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ノート:奥村愛

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59.134.217.165からアクセスしている人物へ 削除を繰り返している理由は何ですか。--Wikied 2008年4月11日 (金) 17:22 (UTC)Wikied[返信]

削除が繰り返されている部分の出典がわかっているのでしたらそれを明記しておくといいと思います。それでもなお削除されるようなら削除荒らしとしてブロックや半保護といった対応がとれるかも知れません。--sergei 2008年4月15日 (火) 13:00 (UTC)[返信]

杉山康人に関する出典明記について

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杉山康人に関する記述について、「出典明記あり。」とWikiedさんはコメントしてらっしゃいますが、信頼できる検証可能な情報が見つかりません。御存知でしたら、「Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へ」に書いてあるように、脚注等で明示して頂けないでしょうか。--Pastrale 2008年11月5日 (水) 05:56 (UTC)[返信]

出典は「参考メディア」に記したとおりですが、脚注として具体的ページを掲載しました。--Wikied 2008年11月5日 (水) 10:30 (UTC)Wikied[返信]

ありがとうございます。--Pastrale 2008年11月5日 (水) 11:42 (UTC)[返信]

少し落ち着きましょう

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久しぶりにこの記事に来たんですが、履歴がちょっと異様ですね。奥村愛を編集するために作られた捨てアカウントも2つあって(Cogito d松浩)、2008年2月以降、記事を削除しようとしてる人以外はほとんど一人で書いているような感じだ。とくに松浩の方が奥村愛以外に編集した瞳 (朝ドラ)には、Wikiedさんも深く関わっておられるようだし、これはただの偶然じゃないでしょう。 ‎

で、内容なんですが、興味本位の暴露や露悪的に晒しもの扱いにしようとする記述、百科事典にふさわしくないと思われる瑣末な記述を削除しました。ウィキペディアは何か言いたげな太字強調や引用符を使ってまで悪意のある記述をするところじゃないはずです。

ガイドラインを振りかざしてどうこう言うのはあまり好きではないですが、

Wikipedia:存命人物の伝記#批判、あら探し

Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#事実の暴露や報道をする場所ではありません

このあたりを参考に少し落ち着いてください。--修理屋 2008年12月6日 (土) 02:05 (UTC)[返信]

