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ノート:今川義元

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なんでユリウス暦なんですかね?ややこしいな。--61.45.82.136 2005年5月30日 (月) 11:51 (UTC)[返信]

法名

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梅岳承芳は誤りで、栴岳承芳が正しいと聞いたのですが…--fryed-peach 2007年1月29日 (月) 17:16 (UTC)[返信]

とりあえずソースをお願いします。Kuro-hato 2007年1月30日 (火) 08:13 (UTC)[返信]
参考文献に名前がある小和田氏は栴岳承芳の方をとってます。「栴」の字が「梅」の字と誤伝されたとか。検索すれば併記してあるサイトが大半です。それくらい自分で検索すればわかるとおもいますが・・・。--彩華1226 2007年2月4日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
出典の明記を求められているのに、「自分で調べろ」というのはどうかと思いますが。出典の明記というWikipediaの基本方針にも反しますし。とりあえず私が確認した出典先を挙げときますね。

今川義元の肖像について

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ややこしかったので、画像がありませんの画像を貼りました。--んどん 2007年9月23日 (日) 02:29 (UTC)[返信]

この画像、源義基だと思うのですが

朝倉宗滴話記の記述について

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戦国大名越前朝倉氏(一乗谷朝倉氏遺跡)朝倉氏関連資料案内

●朝倉氏関係図書・資料・論文(要 Adobe®AcrobatReader)  ● 「朝倉宗滴話記(金吾利口書)」(PDF)

で、朝倉宗滴話記の原文が公開されており、そこでは、今川殿とあり、義元である可能性はあるが、今川治部大輔(書状のサイン)、今川義元となっていない以上、断定はできない。

群書類従に、義元とは書かれていないのでは?今川殿義元なる表現はおかしいですし。出版社の注釈の可能性ありますね。 どっちにしろ、WEB上で確認できませんし。

細川晴元、三好修理太夫殿(長慶)、織田上総介(信長)は特定できますけど、正木大膳は正木氏当主代々の名乗りですし。

今川殿、甲斐武田殿、長尾殿、安芸毛利、大内殿、土岐殿は、誰なのか特定できません。朝倉宗滴の生きていた時代に該当する人物はたくさんいますので。

今川義元と強引に解釈して高評価したいのでしょうか?朝倉宗滴話記を載せるにしても注釈は必要でしょう。

朝倉宗滴が、今川義元を高評価していたなら、同時に織田信長も評価し、桶狭間で義元は信長に討たれるなど、結果を無視した評価ではないでしょうか?--ハニーハニー00 2008年12月16日 (火) 12:10 (UTC)[返信]

とりあえず節を分けておきました。さて、「朝倉宗滴話記」には異本がいくつかあります。戦国大名越前朝倉氏で使用されているのは須永金三郞校訂『朝倉叢書』所収の「金吾利口書」です。題名も少し違うように「朝倉宗滴話記」(『続々群書類従』の題)の異本の一つです(異本というだけで私は須永氏がどの写本を利用したかまでは分かりません)。一方『続々群書類従』では、東大史料編纂所所蔵の謄写本が底本で、黒川氏所蔵本で校訂し、2つの異本も参照にしたとしています。なお「宗滴夜話」という題で加越能文庫(福井県立図書館蔵)にも異本があります。
『続々群書類従』では、「今川殿(義元)甲斐武田殿(信玄)」という記述です(括弧内は本文の他字より少し小さい字)。出版社の注釈ではなく、国書刊行会の校訂のなかでの補記利用した版本で小字だったのでしょう。出典として『続々群書類従』を出すには問題ないでしょうが、評価が不合理云々として、「金吾利口書」を優先し『続々群書類従』を否定するのは、校訂の是非を問うことになってしまいます。その主張を行っている論文・書籍が必要でしょう。WEB上での確認可能性は優先すべきものではありません。----KurmUmy 2008年12月16日 (火) 15:20 (UTC)一部修正--KurmUmy 2008年12月18日 (木) 14:18 (UTC)[返信]
>朝倉宗滴が、今川義元を高評価していたなら、同時に織田信長も評価し、桶狭間で義元は信長に討たれるなど、結果を無視した評価ではないでしょうか?
結果も何も、宗滴は桶狭間の前に死んでいます。宗滴の同時代人として評価と桶狭間の結果は全く無関係です。
江戸時代以降の講談話における義元像と近代以降の歴史研究の結果としての義元像は全く違います。あなたの編集傾向を見るとそのことを理解されていないのではないかと思います。もちろん義元の名君としての評価が氏親あってこそのものであることは間違いありませんが(近年の小和田・有光両氏も述べておられます)。--彩華1226 2008年12月16日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
「義元ではない可能性がある」という出典をあなたの個人的な意見以外で挙げてください--彩華1226 2008年12月24日 (水) 16:58 (UTC)[返信]


