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ノート:久松寺 (大和郡山市)

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本田の多が間違っていたので訂正

縁あって祭る所ありと聞くので、第一坐と訂正にいたる。

内容への疑義

[編集]

ちょっとだけ確認します。いくつか内容について、どなたか出典を教えてください。創建については、どの資料を用いられたのでしょうか。大和郡山は、まとまった自治体史が、ずいぶん昔のものしかないのですが、手元にある、『ふるさと大和郡山歴史事典』(大和郡山市文化財審議会編・1987年・奈良県立図書情報館での資料検索結果[1]ISBNがないので、代替的に存在を記す)によると、「創建不詳」となっています。また、慶長元年段階での、郡山城の城主は、本多忠政ではなく増田長盛です。20年の間に、新たな研究成果でも出ましたでしょうか。確認したいので、「学術書籍や調査報告書にて」お教え願えると幸いです。慶長4年の段階での説明も意味と出典がよくわからないのですが、これは、私の手元に資料がないのでふれません。また、「文化財」にあげられている一連の仏像ですが、大和郡山市の指定文化財一覧を見る限り、久松寺には、国~市、いずれの指定文化財も存在しないようです。どのような根拠で「文化財」なのか教えてください。さらにいえば、上掲書によると、「今は廃寺」となっています。これらの文化財はどこにあるのでしょうか。ただし、久松寺自体は、曹洞宗近畿管区のサイトに出てきますので、どなたかが再興されたのかもしれません。その場合には、現在の寺の存在自体については問題ないわけですが…。なお、しばらくの後、出典が出なければ、疑義のある部分については、除去いたします。--ごまふあざ 2008年2月7日 (木) 12:36 (UTC)[返信]

今回の「ご回答[2][3]」よくわかりました。私の感想は「残念である」の一言です。一応、念のため申し述べておきますと、『大和郡山市史』((財)柳沢文庫編)は、1966年の発刊です。以来、新しいものは出ていません。上記で掲げたものは、1987年の書籍です。編者の性質と時期から考えても、どのような構造になっているかは明確です。以下は私の意見と今後の行動についての事前説明です。お願いではありません。今後、あなたがwikipediaに関して、以下の行為を行った場合、私はしかるべき行動をとります。
  1. 他者の発言の除去(当然、この発言を含む)
  2. GFDLを無視した発言・行為
  3. 法的脅迫・根拠のない個人攻撃
  4. 検証できない情報の本文記事への書き込み・および、白紙化(記事破壊
同一性の高いIPにせよ、疑わしい他アカウントにせよ、これらの行為が確認できた場合には、コミュニティやwikipediaにとって、著しく害をなす存在であると「私は」みなし、即時に次の行動を起こします。「恥ずかしい」とお思いになるなら、これ以上の行動の上塗りはおやめください。これは、あなたへの最後の発言です。(mediawikiの仕様でどうやってやられるのかしりませんが)「IDを削除」されるそうですので、お返事は必要ありません。あなたは、ここには著しく向かないと思います。「名誉ある」撤退をお願いいたします。--ごまふあざ 2008年2月10日 (日) 09:54 (UTC)[返信]

--59.86.81.98 2008年11月2日 (日) 11:47 (UTC)== 2008年10月30日 (木) 12:02の59.86.81.98さん編集時の版の移動 == 《参考》 熊姫の母は織田信長の娘徳姫(五徳)で、徳川家康の嫡男信康の室となり、二女産んでいます。長女福姫は小笠原秀政の室となり、次女は熊姫(国姫)は本多忠勝の長男忠政の室となる。それは天正18年、忠政16歳、熊姫14歳。熊姫と忠政の間に、大多喜城で二女と忠刻、政朝を生んでいる。慶長6年忠勝の桑名転封に従い桑名へ。そこで忠義を生んでいる。また忠刻に徳川家から千姫を室に迎えた事により、忠政は姫路15万石として転封。家康上洛の際には熊姫は母徳姫と共に祖父家康と会って居るようです。母徳姫は織田信長の死後、京都に居り本多屋敷にて寛永13年78歳まで存命。 熊姫の姉、福姫の夫(小笠原秀政)も天正18年下総古河に封ぜられ信康君の菩提の為に本栗橋に浄土宗隆岩寺(信康の法名)を建立し位牌を安置している。現在古河市に移転しています。[返信]

