ノート:偽書
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論語、法華経、日本人とユダヤ人、シオン議定書が同列に並べられているとは.....
この項目の方がよっぽど胡散臭い(失礼)のでは? --忠太 2005年5月3日 (火) 17:04 (UTC)
- 同列併記以外にどのような取り扱い方がありえるでしょうか。年代と分野で分けると便利で親切にはなるかもしれませんが、文書の質に関する評価を混入させると記事の信頼性に悪影響を与えると思いますが。 LR 2005年8月30日 (火) 00:35 (UTC)
政治的主張のないもの
[編集]この記事中に「鼻行類」を書きたいのですが、適切ですかね? 「鼻行類」は時の大統領を皮肉ったものという解釈もあるけど、基本的には生物学のパロディのような著作です。
定義や並んでいる例からすると、適切なのか、不適切なのか、判断に迷います。意見があったら、お願いします。ゆきち 2006年1月15日 (日) 10:33 (UTC)
事項の要不要
[編集]2006年1月14日 (土) 10:46の版で220.214.178.21さんが議論なしにごっそり削除していた事項をとりあえずまとめて救済しました。改めて大幅に削除すべきだと思う方がいるのでしたら、議論の提起をお願いします。Sumaru 2006年2月26日 (日) 09:53 (UTC)
このリストは問題多々でしょう。NPOVを貼りました。A25 2006年3月5日 (日) 05:17 (UTC)
記事についての議論提議
[編集]上記で多少は議論がされているようですが、ほとんど止まっていると見えるので、ここで提議を。 まず、この記事は必要でしょうか?それとも不要でしょうか?皆さんの意見・考えをお待ちしております。--伯龍 2006年5月18日 (木) 05:52 (UTC)
- 理由を示すことなくテンプレを貼り付けただけで具体的な問題提起をなさらなかった方々に比べれば、御提起頂いたこと自体は貴重だと思います。ただ、いささか的外れではないでしょうか。
- 被リンクの数から見ても、またそのリンクのされ方(偽書とされる文献の記事が現に複数立っている以上、「偽書」とは何か、という説明は確実に必要でしょう)から見ても、本記事を不要とする理由はないと思います。
- この記事で問題があるとすれば、
- 具体例の並べ方はこれでよいか(上記Chuta氏による)
- 私はLR氏のコメントに賛成です。下手に偽書の疑わしさのレベル等で分類しようとすると、編集合戦を誘発するだけだろうと思います。分野ごとにもう少し詳しく分けるというのはアリかも知れませんが。
- 逆に言うと、中立性のテンプレが貼られている理由が分かりません。現在の形式は、むしろ中立性を守るための妥協の産物に思えます。
- 列挙されている事項に不適切なものがないか
- 個人的にはヴォイニッチ手稿は要らないだろうと思います。解読されていない文書の「由来が偽られている」かなど確認できませんし。
- で、私がこうして指摘するまで誰も具体例を挙げていない状況で、正確性のテンプレが貼られ続けていることも理解出来ません。
- 中立性、正確性のテンプレは必要か。
- 理由は上記と重複します。理由の明示や議論の提起を伴わないテンプレなど、むしろそれ自体が中立性や正確性を阻害している気がします。--Sumaru 2006年5月21日 (日) 08:19 (UTC)
「偽書との疑いがもたれている書物」のリストだけなら、存在意義は無いように思います。偽書のいろいろを解説してあって、その例としていくつかを挙げるならば意味はありますが、現状では有用と思える解説がありません。Shinobar 2006年5月23日 (火) 08:19 (UTC)
議論が成されているようで、少数の方々しか発言なさっていないのは、提議の発議者としてはさびしい限りです。そこで、私も拙い意見ですが、少し述べておきます。上記のShinobar氏の意見には基本的には賛成です。しかし、私はそもそも偽書などという項目そのものが不要だと考えます。偽書、または偽書であるかということは百科事典であるwikiが定義し定めるものではありませんし、そういうことは必ず議論の対象になりえることであります。そのようなことはなるべく明確に記すことは避けるべきで、多くの人が納得するようなカタチで記しておくべきだと考えます。よって偽書であるということや偽書の一覧などと言うものは作成しても意味はないと考えます。拙い意見ですが以上です。他にも意見を多数お待ちしております。。。--伯龍 2006年5月31日 (水) 00:13 (UTC)
- 確かにwikiが偽書であるかどうか決定できるものではないのですが、現実にヒットラー日記捏造事件など議論もおきそうにない明白な捏造文書もあるのは確かですので記事そのものをなくすというのは百科事典としていかがなものかと存じます。Izayohi 2006年5月31日 (水) 09:26 (UTC)
「百科事典として」と言ったときに、どの科目の概念なのか? たとえば歴史学の観点に絞って書けばそれなりものになるのかもしれないが、それでも政治史、文化史、文学史、民俗学と、あまりに範囲が広く、扱うには漠然すぎる概念であると感じます。Shinobar 2006年5月31日 (水) 12:54 (UTC)Shinobar 2006年5月31日 (水) 13:01 (UTC)
- 失礼ながら、伯龍さんの論理展開が理解しづらいのですが(「なるべく明確に記すことは避けるべき」の直後に「多くの人が納得するようなカタチで記しておくべき」などという矛盾する言葉が連なっているなど)、とりあえず記事そのものを不要とお考えだということは理解できました。明確に反対致します。
