ノート:チェーザレ・ボルジア
この「チェーザレ・ボルジア」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2008年6月20日 | 月間強化記事賞 | 受賞・良質な記事自動選出 |
「後継の教皇ピウス3世の命令で逮捕される。これは政敵であったロヴェーレ枢機卿(後のユリウス2世)の思惑がからんでいたともいわれる。」 手元にある塩野本などによると、ユリウス即位後に逮捕されたようですが…。史料としては今ひとつなので、確認しておきます。 --忠太 2005年2月12日 (土) 03:29 (UTC)
加筆者より
[編集]チェーザレの逮捕に関しては、参照したピウス3世の記事の英語版には「ピウス3世によって逮捕」とあり、チェーザレの記事の英語版をみると、「ユリウス2世の主導で逮捕」といったような微妙な書き方ですね。
ピウス3世の記事の典拠は(英語版に多い)1911年版のブリタニカ百科事典ではないようです。チェーザレが何月に逮捕されたかがわかれば自明ですが、もし逮捕のくわしい日付がわかる資料があればご教示ください。(塩野七生に参考資料を確認するのが早いかもしれませんね。)Gakuinryou 2005年2月12日 (土) 05:39 (UTC)
塩野本の『優雅なる冷酷』と『ルネサンスの女たち』に書かれてますが(中公文庫『ボルジア家』も同様の記述):
- ピウス3世はボルジャ家に同情的であった(これは塩野氏の解釈かも)
- ピウス死後、チェーザレとユリウスは協定を結び、スペイン人枢機卿らはユリウスに投票したとのこと。
- マキアベリは「ユリウスと妥協したのはチェーザレらしからぬ失敗だった」といったことを書いている。(君主論第7)
- 『優雅なる冷酷』では、11月1日にユリウスが即位。その頃、チェーザレの病状も回復。11月26日に逮捕、教皇庁に監禁(文庫P289)ということになってます。
いずれも歴史書ではないので少々気がひけますが、ユリウス2世が逮捕、ということでよいと思います。反証があれば又訂正下さい。 --忠太 2005年2月13日 (日) 13:11 (UTC)
ボルジャ か ボルジア か
[編集]こんにちはToki-hoと申します。ノート:ボルジャ家でボルジャかボルジアかについてお話しております。もしボルジャ家がボルジア家になりましたら、こちらも、ボルジアになると存じます。ぜひ、ご覧いただき、ご意見がありましたらお聞かせください。Toki-ho 2005年9月21日 (水) 01:24 (UTC)
信長との対比
[編集]乱世の武人で国家統一(?)を目指した点や冷酷な性格、妹が美人で政略結婚の犠牲になったことなど、連想させる点はありますね。まあ、百科事典に書くようなことではなかろう、と思いますが・・・。 --忠太 2005年11月7日 (月) 13:35 (UTC)
ふたたび ボルジア ボルジャ に ついて
[編集]こんにちは。Toki-hoです。2006年4月3日 (月) 10:43(JTC) の版で、記事冒頭の表題を「チェーザレ・ボルジア」から「チェーザレ・ボルジャ」に改訂される御編集がありました。その折の編集の要約を拝見しますと、原語音に近いものをという御意図とのこと、それももっともなことなのですが、
- まずWikipedia:スタイルマニュアル (導入部) にもありますように、「第1文の主題(主語)を項目名とし、定義を記載する。」でなければなりません。
- かつ、「項目名」はこちらでもご案内したとおり、ノート:ボルジア家で話しあわれ、ボルジアで統一ということで合意されました。
以上の要件から、せっかくの御編集ですが、「ボルジア」にもどさせていただきました。なお、ボルジアかボルジャかということについては、「ノート:ボルジア家」のほうで、新たなご指摘もあり、そのご指摘に対する私の意見も書いておりますので、そちらのほうのお話ということでいかがでしょうか。よろしくお願い申し上げます。(なお、両件ともに、気づくのが遅く、一ヶ月以上たってからの反応となってしまったことをお詫びいたします。申し訳ありません)Toki-ho 2006年5月5日 (金) 04:48 (UTC)
チェーザレの評について
[編集]一漫画家とブルクハルトの意見を並列にするのはどうなんでしょうか? --忠太 2008年5月7日 (水) 16:14 (UTC)
- (コメント)忠太さんのコメントは「ブルクハルトの評は掲載可、一漫画家の評は掲載不可」ということでしょうか?ご指摘の趣旨を明瞭にして頂ければありがたいです。--NINAME 2008年6月8日 (日) 11:49 (UTC)
- (コメント)(遅レス失礼)ブルクハルトの著作は、多くの歴史家によって(賛否はあるとして)参照されてきたものです。なぜ、一漫画家の意見と同列にできるのでしょうか? --忠太(会話) 2015年3月17日 (火) 14:19 (UTC)
チェーザレが征服した地
[編集]加筆されて消えてしまったので[1]、以前の版から一覧を貼っておきます。 --忠太(会話) 2015年3月17日 (火) 14:19 (UTC)
- 1499年11月 イーモラ(旧主:カテリーナ・スフォルツァ)
- 1500年 1月 フォルリ(カテリーナ・スフォルツァ)
- 1500年10月 ペーザロ(スフォルツァ家)ジョヴァンニ・スフォルツァ=ルクレツィアの最初の夫
- 1500年10月 リミニ(マラテスタ家)
- 1501年 4月 ファエンツァ(マンフレディ家)
- 1501年 9月 ピオンビーノ(アッピアーノ)
- 1502年 1月 ウルビーノ(グイドバルド・モンテフェルトロ)
- 1502年 1月 カメリーノ(ヴァラニ)
- 1502年12月 シニガリア(ロヴェリ)
- 1503年 1月 チッタ・ディ・カステッロ(ヴィテッリ)
- 1503年 1月 ペルージャ(バリオニ)
- 1503年 1月 シエナ共和国(ペトルッチ) ペトルッチを追放し、共和国は存続