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ノート:具志川城 (久米島町)

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 記事内容を全面的に書きかえました 

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発掘調査報告書などの出典資料を元に、記事内容を全面的に書きかえました。詳しくは「ノート:具志川城 (糸満市)」にて。--Shiro0922会話2015年5月29日 (金) 18:00 (UTC)[返信]

歴史の中の「もともと周辺集落の御嶽だった場所に、真達勃(まだふつ)按司によって築城されたと記されている」という記述はおかしいですね。これでは御嶽に作ったという宗教的な理由ともとれますが、単に要害がいい山とした方が文献の解釈としては普通でしょう。御嶽は神聖な場所であり、通常そのようなことをするのかな?と思います。--狐坂紺会話2015年5月30日 (土) 10:37 (UTC)[返信]


概要の 具志川城跡は、久米島町仲村渠432および477-1、久米島北西の仲村渠集落の北方、東シナ海に面した『断崖の丘の上』にある。としていますが、平均海岸線と御嶽山の間には道路があることから地図上では「東シナ海に面した断崖の丘の上」と言えません。また100メートル程度内陸に城が入っている点から「面した」は、現代の海岸線からは「東シナ海を望む」です。築城当時の海岸線はそうかもしれませんが。とにかく現状の地図と齟齬(海岸線と城の間に道路がある、海岸線より内陸に城がある)があるので、この記述は『断崖を持つ丘の上』変更します。--狐坂紺会話2015年5月31日 (日) 09:33 (UTC)[返信]

具志川城 (久米島町)の事柄は、このノートで解決してください。残念ながらノート:具志川城 (糸満市)で議論するという提案に従うことはできません。--狐坂紺会話2015年6月10日 (水) 14:19 (UTC)[返信]

 その他を復帰 

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『2010年3月31日(水)で退職となった、大学で12年間、今帰仁村で21年間資料館づくり、調査、研究など、[1]』された今帰仁村歴史文化センターの当時の館長が館長時代の2005年1月に作成したHPを個人のホームページと偽って削除されたことによります。なお、ノート:具志川城 (糸満市)でわざわざこのページのことを議論させるのも、本ページの履歴からの消去が前提と考えられます。ただし批判を一部いれ、記述も事実の存在に縮小しました。なお、ホームページの名称は今帰仁村歴史文化センター(沖縄県)であり、常設展示や入場料、調査記録、講演や講演のレジュメまで掲載されています。--狐坂紺会話2015年6月10日 (水) 14:43 (UTC)[返信]

注目されるは消去し存在の事実のみの記述に後退させました。
なお、Shiro0922氏の『「個人の調査記録として書いているもの」と書きました。「個人のホームページ」とは書いていません。人の文章をちゃんと読んでください。該当のページは、ページとしては歴史文化センターのサイト内に置かれていますが、内容は所長さん個人の記録に過ぎません。論文や報告書のように査読が入ったものではなく、資料の信頼性として疑問がありますので、出すなら他の出典資料を出してください。それだけ「注目される」べき史料ならば、他の信頼できる資料が多数あるはずです。』ー>個人の調査記録として書いているなどというのはウソです。公務員が館長という公務員の身分で、県の施設を公務員が紹介するHPの中で、センターの2005年1月の動きとして掲載していた以上、その価値は一私人が趣味で作成して公表した。とは言えません。どちらにしても、その史跡の中でその遺物が存在するとの検証を可能としている以上、「ある」という事実の掲載に問題はないはずです。村の教育委員会もリンクを貼っていること[2]からも、『「個人」の調査記録として書いているもの』などというのは事実の歪曲と言ってよいでしょう。--狐坂紺会話2015年6月11日 (木) 17:29 (UTC)[返信]

ノート:具志川城 (糸満市)に何故か書き続けられるShiro0922コメントより引用、『「具志川城 (久米島町)」の記事で、狐坂紺さんが書いた天正年間の石の記述を差し戻しました[4]。そんなに記述したいなら、歴史文化センターの元所長のページにこだわるより、他の信頼できる情報源を探してください。ネット検索だけが資料調査ではありません。--Shiro0922会話) 2015年6月11日 (木) 22:43 (UTC)』はShiro092氏の言いがかりです。Shiro092氏が信頼するか否かShiro092氏の自由ですが当方は規約に則りShiro0922氏の意見を十分入れた改定をしています。韓国政府がよくやるように条件を成就させてから条件を変えて条件に合わない(「個人の」=>「公的機関の 公務員の、教育委員会よりリンクされているページ」となると、無視。注目される=>注目に値するかわからない=>遺物の存在のみを記載するー>ネット上の資料であるからダメ)としても、日本の国ではその論法は通用しません。最初に「個人的な」と言っていたHPが「個人的でも」「個人の調査資料」でもないと論証した以上、「個人的な個人の調査資料」であることを証明してください。Nanafa氏同様にどうしても消したいのは当初から理解しています。しかし、当方の出典がウィキペディアのルールに反していることを論証してから削除ください。その石がそこに存在する事実までは、消すことはできない出典があることの否定が第一にShiro0922氏がすべきことです。具志川城 (糸満市)に書く理由はなにか知りませんが、それもやめてください。--狐坂紺会話2015年6月12日 (金) 13:19 (UTC)[返信]

「歴史文化センターの元所長のページ」これはウソです。帰仁村歴史文化センターの当時の館長が館長時代の2005年1月に書いた文書で村教育委員会より現在も帰仁村歴史文化センターとしてリンクされているページに掲載されている「過去の動き」として公の施設の館長が作成した歴史文化センターのページです。作成者の身分を時間でごまかす幼稚な論証はやめてください。--狐坂紺会話2015年6月12日 (金) 13:44 (UTC)[返信]