- 以下、izayohiさんのコメントと一部重なりますが。
- >私はそもそも偽書などという項目そのものが不要だと考えます。
- 上記で私が「偽書とされる文献の記事が現に複数立っている以上、「偽書」とは何か、という説明は確実に必要でしょう」と書いたことはどうお考えでしょうか。
- >偽書、または偽書であるかということは百科事典であるwikiが定義し定めるものではありません
- まず、「偽書との疑いがもたれている」=「偽書である」ではありません。
- 利用者ページを拝見する限りでは日本の中世近世史にご関心があるようですので、その辺の例を挙げておきますと、「武功夜話」などは専門家によって偽書と疑われていることはご存知だと思います。言い換えれば、「偽書との疑い」は「wikiが定義し定める」のではなく専門家の間でそのような見解が出されているものの紹介にすぎません。百科事典としてそうした事項を記載することは決して無益でも有害でもないと思います。
- 伯龍さんの言う「必ず議論の対象になりえる」は、何を偽書に含むかで議論になるから、という意味でしょうか。だとしたら、そんなことは不要の理由になりません。真田信繁なども、伝説的挿話が多くて議論になるから、ってな理由で不要とお考えですか?(笑)
- 要は専門家の見解を踏まえて取捨選択すればいいだけの話だと思います。これはShinobarさんのコメントにも関わりますが、分野横断的であっても、現に専門家によって偽書という用語が用いられている以上、扱う意義はあると思います。Sumaru 2006年5月31日 (水) 15:42 (UTC)
まず、言い回しが悪く、意味の取りづらい意見をしてしまい、大変申し訳ありません。確かに、おかしな書き方だと後になって思いました。その点においては申し訳が立ちません。
- >「偽書とされる文献の記事が現に複数立っている以上、「偽書」とは何か、という説明は確実に必要でしょう」と書いたことはどうお考えでしょうか。
- まず上記についてですが、それににおいては説明があってもよいとは思います。しかし、範囲が非常に多岐にわたってしまうと思いますので、歴史学上においてのみを使うのは適切でないと考えます。
- >「偽書との疑いがもたれている」=「偽書である」ではありません。
- それは当然であります。そうであることは私自身は理解しているつもりですし、疑う余地もありません。ただ、専門家の見解を示し並べたのでは無益であり、有益とは考えられません。なぜなら専門家の見解と言ってもあくまで~説とすぎないものからほぼ確実視されているものまであります。もし~説として取り上げるのであればその記事ないしまたはその記事にリンクさせたカタチで作成しておくべきだと考えます。(武蔵坊弁慶生誕伝説など)
- >「必ず議論の対象になりえる」は、何を偽書に含むかで議論になるから、という意味でしょうか。だとしたら、そんなことは不要の理由になりません。真田信繁なども、伝説的挿話が多くて議論になるから、ってな理由で不要とお考えですか?(笑)
- 真田信繁の記事が議論をしているのは承知しております。またそれにおいて真田信繁の記事自体を削除すべきだとは考えておりません。ただ、その種のことに関しての素人や興味本位の人間がかかわりすぎ過ぎていることについては残念だと考えますが。(論が離れていくのでこの話は置いて置きます。)
- 偽書というリストが不要だと私は申しているのですが。もちろん偽書と言う記事に対しても思うところはありますが。リストを作っても有益な点はほとんど感じられません。
- 専門家の見解を踏まえて取捨選択すればいいだけの話
- 率直に問います。取捨選択とおっしゃいますが、貴殿はそれが可能でしょうか?一般的に考えて取捨選択をするにおいて専門家の意見を伺ったりすることなどさまざまな行動を伴わないとそれは本人の主観のみに終わってしまいます。
以上です。長々と拙い意見でありますが、記して置きます。それでは失礼いたします。伯龍 2006年6月1日 (木) 06:06 (UTC)
- 言いたいことはいくつもありますが、とりあえず本文の修正案ともども日曜日あたりにアップさせていただきます(私の投稿記録を見て頂ければわかると思いますが、私はもともとあまりアクティヴな利用者ではないので)。
- ただコメントのまえに確認しておきたいのですが、伯龍さんはまず
- >この記事は必要でしょうか?それとも不要でしょうか?
- と提議なさっていますね。
- でそのうえで
- >私はそもそも偽書などという項目そのものが不要だと考えます。
- >偽書であるということや偽書の一覧などと言うものは作成しても意味はないと考えます。
- と仰っています。
- ところが今度は
- >偽書というリストが不要だと私は申しているのですが。もちろん偽書と言う記事に対しても思うところはありますが。
- などとおっしゃる。
- 立場がコロコロ変わる方との議論は困難ですので、改めてあなたの立場を明示しておいてください。返答が遅れることについては予めお詫び申し上げます。Sumaru 2006年6月1日 (木) 11:00 (UTC)
- お答えがありませんでしたね。私も忙しさから返答を先送りした身ですので、伯龍さんにも何らかのご事情があるものとは推察致しますが…。
- 仕方がないので、最新版のご返答が伯龍さんの正確なご見解との前提でコメントさせて頂きます。
- >率直に問います。取捨選択とおっしゃいますが、貴殿はそれが可能でしょうか?
