ノート:五箇条の御誓文

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「現在語訳」について[編集]

あえて「現代語訳」というものを掲載する必要はないと考えます。Wikipediaは「定訳」といったものを提供する場ではないでしょう。特に、「天地ノ公道」が国際法を意味するのか、「盛ンニ経綸」が「国の政策のために働く」なのか、「皇基ヲ振起」を「日本という国を発展」と読んでいいのか、これら一点一点の解釈は、この五箇条御誓文の意味に深く関わる事柄であり、軽々しい翻訳/現代語化は慎むべきだと考えます。 --にごう 2005年8月4日 (木) 07:25 (UTC)[返信]

異論はありません。現代語訳よりも、どのように解釈されるのかということを簡単な文章で書く方がいいと思います。--Shinー改 Talk 2005年8月17日 (水) 09:12 (UTC)[返信]
現代語訳を削除し、それに代えて各条文の解釈を記述しました。--俊平太郎 2006年2月12日 (日) 09:52 (UTC)[返信]
「ウィキペディアは訳文を提供する場ではない」、などというルールはウィキペディア上に存在しないはずです。その項目の理解を助けるための文章を掲載しないというのは、百科事典としての目的を“軽々しく”放棄しているのではないでしょうか。軽々しく翻訳/現代語訳するのが慎むべきならば、慎重な翻訳/現代語訳に加筆訂正し、解釈が二つあるならばそれを説明すればいいでしょう。それに、解釈が分かれるなら書けないというのでは、ウィキペディアに書けることなんて何も無くなってしまいますよ。--Villeneuve1982 2007年4月25日 (水) 05:21 (UTC)[返信]
本文をお読みになりましたか? お求めの「説明」は既に書かれていると思います。読んだ上で、今の書き方が不十分・不適切と思うのであれば、加筆・修正をお願いします。--俊平太郎 2007年4月26日 (木) 15:08 (UTC)[返信]


あまり説明になっているとは思えません。五箇条の御誓文は、数学の難しく発展的な数式ではなく、中学校の歴史にも出てくるような基本的な事柄です。しかし、簡単に書くようにトライされているようですが、この説明では結局どういう意味なのかは理解しづらく、結局のところ、五箇条の御誓文の現代語訳を知らない限りは、意味を示すという目的にはかなっていないと思います。それに、もっと長い文章になりますと経緯を説明しても説明になりません。新日本建設に関する詔書でも、訳語は中立でないから消せという理論で消そうという意見が書かれていますが、あれだけ長いものでは解釈をを説明しようとしても無理でしょう。訳語を示さず現代の人に意味を説明するというのには根本的に無理があるわけです。訳禁止というのはその点から言っても、百科事典としての意味を損なう、安易で勝手なルールだろうと思います。ウィキペディアの外国語版でも、訳をあえて載せないなんていう方法はとっていないようですしね。--Villeneuve1982 2007年4月27日 (金) 06:04 (UTC)[返信]
そうであれば、あなたが考えているところの「説明になっている」解説をあなたが記載すれば宜しいのではないでしょうか。それに、勅語や奉答書には既に訳文が記載されているわけですので、条文にも訳文を載せるのはやぶかさでありません。分かりやすい訳文、素晴らしい解説を、是非お願いします。◆ ただ一つ申し上げたいのは、御誓文の条文というものは、起草者の間でも見解は違うし、受け手によっても意味が違ってきてます。唯一正しい解釈などというものは存在しないと思います。唯一正しい解釈があるかのような誤解を生まないように留意してください。◆それと興味本位で恐縮ですが、「ウィキペディアの外国語版でも、訳をあえて載せないなんていう方法はとっていない」というのは、具体的にどの項目でしょうか? できれば英語版でお示しいただけると有難いです。紙の百科事典では訳文なんてものは載ってないのが普通ですので、ウィキペディア特有の現象として興味深いです。--俊平太郎 2007年4月27日 (金) 15:05 (UTC)[返信]
とりあえず訳文を復活させてもよいという合意ができればそうします。しかしながら、その”解釈はいくようにも取れるから、載せるな、消してしまえ”という風潮があるのであれば無駄ですし、”勝手にすれば”という風潮でも、私一人で書き込んで私一人の解釈の訳文しか載せられなくなってしまいますので、合意ができないと難しいですね。だから訴えかけてみているわけですが。  外国語版についてですが、この部分をみて真っ先に浮かんだのが、君が代en:Kimi ga Yoの項目ですね。あれほど解釈の分かれるものは無く、”訳禁止論”でいけば真っ先に消すべきものかと思いますが、日本語版では中立的な訳を、英語版では説明付きで”天皇説”の訳を取っています。せっかくの訳文は、消す前にこういう道を探るのが妥当だろうと思います。あと、紙の百科事典でも、重要なものについては資料や便覧という形で載せている場合もあると思います。ウィキペディアの場合ならウィキソースですかね。(訳文はウィキソースへ行けという意見には反対ではありません。)Villeneuve1982 2007年4月28日 (土) 05:33 (UTC)[返信]
合意を得たいと思うのであれば、Villeneuve1982 さん自身が訳文の例(叩き台)を示してみてはいかがでしょうか。どのような訳文案が出てくるのか分からないのに、合意を求められても何とも反応しようがありません。◆英wikipediaの君が代の事例、ありがとうございました。私の質問の仕方が悪かったのかもしれませんが、私が求めていたのは同一言語内で古語を現代語訳している例です。今話題となっているは現代語訳ですから。異なる言語間の翻訳ということであればen:Charter Oathに御誓文の英訳が載ってます。これは日本政府による英訳ですね。--俊平太郎 2007年4月28日 (土) 07:20 (UTC)[返信]
上にも書いたのですが、五箇条の御誓文であればわざわざ新訳をたたき台にしなくても今まであったものを“復活”でいいかと思います。ですから、一度消すという方針になったわけですから、復活には合意が必要ではないかと。[1]この版まであったものでどうでしょう。◆同一言語内での例ですが、同一言語内で現代語訳が無理なら、なおさら異言語間の訳なんてしちゃいけないのでは。異言語間で大丈夫なら、現代語訳は問題無いのではないでしょうか。--Villeneuve1982 2007年5月6日 (日) 15:11 (UTC)[返信]