朝倉叢書所収の「金吾利口書では、国持ち人使い下手として、細川晴元が記載されています。

今川殿(義元)という表現が原本に共通の表現でないのは明らか。今川義元と書けばいいのに。(義元)が出版社によって、後から付け加えられた可能性が高い。

どの原本にも共通の表現なら、今川殿のはずです。

織田上総介=信長が挙がっていることからの出版社の推測による補足としか思えない。--ハニーハニー00 2008年12月25日 (木) 07:13 (UTC)[返信]

今川殿(義元)(*括弧内は小字)という記載が版本に共通でないのは事実でしょう。ですが、「(義元)が出版社によって、後から付け加えられた可能性が高い」などとは根拠がありません。独自研究です。上で利用者:彩華1226様がおっしゃるとおり、出典を出してください。--KurmUmy 2008年12月25日 (木) 07:24 (UTC)[返信]

本文中には、そのようなことは記載していませんが?金吾利口書では今川殿であるのは間違いないですよね?

では、なぜ、群書類従本では、(義元)なんでしょうか?

群書類従は、異本の校合、異本の校勘を行って編集している書物です。他の原本写本と異なる記述が多いです。

群書類従本では、(義元)だから、他の異本も、すべて義元であると言い切れないのでは?

群書類従本と他の異本は、他にも差異があり、これは朝倉宗滴で指摘しています。

群書類従本が、他の異本の記述より優先する理由があるのですか?--ハニーハニー00 2008年12月25日 (木) 07:34 (UTC)[返信]

問題のすり替えです。「義元」の小字を「出版社の推測による補足」とするのが独自研究・憶測と言ったのです。「群書類従本では、(義元)だから、他の異本も、すべて義元である」などと主張していません。当然「義元」が無い版本がありますね。ただその事実を以って「義元ではない可能性がある」という記述を行うのに対して出典が求められているのです。また、異本の校合・異本の校勘を行って編集している書物=群書類従といわれますが、複数の版を考証しより正確だとする形に整えたといえます。単なる1版本のみよりも信頼性は高いのですが。これは須永金三郞氏も同様の校訂作業を行ったと思われます(手元に実物が無いのでどのような校訂なのか不明です)。校訂の是非になるので優先などできません。『続々群書類従』を出典にしており、それを根拠に研究書が利用していることがわかればよいでしょう。なお「金吾利口書」に「義元」が無いのを指摘するだけなら問題なしと私は考えます。前回は間違えて消しすぎました。--KurmUmy 2008年12月25日 (木) 08:11 (UTC)[返信]

「政治・軍事に卓越した」との記述の「軍事」の部分を消すのは独自研究に当たりませんか? 文面もなんだかバランスが悪いですし。一応北条や遠州豪族とかとも戦っているようですが、陣頭に立って槍働きをしなければ軍事的才能は認めないということでしょうか。Kuro-hato 2008年12月25日 (木) 14:16 (UTC)[返信]

朝倉宗滴の生きていた時代に「今川殿」に該当する人物が義元以外にも居るのは理解できますが、「織田上総介」が信長だと特定できるなら、「今川殿」が義元をさす可能性は非常に高いのではないでしょうか?
信長のページで信長が上総介を名乗ったのは天文15年(1546年)となってましたが、この事から考えれば「朝倉宗滴話記」が書かれたのがそれ以降なのはほぼ確実でしょう。一方、朝倉宗滴は弘治元年(1555年)没となっていますので、「朝倉宗滴話記」が宗滴が書いた(または、宗滴の言葉を記した)とするならば、「朝倉宗滴話記」の成立は1546年から1555年の間という事になります。この期間は一貫して今川家の当主は義元です。これを受けて「今川殿(義元)甲斐武田殿(信玄)」というような記述がなされていると考えるべきでしょう。もし、今川氏輝のことを言いたかったとするならば、「先代」のような表現を付け加える方が自然ですしね。
こう考えてみると、義元のページで「朝倉宗滴話記」における「今川殿」に関する記述があるのは、特に問題ないかと思います。逆に他の今川家当主のページに「朝倉宗滴話記」に関する記述をする方が、より問題になるかと考えます。
Carbucketty 2008年12月25日 (木) 17:05 (UTC)[返信]

朝倉宗滴話記の著者は、家臣の荻原宗俊です。よって、1555年に作成されたものではありません。それ以降です。

また、朝倉宗滴話記には、伊勢早雲も登場しており、今川殿が氏親をさす可能性がある。

ほかにも、朝倉英林孝景も登場する。信長時代に限定するほうがおかしい。

信長が家督相続したころを基準に人名が列挙されているわけではない。

的外れな妄説で、他人を批判する前に、少しは原書を読んでからにしてください。--ハニーハニー00 2008年12月26日 (金) 08:34 (UTC)[返信]