- 可能です。私が申し上げたかったのは、専門家が著書ないし論文で偽書の疑いを提示したことがあるものはリストに載せ、ウィキペディアンが主観的に決め付けて加えたものは排除すればいい、というだけのことです。何も難しいことではありませんし、文献を調べて記事を書くということはある意味当然のことですので、別に問題はないと思います。
- どうでもいいですが、「貴殿は」などと私ひとりに責任を負っかぶせられても困るんですがね(苦笑)。更にいえば、「専門家の意見を伺ったりすることなどさまざまな行動を伴わないと」と仰いますが、それはWikipedia:独自の調査に触れてしまいますので、そんなことをやって記事を書いたところで削除されるだけです。
- >範囲が非常に多岐にわたってしまうと思いますので、歴史学上においてのみを使うのは適切でないと考えます。
- Wikipediaの場合、記事に問題があれば加筆によって対応すべきだ、ということをまず申し上げておきます。で、下に修正案をアップしましたが、それはまさに偽書については歴史学主軸となっていますので、伯龍さんとしてはご不満だろうと思います。そこで、「範囲が非常に多岐にわたってしまう」というその中身を具体的にお示し頂けないでしょうか。つまりは、歴史学以外の分野で専門家が著書ないし論文で偽書の疑いを提示したことがある文献の例です。よろしくお願いいたします。
- >専門家の見解を示し並べたのでは無益であり、有益とは考えられません。なぜなら…
- 「なぜなら」の前後に何のつながりがあるのか私には理解できません。世の中には、「リストなし」や「偽書と確定しているものだけのリスト」よりも「様々な疑惑のレベルを視野にいれたリスト」があったほうが便利で有益だ、と思う人だっているかもしれないではありませんか。「あなたにとって無益」だから不要、というのはいささか乱暴に思えます。
- ノート:架空のものの一覧の一覧での議論を御存じでしょうか。小説、マンガ、アニメなどに登場する架空の物事をただズラズラと並べただけのリストが多くつくられていることに疑問をもった利用者が、そんな一覧は無益であり百科事典には不要ではないかと提起して展開された議論です。その結果は、リンク先を読んで頂ければわかるとおり、原則として削除する必要はない、という形で事実上終息いたしました。おわかりでしょうか。「無益」という削除理由はあなたが思っておられるほど客観的なものではないのです。
- Shinobarさんは、あなたと同じようにリストの有効性に疑問を呈示なさいましたが、削除ではなく概要の大幅な加筆による対応を試みられました。これは大変バランスのとれた称賛されるべき編集姿勢だったと思います。どうせ記事に関わって頂くのであれば、伯龍さんにもそのような姿勢でお願いしたいところですが、いかがでしょうか。--Sumaru 2006年6月4日 (日) 08:21 (UTC)
書いてはみたものの
[編集]解説のつもりで概要を書いてみましたが、所感になっているかもしれない(汗;)Shinobar 2006年5月26日 (金) 15:43 (UTC)
「偽書(ぎしょ)とは、由来が偽られている文書・書物のこと。」という定義と、「古事記(序文偽書説と本文偽書説あり)」という記載とは矛盾しています。前者は由来を偽っていることだけを定義とし、後者は由来とともに内容の真偽も偽書の条件としています。定義にある「自己の主張」を含まないものは、贋作として扱われる も、「偽書」の定義について特定の立場に立っています。「偽書」をどう定義するのか、考え直したほうがよさそうです。Shinobar 2006年5月27日 (土) 02:57 (UTC)
- まずはShinobarさん大幅な加筆お疲れ様でした。以下僭越ながら雑感を述べさせて頂きたいと思います。
- まず、大きなポイントとして偽書は「来歴」に偽りがあることが前提だと思います(辞書類の定義からしてもそうだろうと思いますが)。にもかかわらず、記述には、「偽書とは何かの説明、例示」と「虚偽・虚構や誤りを含む文書の説明」とが混然となっているように思います。
- その上で細かな話に触れますが、
- 著者と著作権という概念は近代以降のものなので、それ以前の写本である文書に対して
- 近代以前が写本というのは、日本の話でしょう(厳密には日本も微妙ですが)。西欧では近世に活版印刷が始まっています。既にラブレーの「第六之書」のように、人気に便乗した無関係な人物によるでっち上げが現れていますし、作者の特定が難しい時期の文献はむしろ但し書きの形で触れる方が良い気がします。
- 例):文学の偽書としては○○のような例がある。ただし、時代を遡れば、源氏物語における○○のようなケースもあるので、現代の「著者」概念を全時代的に適用するのは適切ではない。云々
- (余談)Izayohiさんは「全編を彼女が著したという論者はいない」と言い切っていますが、源氏物語#作者と矛盾しています。国文系の研究をきちんとサーベイしていて断言できるというのであれば、先に源氏物語の記述の方を直してくるべきでしょう。
- しかし歴史という概念も近代のものなので、
- ヘロドトスの『歴史』の立場がありませんが、という下らない突っ込みはさておき(^^;。
- おそらく「実証主義に基礎をおくランケ流の歴史学は近代的思考の産物であり云々」といったことを仰りたいのだと思いますが違いますでしょうか。
- で、そうだとしてもそこで明らかにフィクションであるガリバー旅行記を例示するのは疑問です。むしろ、東方見聞録のように偽書の可能性があり、かつどこまで真実であるかの線引きが難しいものを挙げたほうがよいのではないでしょうか。
- ホメロスの例は異論はありません。考えていませんでしたが、面白い例示だと思いました。
- 近現代の著作でも、歴史研究書とノンフィクション、歴史小説との境界はあいまいなものである。
- まず、記述内容に疑問があります(境界はあいまいなのは歴史小説家の史実の扱いであって、逆はないと思います。つまり、歴史家が研究書に創作を混ぜるのは例外的かつ問題外です。双方向に曖昧であるかのように読めるのはちょっとどうかと)。
- それ以前にこの部分は「虚偽・虚構や誤りを含む文書」の説明であって偽書の説明ではない気がします。
