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ノート:夜のヒットスタジオ

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出演者リスト削除について

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Wikipedia:ウィキペディアは何でないかには、「ウィキペディアはナレッジ・ベースではありません。すなわち、単なる情報やデータの収集をする場所ではありません。」とあります。さらにその下には「(ウィキペディアは)データベースではありません。」とも書かれています。要するに、単なるデータの集積はウィキペディアの記事にはふさわしくありませんし、その存在が記事の冗長性を増しています。

これらを踏まえ、ただ出演者と登場日を羅列しただけのリストは当記事には必要ないと考え、今回削除しました。あえて言うなら、これらのリストはウィキペディアではなく個人のホームページに記載するのが適切だと思います。RiceCracker 2005年10月22日 (土) 07:35 (UTC)[返信]

では、ミュージックステーションでも同様の措置が採られるべきではないでしょうか?あそこのページの場合、タレント名だけがただ、箇条書きになっているだけで、この夜のヒットスタジオのページ以上に出演者などの部分を削除すべき必要があると考えますが・・。
あと、いわゆる音楽番組の類の場合、初出演はいつの放送の時か、そして、その時に何を披露したのか、というのは大きな意義を有すると考えられます。ザ・ベストテンのようなランキング番組であればまだ初出演した回も判別がつきやすいわけですが、この番組に関しては正統派の音楽番組であった関係上、初出演の回が分からない場合がかなり多いのは事実です。また、22年に及ぶ歴史の長さを閲覧者に実感していただく、という意味でも初出演についてのリストは不可欠と考えます。
また、「幅広いジャンルを網羅」、そして海外アーティストも多く登場させた、というところにもこの番組の特色があり、それも具体的に誰がいつ出たのか、というところがわかって初めて実感を持つことができると思われます。もし、これらの主張をご理解いただけるようであれば、また、このリストを復刻させていただきたいと思うのですが・・・。
ミュージックステーションについては、先ほど出演者リストを削除してきました。そっちの記事は見てませんでした。ご指摘ありがとうございます。
さてこっちの方ですが、Wikipediaの方針を抜きにしても、ここまで多量のリストを掲載する必要性があるか疑問です。出演者リストを削除する直前の状態で記事のサイズが115KBと、長いページのベスト30に入るほどの長い記事になっており、記事の見通しが損なわれている状態でした。(現状でも82KBあります) 番組を象徴する出演者は本文中にも多数記述されていますし、あれ程多量の記述は必要なんでしょうか? 220.27.36.191氏の意見を全く否定するわけではありませんが、先述したとおり「Wikipediaに置くには適さない」という自分の意見は変わりません。
余談にはなりますが、ノートに記述されるときは署名をお願いします。~~~~(チルダ4つ)で署名が出来ます。 RiceCracker 2005年10月23日 (日) 08:21 (UTC)[返信]

・放送回数に関してですが、一般に1978年5月29日放送が「500回記念」とされている(当日の新聞掲載でも「五百回記念」と書いてある)のですが、全放送日を確認して回数を対照させたところ、この回は実際は「第499回」目の放送で、翌週が本当の500回であるところを月末という点を考慮して1回前倒しして行った、というのが真実のようです。また、1986年12月31日の「夜のヒットスタジオDX特別企画・世界紅白歌合戦」も「夜のヒットスタジオ」の放送回数に含まれるようで、この回を入れると、1988年2月10日が第1000回、1990年10月3日が最終回である1133回となります。このことを考慮して各司会者陣の項目に(放送初回~最終司会回)を、また、節目となる回の項目を新設致しました。220.27.36.191 2005年12月13日 (火) 15:16 (UTC)[返信]

略年表等について・・・ 略年表等の項目については、①中継・ハプニング、②名物企画であった「ジョイント」などの企画もの、③番組司会者の交替、④特に著名なタレント(この番組において多数出演したなど)の初登場の4点を中心に書いてあります。これらの項目全てにつき、まったく同番組との関連性を否定することはできないものと考えますので、再度編集で追加させて頂きます。220.27.36.191 2005年12月14日 (水) 16:19 (UTC)[返信]

井戸端より

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先日shotaという「見習い」の方に「番組とは関係の無い出演情報は削除」という理由で「年表」の項目が削除されていました。 ただ、音楽番組であり、しかもザ・ベストテンのようなランキング形式ではない以上、いつ初出演したのかというのも、特にこの番組では幅広いジャンルの出演者というのが一つの持ち味でもありましたので、この番組を説明する上で相当に重要なファクターとなるはずですし、また、それ以上にこの番組を語る上で欠かすことの出来ない「ジョイント」「サヨナラ」企画などの部分まで削除してしまうのはちょっと適正を欠くように想われます。なので、先ほどページを再度以前の略年表の部分を戻す形で再編集させていただきました(ただし、以前あった「初出演のデータ」のように膨大な量の出演者につき逐一全ての初出演の回を紹介しているわけではなく、特に著名な歌手やタレントについてのみかなり数を限定していますので、負荷の点ではあまり問題はないはずなのですが・・・ただ、如何せん「どの位の容量がこのウィキぺディアのサイトでは「負荷が大きい」とされているのかは素人ゆえわからないのですが・・・)。尚、「歴代司会者に関する考察」については、それより上のページにある記述でも同様の趣旨の記述があることや、個人的意見(様々な書籍により記述した部分もかなりありますが・・・・)の範疇を越えていないという批判も一理ございますので、再編集しない方針を採りました。220.27.36.191 2005年12月14日 (水) 16:37 (UTC)[返信]

現社名・現芸名|旧社名・旧芸名ってやめろ!直しといた!--220.99.186.162 2007年6月15日 (金) 06:04 (UTC)[返信]

「夜ヒット史上でも語りづかれる泣きの夜ヒット事件」とありますが、その「泣きの夜ヒット」の詳細が分かりません。追記をお願いします。

分割提案

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山形テレビのネット中断について

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本文で「山形テレビでは1985.4~10中断となっておりますが、」当時の山形新聞縮刷版ではまったく中断しておりませんでした。削除しておきます。

「佐々木更三」について

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「年表」の1975年7月7日に「7月7日、千昌夫VS佐々木更三民社党委員長(当時)の「東北弁おしゃべり」対決」という記述がある。

左派の佐々木更三は、日本社会党の第5代(1965年 - 1967年)の委員長である。当然、右派の民社党に所属したことはない。 民社党の委員長としては、「佐々木良作」が1977年11月 - 1985年4月に委員長と務めている。

因みに、1975年7月7日時点での民社党の委員長は、「春日一幸」である。また、日本社会党の委員長は、「成田知巳」である。

確認お願いします。

1977年8月22日、榊原郁恵初登場「わがまま土曜日」とあるが、 「わがまま金曜日」の間違いでは????--以上の署名のないコメントは、218.231.239.238会話/Whois)さんが 2013年9月14日(土)03:44 に投稿したものです。