ノート:保科正之
「大老」について
[編集]ページ末に江戸幕府大老とありますが、そのリストに保科正之が入っておらず、また文中にもまったく大老について触れた部分がありません。「大老」のリンクを外すか、「大老」ではないけれども「大老」にリンクする理由を説明すべきだと思いますが……。 そもそも保科正之は大老だったのでしょうか? --カラジチ(会話) 2014年6月11日 (水) 02:52 (UTC)
- みなもと太郎の「風雲児たち」では大老になってますが、他の資料を見ると「大老ではなかった」という説が多いですね。「保科正之に「大老」や「老中」、あるいは「若年寄」という職名、肩書は与えられなかったが……」(中村彰彦「保科正之」p20)。さらに「大老」になった人や人数について意見が一致しておらず、山川の「日本史広辞典」では7人となっていますが、大老の項では12人(のべ13人)になってます。--Adan(会話) 2014年6月11日 (水) 05:39 (UTC)
「男尊女卑を推進」との記述について
[編集]朱子学というと短絡的に「男尊女卑を推進」としか考えられない人が多いようで、消されても元に戻す人がいるんですが、保科正之がどうしてそう言われねばならないのか、小生にはよく分からないのですが。
間引きを禁じるなど、”身分を問わず”人命を大切にした方ですが、間引きといえば、まず女性が間引かれることが多かった。間引きを禁ずるとは、則ち男女尊卑問わず人命を大切にするという事です。男の命は女の命より尊い、などという考え方がなかったことの証左といえるのではないでしょうか。
さらに會津藩では遊郭が禁止されていました。
加えて90歳以上の高齢者に年金(みたいなもん)を支給した際も、身分、性別を問わず同額だったそうです。
家訓にある 「婦人女子の言一切聞くべからず」などというのも、それは主に政治向きのことでしょう。しかし、これならばどの藩でもにたようなものではなかったか。會津藩士は母親の言う事をよく聞いているように思われますし、母親への孝養はむしろしっかりやっているでしょう(秋月胤永などが好例)から、これが一般論でないことは明らかでしょう。
ならば、その部分を消せばよい、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、消される方が出ても、どうせまた再掲する人が出るので、無駄になりますから小生は致しません。ただ、消されても敢えて元に戻す方は、保科正之の政策において男尊女卑を推進した具体的なものを提示すべきであろうと存じますが、いかがでありましょうか。
- 最初に「男尊女卑を推進」と記載した者として発言しておかなければなりません。名君かそうでないかは、スポットの当て方によって変わるものだと思っております。私が記載した根拠としたものは八幡和郎氏の「江戸の三00藩 バカ殿と名君」(光文社新書)です。この中で氏は保科正之を”ばらまき福祉で財政破綻”、”カネと権力あればこその「名君」”と酷評しています。その著述の中に、「身分制度の固定と差別の厳格化」及び「女性蔑視の極限化」といった行があります。公の出版物の中で、何の根拠も無しに氏がこの様な著述をしたとは思えません。名君、名君と讃えられている人物にもこういう面があるのだと、敢えて批判票も投じさせて頂きました。氏は逆に同時期の岡山藩主・池田光政を絶賛しています。しかし、光政もまた一部の宗派弾圧を行うなど暗い一面も持ち合わせています。これについても、光政のページに記載しました。
- 正之が制定した会津家訓十五箇条の中の「婦人女子の言、一切聞くべからず」ですが、果たして政治向きのことのみなのでしょうか?家訓の中に「兄を敬い弟を愛すべし」ともあります。これはいかにも個人向けですね。即ち正之の家訓全体が全て政治向きのこととは言えないでしょう。仮に「婦女子の言・・・」が政治向きの事に限っても、男尊女卑は否めません。現代の政治では男女参画は当たり前ですよね。正之が朱子学に基づいた政治を行った背景には、幕閣の中枢にあり徳川家綱を輔弼する立場にあった為に、徳川幕府の体制を盤石にする思いがあったのでしょう。従って、身分制度を確立し男女の規律を正しくせざるを得なかったのだと思います。”これならばどの藩でもにたようなものではなかったか ”と仰っていますが、幕府が朱子学的方針を打ち出したならば各藩も少なからずその影響を受けたでしょう。正之は家光や綱吉・吉宗などとともに江戸時代の倫理観を確立させた人物の一人であることは間違いないと思います。特に会津藩においては、正之のお膝元だけに、正之の政治思想が色濃く反映され具現化されたことは間違いなく、独特の「会津士風」が生まれたものと思っています。また、”母親への孝養”ですが、儒教の一種である朱子学からすれば、父母や目上の人を敬う「孝道」として当然のことです。これは妻や妹などにも向けられていたのでしょうか?