- 先代旧事本紀の段落
- 前半は異論がありませんが、前半を以て古史古伝全体に話を繋げるのは微妙です(先代旧事本紀は古史古伝では成立年代からしてもむしろ例外的な気がします)。
- (余談)Izayohiさんは年月日をはじめ記述に矛盾が多くと加筆するくらいなら、中国史書など比べたときに矛盾が多く、とでも書いてほしかった気がします。日本書紀を史料として扱う時に問題となるのは、内的矛盾もさることながら、むしろ考古学的知見や中国史書との矛盾が問題となるのではないでしょうか。
- 電子メールの例はどちらかというと怪文書に書くべきことではないでしょうか。
- 政治利用の例でいうなら、世界史的影響を考えれば、コンスタンティヌスの寄進状やシオン賢者の議定書の方が適切だと思います。
- その内容の真偽を問うのは、ほんらい神学であって、歴史学ではない。
- 「内容」には史的イエスのように歴史学の対象も含まれると思います。
- 多分、「内容に含まれる事実関係が史実か否かという問題と、それが宗教上の教説として真理であるか否かは、同列に扱われるべきでなく、後者は本来神学の対象である云々」という話だとは思うのですが、もう少し敷衍して頂いた方が誤解を招かないと思います。
- (余談)
Izayohiさんはなぜ偽典を消したのでしょうか。外典と偽典はわけるべきだと思いますが。- 失礼。新約聖書に限定されているのだから偽典は不要ということですね。聖書全体の話と勘違いしておりました。できれば、izayohiさんご本人からそのような反論を頂きたかったところですが。Sumaru 2006年6月4日 (日) 08:21 (UTC)
- 古事記の矛盾についてですが、どちらも来歴を疑問視した上でどこまで虚偽かを論じているのですから、矛盾はないと思います。
- 贋作も含めて定義文を書き直すというご提案自体に異論はありません。
- 以上、長々と好き勝手書かせて頂きました。お気を悪くされる点がありましたら、予めお詫び申し上げます。--Sumaru 2006年5月29日 (月) 14:50 (UTC)--Sumaru 2006年5月29日 (月) 15:13 (UTC)
ていねいなご指摘というか査読ありがとうございます。Sumaruさんのご意見にはほとんど異論はありません。やはり、本記事の定義部分をはっきりさせるのが先決かと思います。元ネタは偽書史かと思われますが、原典の説明が端折られていて、意味がよく取れません。
偽書の定義として、私も考えがまとまっていないのですが…。
- (来歴)「来歴に偽り」が必要条件としても、本文に来歴の主張がなく、後世の人が来歴を後付けしたものはどうなのか?
- (内容)「来歴」に偽りがあり、内容も怪しいと言う場合のみ偽書なのか? 内容の真偽はどうやって測るのか? 潤色と虚構の境界は?
- (意図)意図によって偽書であるかないか変わりそうだが…。商業的理由での粉飾などは?
- (ジャンル) 歴史書に限るのか? フィクションや宗教書まで含まれるのか? 歴史書以外のものは、それを史料として用いられる場合に限るのか?
- (社会的影響)ゴーストライター、ペンネームなど、どうでも良い場合
歴史研究上での史料批判の文脈で我々は話をしているけれど、それで良いのか? などなど。Shinobar 2006年5月29日 (月) 19:04 (UTC)
ところで、『東方見聞録』は何が理由で偽書の疑いが掛けられているのでしょう? マルコ・ポーロが架空人物ではないかということでしょうか? 『東方見聞録』は13世紀末ですが、この後16世紀までいろんな紀行文が流行ります。いずれも怪しいものです。『ガリヴァー旅行記』はそれらのパロディで18世紀の著作ですが、架空人物ガリヴァーの体験記と銘打って出版されたのは、それまでの紀行文の定型を踏襲したものです。16世紀までに流行った騎士道文学(今でいう歴史小説?)の、やはりパロディで『ドン・キホーテ』は17世紀のものですが、先行する騎士道文学の例に倣い、架空の歴史家の記録に基づいているとしています。『ドン・キホーテ』は贋作も出てますね。─私の頭にあったものは、近代より前の著作に著作者が示されていても、あてにならないのは常識で、誰がそんなもの信じるかってことです。Shinobar 2006年5月31日 (水) 14:33 (UTC)
- 東方見聞録については、著者の実在性および彼が実際に見聞したことを口述したという「来歴」に疑問が投げかけられている、と私は理解しています。仰ることはごもっともだと思いますが、だからこそ、専門家によるテクスト・クリティークが重要なのではないか、と思います。Sumaru 2006年5月31日 (水) 15:42 (UTC)
Izayohiさんと私との間で多少違いがありますので、私の見解を補足させていただきます。
- 近代より前の著作についてIzayohiさんは、「昔は著作者や著作権に対する認識が現在と違うので、写本の段階で比較的自由に加筆や改変がなされていた」ということをおっしゃりたいのだと思います。同意しますが、私の論はそれに加えて、昔は著作者を明示する習慣が無い。明示する場合は著名な権威に仮託するのが常であったこと、また、後世の人々が伝承で由来を補う(補筆するとは限らない)ことが多いということです。
- 宗教書について私の見解は、成立時期を探ったりするのに歴史学は活躍するが、その由来が仏である(仏説)、使徒に由来する、などは教学あるいは神学であるということです。「マルコがペトロの通訳であったかどうか、そのマルコが福音書を書いたかどうか」は歴史学かもしれないが、「『マルコによる福音書』がペトロに近い人物によってペトロの論説を伝えられているかどうか」は神学です。
Shinobar 2006年6月1日 (木) 02:15 (UTC)
定義文
[編集]Shinobarさん、広い視野からの問題提起有難うございました。Shinobarさんのご提起に対し、私なりに考えてみたことを提示しておきます。一部、想定しておられるケースとは全く異なる例を想定して的外れに論じているものもあるかも知れません。
- >「来歴に偽り」が必要条件としても、本文に来歴の主張がなく、後世の人が来歴を後付けしたものはどうなのか?
