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ノート:仙台市立仙台高等学校

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仙台市立仙台高等学校とは、正式名称ではありません。 あくまで「仙台高等学校」が正式です。市立ではありますが、それを冠しないことに意義があり、昭和43年に卒業したものとしては、「仙台市立仙台高等学校」とは新しい学校か? と思ってしまいます。--以上の署名のないコメントは、61.207.78.104会話)さんが 2005-11-09T08:26:30 (UTC) に投稿したものです(nnh会話)による付記)。

それって、仙台市立の高校全てに適用されるのですか?それとも仙台高校だけですか?Sen-K 2006年2月7日 (火) 11:25 (UTC)[返信]

上記の批判を受けたものです。 以下に反論したい。 「また必ずしも、学校に帰属意識を持つ必要はないと思われます」とは、どのような意か? 真意がわからない。であるなら、仙高にいなくても良いのではないか? 中学と違って義務教育ではないのだし、何のための集団なのか、ということにならないか。このような考え方を突き詰めると「愛郷心」「愛校心」「愛国心」も不要ということになる。これこそが現代日本の宿亜といえるのではないのか。仄聞すれば、卒業式等での「国旗」掲揚「国家」斉唱も揉めているとか。これこそが仙高の伝統の破壊ではないのか。勿論、生徒の問題ではなく、学校側にその多くの責があるとは考える。昭和30~40年では、いつもはフラフラして見える3年生が「国歌」「校歌」の時は、背筋を伸ばして下級生に「範」を示したものである。「伝統や文化」と一口に言うが、先輩たちの「血と汗と涙」の蓄積が「伝統や文化」ではないのか。そして一度壊したとするならその復旧は困難であることも考慮したほうが良い。余りにも「伝統や文化」は受け継がれている、といわれるので「応援歌」の例を出したのだが、そのような例は数多くあり、一々論うこともないと思うが故に、「伝統や文化」は廃れていると書いたまでのことである。しかし一方で目を転じれば例えば、盛岡一高や一関一高では「伝統や文化」を保持・継続しているではないか。近いところで言えば仙台一高、二高はどうなのか。同じ伝統校(三高より長い歴史があるのだから)として恥ずかしくはないのか? 卑近な例で恐縮だが、昭和30~40年代では仙高は「進学校」としても全国区にあった(嘘だと思うなら、「サンデー毎日」の春の特集を見ればよい)。これも否定的と捉えずに何故「叱咤激励」として捉えることが出来ないのだろうか。 「物事をわざわざ強調して否定的に書く必要もないでしょう」とは、どのようなことか。小生が書いたことは全て事実であり、真実ではないのか。そうでないとするのなら、反証をすべき、と考える。もし、それを否定的と捉えるなら小生の至らなさなのだろうが、それは再び母校・仙高の輝きを取り戻して欲しいと願う小生の「愛校心」の発露である。 「中立的観点」とは、何をもって「中立的」というのか。全てを玉虫色でマアマアとすることなら、そんな「中立的観点」など必要はない。而して「中立的」という、それこそ「私的な印象」を押し付けることのほうこそ問題があるのではないか。 従って「仙高」であっても、本来あるべき「仙高」は存在せず、あるのは「魂」の抜けた名前ばかりの「仙高」のみ。この批判を書いた人物が「竹にすずめの仙高生」でないことを祈るしかないが、そうであるなら、昭和の先輩方に聞けばよい。いっそのこと「仙高」は廃校とし、新に「仙台総合高校」とでもしたら、どうか。 この批判は甘んじて受け、今後一切の書き込み等を遠慮させていただく。--以上の署名のないコメントは、61.207.63.232会話)さんが 2006-04-20T09:12:45 (UTC) に投稿したものです(nnh会話)による付記)。


「学校に帰属意識を持つ必要はない」の件について。自分が所属する学校に誇りを持つのは悪い事ではないと思います。しかしながら、自分の所属する学校に誇りを持ち、そこに帰属意識を持つかどうかは個人の内心に委ねられるものではないでしょうか。したがって「学校に対して必ず帰属意識を持たなければならない」という事にはならない筈です。ただし、「愛国心」などの含めて、そういった個人の社会的意識を、まったく個人任せにしてよいのかといった問題はあると思いますが、これは別に議論を要する事だと思います。