《参考》 「白河に於ける「久松寺地」の変遷」 丹羽長重公が父「長秀公」の菩提の為に総光寺建立。長重公没し法名・大隣寺殿に因り「大隣寺」(曹洞宗)と為し、松平忠次(榊原家)入部で「隋寶寺」と為し、本多忠義入部で『久松寺』(曹洞宗)と為し、次いで奥平忠弘入部で「天祥寺」(臨済宗)と為し、次いで結城松平直矩入部で「孝顕寺」(曹洞宗)と為し、次いで久松松平定賢入部で「円妙寺」(法華宗)と。現在の町名の「円妙寺町」は久松松平家時代の寺名から出ています。其の後も幕末迄阿部家の菩提寺になって行く。葬地を正確に「隋寶寺」跡としましたが一般的には後の代の藩主の菩提寺も含めて、草分けの丹羽長重公の「大隣寺」跡のと、云う方が通じて居ます。 《参考》 「廃寺」表記に関して 奈良県立図書館所蔵の「寺院明細帖、調べ書き、寺院名鑑、財産調べ、住職名調べ等」と明治、大正期の文書で「久松寺」の理解は、一切出来ないと思われます。大多喜、桑名、姫路等から流れて行かないと「一地域に良好な文献皆無」と成ると思います。。 --220.148.123.87 2008年10月30日 (木) 11:45 (UTC)大塚[返信]

《参考文献》 久松寺由緒、徳川諸家系譜(幕府祚胤伝)、姫路城史、白河風土記、白河古事考、白河市史関連、【下野國河内郡宇都宮繒圖 延宝年中 本多下野守忠平屋舗ノ圖】、大和郡山市史別冊分限帳《本多唐之助家中覚書》、郡山城下絵図、寛政重修諸家譜、諸藩要覧、讀史備要、奈良県立図書館(寺院明細長、明治4年寺院調べ等)、私系図、