- 例えば古事記の序文偽作説が正しい場合、「偽書」は後世に付加された序文だけで、本文は所伝不明の文書でしかない(=偽書ではない)と思います。
- >「来歴」に偽りがあり、内容も怪しいと言う場合のみ偽書なのか? 内容の真偽はどうやって測るのか? 潤色と虚構の境界は?
- 少なくとも来歴に偽りがあれば偽書だと思います。「文書としてニセモノ」というのは、そういうことだと思います。勿論、来歴に偽りがあっても見るべき内容を含む文書もあるでしょうが、それは別個に扱うべき問題であって、偽書の定義自体を左右することにはならないのではないでしょうか。
- >意図によって偽書であるかないか変わりそうだが…。商業的理由での粉飾などは?
- 前半はとても重要な(そして恥ずかしながら私は全く想定していなかった)論点ですね。直下の論点でまとめてコメントさせて頂きます。
- 他方、後半は、来歴に関わらない限り偽書とは余り関係がない気がします。偏った例で恐縮ですが、『ノストラダムスの大予言』は読者の恐怖心を煽るためとしか思えない嘘や粉飾がテンコ盛りの悪書ですが、これをレビューした評論家や作家たちで偽書呼ばわりした人は一人もいません。そういうことだと思います。
- >歴史書に限るのか? フィクションや宗教書まで含まれるのか? 歴史書以外のものは、それを史料として用いられる場合に限るのか?
- まずは直上の論点に絡めてフィクションについて。基本的にフィクションの中で虚偽の来歴が述べられていようと、偽書に含めるべきではないでしょう(極端に言えば、フィクションはもっともらしい嘘をついてナンボ、という代物ですし)。主観的には、良くできたフィクションは、敬意を込めて偽書と呼びたいところですけれど(上でゆきちさんが言及しておられる鼻行類は大好きですし、最大の敬意を込めてそうしたいのですが、百科事典としては不適切だと思います)。難しいのは、作者がジョークやパロディとして発表したフィクションなのに、本気にする手合いが続出した場合だと思います(ややマイナーな例ですが『第三の選択』『アイアンマウンテン報告』など。『鼻行類』も微妙にこれに含まれるかも知れません)。私は偽書に含めるべきではないと思いますが、含める人もいるかもかも知れません。一案としては、リストの冒頭に釈明を埋め込んでおくのがよいかも知れません。
- 例):○○のようなケースは線引きが難しいが、便宜上ここでは含む(or含まない)こととする。
- ちなみに他のジャンルですが、史料以外に文学作品は確実に含むと思います(ラブレーの第五の書などは、今なお偽書か否かという点は決着しきっていませんし、専門家によってそうした議論が展開されている以上、むしろ入れない方が不自然です)。文学作品の偽書の例と、偽書に含む必要のないフィクションの境目は、「虚偽が作品中で自己完結しているかどうか」だと思います。「虚偽が作品中で自己完結している」作品をニセモノ呼ばわりする人はいないでしょうし、線引きは比較的容易だと思います。
- それと、宗教書も当然含むと思います。その場合はまさにShinobarさんが加筆して下さったように、「偽書か否か」と「正典か否か」は別問題だという点は明示すべきと思います。
- >(社会的影響)ゴーストライター、ペンネームなど、どうでも良い場合
- すみません。この論点は意味か分かりかねるのですが、もう少し詳しく述べて頂けないでしょうか。
- >歴史研究上での史料批判の文脈で我々は話をしているけれど、それで良いのか?