- また、遊郭についてですが、これが男尊女卑と結びつくとは思えません。会津での遊郭禁止は、婦女子の保護ではなく風紀の乱れを懸念してのことではないですか?男女平等といわれる今日でも風俗業は存在するではありませんか。
- 私は保科正之の全てを批判する者ではありません。幕閣の中枢として一時代を支えた人物であり、彼の打ち出した政策等の数々は決して暗愚では成し得ないと思います。また、次兄の忠長と違い、長兄の家光に愛されたところにも賢明さがうかがえます。
- 最後に、ノートに投稿された方、署名をお願いします。Reggaeman 2007年3月10日 (土) 2:55 (UTC)
- 一言申し上げたいのは、現在の価値観、則ち民主主義的価値観のみで当時をぶった切る、ということに自分は反対だ、ということなのです。そんなことをしますと、過去の事は全て批判材料となりますし、問題だらけになってしまいかねません。むしろ批判すべきこととしては、福祉政策の行きすぎによる財政危機の事ではないかと保科正之の場合思います。福祉も良いですが、孝子奨励金などはいくらなんでも出し過ぎでしょう。支出の過多による財政危機はいつの時代にも共通する問題ですから、
こういうことをこそ批判材料として指摘すべきではないかと小生は思います。
- そして男尊女卑との根拠にあげられた八幡氏ですが。
- そもそも八幡氏の断定的な書き方には何か史料的根拠は明示されているのかどうか。断定的に書くのは勝手ですが、具体的な数字、史料などがあげられなければ、それをにわかに信ずるべきではないですし、あくまでもwikipediaは事典なのですから、ある個人の見解のみをもって記述するのは少なくとも問題があろうかと。それが客観的根拠を示しているものならば良いのですけど。
- また八幡氏は有る著書で「私は長州びいきなのだが」と書かれてあるように、極めて薩長寄りな歴史観の持ち主でいらっしゃるようで。amazonで氏の著書に対する書評を一読なさるとどういう立場の方なのか、感じられるかと存じますが。
- 会津や長州に関するものは、その著者のスタンスがどこにあるか、を注意深く見なければならない、というのが小生の考えているところです。月刊誌『Voice』2006年9月号で徳川家広氏が長州閥について話しておられますからご参考までにご一読願えればと思う次第です。図書館等にはまだ置いてある筈です。
- なお「聞くべからず」が政治向き、だといったのは、奥の介入という面について言ったのです。一般的な女性の政治参画とは意味合いが異なります。また保科正之が亡くなった時、あの継室がまだ存命だった、という事実もまたあの家訓を見る場合に意識せねばならぬ、と中村彰彦氏の『保科正之』(中公新書)に記載される例の事件を見ると思います。そもそも会津戦争において娘子隊が家老の萱野だったかに同行したいと申し出、結局萱野はそれを許している。この事実から「聞くべからず」の意味合い、示す対象がどういう方向にあったか、が分かるのではないでしょうか。
- 【追記】あと、小生は会津人ぢゃありませんので。勘違いされると厄介ですから、断っておきます(笑 長州の政治家でも鳥尾小弥太なんかは贔屓ですし(この人があまり知られていないのは悲しい限り)
--218.227.135.220 2007年3月12日 (月) 11:40 (UTC)
- 現代的価値観、民主主義的価値観と仰るならば、上杉鷹山などはアメリカ人が絶賛するほどですから民主的名君の最たるものでしょう。現代の日本人はそのような価値観の中で生活しているので、偏った価値観だと言われてもどう答えてよいか分かりません。ここで問題となっている、朱子学的見地ですが階級社会を是認し、確かに平等という現代的価値観の中では相容れないもので、どちらかというと否定的な記述にならざるを得ませんが、保科正之が為政者として体制を維持するのに好都合な朱子学に傾倒し、直接の正之の指示でなくとも批判分子を排除したことは事実ではないですか。なお、八幡和郎氏が長州贔屓と言うことまでは不勉強でした。平衡感覚を欠くと仰るのならば、貴殿は相当に見識が深そうですので貴殿の仰る客観的な記載をして頂きたいと思います。それに対し編集合戦が始まるのであれば、”保護”を申請すればよいと思いますが。Reggaeman 2007年3月13日 (火) 13:48 (UTC)
