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ノート:グラディアトゥール

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「ジョッケクルブ賞にイギリス生産馬の出走を認めない」という記述の注釈に関して。

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注釈として「第1回のジョッケクルブ賞でイギリス生産馬が優勝したことを受けての措置で、第二次世界大戦後まで続いた。」とあります。ですが1836年に行われた第1回ジョッケクルブ賞の勝ち馬 Franck はJBISサーチではフランス産になっています。pedigreequery.com では父 Rainbow(GB) は1823年にフランスへ輸出母 Verona(GB) は1828年以前にフランスへ輸出となっていますので、JBISサーチのデータの方が正しそうに思います。大戦後までイギリス生産馬の出走が認められてなかったとしても、この注釈は疑わしいのではないでしょうか。--霧木諒二会話2022年7月31日 (日) 10:39 (UTC)[返信]

コメント この加筆(2009年Pasternさん)ですね。(2009年時点でアクセス可能だった情報源で裏付けられるかが、情報源探しの一つのヒントかなあ。)
さしあたってのこと。本記事は競馬分野でも古いタイプの記事で、「出典の明記」が乏しいです。唯一の情報源として示されているのは原田『新・世界の名馬』(1993)で、これはインターネットとかなかった時代の刊行物であり、当時としては通常に本屋さんで入手できるものとしては外国競馬の情報を得るほぼ唯一のものでした。(ネットがないからどんな本がこの世に存在しているかを知る術すらなかった)
で、同書のグラディアトゥールの項には、「当時のフランスはイギリス産馬が出走できない」ことが明記されています。(「不公平だという意見が噴出した」あたりは同書の記述とはニュアンスに違いを感じますが。)ですが「第1回でイギリス馬が勝ったことでできた規定」だという記述は無いですね。
(『フランス競馬百年史』『競馬の世界史』など改めていろいろ文献調査をする必要があるのですが)「第1回で英国馬が勝ったので制限が課された」という直接的なソースを探す必要はありますね。
おそらくひとつの問題は、何をもって「○○国産」と定義するかだろうと思います。いまの日本では「物理的に母馬のお腹から出てきた地点」を「○国産」とみなしています。が、それは今の日本での話です。大昔の日本では扱いが違っていて、「サラブレッドという馬種は英国原産」と扱っており、たとえばフランスで生産されたサラブレッドの個体も「英国原産」と表現していました。欧米では今でも(?)、「○国産」というのは、母馬の所有者の国籍によって判定するとか(これは山野浩一情報なのでどこまで・いつまで通用する情報なのか正直私もよくわからない)。また、フランスの3歳クラシックの前哨戦はかつて父馬と母馬の生産国に基づいて出走規制がありました。(現時点では無根拠情報ですが)いわゆる「母がフランス内国産」でないとフランス産馬として認められていなかったとか、そんな感じ。まあとにかく「○国産」の定義の仕方が国や時代によって差異があるので厄介です。(たとえば、フランス人馬主がフランス牝馬をイギリスに連れて行ってイギリスの種馬を配合し、そのままイギリス国内で出産させても、その子馬は「フランス産」扱いだったとか。)
もう一つの問題はJBISやPedigreeComの信頼度です。JBISは、古い時代の外国の馬の情報は結構怪しいです。生産国、毛色など。PedigreeComは「誰でも自由に編集できる」サイトなので余計に。JBISとPedigreeComで同一馬を比較しても情報が違うのがむしろ普通です。古い時代の競走馬の詳細情報は、文献ごとに差異が著しく、たとえば生年なんかも「不詳、諸説ある」状況です。たとえばダイアトムは、フランス人であるロートシルト家がフランス国内の牧場でフランス産馬の両親から生産したサラブレッドのはずですが、「フランス産」とする情報源と「イギリス産」とする情報源が鼎立しています(ノート:ダイアトム)。ダイアトムは「古い時代」とまでは言えない時代と思いますが、これですら正直よくわからない。(ダイアトムの件は、かつて私が自分でJBISに問い合わせをしたことがありますが、「わからない」という回答でした。)--柒月例祭会話2022年7月31日 (日) 18:13 (UTC)[返信]