- 文学も含む以上、テクストクリティークの視点も絡むと思います(似たような視点といえばそうかも知れませんが)。他の視点は私には思い浮かびませんが、実際のところ、「偽書」という言葉が問題になるのは、普通は史料、文学作品、(史的文脈での)宗教書くらいではないでしょうか。そうであれば、それらを扱う時の視点に則っていても、特に問題はない気がします。
- (余談)ご指摘のサイトは初めて知りましたが、確かに元ネタであることは明らかだと思います。著作権とか大丈夫ですかね。Sumaru 2006年5月31日 (水) 15:42 (UTC)
第1義的には「偽書(ぎしょ)とは、由来が偽られている文書・書物のこと。」ということですね。 その上で Sumaru さんは偽書に当たらない例をいくつか挙げておられる。それが何なのかです。たとえば『ガリヴァー旅行記』が偽書にあたらないのは、著者がガリヴァー船長だと世間の人が信じるとは、本当のの著者であるスィフトも期待していなかったし、じっさい世間の人は真面目に信じなかった。なので由来が偽られたことによる社会的影響はほとんどなかったということになるのでしょうか。世間ではラブレーの第五の書や偽の『ドン・キホーテ』は偽書ではなく贋作と呼ばれているようです。そこのところの違いも説明されていて欲しい。紀貫之『土佐日記』は女性の手に依ると本文で主張していますが、これはどれにあたるのでしょうか? などなど。Shinobar 2006年6月1日 (木) 12:22 (UTC)
- 伯龍さんへのコメントにも書きましたが、本文の修正案をおそらく日曜日あたりにアップさせていただきます。それがある程度の私なりの答えになるかと思います。
- ただ1点だけ
- >世間ではラブレーの第五の書や偽の『ドン・キホーテ』は偽書ではなく贋作と呼ばれているようです。そこのところの違いも説明されていて欲しい。
- 仰るとおりです。フランス語のcontrefaçonはどちらの意味もあるので、この点混同して用いていました。昨日文案を練りはじめていて気付きましたので、修正案では直すつもりでおりましたが、突っ込まれる方が先でしたね。面目次第もございません。Sumaru 2006年6月1日 (木) 15:22 (UTC)
修正案について
[編集]とりあえず、Shinobarさんや伯龍さんのご意見も取り入れつつ、修正案を立ててみました。忌憚のないご意見をお願い致します。予め少しコメントを。
- 何を偽書とするか、が最大の難点ですが、Wikipediaとして勝手に定義するわけにはいきませんから、(伯龍さんへのコメントに既に書きましたが)専門家の見解の紹介、つまり専門家が著書ないし論文で偽書の疑いを提示したことがあるものはリストに載せて良い、とすべきだと思います(定義文はそれに対応させるかたちになります)。既にリストに載っているものは仕方がない側面もありますが、新規に付け加えられる場合に疑問があれば、気が付いた人が加筆者に出典を尋ね、不適切なら削除するという形にすれば良いと思います。
- リンク先の記事に偽書説の説明が中心になっている節がある場合、そこへのリンクも加えました。これは伯龍さんの「その記事ないしまたはその記事にリンクさせたカタチで作成しておくべきだと考えます」というご意見を踏まえたものです(失礼ながらその辺りの文脈が理解しづらかったので、ご本人の想定とは異なっている可能性もありますが)。また、そこから導かれる原則として、赤リンクは(疑惑のレベルを読者が確認できないため)コメントアウト扱いとしました。
- 修正案では、偽書と贋作の扱いをはじめ、いままでの私の見解と異なっている記述があります。長くなるので、一つ一つ取り上げて釈明することは避けますが、一部の認識の誤りがShinobarさんとの議論を混乱させる要因となったことにつきお詫び申し上げます。
- 伯龍さんへのコメントにも書きましたが、結局、「歴史学以外の分野で専門家が著書ないし論文で偽書の疑いを提示したことがある文献の例」が私には思い浮かびませんでした。そういう例を示して頂ければ幸いです。できれば、その例を踏まえて「その他の偽書」などの節を立てて頂けるとなお有り難いのですが。
私としては、この修正案にご意見をお寄せ頂いて(あるいは根本的に認められないということであれば、Shinobarさんの版を基に)若干の修正を行ってひとまず本文を確定させ、あとはしかるべき知識を持った方が加筆して下さるのを気長に待つしかないんじゃないかな、と思っております。議論参加者が少ないこともあり、とりあえずやるだけやったらそれでいいのではないか、ということです。実際のところ、Wikipediaには完璧な記事を提示できなければ不要なんてルールはありませんしね(^^; -- Sumaru 2006年6月4日 (日) 08:21 (UTC)
- 源氏物語など古典に関しては、元来写本、当時の文書には作者名の記述はなく(作者が紫式部というのは伝承)、また写本の由来に偽りはないため、定義の由来を偽るということにあてはまらないから偽書ではないのです。また、チャーチワードなど、オカルト関係の一部文書は実在そのものが疑問視される文書なので実在している偽書とはいえないと思います。歴史関係以外の偽書は上にも書いた「ヒットラーの日記」事件など詐欺事件関係があります。(外典の件は気づかなかっただけです。ただ事実認識の問題なので反論の必要はない件と存じます。)Izayohi 2006年6月4日 (日) 09:05 (UTC)
- 意見はだだの意見なので方向性については案のままで結構だと存じます。(源氏については議論するつもりはありません。)Izayohi 2006年6月4日 (日) 11:29 (UTC)
- 修正案に対して、源氏物語の例をわざわざ挙げておられる理由がわからなかったのでお尋ねしたのですが (議論するつもりがないのなら、初めから挙げなければよかったのでは ?) 。
- むしろヒトラー日記の扱いが私の案でよいか、ということの方が気掛かりだったのですが、お答えがないということは異論がないものと判断させていただきました。--Sumaru 2006年6月7日 (水) 15:28 (UTC)
- 意見はだだの意見なので方向性については案のままで結構だと存じます。(源氏については議論するつもりはありません。)Izayohi 2006年6月4日 (日) 11:29 (UTC)