- もう一言、「聞くべからず」が政治向き、だといったのは、奥の介入という面について言ったのです。と、書かれていますが、背景は確かにそうであったのかも知れません。十五箇条の家訓は藩主のみに受け継がれたものなのでしょうか、この辺りが私には分かっていないところです。藩主のみが歴代伝承した家訓であるのならば、「男尊女卑」の趣は変わってきます。もし、家臣団にも広められた家訓ならば、家臣団は十五箇条の背景など皆が知っていたわけではないでしょう。この条項を勝手に解釈する家臣も出ていたはずです。貴殿が問題を提起されて後、正之の家訓について乏しい我が家の資料を漁ったのですが、どうも、”会津松平家”に伝えられた家訓のような感じもなくはありません。「男尊女卑」の一文については、調査の上で存続させるか取り下げるか判断したいと思っています。Reggaeman 2007年3月14日 (水) 11:58 (UTC)
- 実は、鷹山公にも男尊女卑と現代的価値観で見るととられかねない一文が「老が心」にあります。ただ、それだけをもって彼を男尊女卑主義者として指弾する人も少ないかと思います。朱子学に関して言いますと、諸刃の剣、という側面があると思います。戦国時代の如き下克上を抑止する、そういう面では体制にとって有益だと思います。ただ、本来は科挙が行われる事を前提とした学問で、身分の固定=世襲を肯定する物ではないはずですし、為政者に厳しい規範意識と仁政を行うことを求めます、逆にまともな政治を行えねば、その政権には政権担当の資格なしとされかねません。また、直訴は如何なる身分の人も出来ることが原則で、民意を汲む事を結構朱子学派の政治家はしています(例えば松平定信)。案外朱子学は民主主義的だと小生は思っています。運用がどうなるかは別の話ですが。あと批判派排除という点ですが、確かにその意味合いは強かったと思うのです、山鹿素行の事件の前に、同じ軍学者である由井正雪の乱も起こっています。それが影響したのではないか、という説をどこだったかで読んだ記憶があります。なお、家訓についてですが藩士は上下問わず知っていたと思いますが、正之の継室の事も知られていたはずです。何はともあれ詳しいことは中村彰彦さんの『保科正之』(中公新書)の当該部分にありますので、これを読んだ上で判断していただければ、と思います。--210.151.151.130 2007年3月15日 (木) 13:43 (UTC)
- 男尊女卑の件については、八幡氏の他に根拠となる文書が見あたらず、氏の個人的見解であろうと判断しました。よって、男尊女卑の文言は削除の上、変更しました(これに対してもご意見がおありかも知れませんが)。闇雲に公に出された刊行物(特に八幡氏は大学教授でもありますので、暗に信用してしまいました)を、鵜呑みにして投稿するのは極力避けたいと思います。Reggaeman 2007年4月2日 (月) 10:58 (UTC)
エピソード
[編集]2008年から2009年前半にかけて、2011年のNHK大河ドラマ(この年が大河ドラマ第50作目)の主人公候補として一部で名前が浮上していた。一部の地方紙などで取り上げられていた。2011年が生誕400年に当る事から来ており、長野県伊那市などが中心となり「大河ドラマ映像化誘致運動」(ちなみに「篤姫」と「天地人」の様に、主人公の出身地が中心となる映像化誘致運動の甲斐があり、実際に映像化された「前例」がある)を行い、国会議員や首長なども発起人となった。NHK担当者などに陳情を重ねて一時は本命視されていたが、2011年の大河ドラマの主人公はお江の方(巷間では「語呂合わせ」で決まったと言うウワサがある。第50作目⇒50⇒ごお⇒ごう⇒お江)に決まり、結果として大河ドラマ化は実現しなかったが、映像化そのものを断念したと言う情報はない。仮に大河ドラマ化が実現した場合、既刊の原作小説が採用されるかオリジナル脚本となるかは不明。浮上当初、2ちゃんねるなどで「平成23年の大河ドラマ主人公に事実上内定」と言う記事が出た。この早出し記事について賛否両論が出た。ちなみにNHK大河ドラマの主人公や主演俳優で、憶測や予想で週刊誌などに名前が出た人物が、実際にそのまま起用された試しはほとんどない。
「正之と朱子学・神道」の項について
[編集]この項について質問です。
- 「岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが、藩政への積極的な参画を避けた」→「正之に遠慮して」という解釈でよいのでしょうか。
- 「儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したため赤穂藩に配流された」→「正之が配流の決定を下した」という解釈でよいのでしょうか。
ここは保科正之の記事なので、正之との関わりが明確になる書き方にすべきものと思います。
--Nao Costas(会話) 2020年8月23日 (日) 13:26 (UTC)