  • 山野浩一『伝説の名馬part4』pp.205-216「グラディアトゥール」には情報なし。グラディアトゥールが英ダービー勝った時、英国側からネガティブな反応が出た、というような話は一切なく、むしろ大喝采で「だれもフランス馬であることを忘れてしまっているかのように歴史的な名馬の誕生を祝福した」(p.213)とあります・・・まあ、山野もちょっと信頼度はどこまで、というか。できれば同時代的な情報源や英国・仏国の情報源がほしい・・・
  • 『競馬の世界史』(日本語訳版)p.103にサラブレッドのことを「フランス産のイギリス純血馬」という表現。
  • 同書pp.175-193は「19世紀のフランス」。しかしフランスでのイギリス産馬の出走制限に関する記述はないです。グラディアトゥールのダービーについては、イギリス人がグラディアトゥール陣営がインチキをしていると疑ったとか、調教師が暴力を受けたとかの記述が出典を示して書かれています。で、次のようなくだりがあります。
他方では、互恵主義を求める声が起きた。ファルマス卿は、ラウスに対して、イギリスの競馬が広くフランス馬に門戸を開いているのに反し、フランスでは、一握りのレースを除き、すべてがイギリス馬を締め出しているという不公平さを強調した。同じ意見を信奉する者たちの一団は、他国馬が閉め出されているクラシック競走や、その他の主要競走に出したいと思っており、その欲求はフランス人たちが公平な態度をとるようになるまで続いたのである。しかし、イギリスの馬主はフランスで競走したいのではなく、フランス馬をイギリスから締め出したいと思っているのだ、というのがフランス側のいい分であった。<出典として「Le Sport、pp.229-31」が示されている>
ロジャー・ロングリグ『競馬の世界史』p.182
細かい言い回しやニュアンスはさておき、「不公平だという意見が噴出」云々については、これが情報源として通用するでしょう。
このほか、同書pp.297-301に第一次世界大戦以降のフランス競馬について書かれていますが、そこにも「第1回ジョッキークラブ賞をイギリス産馬が勝ったから制限ができた」を裏付けるような記述はないです。--柒月例祭会話2022年8月1日 (月) 13:27 (UTC)[返信]
コメント 情報提供と解説、ありがとうございます。これは難しいですね。「イギリス産馬は出走不可」は出典があるということですから、「第1回ジョッケクルブ賞でイギリス産馬が優勝したから」という部分だけ除去なりコメントアウトなりするのが無難でしょうか。--霧木諒二会話2022年8月1日 (月) 12:17 (UTC)[返信]
コメント 当座の対処として「第1回のジョッケクルブ賞でイギリス生産馬が優勝した」からという記述を除去しました。
ついでにルマンダリンの綴りを変更しました。「TBheritageに記載がある本馬のラビットにされた同父の Le Mandarin (JBIS, netkeiba)」のことだと考えました(同い年だし、看板馬というのは変かも)。これのカナ表記、フランス語だとルマンダランじゃないかなあ。
あとブレンキロンは英語版によれば1871年に没しているのですが、これは1870年に売却+4年後にブレンキロンが死去という本文の記述とは食い違っています。--霧木諒二会話2022年8月18日 (木) 08:21 (UTC)[返信]
返信 基本的なこととしては、20世紀以前の事柄については、現代ほどには文書資料が体系的に整備管理されていないです。馬名の綴りが違う(何種類もある)ぐらいのことはバンバンあります。有名なところではポテイトーズのように馬名の表記が何種類もある、みたいな。
また、欧米人にとっては文字列「Paris」を「パリ」と発音しようが「パリス」と発音しようが、文字で記す分にはどっちでもよいのに、日本人がカタカナで書くときには「パリ」か「パリス」か選ばなきゃいかん、というのがありますね。
で、「ルマンダリン」については
  • 確かに、TBヘリテイジにある「Le Mandarin」が有力候補という感じはしますね。従前の「Lman Darin」の情報源はなんだというのもあります。書いたのは2005年のIP:219.127.28.223会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisで、今となっては信頼できるかはわからないですねえ。
  • 当時の競馬成績書には、FdeLagrange伯の「Le Mandarin」1864年1864年1866年が記載されています。まあ普通に考えてこれでしょう。「Lman Darin」なる馬は記載されてません。(現時点では、私は「Le Mandarinがグラディアトゥールの調教パートナーだった」という直接的な情報源は見つけていませんけど)