すいません、誤って作業途中でエンターキーを押してしまったので、要約等による履歴継承が不十分になってしまったかもしれません。上記は、本文中にあったテキストですが、署名があったり、補足説明であったりしたようなので、いったんノートに移動させていただきました。
で、いくつか気になるのですが…多くの参考文献が一次資料であるようです。独自研究にあたるおそれはないでしょうか。また、本文中の記載の中に、やや古めかしいというか、古語的な表現があるところが気になります。これは、どこかの書籍からそのまま写してこられている可能性はないでしょうか。念のため、確認いただければ幸いです。私も時間があれば確認します。書かれた方を信じた上で、wikifyのみとし、私のほうでは除去はいたしません。とりいそぎ、移動の報告と、気になる点のみ指摘させていただきました。--ごまふあざ 2008年10月30日 (木) 12:40 (UTC)[返信]
御心配をお掛け致し申し訳有りません。古語的な表現は年齢?。参考資料は図書館か後は殆んど相互貸借出来ます。久松寺を認知して居るのは白河市史だけです。つまり本多家の筆頭菩提寺「西岸寺」(忠勝の法名西岸院殿)も認識されて無く因って絵図の比定も誤りを認知頂けました。お伺い致したいのですが、桑名で開基した寺が藩主と各地を随伴し大和郡山で破却の運命となり、後世、他地域を調べず地元だけの資料で記載する事は不可能です。大多喜市史、桑名市史、姫路市史、松戸市史、等に芝増上寺住職、徳川秀忠の導師を勤めた方が「西岸寺」を開山したのです。しかし其れが大和郡山で認識されて無かった故に歴史事典の記載を誤る事になり、地元の「本」に無いからの理由ならば貴兄の仰る通です。實は元禄4年~享保八年の間に、大人3人、子供9人が久松寺に葬され享保9年2月、近くの寺に改葬されたモノの子孫です。平成5年、墓石が見付かり平成7年に墓参に行き、廃寺と書かれてしまって市に訂正を依頼されてる世話役さんを知り、平成8年提出したのです。世話役さんの死亡を知り、平成16年、市長さん宛てに問題提起し「HP」は訂正して頂きました。また絵図上、松平時代の寺を本多時代と誤って比定されてるのも認めて頂きました。当初回答には「改訂の検討」と有りましたが市史は昭和41年発刊で古いので、近い将来可能性は有りますが事典は無理でしょう。市史等は行政区に限定される為、今回のような地域も有るのです。自分では研究との認識も無く、先祖が白河出で、一族の子孫が現在でも居り、二十年以上白河市に入り込んで居る者です。上記に関して郡山文化財課の方に御協力を頂きました。後は御判断にお任せ致します。合掌以上の署名の無いコメントは、59.86.81.98会話/whois)さんが[2008年10月30日 (木) 15:48]に投稿したものです(ごまふあざによる付記)。