ご指摘有り難うございます。当方の加筆内容に露悪的内容に見える点があったとすればお詫びします。編集・削除の検討の余地もあるでしょう。ただ、今回の修理屋氏の編集では、奥村愛の客観的事実が歪曲されている部分があるといえます。例えば、「ファンとの記念撮影」は限定的という点が重要です。通常、奥村は写真撮影を拒むとのことです。限定部分が削除されたのでは事実と異なり、記述自体不適となるでしょう。また、関連の発言を引くことで、ファンに何らかの線引きをしていることを示すのは、特徴の記述にすぎず、露悪とは無関係ではないでしょうか。
以前、「都合の悪い(と思われる)部分の削除」が行われたことがあります。今回の修理屋氏のご指摘まで、長らく異見はありませんでした。今回のご指摘(の一部?)と不都合の削除の境界はどこなのか、議論が必要でしょう。--Wikied 2008年12月6日 (土) 20:11 (UTC)[返信]
◆この項目はしばらく前からウォッチしていましたが、特にファンでもアンチでもない私の目から見て記載の内容が興味本位だとか露悪的だとは感じられませんでした。欲を言えばもう少し出典が丁寧につけられていればよかったとは思いますが。百科事典なのであまりプライベートなことに踏み込んだ内容は記述する必要はないと思いますが、奥村愛のヴァイオリニストとしての活動を理解する上で重要な情報については検証可能性を満たしている限り記載して構わないかと思います。そのあたりお互い冷静に議論して編集を進めていっていただければ、と思います。--sergei 2008年12月7日 (日) 09:22 (UTC)[返信]
「『ファンとの記念撮影』は限定的という点が重要です」ということの意味がよく分かりません。記念撮影が限定的なんて、そんなの有名人ならごく普通のことじゃないですか? プライベート以外でも、握手会、サイン会、撮影会等は参加するときにたいてい事前に何かを買ったり、お金を払ったりするもんでしょう。
そもそもそれ以前に、客観的事実やら発言だから何を書いてもいいということではなくて、その事実が本人の著名性を語る上で重要で、百科事典に載せるべきものなのかという視点が記事を書く上で最も重要なことでしょう。偉そうで申し訳ありませんが、Wikied さんにはもう一度上記のリンクをよく読んで考えていただきたい。「都合の悪い」とか「不都合」とかいう言葉を使っておられますが、そういう主観的な次元を離れるよう意識的にもなるべきです。都合がいいから残す、都合が悪いから削除するということを言ってるのではありません。
議論が必要とのことですが、複数アカウントを使い分ける人との議論って成り立つんですかね。ここに文章を残しておくことは、他の閲覧者にとって無益ではないと思うのでやっていますが、複数アカウントで「長らく異見はありませんでした」という状態がなくなればいいと思ってるだけなので、より多くの参加者が現れることを期待してます。僕も別にファンでもアンチでもないですよ。--修理屋 2008年12月7日 (日) 13:04 (UTC)[返信]
ご理解いただけないようなので補足します。ヴァイオリニストに限らず、演奏家がサイン会を行うことはあります(「記念撮影が限定的なんて、そんなの有名人ならごく普通のこと」というのはこれの誤謬でしょう)。しかし、私の知る限り、奥村のような形で撮影会を行う演奏家はいません。(メディアを通じた積極的情報発信としての)発言内容も含め、ファンに線引きし、待遇を差異化するという点はヴァイオリニストとしての活動様態を特徴づけている、記載に値するものと考えています。
また、先に記したとおり、前回の修理屋氏の編集には問題があります。参考メディアのみ残され、該当の記述が削除されているところもあります。
なお、他の記事に見られるような瑣末な加筆はしていません。著名性を語る上で重要だという判断によります。
「『長らく異見はありませんでした』という状態がなくなればいいと思ってるだけなので、より多くの参加者が現れることを期待してます」とのことですが、たたき台としての削除なのでしょうか?--Wikied 2008年12月7日 (日) 15:18 (UTC)[返信]
理解できませんね。「ファンに線引きし、待遇を差異化する」なんておどろおどろしい表現を使わなくても、そんなのは僕の挙げた例を引くまでもなく有名人なら当然のことです。Wikiedが挙げた演奏家のサイン会だって限定的なもんでしょ? CDや本を買った人にしかサインしないのは待遇の差異化だ!ということになりませんか? そしてそれはウィキペディアに載せるべきことですか? その程度のことで「○○はファンに線引きし、待遇を差異化している」というような記述を有名人の記事に書き加えるべきとは思えない。また、この項で言えばそれがヴァイオリニストとしての奥村愛の特徴だとも思えない。
たたき台としての削除か? そうです。多重アカウントで作られた記事は不健全だし、内容も適切ではないと思えたので記事を差し戻しました。また、ご指摘のあった「参考メディア」という項目は削除しました。ここの記述はとても出典といえるようなものではありませんでした。Wikiedさんは検証可能性を重視して編集されてるそうなので、ご理解いただけるでしょう。
個人的には、できればここから僕とWikiedさん以外の人が記事を編集していくのがベストなんじゃないかと思ってます。もちろん他人の編集を拘束する権利は僕にはありませんし、首を突っ込んでしまった以上、僕も参加しなきゃいけないのかも知れないけど。--修理屋 2008年12月8日 (月) 12:56 (UTC)[返信]

大幅な編集(削除)について

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修理屋氏の独自の見解によって大幅な編集(削除)がなされました。編集内容について説明し、議論を試みましたが、「理解できない」とのことで、杜撰な編集を強行されております(sergei氏からも意見が寄せられましたが、無反応です)。

