ノート:十字の描き方
映画のネタバレについて
[編集]ナターリアと後に結婚するという情報がネタバレになり得るとのことですが、映画公式サイトのストーリーのページに「妻のナターシャ」とはっきり書いてありますので気にしなくてもいいのではないかと思います。まあ項目の主題からすれば瑣末な情報なのでなくてもいいとは思いますが。--sergei 2009年2月16日 (月) 16:19 (UTC)
- なるほど、了解です。ただ、「出来れば無い方がいいのでは」とは思っておりますので、「記述復帰には消極的な賛同」という姿勢をとらせて下さい。「自分では復帰編集を行いませんが、記述復帰には反対しません。」という意味です。--Kliment A.K. 2009年2月17日 (火) 03:50 (UTC)
- ネタバレについてはWikipediaではよく議論になりますが、私としてはこの件は記載を避けなければならないネタバレには該当しないと思っています。理由は以下の2点です。
- この映画はかなりフィクションを交えているとはいえ基本的には伝記映画であり、公式サイトを見れば明らかな通り制作者は観客にラフマニノフが3人の女性のうち誰と結婚するかを推理させることを意図していない。
- ラフマニノフが従妹のナターリアと結婚することはラフマニノフについてある程度関心を持っている人なら誰でも知っている歴史的事実であり、あまり詳しくない人でもこの映画を見てみようと思っている程度には関心を抱いている人が映画を見る前に意図せず偶然この事実を知ってしまったからといってそれで映画を見る楽しみが損なわれたと感じるとは考えにくい。
- 私から見ると「従妹であるナターリア・サーチナ」という書き方は何とも中途半端でちょっと気持ち悪いのですが、まあそもそもこの事実はこの項目の主題である「十字の描き方」について理解する上で特に重要なことでもないので、主執筆者のKliment A.K.さんのご判断を尊重します。取り敢えずこのままにしておきましょう。いずれ日本での映画の公開が終了したら戻すことにすればいいでしょう。--sergei 2009年2月17日 (火) 15:45 (UTC)
- ネタバレについてはWikipediaではよく議論になりますが、私としてはこの件は記載を避けなければならないネタバレには該当しないと思っています。理由は以下の2点です。
記事「十字架」からの一部転記提案
[編集]- 十字架のうち、十字の描き方についての部分(特に聖公会と正教会の節のうちの該当部分)を、当記事「十字の描き方」に転記することを提案します。--Kliment A.K. 2009年7月20日 (月) 22:50 (UTC)
- 報告 反対意見がなかったため、転記しました。--Kliment A.K. 2009年8月3日 (月) 02:44 (UTC)
本記事の項目名について
[編集]KlimentAKさんが立てられた本記事ですが、記事内にもあるように「十字を描く」という言い方は正教会での日本語訳で、同じ行為でもカトリック教会では「十字を切る」と表現しています。さらにカトリック教会に限らず、一般的な文学作品や外国映画の字幕などでもおそらく「十字を描く」よりは「十字を切る」という表現のほうがよく使われ、人口に膾炙しているのではないかと思いますし、なぜこの項目名にしなければならないのかという必然性がわかりません。もちろん「十字を切る」のほうが日本語としてよく用いられるからといって「十字をきる」に移動するのも特定教派に偏ることになりそうなので、「十字を描く」「十字を切る」以外のよい記事名を検討し、そちらへ移動することを提案したいと思います。このような提案にいたったのは他言語版の項目名と日本語版の項目名がずれているからです。他言語の項目名をみてみるとドイツ語(Kreuzzeichen)、英語(Sign of the Cross)、スペイン語(Señal de la cruz)、フランス語(Signe de la croix)、イタリア語(Segno della croce)、ラテン語(Signum Crucis)などとなっています。これらの項目名から適切な日本語の項目名を考えると「十字架のしるし」あるいは「十字のしるし」になると思います。このような表現が教派的にも中立で他言語との対応も適切かと思いますが、いかがでしょうか。あるいはもっと適切な項目名をご教示いただけるとありがたいです。(ヨーロッパ語POVだといわれると、韓国語とかアラビア語がわからないので申し訳ないです。)Gakuinryou 2010年1月5日 (火) 16:10 (UTC)
- コメント
- >記事内にもあるように「十字を描く」という言い方は正教会での日本語訳で、
- 違います。記事をよくお読み頂きたいのですが、正教会でのみ用いられる正確な表現は「十字を画く」です。従いまして
- >なぜこの項目名にしなければならないのかという必然性がわかりません。
- について申しすと、「十字を描く」であれば大体どこの教会の信徒でも通じる、というNPOVを考慮したためです。細かくは覚えていないのですが、「どの教派のサイトでもヒットした」表現は、確かこれのみだった記憶があります。深い意味はありません。実に単純な理由からです。--Kliment A.K. 2010年1月6日 (水) 13:47 (UTC)
- お返事ありがとうございます。「十字を画く」でなくキリスト教他教派への中立性を考慮して「十字を描く」にされたということでしょうか。そのことに関しては了解いたしました。ただ私が気になっていることが二つあります。
- まず一つはウィキペディアに記事を書く以上、キリスト教とまったく無縁なユーザーの利用も考慮する必要があるということです。その場合日本語として「十字を描く」より「十字を切る」という表現の方が一般的なものとして人口に膾炙しているのではないかと思います。試みにあまりキリスト教を知らない日本人に(キリスト教徒の行為を表現するのに)「十字を描く」「十字を切る」という二つのどちらが自然に感じられるかと聞けばどちらを選ぶと思われますか?
