ノート:ギュスターヴ・エミール・ボアソナード

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ボアソナード博士と東京法学校の関係[編集]

ボアソナード博士と東京法学校の関係に関する出典として以下の文献を挙げておきます。 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター編『大学教育のイノベーター 法政大学創立者・薩埵正邦と明治日本の産業社会』

以前は、インターネット上でもPDFファイルとして公開されていましたが、そこから一部抜粋して紹介します。

「さて、明治11年3月に先ほど述べた桜井が内務省社寺局長になりまして、その推薦で薩埵は内務省雇になります。…薩埵は明治12年8月ボアソナードに初めて出会うのですね。講義を聞き、あるいは質問するという間柄になりまして、ついには「ボアソナード門人」を名乗るわけであります。明治13年には司法省雇に転じ、明治13年6月23日には元老院に設置されました民法編纂局御用掛も兼務しまして、民法草案修正などについて下級官吏としてタッチするようになっていくわけであります。  そして、明治14年に官を辞しまして、東京法学校に専念するわけであります。明治14年5月には、ボアソナードが講義にやってきます。なぜボアソナードと薩埵がそれほど親しいのか、よくわかりません。ボアソナードは両親が結婚していないで生まれた子どもでありまして、苦労する。薩埵も幼少時に両親と死別・離別して、非常な苦労をする。その薩埵の中にボアソナードはなにかうたれるものがあったのではなかろうか、と『百年史』(48頁以下)も推測しております。」

ボアソナード東京法学校での講義も聞いていたようであります。」

「なんといっても「日本近代法の父」というボアソナードが我が東京法学校に出校してくれた。これは看板として絶大なものがあった。そのために本学は非常な隆盛を誇るわけであります。」

「そして明治16年には、留学から帰ってきました富井政章が講師となります。それから、この年の9月には東京法学校の規則を改正します。教員体制としてはボアソナードを教頭とし、留学から帰国したばかりの富井などを新たに講師に迎え(従来の6人から13人に増員)、他方、在校生で所定の科目を修了した者は新しい制度の1年生に編入するとか、授業時間も今までの2時間を倍にしまして4時間制にするとか、定員も150人から800人に増やすとか、3学年制にするとか―これはほとんど他の法律学校も同じなのですが―明治16年に非常に大きな改革をおこないます。」

明治20年代前半の一連の条約改正案にボアソナードは絶対反対なのです。井上馨外相主導による条約改正案については、公表しないことを条件にそれに反対する意見書を山田顕義司法大臣に提出しましたが、それが外部に漏れ、結局は条約交渉が頓挫する(井上外相辞任)ことになります。政治的にこの意見書が利用されたのです。この当時の改正案では、一定の刑事事件に外国人判事を登用することが盛り込まれていました。  この頃の東京法学校におけるボアソナードの講義の印象深い1コマが『百年史』(106頁以下)に引用されていますので、ご紹介します。すなわち、フランス民法の解釈問題を提起して学生になんどか発言を促しても、この時に限って誰も答えない。と突然、ボアソナードは「『慨然として席を打』ちつつ、語り始めた」といいます。およそ法律家たるもの、問題を提起されて決断することを避けることはできない。判断を避け処分を厭う判検事は職責を果たしていないという非難を免れない。「唯だ夫れ然るのみならず人民は裁判を得る所なく、世は争奪に終わらんのみ」。エジプトを見よ。「裁判権を半ば外国人の手にゆだねた結果」半独立国に転落したではないか。条約改正を急務とする日本もこういう内容の改正案をよしとするのでは、第2のエジプトになるのではないか。「諸子にして問題の断定を避くること猶ほ今日の如くならば、何の日か善く外人の侮辱を排し、其談判を斥けんや」と1時間にわたって目に涙をためながら語り、悵然として教場を後にしました。当時の学生たちは、ボアソナードの態度を異様に感じたのですが、後年ボアソナードの意見書なり条約改正交渉頓挫の経過を知るに及んで、やっと納得したということです。」 (以上、岡孝学習院大学法学部教授の講演録「教育者・学校経営者としての薩埵正邦」から抜粋)

明治14年5月20日 東京法学校、東京法学社より分離・独立する。『法律雑誌174号』(明14.5.23広告) 東京法学社東京法学校の共同広告である。そして、この広告では、東京法学校の講師名を見ることができる。ボアソナードアッペール岩野新平大原鎌三郎橋本胖三郎堀田正忠そして薩埵。」 (以上、「薩埵正邦年譜」から抜粋)--STXZ 2010年3月6日 (土) 16:22 (UTC)[返信]

ご教示いただきありがとうございます。タイトルからしてボアソナードは従たる扱いの入取困難な資料ばかりですね・・・探しても見つからないわけだ。大変勉強になりました。--Pirosiki 2010年3月7日 (日) 13:37 (UTC)[返信]
どういたしまして。東京法学社東京法学校の講義録は、1877年時習社の社長兼編集長であった金丸鉄が創刊した『法律雑誌』、1885年東京法学校の通信教育機関として設立された「中央法学会」の『中央法学会雑誌』に主に載っているみたいですね。『法律雑誌』は、東京大学一橋大学の協力を得て、確認されている全部を法政大学図書館がマイクロ化したようです。--STXZ 2010年3月8日 (月) 13:22 (UTC)[返信]