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ノート:レオポルト・フォン・ランケ

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ランケは世界史叙述の望みを持っていたのか?

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ランケ史学の政治的側面

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国家の理念は、相応する権力がなくては主張できない独立という思想から生まれる。
かつての「近代歴史学」の特徴をあげるなら、第一に「国史」という枠組がありました。学問としての歴史学は十九世紀の大学で確立します。ドイツのランケ史学が有名ですが、じつはその影響はドイツからすみやかにフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国、合衆国、そして日本にも及びました。ちょうど十九世紀後半、国民国家建設の時代に、新しい学問としての経済学や国家学と密接に関係しながら発達することになった歴史学にも、国民主義の刻印が刻みこまれました。波高き世界における祖国の統一、議会制度の発達、その国制の正統性、あるいは富国強兵・殖産興業の物語に照明があてられたのです。
  • 現時点での記事はランケが史学に実証主義方法論を確立して「近代歴史学の父」といわれるようになったことを中心に取り上げた記述です。私も実証主義方法論はランケの第一等の功績に挙げるべきものと考えますが、ランケ史学はそれだけではないと思います。現時点での記事でも記述しているように、ランケは独自の歴史哲学をもっていたばかりか、「ドイツ連邦」圏諸王の顧問となって『政治問答』や『強国論』、『歴史と政治との類似及び相違について』などの著作に見られる政治学者としての側面があります。ドロイゼンやトライチュケなどを代表者とする「国民自由主義的」を標榜したプロイセン学派のようではないにしても、19世紀に成立した国民国家からなる欧州において、ランケは国家とは何かという問いかけを行いながら独仏英のまさに列国史を研究したという観点も必要だと考えます。(参考:de:Leopold von Ranke、旅研世界歴史事典データベース - 歴史主義
  • >ランケは万国史や列国史ではない世界史について著述する望みを持っていた
上記はGreenland4さんが2007年12月11日 (火) 14:00(UTC)版で行った加筆です。バイエルンの国王マクシミリアン2世の求めによって書かれたという「世界史の流れ」ちくま学芸文庫版によってでさえ、その展望は欧州及びオスマン帝国に限定されたもので、ちくまの売り文句は「ヨーロッパ全史を展望する壮大な歴史叙述」であり、次段落中の「『世界史』においても、時代遅れの観点をさらけ出しており、大英帝国の覇権や、アメリカ独立革命、帝政ロシアの膨張については触れていない。さらに資本主義社会や産業革命による産業社会の発達についても扱ってはいない。とは言え、彼の歴史像は限定されたものであった」との記述とも整合性が取れていません。Greenland4さんの記述は題名の「世界史」に囚われすぎた見解かと思います。結局、「世界史」という著作も独仏英の研究実績の上に「ドイツ連邦」圏が絡む範囲の国際関係の中だけで記されたものと見るべきでしょう。さらに言えば、ランケこそ世界史を列強ひしめく欧州を中心とする万国史や列国史として記述することの源流となり、その末が日本に及んでは皇国史観に基づく国史学を支える影のバックボーンとさえなったのではないかと感じられます。--ゴンベイ 2008年3月20日 (木) 12:15 (UTC)--(引用を追加)ゴンベイ 2008年3月20日 (木) 18:13 (UTC)[返信]
(コメント)「政治的側面」なんてことは誰も問題にしていないのであって、そんなことを書きたければ加筆すればいい。わたしの記述は「見解」ではない。Wikipediaは「見解」を書くところではない。あとは下に同じ。--Greenland4 2008年3月20日 (木) 21:48 (UTC)[返信]

ランケは世界史叙述の望みを持っていなかった?

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(コメント)いちいちタグを貼ったり議論したりする必要はないと思いますよ。原典にあたって「青年時代にランケは万国史や列国史ではない歴史叙述としての「世界史」の執筆の望みを持っていた」というのが間違いだと判断できたなら書き直せばよいだけの話です。--Greenland4 2008年3月20日 (木) 13:06 (UTC)[返信]

生没年?

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生没年と享年(満年齢?)の計算が合っていないようです。 どちらが正しいのかは当方には判りかねるため、指摘するだけにとどめます。--以上の署名のないコメントは、221.21.174.212会話/Whois)さんが 2008-11-16 19:28:05 (UTC) に投稿したものです(Yumoriy会話)による付記)。