはいますが、これは『イリアス』でのみ使用される綴りのようです。実際、岩波文庫版(松平千秋訳)に目を通してみましたが、『イリアス』にしか「イリオン」という表記は見当たらず、『オデュッセイア』では「イリオス」と書かれていました。
- なお、ラテン語の Ilium は中性名詞ですが、ギリシア語の Ἴλιος は女性名詞です。--黒の聖書 2009年4月11日 (土) 11:37 (UTC)
トロイ
[編集]小アジア北西にあった古代ギリシャの都市。ホメロスの、イリアスにも登場する伝説の都市で、1871年にドイツの考古学者シュリーマンがヒッサルリクの丘を発掘して都市遺跡や財宝を発見したことから実在したことが証明された。
遺跡は9層からなりシュリーマンの発見以降にも発掘や研究が継続され、「イーリアス」に描かれたトロイが存在した層は変遷を繰り返してきたが、現在は第7市Aがそれに該当するとされている。
上記は「トロイ」の項目の内容です。Modeha 10:15 2004年2月9日 (UTC)
シュリーマンの遺跡はトロイの遺跡か?
[編集]2004年5月31日 (月) 02:52 のIPユーザー氏による追加で、シュリーマンが発掘したこの遺跡がトロイの遺跡であるかどうかは疑問視されている旨の表記が追加されましたが、
- 世界遺産の登録名は日本語では「トロイ遺跡」「トロイア遺跡」などとなっていて、「古代の名もなき都市の遺構」などの名にはなっていない。
- 日本語の一般人向け開設本では、この遺跡が古代トロイ市の遺跡であることを前提として書かれている
などの逆の例しか見つかりませんでした。最新の学説では違うのかと思っておりましたが、過日目にした科学雑誌ニュートン2004年8月号でもやはりこの遺跡がトロイ市の遺跡であることを前提とした文章が書かれておりました。
念のため、世界大百科事典とマイクロソフトエンカルタ2004でも確認しましたが、やはり、シュリーマンの遺跡がトロイの遺跡であることが既知の事実として書かれていました。
また、そもそもそんな疑いのあるような遺跡が「トロイ遺跡」などという名前で世界遺産に登録されること事態が異常なことではないかとも考えられます。
もちろん私が目にした文章はすべて一般人向けの解説書などで、最新の学説を元にしたものではありませんが、これだけ探しても疑いがもたれているという説明がどこにもなかったので、ひとまず、この部分はコメントアウトします。もし、そういう学説があるようでしたら、その説を立てた人物と発表論文を明示してください。Modeha 2004年6月29日 (火) 12:04 (UTC)
どうも気になったので、『蘇るトロイア戦争』エーベルハルト・ツァンガー、1997年、を見てみました。ツァンガーの主張する説のほか、そのほかの説についても述べています。かいつまんで説明すると、それによると、そもそも、トロイア戦争が存在したのか、という疑問は当然あって、そのほかにトロイア戦争が存在したとすると、それはトロイの地で紀元前1200年ごろに行われたに違いない、という合意はおおよそできているようです。ただし、発掘されたトロイアがあまりにも小さいので、小さな戦争が神話的に歪曲されて巨大戦争のように伝えられたんじゃないかとか、もしトロイア戦争があったとしても、歴史に残るような大戦争ではなかったのではないかという主張は当然されるようです。
ちなみに、ツァンガーは、1.発掘された部分は、大きな都市の宮殿部分のみである。(かなり外側に城壁があったことがわかっている)、2.古代ギリシャ時代の歴史学者で、トロイア戦争が架空だと考えたものはおらず、かつ、ホメロスの詩は、一部を歪曲して伝えていると非難しているが、非難している部分の多くが発掘結果と一致する。ということを理由に、トロイア戦争は当時の大戦争であり、実在した、と主張しています。
考古学の世界ではありがちらしいのですが、自説への非難への反論とか、当然のようにシュリーマンへの苦言とかが並んでますが、それの紹介は省略します。なお、ツァンガーは、シュリーマンが発掘した場所がトロイ市であったことは認めています。思ったとおり、シュリーマンの発掘した遺跡が、トロイではなかったのではないかという説があるかどうかについては、この論文では言及されていませんでした。Modeha 2004年7月4日 (日) 10:35 (UTC)
先日私が「ヒッタイトの記録によるイリオスとトロイア」にて加筆しましたように、ホメロスのイリオス(トロイ)にはどうも当時アスワ地方にあったタルウィサとウィルサの2つの都市国家が重なって投影されているふしがあります。そうすると、ヒッサリク遺跡がタルウィサであったのか、ウィルサであったのか、はたまたアスワ地方の別の都市であったのか。当然、ホメロスのイリオス(トロイ)にヒッサリク遺跡が投影されていることは確かであり、それだからこそ状況証拠から絞り込むことでシュリーマンがあの遺跡にたどり着いたと言えると思います。
ですが、あくまでもホメロスのイリオス(トロイ)は複数の都市を重ね合わせた投影像である可能性が高い以上、
- ホメロスのイリオス(トロイ)=ヒッサリク遺跡
- なのではなく
- ホメロスのイリオス(トロイ)⊃ヒッサリク遺跡
という関係であると考えるほうが妥当だと思います。つまり、ヒッサリク遺跡はホメロスのイリオス(トロイ)のモデルの一つであることは疑いないといって差し支えないのだけれど、そのものと言い切ってしまうにはいろいろ問題があると言っていいのではないのでしょうか。
なお、私が参考にしたのは中央公論社の『世界の歴史4 オリエント世界の発展』小川英雄/山本由美子1997年です。
ウミユスリカ 2004年7月4日 (日) 12:08 (UTC)
該当部分は既に読んでおりましたが、そういう主張をもった文章には見えませんでした。ただしそういうことならば、ホメロスのトロイは複数の都市に関する伝承が混合している可能性があるという指摘があるが、その複数の都市の中に、現在のトロイア遺跡が含まれているということに関してはほぼ合意が得られている。くらいの文章は挿入してもよいかとは思います。ただ、トロイア遺跡とトロイ市は関係ないという説が強いように見える書き方はちょっと問題があるかと。Modeha 2004年7月4日 (日) 12:35 (UTC)
私もIPユーザー氏のように
『結局現在では、シュリーマンが発掘したこの遺跡が、トロイア戦争の舞台として登場する古代都市トロイアであるとは、証明されていない。』
とまで言ってしまうのは言いすぎだと思います。従って、Modehaさんのおっしゃる程度の書き方が妥当でしょう
ウミユスリカ 2004年7月4日 (日) 13:33 (UTC)
では、そういたします(というかもうしました)。Modeha 2004年7月4日 (日) 13:54 (UTC)