  • 山野浩一『伝説の名馬PartIV』(1997年)p.211には「ルマンダリン」とあります(原綴りは未記載)。山野は外国語のカナ表記が独特だった人で、フランス馬についてはフランス語風に表記する癖がありました。話がややこしいのは、この時期のフランス競馬は「イギリスかぶれ」時代で何でもかんでも英語風の発音をしていたということ。加えて、「Mandarin」はマンダリン (官僚)由来であり、コトバとしてはもともとポルトガル語なんだそうですから、19世紀中葉に、イギリスかぶれのフランス人馬主が、イギリス人の調教師に預けた「Mandarin」をどう発音していたんだろうってとこですよね・・・。上に挙げた競馬成績書を見る限りLe Mandarinは英国でバンバン出走していますから、少なくとも、イギリスで活躍するLe Mandarinをみたイギリス人は「ルマンダリン」と発音してそうだなとは思います。
  • 原田『新世界の名馬』のグラディアトゥールの項にはルマンダリンは登場せず。
  • Mortimer, Onslow, Willett、“Biographical Encyclopedia of British Flat Racing”(1978)pp.236-237にはGladiateurの項がありますが、Le Mandarinは登場せず。
  • 「正しい」(何に拠る?)かどうかは知らないけど、日本語情報源で「マンダリン」の用例はあるよ、というところですねえ。--柒月例祭会話)--柒月例祭会話2022年8月18日 (木) 11:41 (UTC)[返信]
返信 年号については、ご指摘のようにおそらく変ですね。
これは多分、原田『新・世界の名馬』(1993年)が原因でしょう。同書p.56には次のようにあります。
グラディアトゥールは、六歳になった一八六七(慶応三)年から、自分の生れたノルマンディーのダンギュ牧場で種牡馬としての生活をはじめた。しかしそれもわずか四シーズンだけで、一八七〇年の秋にはイギリスへ売られてしまった。(中略)イギリスのニューマーケットにミドル・パーク牧場を持つブレンキロンという人の手に渡った時のグラディアトゥールの値段は五八〇〇ギニー(中略)それから四年後、ミドル・パーク牧場の所有主が死んだため、今度は無惨にもセリ場に引き出されてレイ中佐の所有馬になり、さらにその友人に転売された。(以下略)
これはまあ、同書がそもそも間違ってるようですね。(基本的には英国では所有者が没すると、そのシーズンの終了後に所有馬をセリで売るのが原則で、一般的な慣行であり別に「無惨」ではない。)
ミドルパークステークスの創設者ウィリアム・ブレンキロンは英国競馬史上では重要な人物の一人。彼の命日は1871.09.25です[1]。--柒月例祭会話2022年8月18日 (木) 12:18 (UTC)[返信]
詳細な検証ありがとうございます。
ルマンダリンについてはそのカナ表記に出典があるということですから、私の当てずっぽうな想像に出番はありません。お手数をおかけしました。
ブレンキロンについてはwsを出典に少し書き換えました(従来の文面だと海の物とも山の物ともつかぬイギリス人に買い叩かれた、といったニュアンスに感じたというのもあります)。ニューマーケットがあるのはサフォーク州ですが、wsによれば彼が牧場を持っていたのはケント州ミドルパーク(おそらく今はロンドンになっているMiddle Park)、Waltham Crossハートフォードシャー州)、Esherサリー州)らしいので「ニューマーケットの牧場で繋養」も、うーん…。--霧木諒二会話2022年8月22日 (月) 12:36 (UTC)[返信]
返信 うーん、90年代の代表的な日本語文献である原田の信憑性も、まあその程度・・・ていうことで・・・。(外国競馬に興味がある競馬ファンにとってはカミサマのような存在だったんですけどね)
ブレンキロンの時代のMiddle Park Studがあったのは明らかにケント州です(Middle Park Stud at Eltham in Kent)。(なんかぐぐると、ニューマーケットのミドルパーク牧場の不動産情報?みたいのがいっぱいヒットしますけどね[2]。これは有名な牧場の名を後世にいただいたんでしょうね。)
まったく余談になりますが、原田は『新・世界の名馬』の前に『世界の名馬』(1979年)というのを書いています。その中でシカンブルの馬名Sicambreの語源考察をしていて、フランス語だと「シ・カンブレ」であれば「もし脚が曲がっていなければ」的な意味になり、同馬が生れた時に脚をみて馬主が嘆いてこう命名したのでは・・・という説を披露しています。1979年ですよ。しかし今の我々は、ちょっとググるとfr:Sicambresは古代ローマ時代のゲルマン人の一部族名だとわかります。
