ノート:トマスによる福音書

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「トマスによる福音書」独自の文は少ない?[編集]

独自の文は意外に少ない?

(108) Jesus said, "He who will drink from my mouth will become like me. I myself shall become he, and the things that are hidden will be revealed to him."

(108) イエスは言った。「私の口から飲む者は私のようになるだろう。私は彼になるだろう、そして隠されたものが彼に啓示されるだろう。」
英語テキスト[1]からの試訳

--以上の署名のないコメントは、Chuta会話投稿記録)さんが 2004-12-17 14:49:53 (UTC) に投稿したものです。

(7) Jesus said: Blessed is the lion which the man eats, and the lion will become man; and cursed is the man whom the lion eats, and the lion will become man.

(7) イエスは言った。「人間が食べるライオンは神聖である、そのライオンは人間になるだろう。また、ライオンが食べる人間は災いである、ライオンは人間になるだろう。」
同サイト[2]からの試訳

--以上の署名のないコメントは、Chuta会話投稿記録)さんが 2004-12-19 13:43:50 (UTC) に投稿したものです。

語録114個中42個あるそうです(荒井献『ナグ・ハマディ文書II 福音書』岩波書店p320)。--Shinobar 2006年3月19日 (日) 01:24 (UTC) / 割り込み返信になっていた投稿位置を調整しました。オリジナルの投稿位置は特別:差分/4960938を参照ください。--Yumoriy会話2024年3月4日 (月) 12:05 (UTC)[返信]

イエスの双子の弟(?)[編集]

伝統的には使徒ヤコブがイエスの兄弟とされていて、イエスに似た顔が描かれるのに対し、トマスの顔はまったく異って描かれます。トマスがイエスの双子だというのは近年の言説だと思うので、出典を明示すべきかと。--Shinobar 2006年3月19日 (日) 00:14 (UTC)[返信]

出典は『トマス行伝』、『闘技者トマスの書』かと思うが、これらは象徴的な意味で(人間イエスではなく)「メシアの双子」と呼んでいるのであり、血縁であると主張しているとは思われない。--Shinobar 2006年3月19日 (日) 00:39 (UTC)[返信]

ガイドライン(中立的な観点)に反する?[編集]

2010年5月2日、3日に「118.10.234.66」によって添加された記述(例えば、トマス福音書は『当時の社会背景などの研究には有効であるが、教義的には不健全な物である」というのが世界的に一般的な認識となっている。』など)は、一定の宗教的な立場・教義から述べられたことが明らかに見て取れ、信頼できる情報源も示されていません。Wikipediaの「基本方針とガイドライン」の、特に「中立的な観点」に抵触する可能性が高いと思われますが、いかがですか? 直ちに削除はせず、ここに問題として指摘しておきます。--以上の署名のないコメントは、118.8.181.86会話/Whois)さんが 2010-05-19 18:44:19 (UTC) に投稿したものです。

編集提案_2020年9月[編集]

脚注の上に、以下の文をのせたいと思います。

トマス福音書における神話論

イエスの伝承の視点から見た神話論[編集]

どういう神話論があるかが問題となってくるのは、グノーシス主義との関連からということになってくるけれど、この福音書は、グノーシス主義的な神話というものがはっきりわからない状況にある。 三世紀初頭以降トマス福音書は、初期カトリシズムの教父により、異端者たちの偽作であるとして、正典から排除されたとされている。[1]トマス福音書と同時に発見された文書には、ギリシャ哲学のプラトンの著作もあったことから、グノーシス派は、ギリシャ哲学や、オリエントの諸宗教とも関連があったとされている。[2]そのため、神話論のはっきりしない文書は、客観的思考を重視していた異教としての、ギリシャ哲学や、オリエントの諸宗教と関連づけすることも可能である。

ナザレのイエスの説いた教えは、正統的教会によって、おおむね下記のように教義化した。

  • イエスキリストは、処女マリアから生まれた神の一人息子であると信じる。
  • イエスを救い主と信じる人は、神の国が到来したら、新しい命がもらえて罪から救われる。なぜなら、罪がないナザレのイエスは、死刑になったが、死んでから三日たってからまた生き返った。そして彼は天に昇って行って、神の右に座ったからである。そう信じる者は、救われる・・・・。

こうした他力救済的な宗教思想にとっては、信じる力は必要であっても、哲学的思考は必要とはされない。[3]

トマス福音書は、グノーシス主義の編集者によってまとめられたイエスの語録、という性質を持っているので、神話論についての言及はほとんどない。そのため、神話論を確認するにあたっては、編集者の視点で確認するか、それとも、その視点が導入される以前の、イエスの伝承の視点で解釈するかによって、神話の内容が大きく異なってくるとされる。[4]。この福音書の後に成立したとされる『闘技者トマスの書』がグノーシス文書というよりは、正統的教会の修道僧のためにまとめられたものであるとされているので、[5]本書も、イエスの伝承の視点で神話を解釈してゆくことができるようである。[6] 。神話という面から見ると、この福音書は、『闘技者トマスの書』と類似した著作であると見ることが出来る。