修理屋氏の主張では、編集に携わっているユーザーが寡占的である点に問題があるようです。「修理屋氏とWikied以外の編集がベスト」とのことですが、記事の編集人員を操作することは可能でしょうか。そしてそれ以前に妥当でしょうか。また、その目的のために、(現在のところ)支持者のない独自の見解によって編集を断行することは妥当でしょうか。

修理屋氏の指摘と大幅な編集が妥当なものか否か、ご意見くださいますようお願いいたします。--Wikied 2008年12月8日 (月) 13:46 (UTC)[返信]

今ちょっと別件のややこしい議論を抱えているのでこの項目については深く関わることができず申し訳ありません。修理屋さんの削除はかなり強引だとは思いますが、削除された記述は出典があまり明確にされていませんので仕方ない面もあります。どうしても記述したければ脚注機能を使ってどの発言がどの雑誌の何月号の何ページに書いてあるかがはっきりとわかるようにしておくことをお推めします。--sergei 2008年12月8日 (月) 15:30 (UTC)[返信]
はあ、もう突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいのか分かりませんね。大幅で独自の見解で杜撰な編集を強行? 僕はウィキペディアのガイドラインを引いて自らの編集の根拠を示し、なおかつ、その内容についても議論しているんですよ? 逆にWikiedさんは自説の根拠となるガイドラインを示さず(示せず)、僕の問いかけに答えることも諦めました。反論できないからって言い掛かりをつけるのはやめましょう。それから他人を非難する前に自説の正当性の根拠となるガイドライン出典もぜひ示して下さい。そういうことをせずにこちらを非難するだけでは説得力が全然ないし、こういう風に記述した方がいいと、前向きに例を挙げて説明した方が建設的ですよ(なんでこんなことまで教えてあげないといけないんだろう?)。だいたいそれ以前に、Wikiedさんはこの記事を理由も示さずに何度も「不可解な削除からの復帰」というだけで編集をばっさり差し戻してますよね?(もうひとり全く同じ理由で差し戻してる人もいますが) こういう人に他人の編集を「大幅」で「独自の見解」で「杜撰」で「強行」だから駄目だと言う権利があるんでしょうか? 自分はいいけど他人は駄目ということなんでしょうか? また、この記事をウォッチしていたというsergeiさんは、こういう理由も示さない編集は「強引」な編集だとは言わないんですか? 捨てアカウントを使って多数を装う人物の何度もの理由なき編集には強引とは言わなくて、僕のたった2回の理由をきちんと述べた編集を「かなり強引」だと断言されるのはどうしてなんでしょうか? ぜひお答え願いたい。
まあ、最初にも書いたけど、少し落ち着いてくださいよ。このページは書くとすぐに返事があるのでありがたいんだけど、ウィキペディアの記事は一刻を争うようなもんでもないでしょう。気長に参加者が増えるのを待ちませんか? 僕の個人的希望の揚げ足取りをされてますが、Wikiedさんは(それ以外の人も)いつでもこの記事を編集できますよ? 今、この瞬間にでも。すぐに合意を取って編集したいというのなら、コメント依頼に依頼を出すことをお勧めします。なんなら僕が出しても構いません。--修理屋 2008年12月9日 (火) 08:40 (UTC)[返信]
この項目は、修理屋氏の作為的な編集の是非を問うために設けました。当方を含め、当事者の発言は不適でしょう。今回は返答の都合上ここに記しますが、今後は別項で願います。
「不可解な削除からの復帰」についてもご理解いただけないようなので説明します(通常は見ればわかることでしょうが)。「不可解な削除」には何らコメントがなく、問いかけに対しても返答がありませんでした。要は根拠が示されなかったということです。ご理解いただけましたか。
「長らく異見はなかった」と書いたとおり、修理屋氏のような見解は初めて現れたものであり、独特のものといえます。また、参加者が増えるまで修理屋氏の編集を看過し、保持する理由はありません。合意の得られていない見解によって、「たたき台として」編集することは不適と言わざるを得ません。またその編集によって整合性、妥当性のない記事になっているのは、前回も示したとおりです。
問いかけに答えることを諦めた、というのはある意味ではそうかも知れないですね。一般的な演奏家のサイン会(あるいはファンへの待遇)と奥村愛の撮影会(それに反映された活動姿勢)の差異を理解していただけない時点で、不毛な反復が続くと予見されたので。
出典については補填の用意があります。しかし、修理屋氏の主張は、出典云々ではありませんでしたね。出典部分のみが残された、奇妙な編集への指摘を受けて初めて出典について主張し始めましたね。出典を補填すれば「理解できない」部分はなくなり、(現在のところの)独自見解は翻るのでしょうか。--Wikied 2008年12月9日 (火) 14:43 (UTC)[返信]