「レイ云々」についても、原田しか情報源がないのであれば、眉に唾つけて検証するべきかもですね・・・
加筆していただいた通り、ブレンキロンは二冠馬ブレアアゾルやブリンクボニーに5000ギニーの値をつけたわけですから、きっと、グラディアトゥールの5800ギニーは「安値で買い叩いた」みたいな感じではないでしょうね。
先述のMortimer“Biographical Encyclopedia of British Flat Racing”(1978)の項には、ブレンキロンがグラディアトゥールに5800ギニーの値をつけた2年後に、ドイツ政府がBreadalbane[3]という馬を6000ギニーで買ったという話が出ています。同馬はグラディアトゥールがゴールドCを勝った時の3着馬であり、ブリンクボニーの牡駒でした。
(あまりちゃんと調べていないのですが)ブレンキロンのミドルパーク牧場での生産馬の代表格がハーミットなので、関連情報源を調べると牧場についてもいろいろ出てくるかも。
(メモ)“ Headquaters : A History of Newmarket and Its Racing”,Richard Onslowに、グラディアトゥールのことがおよそ5ページに渡り書かれています。ざっと眺めた感じですが、ケンブリッジシャーSのこと、セントレジャーのことなどが詳述されています。普仏戦争のときイギリスに所有馬を移したフランス人がたくさんいたことも書かれています。ラグランジュ伯が馬を手放す羽目になったのは、馬を預けていたジェニングス調教師がお高い預託料を払えと迫ったからだというような感じのことも。でも種牡馬になったあとのことはなし。--柒月例祭会話2022年8月22日 (月) 16:59 (UTC)[返信]
報告 下に、ネット閲覧可能な情報源をあげておきおました。1886の“Horse-racing in France”がいちばんまとまっています。第8章が二冠馬ラトゥーク・パリ大賞のヴェルムート・名牝フィーユドレール・グラディアトゥール。じっくり読んでいませんが、ラグランジュ伯の手を離れたあと、ブレンキロン所有になる前にルフェーブル氏の所有になったようです。ブレンキロンのあとは1872年に7000ギニーでアルクール氏(英語読みならハーコート氏?)に渡ったよう?(「レイ氏」は出て来ないし、値上がりしてる)--柒月例祭会話2022年8月24日 (水) 08:46 (UTC)[返信]
コメント ミドルパークでの競りを報じる1872年8月2日の新聞がヒットしました。(私が誤読してなければ)Captain Ray が7000ギニーで落札し、購入者は Mr Harcourt だったとあるようなので、レイ大尉はハーコート(アルクール?)氏の代理人だったのではないかと推測されます。--霧木諒二会話2022年8月24日 (水) 13:12 (UTC)[返信]
返信 おお、すばらしい!そしておっしゃる通りだと思います。Mr Harcoutは、これだけだと特定する手がかりが乏しいのですが、フランスG2アルクール賞en:Prix d'Harcourt)に名を残しているアルクール家(en:House of Harcourt)の誰かでしょう(アルクールと読むかハーコートと読むか迷う)。1872年時点で(SirとかHonとかCapt.とかでなく)「Mr」なので絞り込めそうですが・・・fr:Emmanuel d'Harcourt (1844-1928)フランス馬種改良奨励協会(Société d’Encouragement)会長)あたりがカスッていそう。特定できればCaptain Rayもどこかで見つかるかもしれない・・・記事中に頻出するドイツの馬政長官レーンドルフ伯は「ドイツ競馬の父」であり、スイテンの父馬スプーネーをめぐって日本人購買者とはりあった方です。--柒月例祭会話2022年8月24日 (水) 15:08 (UTC)[返信]
コメント 1870年にラグランジュ伯が所有馬を一括で売却した M.Lefèvre は Claude Joachim Lefèvre(1826-1896。名は Charles Joachim Lefèvre とするサイトもある[4][5])でしょうか。Mがイニシャルではなくムッシュの略だとすると辻褄が合います。この考えが正しければ、“Horse-racing in France”で M. Lefèvre / Mr. Harcourt と敬称が使い分けられているので、後者はイギリス人のハーコート氏、かもです。しかし Mr.Harcourt のフルネームわからないですねえ。1856年に Ellington でダービー獲った Octavius Vernon Harcourt ばかりヒットします。--霧木諒二会話2022年8月25日 (木) 13:22 (UTC)[返信]