慶応四年について[編集]

冒頭の日付を慶応四年から明治元年に修正します。本文中に書きました通り、明治改元により慶応四年は1月1日に遡って明治元年に改められました。大正以降が改元当日以降改められるようになったのとは異なりますので要注意です。したがって、御誓文の日付を元号で表すときは、明治元年3月14日と表すのが正式だと思われます。俊平太郎 2006年2月25日 (土) 03:42 (UTC)[返信]

「御誓文」について[編集]

正式名称が「御誓文」とありますので、主題を「御誓文」と改め、 「五箇条のご誓文」のリダイレクトページにすべきではないかと思いますがいかがでしょう。 --okyamane 2009年11月21日 (土) 07:26 (UTC)[返信]

コメント すみませんが、記事名の改名提案の手順を満たしているとは思えません。きちんとした手続をお踏みいただかないまま、一部の方の意見だけで進行するようなことになれば、あとあと面倒な物議を醸すことになると思います。Wikipedia:改名提案を今一度お読みいただき、ご一考を。--無言雀師 2009年11月22日 (日) 03:33 (UTC)[返信]

文案の並び順について[編集]

上から最終文、由利案、福岡案の順に並んでいますが時系列に沿って最終文、福岡案、由利案の方が自然な気がするのですか、この並びになっているのはなぜでしょうか? --116.80.4.253 2015年7月31日 (金) 00:24 (UTC)[返信]

「天地神明ニ誓ヒ」について[編集]

具体的にどのような典拠を要求しているのか不明だったので、差し戻し。神前にて天地神明に誓う形式なので神道なのは明白なのでは?神道以外の宗教にも天地神明という概念があるのですか?--おはぐろ蜻蛉会話2023年4月27日 (木) 05:16 (UTC)[返信]

この部分はUTC2023年4月24日 (月) 15:22に、匿名利用者の方が「明治天皇が天地神明に誓約する形式で」を「明治天皇が神道の中の天地神明に誓約する形式で」に変更されたのですが、「神道の中の天地神明」という言葉が分かりにくいため、こうした表現にされたのはどのような根拠・理由かとお尋ねしたくて、細かいことなのですが、要出典を付けました。
明治天皇が誓ったのは「天地神明」あるいは「天神地祇」、すなわち天津神・国津神だと思いますが、これら日本の神話の神々に誓ったのであって、神道のそれ以外の神様(例えば孝明天皇とか、徳川家康とか、菅原道真とか)は含まれていないかと思います(神道には詳しくないので、間違いがあるかもしれません)。「神道の中の天地神明」が「神道の神々」の意味なら、実際に明治天皇が誓った天津神・国津神よりも大雑把な表現になっているように見えます。
また、「神道の中の天地神明」があるなら、「神道の外の天地神明」もあるかのようにも読めますが、そういう区別はないのではないかと思います。
あと、これは私の印象ですが、「神道の中の天地神明に誓約」という言い回しだと、「日本神話の天地神明に誓約」などの言い回しよりも、なんか話のスケールが小さくなるようにも感じます。
さらに、1868年時点の神道とは何か、という問題も生じそうです。国家神道はこの時点ではっきり成立してないでしょうし。
こうしたことから、「神道の中の天地神明に誓約」はあまり良い表現に思えず、この部分は「明治天皇が日本神話の神々に誓約する形式で」がよいかなと考えています。要出典が削除され、出典がないということであれば、出典をもとにこうした記述に修正しようかと考えています。--Villeneuve1982会話2023年4月27日 (木) 11:29 (UTC)[返信]
「天地神明ニ誓ヒ」という文言を根拠にするのではなく(それは一次資料なので)、その文言についての専門家の論考を根拠にすることが重要だと思います。この周辺については、津田左右吉の論考「メイジ維新史の取扱ひについて」[2]があります。津田はむしろこの部分は儒教的であると指摘しているようです(「天地を祭るといふのが儒教思想であつて」)。もう少し新しい論考を調べたいところですが。尚、単に「明治天皇が誓約する形式で」に変えれば、何に誓っているのかという問題は回避できると思います。冒頭はこのように簡潔に留めてもいいかと思います。 --2001:268:C208:CE80:91FD:C986:8C8A:1989 2023年8月25日 (金) 12:29 (UTC)[返信]
「天地神明に誓う形式なので神道なのは明白」という点を支持する出典があれば、お願い致します。尚、セクション名が日付のみで分かりにくいため、内容を表す名前にしました。 --2001:268:C204:4C11:A4E0:32EF:DD6B:DD69 2023年9月16日 (土) 01:38 (UTC)[返信]