訳者の解説には、7点の神話論の痕跡があると述べられている。[7]

  • 1、天地は消え去る。(11、この天は過ぎ去るであろう。そして、その上も過ぎ去るであろう。)[8]
  • 2、父なる神のほかに、真実の「聖霊」が「命」の根源として想定されている。(101、しかし、私の真実の聖霊は私に命を与えた。)[9]
  • 3、神々は消極的に評価されている。(100、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に渡しなさい。そして、私のものは私に渡しなさい。)[10]
  • 4、イエスは父なる神から出た者であり、すべての上にある光である。(61、私は同じ者から出たものである。私には父のものが与えられている。)[11](77、私は彼らすべての上にある光である。)[12]
  •  5、人間は「光から来た」「光の子ら」であるが、、現実には「身体」のなかにあって、それ(「光」あるいは「霊魂」としての本来的自己)を認識していない。(29、いかにしてこの大いなる富(本来的自己)がこの貧困(身体と霊)の中に住んだのかを不思議に思う)。[13]
  • 6、「自己」を認識したものにとって、「自己」の支配領域として、「父の国」は現臨している。(3、王国はあなたがたの直中にある。)[14]
  • 7、 はじめのあるところに終わりがある。

神話の位置にある世界観[編集]

グノーシス主義は、至高神の本質(霊魂)が、宇宙や世界を貫いて人間の中にも宿されているとする。しかし人間は自らの本質である本来的な自分について無知の状態に置かれていて、本当の自分と身体的な自分とを取り違えている。人間は救済者に学ぶことにより、人間の本質と至高神とが同一の存在であることを体得し、認識したときに、神との合一による救済にいたれるとするものである。[15]したがって、グノーシス派とされる記述に関して は、神話論がはっきりしていない場合は、ギリシャ哲学や、オリエントの諸宗教、あるいはナザレのイエスの自己認識(マルコ7-20にある悟り)等のいずれかに、つながっているのではないかと考えることが出来る。以下はそうした世界観や人間観が顕れていると思える箇所である。

  • 11、この天は過ぎ去るであろう。そして、その上の天も過ぎ去るであろう。そして、死人たちは生きないであろう。そして、生ける者たちは死なないであろう。
  • 108、私の口から飲む者は私のようになるであろう。
  • そして、私もまたその者になるであろう。そして、隠されていたものがその者に現われるであろう。
  • 13、 私はあなたの先生ではない。
  • 77、木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう
  • 15、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である。
  • 17、私はあなたがたに、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、与えるであろう。
  • あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、・・・・そのときにあなた方は入るであろう。
  • 29、いかにしてこの大いなる富(本来的自己)がこの貧困(身体と霊)の中に住んだのかを不思議に思う。(56もある)
  • 42、過ぎ去りゆくものとなりなさい。
  • 114、自分を、活ける霊にするならば、天国に入るであろう。
  • 45、彼は、心からあふれ出るものから、悪いものを取り出すからである。
  • 49、人は父の王国から生まれてきており、再び父の王国に行くであろう。[16]

脚注

  1. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』P313.
  2. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』 序に変えて。
  3. ^ そういう点から考えると、初期カトリシズムの教父たちが排除したのは、異教としての科学的・哲学的な著作や思考方法、グノーシス神話だという見方もできる。
  4. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』P324、
  5. ^ 闘技者トマスの書参照
  6. ^ 『闘技者トマスの書』もまた、グノーシス的な「人間を救済する自己認識」という宗教思想から始まっているのに、その後の神話論的な展開はない。グノーシス最大の特徴である「反宇宙的二元論」がないため、グノーシス文書とは言えない、とされている。岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』P378
  7. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』P322。
  8. ^ 天と地は過ぎゆくであろう。マルコ13:31
  9. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』、P47。
  10. ^ マルコ12:17.
  11. ^ ルカ10:22.
  12. ^ ヨハネ8:12.
  13. ^ ヨハネ3:5
  14. ^ 神の国はあなたたちの現実のただ中にある。(岩波書店「新約聖書」P266におけるルカ福音書)、17:21
  15. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』、序に変えて。
  16. ^ トマス福音書に特徴的なのは、人間が天の国から生まれて、また、そこに帰ってゆくという信念であると言える。

--Tokinokawa会話) 2020年9月6日 (日) 05:53 (UTC) / 原稿案部分に<blockquote>タグを追加して差別化しました。--Yumoriy会話2024年3月4日 (月) 12:05 (UTC)[返信]