情報源になりそうなもの

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いずれもGoogle Books。「Gladiateur」で本文を検索するといろいろヒットします。

  • 当時のレーシングカレンダー(競馬成績書)は、1865年のものだけGoogle Books化されていないぽい。
  • 1865 races to come - これは1865年のシーズン前に出たもの。「開催予定」であり「結果」ではない。たとえばp.15の下の方から、2000ギニー(The 2000gs Stakes)の登録馬一覧があり、p.16にGladiateurやLe Mandarinがいる。日付はわかりにくいですが、p.12の中程に「First Spring Meeting,1865 Monday, may the 1st」とあるので、春季第一開催が5/1(月)から、200Gは「tuesday」なので、5/2(火)という具合です。ダービーはp.87の下の方から(Renewal of the Derby Stakes)。(あくまで予定なので、これだけだと「間違いなく5/2に実施されたのか」の保証はないですけどね・・・)
  • 18641866は「Racing Past」なので結果が出ています。1865年版だけGoogle Booksに見当たらない・・・--柒月例祭会話2022年8月28日 (日) 01:03 (UTC)[返信]

Horse-racing in France (1886)

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提示頂いた書籍のうち、まず“Horse-racing in France” (1886) を見て出典として使えそうな部分は追加しました。以下メモ。

  • 跛行や脚の状態に関する記述はなさそう
  • レースの日付は書かれていない
  • 2000ギニーのオッズは 6 to 1。これは7倍?
  • ダービーのオッズは 5 to 2 の1番人気とあり、3.5倍という記述と整合
  • ダービー後、プリンス・オブ・ウェールズは晩餐会を催し、ダービー卿がラグランジュ伯を祝福する演説を行ったとある
  • ケンブリッジシャーでの斤量 9 st. 12 lbs. = 138ポンドは、現在の定義だと62.6kgくらい?
  • ダービートライアルステークスとクラレットステークスを単走という記述と整合
  • ゴールドカップで40馬身差勝ちは記載があるが、道中250メートル後ろからとは書かれていない