たくえつ[―ゑつ]他よりもはるかに優れている・こと(さま)。

織田信長に桶狭間で大敗討ち死にしたのに、軍事で卓越という評価はおかしいでしょう。内政に関しては、特に秀でているとは思えませんが、多数の書状から確認するに、領国の統治には配慮していた、もちろん、雪斎、寿桂尼の後ろ盾あってのものですが。

北条との会戦って、太閤記で秀吉が采配を振るって今川が勝ったことになってるあれのことですか?北条に駿河国の駿東郡を侵略されといて、雪斎の三国同盟のおかげですよね?国境紛争の終焉は。 義元自ら前線に出て大勝したという戦歴は聞いたことないですが。--ハニーハニー00 2008年12月26日 (金) 09:10 (UTC)[返信]

著者に関する私の不勉強を指摘いただきまして、まことにありがとうございます。以前に示されている戦国大名越前朝倉氏のページのPDFの該当箇所周辺だけを読んで発言したので、「朝倉宗滴話記」自体の周辺事情はあやふやなままだった事をお許しください。
ただ、「朝倉宗滴話記」が宗滴の言葉を記したものとするならば、前述の条件は変わらないと思うのですが、いかがでしょうか?
早雲や孝景の事が話題に挙るのは「今川殿」の記述とは別段ですよね。一方、「織田上総介」が出てくるのはズバリ同じ段落です。これを勘案すればこの段落に限っては1546年から1555年に宗滴が語ったと考えるべきではないですか?「朝倉宗滴話記」は荻原宗俊の創作か、それに準じるものだとするならば、この限りではないですが。
そう考えれば、私の結論は前記のままで変わらないのですが、まだ私の不勉強な点があるようならばどうぞ遠慮なくご指導ください。
ちなみに、前回の書き込みは「私の意見」を書いたつもりでして、特定の方を「批判」したつもりは毛頭ありませんので、付記させていただきます。
Carbucketty 2008年12月26日 (金) 09:25 (UTC)[返信]

差し戻しの理由

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2008年12月27日 (土) 21:19の221.132.128.120さんの投稿なのですが、資料によっては今川軍が4万5千というものがあったり(他にも6万5千とかいったような資料もある)して、2万5千と確定できないので、差し戻させていただきました。悪しからず。--人造人間だみゃ~ん対話|履歴 2008年12月27日 (土) 12:35 (UTC)[返信]

評価の出典について

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編集の際に示した[1]ように、研究書籍

差し戻しの理由 その2

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2009年1月13日 (火) 11:07の59.84.3.167さんの投稿なのですが、元信の忠義に信長が感動したかどうかは不明なので(もしかしたら無駄に犠牲者を出す必要はないという政治的判断を信長がしたのかもしれないですし、その辺は当時の信長に聞いてみないとわからないでしょう。もちろんそれは不可能です。)、その部分は差し戻させていただきました。悪しからず。--人造人間だみゃ~ん対話|履歴 2009年1月13日 (火) 06:43 (UTC)[返信]

「三国同盟」の表記

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三国同盟の表記ですが、武田氏研究者の丸島和洋氏のサイトにおける日記で、慣例というほどでもないが、研究者の間では自身の専門とする戦国大名家の略称を先頭に持ってくる、と丸島氏は記されていた覚えがあります。わたしが見渡しているのは武田氏・山梨県史サイドの文献が多いですから三国同盟の通称は「甲駿相」である印象が強いのですが、今川氏・静岡県史研究や後北条氏・神奈川県史の世界ではどのようになっているのでしょうか?個人的には、義元の記事であれば「駿」が先頭に来るのが適切ではないかと思うのですが、今川氏・静岡県史界で一般的であるのかどうかは定かではありません。--でここ 2010年6月15日 (火) 08:55 (UTC)[返信]