- とりあえず、Sumaruさんの案で本文を書き換えるということで良いのではないでしょうか。全体として歴史学を中心に、その他の分野ということで、ずいぶん分かりやすくなっていると思います。お疲れさまでした。
- 私としては宗教書についてはリスト不要と考えます。説明で「来歴に虚偽を含んでいようと、殊更に偽書呼ばわりされることはない。」と言っていますし。疑いのあるものを言うならば、すべてであって、挙げられていないものは疑いを受けていないわけではないですし。
- 文学に関するところは、もっと適切な例があるかもしれません。そのうち考えます。私の論の、「昔は著作者という概念や歴史の概念が近代とは異るので…」というところは、もっと良い例を考えます。
- 史料に関しては金石文というものもあるので、また追記したいと思います。
- Shinobar 2006年6月4日 (日) 09:53 (UTC)
- Izayohiさん、Shinobarさん、さっそくのコメントありがとうございます。
- >Izayohiさんへ
- >源氏物語など古典に関しては、…写本の由来に偽りはないため、定義の由来を偽るということにあてはまらないから偽書ではないのです。
- 「来歴の主張に乏しいこともあってか、「偽書」よりも「贋作」と呼ばれるのが一般的である」と書いていますし、源氏物語の一部の巻は「贋作」ともいえない例としてあげているのですが…。ちなみに、紫式部日記の記述は伝承というのでしょうか。
- >オカルト関係の一部文書は実在そのものが疑問視される文書なので実在している偽書とはいえないと思います。
- チャーチワードの場合、ナーカルの翻訳と称する文を「引用」しているので、また『歴史を変えた偽書―大事件に影響を与えた裏文書たち』でも扱われていたのでとりあげました。
- >歴史関係以外の偽書は上にも書いた「ヒットラーの日記」事件など詐欺事件関係があります。
- 私は、それは「その文献の史的側面が問題とされる場合」の範囲内だと思います。史料の項目に「ヒットラーの日記などのように詐欺事件の種になったものもある」といった加筆をすることで対応できる例ではないでしょうか。
- よろしければ、izayohiさんの記事全体の方向性についてのお考えもお伺いできますでしょうか。
- >shinobarさんへ
- >私としては宗教書についてはリスト不要と考えます。
- やはりそう思われますか。私もここだけ「"偽書の可能性が指摘されている"宗教書の例」などという馬鹿げた見出しにしなかったのはそう思ったたからなのですが、反面独断で消すのもどうかと思い、とりあえず残した次第です。消すか、また再発防止のためにコメントアウトで残すかでいいと思います。
- >文学に関するところは、もっと適切な例があるかもしれません。そのうち考えます。私の論の、「昔は著作者という概念や歴史の概念が近代とは異るので…」というところは、もっと良い例を考えます。史料に関しては金石文というものもあるので、また追記したいと思います。
- ぜひよろしくお願いいたします。
- では数日待って異論がなければ、僭越ながら私の修正案を本文にうつしかえ、いずれ適宜加筆いただくというかたちでよろしいでしょうか。--Sumaru 2006年6月4日 (日) 10:42 (UTC)
- 移動させていただきました。議論参加者の皆様、ひとまずお疲れさまでした。--Sumaru 2006年6月7日 (水) 15:28 (UTC)
- お疲れさまでした。浜松城記など、たいへん面白く読んでしまいました。科学史関係もあるので、纏まれば、また追記します。Shinobar 2006年6月8日 (木) 10:01 (UTC)
近代以降の思想書・啓蒙書の取り扱い
[編集]端的な例としては「パパラギ」とか「日本人とユダヤ人」などですが、これらはどのように扱う取り決めになってましたでしょうか。いずれも主張を伴わない金銭目的の「贋作」や「鼻行類」のような看破される事が前提のパロディという部類ではなく、本気で読者を欺こうとしている著作物ですが。LR 2006年12月8日 (金) 02:48 (UTC)
- 上の議論を読み返す限りでは「取り決め」の策定までには至っていなかったと思います。半年ほどまえの議論や修正案ですので、自分がどういう理由で『日本人とユダヤ人』を排除して文案を練ったのか覚えていませんが(すみません)。
- とりあえず、現状の文面の修正を最小限にとどめる場合は「フィクションにおける来歴の虚偽」の節に、
- なお、来歴を偽るという手法は評論やノンフィクションといったジャンルで発表された文献にも用いられたことがある。例えば、ベストセラーとなった『日本人とユダヤ人』は~
- といった文言を付け加えて対応することになるのではないか、と思います。
- 反面、もし当時の週刊誌報道等で「偽書」の見出しが躍っていたのなら、冒頭の定義文自体に何らかの加筆をしないといけないのかもしれません。少なくとも現状の定義文ではそうしたものを「偽書」と位置づけ得ないと思いますので。--Sumaru 2006年12月8日 (金) 13:12 (UTC)
むしろ定義が歴史学分野に限定するような記述になった理由が釈然としません。「何らかの主張に利する目的で」「来歴が偽られている」が「偽書」を「贋作」や「実験的文学」と区別する根源的な定義で、「偽造文書」「偽文書」の略であるといっても過言ではないとおもいますが。作成当時「偽造公文書」や「怪文書」に過ぎなかったものが後世「偽書」になるというのも変で、それは最初から「偽書」なはずですし。その意味でフィクションの項は「紛らわしいことをしてくれたが偽書ではない例」を切り分ける説明になっており、真性の偽書であるものをその項で説明するのは触れ方として誤りだと思います。また「偽書」は高度な専門用語で、ゴシップジャーナリズムのレベルでは「偽造」「捏造」「偽物」「うそ」「インチキ」などとかしか表現されないだろうと思います。LR 2006年12月9日 (土) 03:39 (UTC)
- 上の議論にあるとおり、「何を偽書とするか」「どこまでが偽書なのか」をめぐって議論があった結果、ウィキペディアとして勝手に定義を作るわけにはいかない以上、専門家(もしくはそれに準ずる立場の者)によって偽書として扱われたことがあるものをリストに列挙し、定義はそれらの最大公約数的なものをとりあえず掲げ、しかるべき知識を持った方の加筆を待つという形になり、現在の文面になりました。