- もう一つは他言語版の項目名を見たとき「十字の描き方」という項目名には違和感が感じられることです。そこで上で私が提案している項目名の方がふさわしいように思えるのですが、いかがでしょうか。私としてはKliment.A.K.さんだけでなく、より幅広くいろいろな人の意見も聞いてみたいと思います。Gakuinryou 2010年1月6日 (水) 14:25 (UTC)
- >「十字を画く」でなくキリスト教他教派への中立性を考慮して「十字を描く」にされたということでしょうか。
- この点については仰る通りです。これ以上の解決策を(少なくとも現時点では見出せていません)。以下、異論点を申し述べます。
- まず、他言語版が加えられた履歴を御覧いただきたいのですが、私が加えたわけではありません。作成時点では、他言語版にそのような記事があることすら私は存じませんでした。当初の記事作成意図としてはあくまで「十字の画き方」「十字の切り方」を志向したのでありまして、他言語版との整合性を志向したものではありません。従いましてこのような提案にいたったのは他言語版の項目名と日本語版の項目名がずれているからです。につきまして改めて申しますと、それなら言語リンクを外した方が良いのではないか、とすら考えてしまうというのが私の志向です。
- 次に、「あまりキリスト教を知らない日本人への配慮」について申しますが、「十字の切り方」で検索をかければYAHOOでは当記事がトップに来る事を以て解決していると言っていいでしょう。そもそも「通用性」を言い出したら記事名「正教会」すらも破綻するのが今の日本の現状です。日本では「ロシア正教」が最も一般的と思われますから。ニコライ堂に来る観光客の半数以上は「ロシア正教の教会」と言いながらやって来ます。次に多いのが「ギリシャ正教の教会」。「正教の教会」と言ってやってくる人は1割も居ません。聊か言い方に問題はあるかもしれませんが、そのような「日本一般のレベル」に合わせて事典を作るべきだとは全く思えません。そんな事を始めたら正教関連の記事は全て事実に反する記事名ばかりが罷り通る事になりかねません。カトリック教会の方にとっては「一般」と「カトリック教会」のレベルが相対的に近似しているからそういう問題意識が薄いのかもしれませんが、そうではない領域も多い事については是非認識して下さい。我々は「正確な事典」を作るべきなのであって、「あまりキリスト教を知らない」人間に媚びた内容を作るべきではありません。
- 三点目、新しい項目名提案についてですが、日本人にとっては「十字架のしるし」の方が馴染みが薄いでしょう。まして日本正教会では「聖號(せいごう)」とも呼ばれる動作であり、「十字架のしるし」と言われてもピンと来ません。「十字の切り方」への改名については、賛成が圧倒的多数になれば、(勿論議論はした上で)賛同はせずとも引き下がる蓋然性はありますが、「十字架のしるし」は絶対反対です。
- 全くの余談で恐縮ですが、カトリックの知り合いも最近何人が居るもので話すのですけれど、現在のキリスト教関係者の殆どは「一般の通用性」「簡明さ」についてはどんどん推し進めようとする一方で、古い文献との整合性に繋がる「通事性」「正確性」については殆ど考慮を払っていないというのがよく分ります。日本正教会の用語が考慮されない場面についても「通事性」「正確性」が考慮されない場面とほぼ同義である事が多い。最初は単に東方への偏見か何かかと思っていましたが、どうもそうではないようですね。古いカトリック用語もあまり大切にされていない事は、古いカトリック大辞典をみて勉強を進めると見えて来ます。--Kliment A.K. 2010年1月7日 (木) 09:34 (UTC)
- 「カトリック用語」も時代によって変わるんですけどね。古いものが正しい訳ではありません。johncapistrano 2010年1月7日 (木) 09:45 (UTC)
- johncapistranoさん
- 「時代によって変わっている」まさに其の事を批判的に捉えているのであって、事実を否定している訳ではありません(一つ手前の意見くらいよく読みましょう、言ってもいない内容をでっち上げて批判しないように)。「時代によって変わっている」スピードが日本正教会において比較的緩やかだからと言って、「他教派の変化のスピードに合わせろ」というのでは、相互尊重もへったくれも無いだろう、と。私が言っているのはそれだけの事です。「古いものが絶対的に正しい」などと言ってもおりません(一つ手前の意見くらいよく読みましょう、言ってもいない内容をでっち上げて批判しないように)。--Kliment A.K. 2010年1月7日 (木) 12:37 (UTC)
- 用語が変わったからといって大切にされていない訳でないでしょう。あなたの書込みには同意できるところが少ないと書いているだけです。他教派の変化のスピードに合わせろなどと誰も書いてませんよ。johncapistrano 2010年1月7日 (木) 13:10 (UTC)
- >他教派の変化のスピードに合わせろなどと誰も書いてませんよ。
- そうですか。それは私の事実誤認であり、お詫び申しあげます。嬉しいです。日本正教会の用語の変化のスピードにも、今後はさらに考慮してください。
- >用語が変わったからといって大切にされていない訳でないでしょう。
- 「Aという用語は不適当だからBという用語にします」という態度が「Aという用語をそれでも大事にしている」とは思えません。別に私はカトリック信徒ではありませんので、最終的にはそれについてはカトリック信徒さんが決める事ですけれどね。--Kliment A.K. 2010年1月7日 (木) 13:22 (UTC)