早速のコメントありがとうございます。文章表現につきましては大変失礼な言い方をしてしまい、もうしわけありませんでした。資料のほとんどは、公表されているものということは、理解できます。ただ、wikipediaには、なかなかにややこしい制約もありまして、一次資料(原文書)から記事を作成することや、直接関係者から聞き取りをして記述するということを、できる限り避けることが勧められているのですね。なので、一部の記載の証明が難しいかな…とも感じます。しかし、非常に有益なご寄稿でもあろうかとおもいますので、私個人としては、しばらくは今の本文(一部は表現を修正)+参考文献をもとに戻す、という形式を提案したいとおもいます。いかがでしょうか。私もできるかぎりの文献は、読ませていただこうと思います。大和郡山市史、改訂版は出るかどうか極めて怪しいところです。進めてくれそうな方に特別な事情がありましたもので…--ごまふあざ 2008年10月30日 (木) 16:49 (UTC)[返信]
ご親切な対応有難う御座居ます。参考は不要と思います。書き込みは初めてで不慣れで済みません。WEBを見て居て感じました。平成16年に市長に提出した表書きに「一行政区のダイジェスト版に留まらず「全国ネット」に近い形で広範囲に流れてしまうのです。その地域を調べる時に最も手軽な資料は当然の事乍「市史」で有り「町史」遅くなれば今後も更に広がるばかりで無く顰蹙を買う可能性をも懸念して居ます。例を上げますと「名刹大事典」近い所で「奈良県史」等が「市史」を参考文献として・・・」。一度書かれてしまったばかりに檀信徒の皆さんの苦衷は・・・「検索」で「久松寺」として3ページ目以降か不確実ですが【大和郡山・久松寺本堂、74年ぶり再建 信徒ら「感慨無量】 - MSN産経ニュースが有ります。見て上げて下さい。御指導真に有難う御座いました。参考に「廃寺と記載された原文は久松寺の明細帖」(県立図書館)です。かの地は「廃仏稀釈」でかなりな寺院無住になり件のモノは奈良市の三松寺さんが由緒欄に「不詳」と代理提出したものです。貴兄のご判断で削除される所はされて下さい。お手数を掛けました。合掌以上の署名の無いコメントは、59.86.81.98会話/whois)さんが[ 2008年10月30日 (木) 22:18]に投稿したものです(ごまふあざによる付記)。
wikipediaは、私も最初は、不備を教えていただきながら進めました。ややこしいところもございますが、しくみはシンプルですので慣れていただき、できることなら、今後もいろいろと加筆いただければ幸いです(なお、本文以外のページに文章を書かれる際には署名をおねがいできますでしょうか。~~~~とすることで、付加できます。また、編集の際、画面上の右から二番目の青いボタンを押すことによっても自動的に追加されます。これもお手間ではございますがルールなもので…)。MSN産経ニュースは、先冬に改稿する際に確認しております。「廃仏毀釈」の大和地域での影響については私とは意見が異なりますが、地域と結びついた信仰の場が戻るのはよいことで、ご努力なさった方がいるのだなあ、と感心しておりました。ただ、その記事の際、私のほうで過去の情報に関する根拠が学術的に追いきれなかったので、再建の事実と、管理のお寺の名前のみの記述としておりました。学術的に確認できるなら大歓迎です。参考については現状維持とのことですが…それでは、私のほうでも確認できた段階で移動したものを本文に戻させていただきます。いろいろと失礼しました。--ごまふあざ 2008年11月1日 (土) 10:26 (UTC)[返信]

