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ノート:東ローマ帝国

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表記を巡る議論はProject talk:ウィキプロジェクト 東ローマ帝国史の用語表記に移動しました。


2019年9月16日 (月) 00:23‎ 126.9.39.97 の追加について

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①引用元に文言のない引用について

当該部分は27,102‎バイトと、多数修正されています。しかし、「名称 ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国」の説に、引用元の文章の趣旨とは異なる記述として引用されている部分が見つかったため、削除しました。元の文は

「一方でローマ市の人々は東方の皇帝を指して「ローマ人の皇帝」とも呼んで帝冠の認可権と処分権の所持を表明し、東方は今でもローマの支配域(ローマ帝国)の一部であるとの主張をしていた[1]

ですが、これは引用元書籍(『中世西洋史事典Ⅱ‐皇帝と帝国‐』(ミネルヴァ書房、2005年、p124-5)では、「(c)西方皇帝権の主要な特徴」(p124)という節の④の項目(p125)において、「西方皇帝権にとって」という文章で始まる段落の中ほどにある、「教皇」を主語とする文章です。以下文章を引用。

「教皇は帝冠授与者としての役目から、帝冠の処分権を、少なくとも帝位候補者の認可権を主張した」(p125)


認可権と処分権を持つ主語は教皇であって、「ローマ市の人々」ではなく、その処分権/認可権の対象も、東方の皇帝ではなく、西方皇帝権の話です。引用元とWikipediaの編集内容を比較すると、単純な誤りといえるものではなく、意図的な歪曲の意思がないとできないと考えざるを得ない文章です。126.9.39.97は、この時27,102‎バイトと非常に多くの編集を行っており、この人物の編集部分は、全て出典を確認して精査する必要があります。これからできる範囲で当該編集者の編集部分を確認しますが、手元にある書籍にも限界があるため、他の識者の方にもご協力をお願いいたします(確認済み部分は本文にコメントを挿入することをお願いいたします)。--German Romanist(会話)2020年1月30日 (木) 11:07 (UTC)

上文の次の行「しかしカール大帝の戴冠によって西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、西欧でこの帝国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、その皇帝も「ギリシアの皇帝」と呼ぶようになった」も出典は文言及び趣旨が微妙に異なるため、出典通りの文章と趣旨に修正。--German Romanist(会話)2020年1月30日 (木) 12:19 (UTC)


出典の確認中に--German Romanist(会話)さんが編集された内容に幾つか気になる部分がありましたので修正しました。
  • 「井上2009は本文が364頁までしかなく、出典頁を確認できない」とコメント化された部分について、指定された372頁に該当の記述があることを確認しましたのでコメント化を解除しました。
  • 「井上2009ではレオン3世が「「ローマ皇帝」と名乗っていない」と記載があるのみ」とコメントされていますが、井上2009の実際の内容は、西欧に皇帝が生まれる以前の皇帝たちは「ローマ皇帝」と名乗っておらず西欧に皇帝が生まれた影響を受けて「ローマ人の皇帝」と主張するようになった、というもので、更にローマ皇帝と名乗っていない例としても「ユスティニアヌス1世」「7世紀のヘラクレイオス」「8世紀のレオーン3世」と3人の名が挙げられており、「レオン3世(略)と記載があるのみ」のコメントは実際の出典の内容と大きく異なっているようでしたのでコメントを修正しました。
  • 「イデオロギー」の節で「古代ローマの儀式を模倣したのではなく市民の一般的な振舞いを模倣した」とコメントされていますが、出典には含まれていない内容でしたので削除しました。
  • 「ビザンツ皇帝理念」の節で「古代ローマ皇帝理念の総てが否定されたわけではない」とコメントされていますが、出典には存在せず、むしろ出典該当部とは逆のニュアンスの内容となっていましたので削除しました。
  • 「ビザンツ皇帝理念」の節で「出典元に近い形に修正」として挿入された文言について、かえって出典のニュアンスから遠のいているように思えましたので、実際に出典で使用されている表現を使用して修正しました。
  • 「ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国」の節で「出典通りの文章と趣旨に修正」とされた編集について、判断が難しいのですが、出典の内容や趣旨とは微妙に異なる部分がある(出典では編集された内容の主語は「西欧」ではなく「エインハルドゥス」となっており明示が必要。また出典では「…という呼び方が見られるようになった」といった変化は主張されていない、等々)ように読めましたので記述を修正しました。