「学校の伝統」について。学校の伝統について記述する事は簡単なことではないと思います。というのは、ほとんどの人が、学校に数年しか在籍しないからです。生徒はもちろん、多くの教職員も10年と経たず転任するでしょう。そういった状況の中、自分が在籍していない時期について、本当に的確な記事が書けるのかどうか疑問です。確かに、進学校としての地位は失ったかもしれません。応援歌も継承されてこなかった。そういった目に見えて無くなった物を指摘する事は簡単かもしれません。でも、それが全てでしょうか。受け継がれてきたものは、本当に何一つとして無いと言えるのでしょうか。あるいは、新しい伝統はないのでしょうか。私達がこの百科事典で学校の項目を編纂するに当たっては、自分が在籍していた時期の事を思い直し「あの時はこういう事があった」と書くのが妥当ではないでしょうか。

仙高が変わったのだとしたら、それは、それを取り巻く社会的情勢が多かれ少なかれあるにせよ、他でもない仙高の生徒、教員が変わる事を選んだ結果であり、それを恥ずかしいと感じるかどうかは人によると思います。他校で伝統を保持する所があるのは、それはそこの教員や生徒が変わらぬ事を選んだ結果ではないでしょうか。

また蛇足ながら、「叱咤激励」を百科事典で行うのは無理があると思います。他のメディアを使うのが適当でより効果的であると思います。--以上の署名のないコメントは、218.222.66.198会話)さんが 2006-05-07T05:13:01 (UTC) に投稿したものです(nnh会話)による付記)。


こんにちは。初めてノートに書き込みをさせていただきます。 >「あの時はこういう事があった」と書くのが妥当ではないでしょうか。 というのはごもっともだと思います。しかし、それ以上の書き込みをしてはいけないとなると非常に淡泊な百科事典になってしまうのではないかと危惧しています。 私はある程度の「主観」「聞きかじり」の情報であっても、それが許される範囲というのがあると思っています。先輩から聞いた話、親から聞いた話など100%真実ではないにしても、全くの嘘ではない(むしろそのような風潮が多少なりともあった)ものもあると思います。 >他でもない仙高の生徒、教員が変わる事を選んだ結果であり、それを恥ずかしいと感じるかどうかは人によると思います。 これも、おっしゃるとおり、人に依るのですが、信念を持って変わったのであれば、それも併記すべきだと思います。すなわち、肯定的選択なのか否定的選択なのか引きづられる用にしてなった選択なのか。それは確かに短い高校生活においては知るよしもありません。しかし、そういう考えもあるということで書いていくのも、個人的には悪いことではないように思います。ご意見があれば是非賜りたいと思います。--Keydaimon 2006年5月8日 (月) 02:04 (UTC)[返信]


こんにちは。「信念を持って変わったのであれば、それも併記すべきだと思います。」に賛同いたします。仙高の変遷については何度か耳にした事があります。そこには、何らかの社会的事情や生徒教員の選択といった様々な要因があるはずで、それを記事にすれば価値あるものになると思います。ただ、あくまで個人的な話ですが、私は仙高の変遷について「昔は良かった」「今は駄目になった」といったような短絡的な内容しか耳にした事がありません。しかし、実際には様々な事情、要因があるはずですから、百科事典に記述する以上、まずは具体的事例から仙高が変化するに至った事情、要因を提示して、文章を展開する事が求められると思います。また、変化後の仙高についても正当に評価されるべきでしょう。--218.222.66.227 2006年5月12日 (金) 15:00 (UTC)[返信]

キリンガラナについて

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仙台ではそこかしこで売っていますよ。この記事を見てキリンの公式サイトに行くまでは北海道限定だとは知らなかったくらいです。売っている自販機は記事中に上げられているよりずっと多いのではないでしょうか?--惑星 2007年9月17日 (月) 03:46 (UTC)[返信]

外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

仙台市立仙台高等学校」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

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ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月25日 (月) 11:47 (UTC)[返信]