報告 狐坂紺さんにより、ノート:具志川城 (糸満市)の一部がこちらにコピーされましたが、勝手な独断によるコピーですので削除しました。前述のノートをご参照ください。--Shiro0922会話2015年6月13日 (土) 12:21 (UTC)[返信]

その他について

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元館長のページではありません。いいかげんいウソをつきながら事実を捻じ曲げた印象操作はやめてください。自分の書いてる言葉が良く分かってないようですが「他の信頼性の高い」は絶対ではなく相対にです。他の信頼性の高い文書で当方の記事のソースを潰すのは、それを書かせたくない人の仕事です。つまり、「他の信頼性の高い」という言葉は、何を出しても言いうる言葉で意味がそもそもありません。資料が1つしかなくても、公務員が公務を通じて作成した文書であれば、とりあえずの信頼性はあります。Shiro0922氏の発言を裏付ける資料なら中国側が持っているかもしれないので、そちらを探してください。

1)「具志川城 (久米島町)」の記事で、狐坂紺さんが書いた天正年間の石の記述を差し戻しました[5]。天正年間の石を「注目される」と書くのは狐坂紺さん個人の解釈に過ぎません。繰り返しになりますが、「注目される」と書けるだけの、別の信頼できる情報源を示してください。 Shiro0922氏が削除した理由は、『出典元のページはセンターの所長を務めた方が個人の調査記録として書いているもので、出典資料としての信頼性は疑問です。』(方針に反している)

2)『そもそもその石が、具志川城跡の特徴としてわざわざ取り上げる項目かどうかも疑問です。』(Shiro0922氏の意見にすぎない)

1A)天正年間の石を「注目される」と書くのは狐坂紺個人の解釈ではなくこの[6]差換えで当初より[7]と提示しているとおり、沖縄県の博物館協会の会員の今帰仁村歴史文化センターのHPの中の歴史文化センターの過去の動きの中に記載されている、公務員の館長作成した過去のページが掲載されているものです。公人が書いた文書で、かつ公的機関や教育委員会のHPにもリンクがある。

2A)あります。沖縄県の現博物館協会の会員の今帰仁村歴史文化センターのHPの中の歴史文化センターの『過去の動き』と題する博物館の活動の記録の中に記載されている、公務員の館長が館長時代に作成した文書の中には、2005.1.29(土)付で「以前から久米島の具志川グスク内にある「天正戌□・・・」の石が気になっている。」「天正(1573~1591年)戌□と刻まれているのは日本年号である。」「当時、琉球は中国年号を使うのが常識である。」。2009年2月4日付には「・按司の入った棺に「正徳元年丙寅」(1506年)とあり。・築城者は他からきた者・城内に転がっている切石に「天正八年」(1580年?)とある。」と少なくとも3回にわたり、沖縄の歴史について遺物からの推論を行っています。つまり、沖縄県の博物館協会の会員の今帰仁村歴史文化センターのHPの中の歴史文化センターの過去の動きの中で、公務員の館長がこれらに注目している事実があり、取り上げるべき項目です。

そもそも、Shiro0922氏は琉球の歴史についてある程度の知識はあるのですか?なければ、城の資料だけを読んでも意味はありません。そのようなShiro0922氏の意見も取り入れて「注目」と言う点にかんして疑義があるとのことで一応取り下げています。しかしながら京都の元号の存在の事実についての資料は十分なはずで、方針に反していない掲載を方針に反して繰り返し除去するShiro0922氏十分反則行為です。すぐに改めてください。

3)パソコンの前に座っているだけで資料調査が済むと思わずに、足を使って資料を探してください。私は国会図書館まで行って発掘調査報告書・村史・書籍などを調べて、具志川城の記事を書きました。

3A)意味のない自慢はツイッターでやってください。

4)もし教育委員会からページがリンクされていたとしても、資料の信頼性の保証にはなりません。

4A)平成7年7月7日 教育委員会規則第4号を見れば、今帰仁村歴史文化センターがどこの教育委員会のいかなる施設で、館長の地位がいかなるものかその職務は何かは明らかでありShiro0922氏の書いてることが論外かわかります。

--狐坂紺会話) 2015年6月13日 (土) 00:14 (UTC) ノート:具志川城 (糸満市) のこの[8]版より移動--狐坂紺会話2015年6月13日 (土) 07:40 (UTC)[返信]

糸満市の具志川城に書き続ける理由を説明してください。というかやめてください。糸満市は本島にある城で、久米島の具志川城は糸満市ではありません。将来糸満市と合併するのかも知れませんが、現時点では別の行政区です。--狐坂紺会話2015年6月13日 (土) 17:44 (UTC)[返信]


  • 事実は、実際の事柄の状態です。ある文や命題についてそれは真であると述べることは、事実を参照していると述べることです。百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです。『沖縄が明の元号を使用していたとされる常識的な事実』に対して(新しい証拠『天正の京都元号が刻まれた石という遺物』が現れてその記述はもはや事実ではなくなることがあるかもしれません。そのときは、百科事典を修正すべきです)相反する事実があるということです。
  • ある調査により結果が公刊されたということは事実です。火星と呼ばれる天体が存在する、ということは事実です。プラトンは哲学者であった、ということも事実です。これらのうちいずれかに真剣に異議を唱える人はいませんから、私たちはそれらを自由に主張できます。天正の元号が刻まれた石が存在するのは真実です。いい加減に方針に従った行動をお願いします。--狐坂紺会話2015年6月13日 (土) 17:47 (UTC)[返信]