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ノート:イワン・ヴィシネグラツキー

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野田憲太郎先生へ

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 ご自分が「完成」させた状態に執拗に差し戻したり、あまつさえコメント欄で他人を揶揄したりするのは、自信の表れなのかもしれませんが、わたくしがあなたの加筆した痕跡を無くそうとしているのは、わたくしがカルト信者だからではなく、あなたの日本語が余りに酷く、読むに堪えないからなのです。

 単純な疑問を申し上げると、野田先生は、自分の書いた記事を、推敲したり、改善したりという発想は全くお持ちで無いのでしょうか? 尤も、そもそもあなたには、セルゲイ・ラフマニノフの記事でもこのような加筆をしてそのノート欄で小生が改善要求をしたところ、だんまりをうって逃げた前歴があります(現代音楽関連の記事で暴れるより先に、なさるべきことは色々あったようですね)。

 ですから、ここでもやはり、野田先生が加筆するのに使う日本語が、いかにナンセンスかということをここに明示しておき、反省材料としていただこうというわけです。

  • その頃のメシアンはヴィシネグラツキーの「房状和音」に強く影響され後年の管弦楽法で「微分音抜きで」転用している。
  • メシアンや武満らによって「微分音抜きに」ヴィシネグラツキーのイディオムが見られるのは、微分音を推奨した彼にとっては大変残念なことである。
  • 武満徹は「閉じた眼II」で「回転運動のための習作 作品45」から直截な素材引用を「微分音抜きで」行っている。

西洋音楽史を振り返って見ると、後輩作曲家が、ある既存の作品の曲想を一部変形して引用するということは、バッハやブラームスもやっているし、パロディという意味でならマーラーや、ドビュッシーの《子供の領分》という例もあります。しかし、ヴィシネグラツキーの音楽語法は、端的に言うと、微分音そのものが最大の特色であるというのに、「ヴィシネグラツキーの作品に見られる音組織から微分音を抜くと(!)メシアンや武満徹にも共通する音組織になる」というのは、偶然似てしまったというだけの現象にすぎません。つまり、野田先生が言及しているのは、「メシアンや武満ら」は、ある素材を転用する際に、表現上・内容上の必要から多少手を加えたと明らかに言いうる例ではなく、ヴィシネグラツキーの後世への影響力を誇示せんがために、ことさら恣意的に(噛み砕いて言うなら「わざと」)「ヴィシネグラツキーの音組織から微分音を抜くとメシアンや武満徹の作品にも共通する素材になる」という話にしているのではないか、という疑問が起きてくるのです(尤も、意地悪い見方をすると、自分はメシアンも武満徹もヴィシネグラツキーさえも、楽譜を持ってるぞと言いたいあなたのいつもの自慢話と見られなくも無いですが)。

 もしもこの調子で「転用した」「影響された」「○○のイディオムが見られる」と言い張って構わないなら、たとえば「ウェーベルンの音列から何かと何かの音を抜いたらボヘミア民謡と同じになった、だからウェーベルンは民族音楽にも影響されている」といった主張は、数限りなく続けることが出来るでしょう。しかし、それは客観的・論理的な論証なのか(最初に結論ありきで、為にする論証に陥ってはいないか)という点で、先ずあなたの加筆は問題があります。

 これだけでも、論文の書き手としての問題点は小さくないですが、一つのまとまった紙面に、第2・第3の問題点を残すことが出来るのですから、野田先生の能力には頭が下がらずにはいられません。尤もこれは、脱帽しているからではなく、脱力感を感じるから、なのですが。

 では、どう凄いのか。あなたの主張を整理し直してみると、

 「メシアンや武満ら」の作品は、「微分音を抜いた」かたちで「ヴィシネグラツキーの音楽語法」を転用しており、「ヴィシネグラツキーは(自分の思いがけない結果になって)そのことをひどく残念がっていた」

 という話の流れになっています。

 前段部分の問題点について既に触れたので、今度は後段部分の問題点についてです。どこが問題点か。全部です。次のような疑問点が残るからです。

  1. ヴィシネグラツキーは、メシアンや武満徹の作品が自作に影響されていると感じていたということか。また、そのような発言や示唆は、何らかの資料に残されているのか。
  2. ヴィシネグラツキーは、メシアンや武満徹の作品が、不本意なかたちで自分の音楽思想や楽想を利用していて、遺憾に感じていたということか。また、そのような発言や示唆は、何らかの資料に残されているのか。

 このような問題点が浮上するのは、何でも断言調で「あった」「した」「された」と書いてしまう、文章家としての野田先生の作文技術力に原因があります。例えば同じことでも、小生が書くなら、次のようなぼかした表現にするでしょう。

メシアンや武満徹の作品には、ヴィシネグラツキーの音楽語法の部分的な影響が見られる。ただし両者とも、微分音を用いているわけではない。微分音音楽の推奨者・提唱者としてのヴィシネグラツキーの側からすると、自分の主張や理論が創作界になかなか浸透しないことは、不本意であり悔やまれることであったろう。

 しかし、ヴィシネグラツキーといえば微分音の作曲家・理論家なのであって、その本質的要素を「抜いた」らメシアンや武満作品が出てくるというのは、あまりに荒唐無稽ですから、わたくしだったらこんな紙面の無駄遣いはしません。「武満はヴィシネグラツキーの作品から、(そのエセンスである)微分音を抜いて直截的引用をしている」という最後の文面も、自分の発言の形容矛盾にどうして気づかないのか、不思議です(自分の教養や見識に酔っているのでなければ、こんなことにはならないものですが)。 

  • ピアノスケッチのみが残された歌劇は、依然として未初演のままである。

 スケッチとは、つまり草稿・下書きなのではありませんか? これは完成度によって上演できるかという問題があるし(つまり、ラフスケッチなのかそれともピアノ・スコアの状態にまとまっているのか)、また、もし後者だったとしても、そのための実用譜を作るのは簡単ではありませんね。そもそもヴィシネグラツキーの管弦楽曲そのものがあまり認知されておらず、かかる現状では、ヴィシネグラツキーの楽器法の特徴を再現して実用譜を作ることは、よほど詳しい研究者でなければ難しいのではないでしょうか。作曲家であらせられる野田先生には、釈迦に説法なのかもしれませんが、だとしても、完成度自体が曖昧な(本文中にも明記されていない)作品が上演されないという話は、ヴィシネグラツキーが受容されていないという現状の例証(説得力ある証拠)たりえず、そういうものなら仕方ないのではありませんかと切り返されたらおしまいです。

  • しぶしぶラジオ・フランスが「弦楽三重奏曲」を委嘱した

 ラジオ・フランスに、嫌々委嘱したのか確認はとっているのですか? もしくは、専門家や研究者、創作界から「不承不承の委嘱」として評価されており、そのように明記された資料が存在するのでしょうか?

                        --間久部緑郎 2008年6月5日 (木) 05:06 (UTC)[返信]