レースの結果(負かした相手とか)は結構詳しいようでした。40馬身差が頻出するのだけどこれは信用して良いのだろうか。--霧木諒二会話2022年8月26日 (金) 09:25 (UTC)[返信]

返信 (もっと早く言えばよかったのですが)ぶっちゃけ、従前の記述はいったん白紙化してもよかったと思います(出典が少なすぎた)。
  • 同書(1886)はときどき「it is said」とか、「‘behind the ditch’」のような引用表現があり、なにか情報元があるんでしょうね。
  • 2000ギニーとダービーの人気・オッズについてはおっしゃる通りと思います。(レーシングカレンダーでは、「6 to 1 for ホニャララ」と「6 to 1 on ホニャララ」「6 to 1 against ホニャララ」という表現がみられ、正直on・for・againstの違いに確信がもてない。)
  • 9st12lbs=138ポンド≒62.6kgもおっしゃる通りです。
  • 1866競馬成績書のp.149にゴールドカップの結果。won by 40 lengths.(40馬身差で勝利)とありますね。Breadalbaneは「did not pass the post」とあるので、大差つけられすぎ失格(ゴール手前の240ヤード標識棒に到達せず)かも。そして確かに「forty lengths」がやたら出ますね。イタリックですし、文字通りの「40馬身」ではなく、「大きな差」的な慣用句なのかも。もしくはイタリックなのは「当時の記録では『40馬身』(ホントかどうかはしらんけど)」ということなのかも。
  • 当時、目測で40馬身をきっちり測ることはまずムリだったでしょうし。意図は「40馬身以上の大きな差/計測不能」ぐらいかも。JRAは10馬身超を「大差」と定義していますが、国・時期により「大差」の定義が違う。Grand Prix de l'Imeratriceのときは「20 lenghts」とありますが、20と40は「すごい差」「超すごい差」ぐらいのニュアンスなのかもしれませんね。(レーシングカレンダーの方では、Grand Prix de l'Imeratriceでは「won very easily」とあるだけで、具体的な着差の記述なし。同書ゴールドカップ(p.149)では「40 lenghts」)
  • 「250メートル」については、まずメートル法ではないことは確実なので、本来は別の表現だったでしょうね。きっと「○ヤード以上離されていた」的な。きっと多分、途中の標識が手がかりだったのでは。--柒月例祭会話2022年8月28日 (日) 02:12 (UTC)[返信]
返信 当初は「出典がないだけで内容は大して問題ないだろう」と思っていたのですが、正直こんな状況になるとは考えていませんでした。
  • 2000ギニーのオッズは7/1とする個人サイトもあるのですが、出典に合わせて7倍に変更しました。
  • もともと書かれていたケンブリッジシャーでの斤量62.2キロを除去しました(換算ミスなんでしょうか)。
  • ゴールドカップの40馬身は出典通り残しておきましたが、たしかに慣用句っぽい感じしますね。en:Horse lengthでは(無出典なものの)アイルランドでは30馬身以上は“distance”(大差)とあるので、当時のイギリスでどうだったのか。
  • ゴールドカップの道中の表現も変更しました。
--霧木諒二会話2022年9月10日 (土) 04:39 (UTC)[返信]

The Book of the Horse (1893)

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IV. The Modern Blood Horse に Gladiateur and Blair Athol. と題した一節があります。現役時代の戦績がメインで、これだけの競走成績を挙げた馬も種牡馬として失敗することもあるよ、といった文章のようです。

ただ「(ダービー勝利の)ニュースを聞いたフランス皇帝がラグランジュ伯を抱き寄せて『ワーテルローの仇は討たれた!』と宣言した」という記述は「ワーテルローの復讐者」の出典に使えそうです(フランス国立図書館の新聞アーカイブ1865年6月第1週の新聞を検索しても「ワーテルローの復讐」という見出しがなさそうなので)。--霧木諒二会話2022年8月27日 (土) 07:32 (UTC)[返信]