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ノート:先崎学

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「瀬川世代」等に関する演説の停止願い

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Jbgと申します。下記の文章が繰り返し投稿されていますが、これは「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」の「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」と「ウィキペディアは演説台ではありません」に該当します。今後は同様の文章を投稿しないでください。

いわゆる「瀬川世代」の棋士の一人とされる。 世代と言うのは単純に十代とか二十代とか10年単位とされている。 棋士番号とかは関係ない。 ただし将棋界における羽生世代というのは、全く違う意味です。 羽生を中心に昭和45年生まれ の前後1年くらいの棋士を特定して付けられた名前が羽生世代である。 ゆえに三浦は羽生世代ではありません。 当初は羽生世代とは→羽生・森内・佐藤・村山・屋敷・丸山・先崎あたり のことを言っていました。 同年代でも藤井・深浦辺りは含まれてはいなかったです。 羽生世代と瀬川世代の狭間をいったりきたりし今でも先崎氏は羽生世代の一人なのか瀬川世代なのか 激しい論争がおこなわれているのが現実です。

--Jbg 2010年9月8日 (水) 19:42 (UTC)[返信]

コメント依頼より参りました。利用者:119.47.27.180様はまだウィキペディアのルールをよくご存じないと見受けられます。従いまして、大雑把に説明をさせて頂きます。
かの様な「自らの意見の陳述」は、このノートページで執り行ってください。また、議論の内容についても、誰がどこでそう言っていたかを示す事にご留意ください。ウィキペディアは議論や演説の為のサイトではなく、既に何者かの手により広く公開されている情報を集めて纏めるサイトでございます。何せ「Wikipedia:独自研究は載せない」などと言う方針文書が有るくらいでございまして、これは裏を返せば「他者の研究を引っ張ってこい」という事なのです。
分量が分量でございますので、方針文書の類のご熟読は大変かと存じますが(私も昔は色々とやらかしたものでございます)、何か解らない事がございましたら井戸端で質問なされるか、或いは私の会話ページまでお越し下さいませ。微力ながら、お力になれることもあるかと存じます。まずはお返事をお待ち致したく思います。--Hman 2010年9月13日 (月) 08:13 (UTC)[返信]
Jbgです。ご配慮ありがとうございます。このノート、および、119.47.27.180さんの会話ページ(利用者‐会話:119.47.27.180)にて注意喚起をいたしましたところ、2010年9月9日 (木) 09:11の版にて119.47.27.180さん自身が演説除去の修正をされていますので、すでに意思は伝わっているかと思います。--Jbg 2010年9月13日 (月) 09:03 (UTC)[返信]
了解致しました。そういうことであれば、議論終結案件と言うことで、コメント依頼の一覧から除去されては如何でしょうか(私がやってもいいのですが、やはりJbgさんがなされた方がよろしいでしょう)。119.47.27.180さん、今後何かございましたら、くれぐれもお気軽にお問い合わせくださいませ。--Hman 2010年9月13日 (月) 09:15 (UTC)[返信]
Jbgです。私はコメント依頼があったことを知りませんでした(上記のHmanさんの投稿を見て初めて知りました)。コメント依頼を出されたのはTiyoringoさんのようです(署名がないですが、履歴でわかりました)。他の人が書いたコメント依頼を消すのは気が引けますので、私からTiyoringoさんの会話ページに書いてお願いすることにします。--Jbg 2010年9月13日 (月) 10:28 (UTC)[返信]
えっ!話の展開からてっきりそうだと思い、全く疑いもしませんでした(汗)。完全に私の確認ミスです。いやあ、誠に失礼致しました。伏してお詫び申し上げます。人生、予断と油断は禁物ですね。以後重々注意致します・・・・。--Hman 2010年9月13日 (月) 10:40 (UTC)[返信]
Jbgです。いえいえ。とんでもございません。お気になさらないでください。なお、コメント依頼を出されたのはTiyoringoさんではなく、61.21.212.50さんだったようですので、そちらにあらためて連絡することにします。--Jbg 2010年9月13日 (月) 23:35 (UTC)[返信]

棋歴編集(2010/9/14頃)の件

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Jbgと申します。

2010/9/14頃に行われた113.39.81.138さん、119.26.173.165さんの編集内容および61.46.166.121さんの編集内容の一部に問題点がありましたので、ここに記します。

>>いわゆる「羽生世代」と呼ばれることもある棋士の中では、彼だけタイトル戦登場経験はなく実力面で他の棋士に劣るものの、全棋士参加棋戦優勝は羽生善治森内俊之の次に達成している。

⇒「実力面で他の棋士に劣る」の部分が、存命人物の伝記の「出典無き批判は除去」およびウィキペディアは何ではないかの「独自の考え」に該当します。

>>ただし、この年のNHK杯戦優勝を最後に全棋士参加棋戦での優勝はなく、デビュー当時の期待は裏切られた形で終わっている。

⇒「ウィキペディアは何ではないか」の「独自の考え」か「演説」に該当します。

>>同年(第54期名人戦)、順位戦で、最初の関門であるC級2組からC級1組への昇級を果たす、実に8年を要したため、同世代のライバル達はとっくの昔に昇級済みであり、羽生に至っては全七冠独占を達成していた。C級2組在籍時には、全ての期で勝ち越しており、8勝2敗が3回、9勝1敗も1回あった。頭ハネは3度、経験している。師匠の米長からは不遜な態度を揶揄され、このような男に女神は微笑まない、頭ハネをもらうタイプだとオカルトじみた指摘をうけていたが、結果的には、そのとおりである。

⇒「出典無き批判」や「演説」に該当します。また、名人戦は順位戦の誤りです。

>>2000年度と2001年度は、勝率が3割程度に沈む。A級棋士(第59、60期名人戦)であったこともあり、対戦相手が厳しく勝ち星は稼げなかった。

⇒A級順位戦だけでなく下位の棋士との対戦成績も悪かったのです。この2年間の勝率は3割程度ではなく4割前後です。また、名人戦ではなく順位戦です。なお、全角数字は使わないでください。

>>A級昇級時には、同世代のライバルとようやく同じ舞台で戦えると張り切っていたが、結果的には歯が立たなかったとみるしかない。第60期名人戦最終局、羽生に負けたことにより降級するのだが、この対局に勝てば残留だったこともあり、旧知の間柄である羽生相手の感想戦では泣きそうな顔をしながら、何度も愚痴をこぼしていた。実力面で幼き日のライバルたちに圧倒的な差をつけられたことを思い知らされた2年間、よほど悲しかったのであろう。

⇒「出典無き批判」や「演説」に該当します。

>>以後、毎年、昇級争いにはからむもののB級2組に定着したままである。奮起が待たれる。

⇒B級2組まで落ちたことは前述していますから、B級2組から上がるか下がるかしたときに更新すれば良いことではないでしょうか。また、「奮起が待たれる」は「独自の考え」か「演説」に該当します。

勝手ながら、存命人物の伝記ということもあり、以上のことについて記事本文の修正をいたします。ご意見がありましたら、本文編集ではなく、このノートにお願いします。--Jbg 2010年9月14日 (火) 15:32 (UTC)[返信]