戦国期今川氏の研究者ではないので学界での慣習に通じていないことをまずお断りします。要約にも記入しましたとおり、今川氏・静岡県史サイドでは、有光友学氏が『今川義元』(吉川弘文館、2008年)で「駿甲相」を、小和田哲男氏が『今川義元』(吉川弘文館、2008年)で「甲相駿三国同盟」を使っています。また、『静岡県史』通史編では「三国同盟」の語自体がなく「駿甲同盟」「駿相同盟」(駿が優先)がそれぞれ論じられていました。ただ、『静岡県史』の別編である『図説静岡県史』では「駿甲相三国同盟」の語が用いられています(『静岡県史』編纂は有光氏が参画しています)。ほかの用例も探せばあるかもしれませんが、とりあえず材料として。
「甲相駿三国同盟」が用語として優勢であるならばそれに従ったほうがよいと思います。あくまでも個人的な印象としては「甲相駿」が一般的ではないかと思い、耳に馴染んだもののように思うのです。しかし、たしかに今川家主題ページでの「駿甲相」にも一理あるかと思います。パイプやリダイレクトがあるのがwikipediaの利点ではありますし、私としては「甲相駿」表記に強く固執するものではありません。--桂鷺淵 2010年6月16日 (水) 15:25 (UTC)[返信]
後北条氏のサイドでは少なくとも2000年代の著作では「甲相駿三国同盟」になっています(黒田基樹氏、山口博氏)。他の同盟でも特に「相」を頭に持ってくるということはないようです(「越相同盟」、「甲相同盟」等)。神奈川県史・郷土史関連では今、手元にないので自信はありませんが、覚えているものでは「三国同盟」のみで表記されていたような気がします。武田氏関係でも平山優氏は「甲相駿三国同盟」になっているので、時代的な潮流のようなものもあるのかも知れませんが、私も学界での慣習に通じているわけではありません。一応自分の判る範囲でのことです。私も表記に固執するものではありませんが、仮にwikipediaで統一した表記にするにせよ、慣習に準じるにせよ、該当ページかパイプで繋いだページ(甲相駿三国同盟)で、関係文献での表記にバラツキがあるということを説明しておいた方が良いのではと思います。--ジャムリン 2010年6月20日 (日) 04:36 (UTC)[返信]

桂鷺淵様、ジャムリン様、情報ありがとうございます。おかげ様で三国同盟の呼称に関して情報が集まりましたが、ただ用語の使用状況には錯綜があるようですし、「駿」を優先すべきではという私の意見をはじめ、様々な見解が成り立ちそうです。そこで、この問題は引き続き懸案事項としてノートに残しておくとして、問題を仮解決させる手段として、「三国同盟を結んだ」もしくは「三国の間で同盟を結んだ」と用語を用いずにパイプ処理し、脚注部分で「三国同盟の呼称に関しては三国の頭一字を取り主に武田氏研究の間で「甲相駿三国同盟」の用語が用いられており、今川氏研究では小和田哲男などもこれに従っているが、一方で今川氏・静岡県地方史においては有光友學など「駿」を優先し「駿甲相~」と表記する事例も見られる」とでも、補足情報を記しておくのが良いのではないかと考えますが、いかがでしょうか。--でここ 2010年6月21日 (月) 07:51 (UTC)[返信]

(追記)しかし、三国同盟に携わった太原雪斎などをはじめ今川氏関係人物すべてにその脚注文を入れるべきなのかと気づきました。うーん、どうするべきでしょうか・・--でここ 2010年6月21日 (月) 07:59 (UTC)[返信]

するとしても表記についてのバラつきの注意文は甲相駿三国同盟のページだけで良いのではないと思います。あとはパイプやリダイレクトで補えるのではないでしょうか?これから関連する新しい記事も立ってもそれでカバーできると思うのですが。--ジャムリン 2010年6月23日 (水) 08:15 (UTC)[返信]

「評価」について

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しばらく前に『『信長公記』を読む』を読んでいたのですが、『信長公記』、それを踏襲した甫庵『信長記』においては「天道」思想のもと信長の生涯を著述し、義元らの信長に対抗した勢力の敗北を必然のように記しているとありました。信長公伝に加えて、駿府で人質時代を過ごし義元死後に独立した徳川家康の来歴を著述した家康公伝の影響もあるかと思います。今川義元が「暗愚」な君主としてイメージされている背景には、こうした近世期の信長公伝、家康公伝、あるいは甲陽軍鑑の影響があるのではないでしょうか?現在の「評価」節は暗愚説の妥当性そのものを問うものになっていますが、そうした判断は閲覧者に任せて、そもそもどういった経緯で暗愚説が確立したのか、そして戦後の実証史学において、小和田氏などにより再評価された、という研究史の著述にしたほうがいいだろうと思います。

あと、まだ文献を確認していませんが、近年平山優氏によって有光友學氏の検地論への反論がなされまして、冒頭だけ読んだのですが従来は今川領国の貫高制の確立は途上で、その背景には中世的荘園公領制からの脱却ができず、それが今川滅亡に至った行進性であるとの評価であった、ということが指摘されていたと思います。「評価」節の「戦国大名としての評価」という著述も気になるのですが、義元暗愚説は決して実証史学における戦国大名論としての評価ではないですよね。戦国大名論としては検地論において行進性が指摘されていたこともあるようですから、きちんと切り分けて記述していきたいものです。--でここ 2011年3月7日 (月) 00:52 (UTC)[返信]