御丁寧なコメント有難う御在居ます。深い造詣の有る貴兄に対しましては、元々強意の度の付く素人の私に対応下さるだけで感謝致して居ります。恥ずかしい限りですがパソコンに関しては殆んど素養の無い前期老齢者プラス生活の糧に未だアルバイトをして居るモノでワープロ代わりに少々齧って居るだけです。冒頭に訂正致しますが「廃仏稀釈」の文字については、資料収集した節、担当の方の説明に有って、当時としては、そうなのかと納得してしまった「言葉」で不用意に表記致しました自分の落度です。 また《Wikipedia》の存在自体も恥ずかし乍、知ったのは今年の9月の事なのです。当然「久松寺」の再建を知ったのも10月に入って偶然WEBを見てからなのです。そして「誘い掛ける」?ように「誰か知って居ますか?。慶長元年は?。それでも誰も投書なされないようなので余計な事をしてしまい現在後悔も有ります。慶長元年は大多喜なのですが「資料」は平成8年当時までは皆無です。 親父が冥途の土産に一度見て置きたいとの希望で廻った所で教えられました。私の信条としてお世話に為られた方々には近くに行った時には出来るだけ「線香」を上げさせて頂いて居ります。皆さん鬼籍です。 帰宅後、検索するとやはり「大塚綱久」「大塚吉久」「大塚為久」「大名大塚」でヒットが有りました。其れが《Wikipedia》だったのです。子供に話すと「信長の野望のゲームに綱久は有るよ」と。私もゲーム関係のHPかなと、慙愧の至りです。 「大塚掃部介綱久」の菩提を弔う為に「大塚越前守吉久」が曹洞宗「徳林寺」を開基し「大塚弾正少弼為久」は討死し塚(昭和35年撤去)を残して頂き現在まで「字名」に残して頂いて。其の子「大塚尾張守為国」以降現在までの墓所、子孫の方々を案内したのです。久松寺に葬されたモノの実家です。 「大和郡山」に関しては平成16年以降、其の後どのように推移したか一切不明でした。市長宛に送付したかなりな重量の「小包」(33ページの本文と各地の市史等の奥書を含めたコピー)を送付し、一ヵ月後、文化財課長名で「回答」と「記載根拠の文書」を頂きました。推測通でした。「平成8年当時」に文庫に何度も「記載根拠の文書」の教示を請い乍、断られたのです。平成8年、長と名が付いた方の断り方が「・・さんの方が詳しいから、聞くことは無いのでは。マニアは其れなりに面白いモノです。本にして出版されれば裨益される方が居られるのでは」と。別な断り方が有ったと感じます。かなり傷つきました。 私の姿勢としては二十数年変りませんが「違和感を感じます」「何か合わない感じがします」「根拠となる文書或は資料を御教示下さい」と必ず手順を踏みます。 平成8年当時、撤退したのは本当に親切に対応して頂いた「広報の方」「発掘担当の方」の迷惑、それと強引に進めると名所巡りの地図にも載って居る「某寺さん」の名誉にも関わることを考慮し諦めたのです。 送って頂きました根拠資料は3部(郡山町史・奥付昭和28年二月28日発行。印は388ページ延宝8年の摘要)(大和郡山市史・史料集・奥書・昭和41年7月二十日発行。印は257ページ下段・松平日向守の項)(大和郡山市・城跡及び旧城下町等の保存と活用のための構想策定調査81・大和郡山市教育委員会・奈良国立文化財研究所・印は48ページⅤ「和州郡山城図」)

当時の表書きに《また冒頭で述べて置きますが、現在大和郡山で「元禄時代」と誤って比定されて居ります「絵図」は「延宝七年~貞享二年迄」の松平信之公時代の寺院配置を示す貴重な「絵図」と見て居ます。その理由と何故誤ったかの推測も含めて後述致しますが、・・・ 《和刕郡山》内閣文庫-番号-和36160 冊数227-8 函号176-282 上記絵図を閲覧した限り、包み紙にも絵図にも「年代記名」が一切有りません。絵図の保存状態も、良い物です。(平成八年閲覧)【余談・勤務場所から歩いて数分・元々閲覧票を持ってました】