- たとえば平凡社の「世界大百科事典」の「偽書」の項をみても、挙げられているのは歴史関係と中国の古典ばかりです(「本」の項のコラムには「怪文書」なども含むより広い定義や例示もありますが)。であることなどから限定したわけではありませんが、歴史学を中心的に扱いました。
- ただ、繰り返しますがこの定義はより専門的な知識を持った方が現れるまでの「間に合わせ」として起草したものですので、LRさんが『日本人とユダヤ人』なども偽書として扱っている専門家などの文献を援用しつつ、Wikipedia:検証可能性にかなった形でより適切に定義文や全体の構成を書き直されるというのであれば、私は全く反対しませんしむしろ歓迎いたします。
- ちなみに、週刊誌云々についてはうろ覚えで恐縮ですが『醜い韓国人』の著者が話題になったときに「偽書」という見出しを掲げた週刊誌だか月刊誌だかはあった気がします。むしろゴシップジャーナリズムであれば、自分たちの報道の価値を高めようとして本来の定義に合致するか否かに関わらず、大仰な言葉を使うことは往々にしてあるのではないかと思っていますし、上で週刊誌の話を出したのはそういう理由です。--Sumaru 2006年12月10日 (日) 05:08 (UTC)
中立性、独自研究規定に対する違反の疑い
[編集]偽書というのは広い概念です。現状記述されている内容だけでなく、美術品も含めて、さまざまなタイプがあります。様々なタイプの偽書に言及するべきです。冒頭部で出典も示さず「便宜上来歴に虚偽を含む文書を偽書とした上で」などと特定のウィキペディアンが勝手に意味を限定する宣言をしてしまっては、独自の研究ともいえましょう。また中立性を欠いているとも言えます。--Zittermimic 2011年4月18日 (月) 17:47 (UTC)
- 一般的に日本語では美術品の場合は「贋作」と言います。またさまざまなタイプが存在するということですが、具体例がなければ検討不可能ですので例示をお願いします。--Yonoemon 2011年4月19日 (火) 01:38 (UTC)
- 5年近く前に現在の定義文を「間に合わせ」として起草・加筆した者の一人です。上の節でも、詳しい知識をお持ちの方による書き換えは歓迎と述べているように、Zittermimicさんがそれに該当する方ならお任せしようと静観していました。ですが、1週間近く反応がないようですので、いくつかコメントしておきます。
- まず、5年前に比べて出典提示のスタイルはシビアになっていますから、現状の記事に問題があるのは事実だと思います。
- 他方、「偽書(ぎしょ)とは、製作者や製作時期などの由来が偽られている文書・書物のこと」とする現状の定義自体に問題があるかといえば、必ずしもそうは思いません。上の節で挙げた『平凡社世界大百科事典』(1988年版)でも、『偽書』の項は「著者を偽ったり、有名な書籍に似せて作った著書」(第6巻、p.676)と定義付けられています。このページにまとめられている各種新聞記事もそんな定義です。
- 「書」という語は書道の方でも使うのは事実ですから、そういう「書」の偽物の意味で「偽書」を使うことも確かにあるのかもしれません。ですが、それなら誰がそう定義付けているのかを明示すべきでしょう。記事に片っ端から要出典をつけておきながら、「偽書という概念は、美術的な書の贋作も含んでいる」([1])という定義の拡大に当たって、何の出典もお付けにならなかったのは不適切ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
- また、偽書の例示にことごとく要出典を貼っておられるのもやりすぎだと思います。Wikipedia:秀逸な記事の選考ですら、リンク先の記事との分担関係が成立していれば、その記事内だけで全て完結させる必要がないとされているというのに、例示の全てで偽書説の概要について逐一触れなければならないとは、私には到底思えません。--Sumaru 2011年4月24日 (日) 06:00 (UTC)
- まずは各々の内部リンク先ページにて要出典が必要なのかどうなのかをお考えになってから編集をお願いいたします。--218.138.222.124 2012年2月9日 (木) 18:07 (UTC)
リストの種類分け
[編集]偽書説があるものと歴史学者から一般的に偽書と看做されているものを並べて書くのは問題があるのではないかと思い、リストを分割しました。日本のものに関しては、[2]から判断しました。もっと良い出典があるかも知れません。記紀を偽書と見るのは歴史学者の一般的な見解ではないことが書かれています。一方で竹内文書などは偽書であると考えられている、ということが書かれています。あまり著名な人とは思えないので、もっと良い出典があればそちらを書くべきかもしれません。朝鮮関係のものは揆園史話に書いた朝鮮日報の記事が出典です。こちらは、はっきりと20世紀に檀君神話が朝鮮人に信じられれるようになったキッカケの三つの書を歴史学者たちが偽書と看做していることが書かれています。中国の本はよくわからず、それぞれのページで真贋が問題になっていないようなので、「説」の方に入れました。「説」のリストに入れるに当たり、どれくらいのレベルを要求すべきかが不明になりやすい問題を含むと思います。--Seisato(会話) 2014年10月19日 (日) 06:33 (UTC)
歴史書の項目部分で古事記の説を取り上げるのは「記紀」を偽書でないと見る一般的見解上、POVの問題があると考えていました。[3] にかなりはっきり書かれているので、矢張り偽書説を挙げた部分は消します。説の一覧部分にはマイナーであると付記して残します。在野の歴史家の方が自分で創業した出版社から本を出すという行為をどのように評価すべきか難しいと思います。もう一人の方は、民商系の「書店」から本を出されていて、一般の流通ルートに乗っているのか、少々疑わしいと感じます。--Seisato(会話) 2015年3月24日 (火) 12:51 (UTC)
- 大和氏は新聞コメントを出した方のようでしたので、名前だけ書きました。--Seisato(会話) 2015年3月24日 (火) 13:25 (UTC)
IP106さんが書いた部分をほぼ戻しました。偽書説がマイナーであることがはっきり書かれていないからです。明らかにバランスが悪いと思います。--Seisato(会話) 2015年3月30日 (月) 14:01 (UTC)