--K.Frankie会話2020年1月31日 (金) 22:23 (UTC)[返信]

ご確認ありがとうございます。最初の364頁の件は失礼しました。巻末の皇帝一覧表の注釈が出典だったのですね。確認ミスでした。失礼いたしました。その他の点については、当方が出典として引用していないコメント部分についてまで、「出典には含まれていない」と指摘されるのは心外ですが、当方の書き方が中途半端で出典文とコメント部分の見分けがつきがたい文章であった点もあったものと思いますし、K.Frankieさんの修正結果に大きく異論があるわけではありません。
一点「古代ローマ皇帝理念の総てが否定されたわけではない」云々について解説させていただくと、当方が修正する前の文言では、民主政治云々の文言がなく、古代ローマ皇帝理念を構成するいくつかの要素(元首政とドミナトゥス制で異なり、第一人者としての理念と職権、最高司令官、或いは神としての崇拝対象等の諸要素から構成されているものなので)のどの部分が失われたのかが明確ではなかったため「総てが否定されたわけではない」と記載いたしました、「古代の民主政治の伝統」が失われたという点が出典の趣旨であると理解し、「古代ローマ皇帝理念の総てが否定されたわけではない」と記載したものです。この部分では、古代の民主政治の伝統が失われたという出典文言が入る必要があります。K.Frankieさんの修正結果、より多くの出典文章が引用され、出典趣旨が更に明確にわかるよう改善されたものと認識しています。本記事については今後も出典を確認してゆく予定ですが、今後は、今回ご指摘いただいた点に留意してゆきたいと思います。--German Romanist会話2020年2月2日 (日) 11:51 (UTC)[返信]
IP投稿だと長くなり引用が煩わしいため、アカウント作りました--German Romanist会話2020年2月2日 (日) 11:51 (UTC)[返信]

②ローマ皇帝とローマ帝国の名称の問題について

126.9.39.97さんが「イデオロギー」の節で加筆された、「東西の政治的対立が顕著となった5世紀以降、東ローマ帝国は自らを単に「帝国」とのみ称し、ローマの権威を認めることになる「ローマ帝国」という名称を用いなくなった」という文言については、誤解があると思われるため当該文言を削除させていただきました。理由を以下にご説明いたします。この記述となった井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書1990年、講談社学術文庫2008年)p69-71では、「都市」としての格の話において、ローマ市とコンスタンティノープル市の話が記載されています。一方『ビザンツ 文明の継承と変容』(2009年)p17-22では、皇帝の称号の話をしています。各々関連はありますが、一方は都市の話、他方は皇帝称号の話をしていて厳密には別の話をしている点が重要です。また、双方とも国名の話をしているわけではありません。また、勅令等による自称と文学作品等による他称も区別して考える必要があります。そこで都市ローマと皇帝名称と国名の変遷を整理しました。

1.「ローマ皇帝」 元首政の開始期からimperatorにせよprincepsにせよ、単独で用いられるのが一般的です。勅令等において皇帝が「ローマ皇帝」と自称することはなく、principem Romanum やimperatorem Romanum等通常「ローマ皇帝」と訳される記述は、文学作品(タキトゥス、カッシウス・ディオ、ローマ皇帝群像、アンミアヌス・マルケリヌス、プロコピオス)に稀に登場するだけです(この部分に関する解説はローマ皇帝#ローマ皇帝に関わる称号や権限に注釈として記載しています)。「ローマ皇帝」というように、「ローマの」が冠された称号がビザンツ帝国の文学作品に頻出するのは、9世紀初頭の『テオファネス年代記』以降です。法令文書においても同様で、レオン三世の法令書名では、単に「皇帝(バシレウス)」と書名しています(井上浩一『ビザンツ帝国』1982年p350に法令の署名全文が掲載)。文学作品同様文書でも9世紀以降、つまりカール大帝との称号問題が発生したことによって「ローマ」を冠した称号を文書でも文学作品でも用いるようになったと考えられます。