本文は18項目・33ページに及び、記載の其の4ページ前段に《「ふるさと大和郡山事典」と「市史」の中の関連した部分を同封致しますが、それらを集約すると次の五点に収斂されるのです。》また後段に《「浄真寺と西岸寺」について記述されたものは殆どは①②③のリピートなのてす。裏を返せば「データ」が殆ど無かったか、調べずに記述したものと思われる程なのです。逆に、発志院の絵図が在り、その他の絵図も確認していながら、更に「市史の別冊」に第二次本多家の家臣並びに「家中寺」が載って居るのに「何故”無視”」と云う疑問は何度も有ります◎以下、文中に「菩提寺」「菩提所」「家附寺」「家中寺」「随伴寺」「順列」と使分致しますが・・・》回答根拠文書は推測通りだったのは前述済み。 要は至極簡単な事なのです。第二次本多家39年間に「西岸寺」⇒「浄真寺」⇒「西岸寺」。「久松寺」⇒「円光院」⇒「久松寺」。「雲幻寺」⇒「清水寺」⇒「雲幻寺」。と主要3ヶ寺が途中一斉に別名になると言う認識なのです。誰でも解かるように2ページに「表」にして入れました。 夫々、単独の「一寺地」のみの解釈で「絵図全体」俯瞰し「比較考証」する発想の方が休まれて居たようです。

「久松寺」に関しては本文28ページに《「廃寺」と書いた時でも現在でも、一度として「確認」した事が有るのでしょうか。・・・そうで無かったら「曹洞宗宗務庁 03-3454-5411、もしくは曹洞宗近畿管区教 化センター 075-351-4480」へ確認されて戴きたいと思います。》 付記【また本寺の「龍雲寺」ですが「久松寺」の事は認知して居りましたが現在の本末は未確認】

前回のコメントの末で郡山に詳しい方?と勝手に夢想し「歴史事典」は広報の勧めで平成8年に購入しました。市史は在庫無しとの事。索引等非常な優れものです。もし参考に為るなら「郡山城第36次」大職冠地区発掘調査概報の40ページまとめ考察③を参照されて下さい。自分の【違和感】感じた切っ掛けは「其の部分」と歴史事典114ページの記載でした。元を誤ると「浄真寺」「良玄寺」「雲幻寺」等の説明も??になって行くのです。 私は見て居りませんが回答には「郡山城第35次」も同じ誤りと有りましたが。 これ以上中身を書きますと傷つく方も居ない訳では無いでしょから「留め」ます。 もし、個人的に御必要なら「提起」と「回答」を提出するのは構いませんが「回答」を書かされた人の苦衷を想像すると、忍びません。 【西 岸 寺】◇ 第一次、第二次本多家の菩提寺。浄土宗。慶長15年(1610)勢州桑名にて本多中務大輔忠勝卒去。父の為に其子美濃守忠政、菩提寺を開基す。忠勝の法名西岸院殿長譽良信大居士に因りて西岸寺と称す。開山和尚は下総小金の東漸寺(東国18檀林の一)住職照譽了學(後芝増上寺17世住職)。また了學和尚は、かつて本多忠勝の招きで文禄4年(1595)上総大多喜に於いて良信寺を開山す。忠勝の子忠朝、大阪の陣で討死、忠朝の法名を冠し良信寺を良玄寺と改める。茶町の良玄寺の基です。美濃守忠政、姫路転封に及び西岸寺も随従移転し姫路に於いて建立。忠政、西岸寺にて葬され遺骨は円教寺へ納。姫路以降、本多忠勝の血脈を引く各地の本多家の筆頭菩提寺は西岸寺となる。政朝の養子本多政勝(忠朝の子)郡山入部に際して西岸寺随従移転。本多忠国奥州福島へ転封に伴い随従移転。第一次本多家時代の寺領300石。代わって貞享2年(1685)本多忠平下野宇都宮より郡山入部に際して西岸寺随従移転。九條山の浄真寺を廃し西岸寺と為す。享保9年(1595)柳沢吉里郡山入部に伴い廃絶。  第二次本多家時代の寺領150石。《参考》忠村御代分限帳、姫路城史、大多喜町史、桑名市史、松戸市史、岡崎市史、新編岡崎市史、郡山城下絵図、寛政重修諸家譜、諸藩要覧、宇都宮城図》 「歴史事典」114ページと比較されて下さい。すると他寺も想像出来ると思います。 「自分について」 貴兄が御心配なさるように自他共に認める「素人」なのです。社学の教官時のヒマから「大塚」に特化した調べものが出だしです。かれこれ二十年以上も前に寺に関しては華族・宮家が入った為に約40数ヶ寺が移転した赤坂区。都の調査でも、半数以上は不明なのですが「姻族」故に「都公文書館」の教示で調べたり、姻族「私の名付親」の家は井上河内守の藩士で元和~明治初年まで13回も転封。系図を基に寺等照会を掛け途中で分かれた子孫に辿りついた事も有ります。其の過程で「随伴寺」「国替の藩」が家臣等の寺割、住居割等の為に江戸表で「絵図」が必要だった事も聞きました。 個人に関しては「町史」「市史」等に載せる事は余り無いので「翻刻」されないものは「教育委員会の許可」を頂き倉庫の中の蒐集史料を閲覧コピーもして居ります。一度、病気をした為に残念乍、20年位前から保護者(妻)付きでの調査で効率はかなり落ちました。職務では役所関係の体質は何処も似て居りますので姑息な手段で「本省」からの指示と省力化?したりで、休日家庭で仕事をこなし迷惑を掛けなかった心算です。 また、各地の一寸した疑問提起に対しては改訂版発行時、教育長名で御恵送頂いたり、編纂資料発行時、町史等頂き励みとして勉強させて頂きました。その過程で色々な方の知己を得たのです、職務のジャンルは「原因解明」「策定」。「サンプル比較」その体質が付いて居る為に、精度疲労を起こした「メモリーの中で比較」し「違和感」を感じるようですね。

長くなって申訳有りません。披見後、削除されて下さい。 合掌 --59.86.81.98 2008年11月2日 (日) 09:03 (UTC)大塚 追記【言訳をする度に趣旨に反するようで忸怩たる思いで、今回以降投稿は中止致します。無駄なメモリーを使用し済みません。】 平成八年当時、貴兄のように大和郡山に関し博識で真摯な方を存じて居ましたらと悔やんで居ります。気力は些かも衰えて無い心算ですが70に手が届く我が身を恨みます。リハビリを兼ねて、槍、穂高、昨年は木曽駒と何時心筋梗塞になるかとヨタヨタと歩いて居ります。 「久松寺」に関して・・平成8年当時 【兼務住職は大阪の長楽寺】さん。 【観音様は修理されて京都八幡市の神応寺】さん。 また平成8年当時、千葉県夷隅郡大多喜町の良玄寺の兼務住職は桜谷寺の尾高重暉師。(大和郡山市では【移した】とされてますが【名跡を移した】だけです。 大多喜町の良玄寺は屋根の葺き替え時には、教育委員会で立ち会ってました。大多喜町の観光の目玉は、大多喜城、忠勝画像、良玄寺なのです。東京駅等に貼って有る大多喜町の観光ポスターの写真は甲冑姿の本多忠勝公の画像なのです。「良玄寺」は地元の文化財に類する史跡なのです。『移された』とされては該地では決して心地良い物では無いでしょう。某市の「ふるさと歴史事典」のコピーを見られて精一杯の皮肉?なのでしょう。「雲幻寺が政勝等の墓石を倒して埋めて、また雲幻寺が掘り出して由緒が判ったと云う事のようですね」と。 参考として簡単に関係したプロフィールを記します。参考は省略します。 【大多喜「良玄寺」浄土宗】・・文禄四年上総大多喜に於て本多忠勝「良信寺」を開基。開山和尚は小金(松戸市)東漸寺住職照譽了學。忠勝の次男出雲守忠朝が元和元年5月7日大阪天王寺の戦いに討死し(34歳)、その法名・三光院岸譽良玄大居士の良玄を冠し「良玄寺」の寺号に改める。猶、大多喜町良玄寺は現在無住乍現存し、忠勝、忠朝の位牌、忠勝、忠朝、政朝の文書、忠勝公の画像を有している。【大和郡山「良玄寺」浄土宗】・・寛永16年、嫡流の本多政朝の養子政勝(忠朝の子)が姫路から郡山に入部。其れに随伴して菩提寺「西岸寺」を筆頭に帰依寺(浄専寺、永昌寺、慶雲寺、浄真寺)が移転。また本多政勝は祖父忠勝開基で実父忠朝由緒の「大多喜・良玄寺」の『名跡』を移し郡山城下・茶町に於いて良玄寺を開山し菩提寺と為す。延宝7年6月、本多政武(忠国)奥州福島ヘ転封に際して九・六騒動のシコリで政勝に由緒の良玄寺、浄真寺を郡山に残置す。同年6月26日、松平信之公明石から郡山入部に際し「良玄寺」を廃して筆頭菩提寺・清水寺と為す。【大和郡山「良玄禅寺」臨済宗】天和元年、本多忠平、宇都宮入部に際して、白河皇徳寺住職大岐東周を招いて宇都宮城下熱木町に帰依寺・雲幻寺を開基す。貞享2年、一族で庶流の本多忠平下野宇都宮より郡山入部に際して宇都宮城下熱木町より帰依寺・雲幻寺随伴。清水寺跡を雲幻寺と為す。其の後、昭和56年、寺名を「雲幻寺」から「良玄禅寺」と改称す。【大和郡山「浄真寺」宗派不明】忠国福島転封で残置された寺ですが、一次本多家郡山在藩中、藩主本多政長公延宝7年4月24日郡山で卒去。法名・高松院殿前中務法誉性信涼大居士。九条山で荼毘、「浄真寺」に葬される。貞享2年9月15日、本多忠平郡山入部に際して「浄真寺」を廃して「西岸寺」と為す事を受け姫路の本多忠国公、前藩主の政長公の遺骨を姫路書写山円教寺へ改葬す。猶、上記忠国公は天和2年2月12日に姫路に転封となっても養父政長公を改葬しなかった理由は「浄真寺」が松平家の家附寺とされず存して居た故と思われます。【大和郡山「良玄寺」の寺格について】「名跡」を移した場合の「寺格」ですが詳細は不明ですが自分が知り得た二例では「本寺」と同格なのです。岩城平氏の龍門寺は末寺孫寺併せて65ヶ寺、有りますが秋田岩城へ「名跡」を移した龍門寺は同格です。石川氏の長泉寺も角田へ「名跡」を移して本寺と同格です。推測ですが大和郡山へ名跡」を移した「良玄寺」の寺格も大多喜の良玄寺と同格と思われます。 【推定移転経路】 一次本多家【西岸寺】☆桑名⇒姫路⇒郡山⇒福島⇒姫路⇒村上⇒刈谷⇒古河⇒浜田⇒岡崎「現存」。二次本多家【西岸寺】☆桑名⇒姫路⇒掛川⇒村上⇒白河⇒宇都宮⇒郡山で「廃寺」。【久松寺】☆大多喜⇒桑名⇒姫路⇒掛川⇒村上⇒白河⇒宇都宮⇒大和郡山「現存」。【雲幻寺】☆宇都宮⇒大和郡山「現存」。【西岸寺】は姫路以降分流。 心残りは「法光寺」です。「明細帖」には本山が黄檗宗「万福寺」とあり、「発志院」「王龍寺」と同様なのです。忠平公を含めた以降の好みのようです。郡山での創建ですが、下屋敷を寺院にし、跡が柳沢家の菩提寺となったのですから。平成8年に全て放棄撤退し一切関わって居りません。貴兄にお許し願えるならお願いしたいのは「法光寺」です。当時推測したのは忠義の妻(森忠政の女)の法名が「法光院」なので忠平公が「母の」菩提の為に建立したのかと「推測」しただけです。「分限帖」には順列上「西岸寺」150石「法光寺」150石「久松寺」150石「雲幻寺」15石とあり、本多家では二番寺として位置付けられて居ます。--59.86.81.98 2008年11月2日 (日) 11:47 (UTC)大塚[返信]