2.「ローマ帝国」 imperium Romanumは共和政期から利用され、皇帝の出現とは無関係に用いられてきた用語です。imperium Romanumは、帝政期の文学作品でも登場していますが、やはり数は多くはありません(今回調べて気が付きましたが、国原吉之助は日本語訳でimperium Romanumを「ローマ世界」(『年代記』1-42(日本語訳上巻p55)とか「ローマの版図」(同2-61,p146)と訳しており、逆に『ローマ皇帝群像』などでは「ローマ国家」と訳している「res Romanas」を「ローマ帝国」と訳している箇所(同下巻16-10、p314)もあるので注意が必要です)。imperium Romanum(及びその格変化形)は、『年代記』では2回、『同時代史』は0、カッシウス・ディオは6回(imperium Romanumの訳語であるῬωμαίων ἀρχὴνを用いている)、『ローマ皇帝群像』で19回、アンミアヌス・マルケリヌスで2回(ただし英語訳で the Roman empireと訳されているRomani perniciessやrei Romanaeも数か所ある)、プロコピオス秘史で28回(Ῥωμαίων ἀρχὴν)用いられています。126.9.39.97さんの主張する「5世紀以降、東ローマ帝国は自らを単に「帝国」とのみ称し、ローマの権威を認めることになる「ローマ帝国」という名称を用いなくなった」かどうかは、5世紀の史料の用例も含めて精査する必要がありますが、タキトゥス、カッシウス・ディオ、『ローマ皇帝群像』、アンミアヌス・マルケリヌス、『秘史』の用例数からすると、各作品の残存部分の量の相違を考慮しても「ローマ帝国」の用語の利用は、時代が下るにつれて少しずつ増加しています。

また、『ローマ皇帝群像』では、imperium Romanumに加え、共和政的国家のあり方を支持する立場の用語であるres publicaに「ローマ」を冠したRomana res p(ローマ国家)が16回、アンミアヌスマルケリヌスでもrei Romanae(ローマ国家)が15回しています。これはタキトゥス(年代記でres Romanasが一回(ただし国原吉之助は「ローマ帝国」と訳している(16-10下p314))) やカッシウス・ディオ(なし)等の用例より遥かに多く、4世紀以降「ローマ」を冠した国名が増加している傾向を示しています。「ローマ」を冠した国名の用例は、東西分裂以前から増加の傾向にあり(カラカラ勅令以降ローマ市民が全帝国に拡大したことと関連している可能性がある)、6世紀の『秘史』における「ローマ帝国」の頻出も、この傾向の上に置かれたものと現段階では考えられます(もちろん、5世紀の同時代史料の用例を精査した結果、やはり5世紀に一度東ローマでは「帝国」単独で用いる用例が増加したという事実が確認される可能性はあります。今回は5世紀の史料まで精査している時間はありませんでした。今後の課題とします)。

なお、-K.Frankieさんが「確認済み」とされた以下の文言も修正いたしました。

  • 「イデオロギー」の節の「しかし9世紀になると帝国は再び「ローマ帝国」や「ローマ皇帝」といった名称を用いるようになった<--ref name="尚樹1999pp403-404" /><--ref name="オストロゴルスキー2001p257" />」は、オストロゴルスキーの当該部分を確認したところ、「再び」用いたという文言はないため、「再び」の文言を削除し前後の文言を修正しました。
  • 「ビザンツ皇帝理念」の節で、「5世紀の半ばにコンスタンティノープル総主教による戴冠の儀式が古代ローマの「元老院・市民・軍隊による推戴」という伝統を押しのけて皇帝観の本質的部分となった」は、引用元の文言の通り「皇帝観」を「戴冠式」に修正いたしました。--German Romanist会話2020年2月29日 (土) 10:59 (UTC)[返信]

この記事の題名について

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東ローマ帝国以外にも、「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ギリシア帝国」「ギリシャ帝国」などがありますが KazuShiba会話2021年3月30日 (火) 02:47 (UTC)[返信]

  1. ^ シュルツェ2005、p.125。