議論

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別項にしてくれと言われたので、節を作りました。ここでお返事します。sergeiさんもこちらにおいで下さい。

Wikied さんへ

僕が言いたいのは「不可解」っていうのはWikiedさんの「独自見解」ですよね?ってことです。自分にとって「不可解」だから編集した。ここで根拠になっているのは自分の「独自の見解」です。前から気になっているのは、あなたは人の編集を独自見解、独自見解と連呼するばっかりで具体的な提案はなにもせず、なおかつ自分の編集の「独自見解性」についてはまったくの不問にしていることです。みんなそれぞれの意思を持ってウィキペディアに参加してるのだから、「独自見解」そのものは悪じゃない。だけどウィキペディアにはルールがあって、僕はそのルールに基づいてWikiedさん(おそらくひとり)の「独自見解」による編集を差し戻した。これが今の状態です。そしていつなんどき誰でもが編集できます(これもルールです)。合意が得られてないのが不適とのことですが、Wikiedさんの編集もノートページで議論して合意が得られたあとに行われたものではありません。僕にはWikiedさんの自分を棚に上げて、他人を非難する姿勢がまったく理解できません。

一般的な演奏家のサイン会と奥村愛の撮影会の差異はぜひ知りたいですね。どうか具体的に説明してもらえないでしょうか。これは僕のためだけでなく、他の閲覧者のためにも、記事に載せるべきことなら絶対に説明されなければいけないことでしょう。それを説明できないというのなら、削除されても(例えば僕のような人間に)仕方ないですよね。ウィキペディアの記事にふさわしいように載せるとしたら、どのようになるのか具体的な文章のかたちで提示して頂きたい。

「初めて出典について主張し始めましたね」と得意げに言われる意味がよくわかりませんが(初めてじゃ悪いのか?)、Wikiedさんからの提案がまったくないので、出典付きで自分の主張を述べてくださいと言っただけです。そもそも、出典云々は最初に僕が挙げたWikipedia:存命人物の伝記に書いてありますよ。僕がリンクした節にも書いてあります。前に一度よく読んで考えて欲しいって書いたんだけど、やはり読んでおられないようだ。いい機会だから今度は読んで下さい。指摘があって「参考メディア」という項目に気付いたのはその通りです。Wikipedia:検証可能性に則り編集するという方が、あの程度の記述を出典としておくというのは「作為的」とは言わないんでしょうか? いや、作為的だったから出典とは断言できずに「参考」とぼかしたのかな? まあ、いずれにせよ削除されて当然の項目でした。

出典があれば修理屋の独自見解は翻るのか? この辺もガイドラインを読んでないことからくる発言でしょうね。それに理解できないと言った部分は、主典がないから理解できないと言ったわけではありません。先に挙げたWikipedia:存命人物の伝記では、出典とともにそれが本人の著名性と深く関係のあるものであることを要求しています。事実であれば何をかいてもいいわけじゃなく、個人の記述については保守的であるべきというのは、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかにも書いてあります。これらの基準をクリアした記述であれば、僕の独自見解も変わるとしたら変わるんじゃないでしょうか。--修理屋 2008年12月10日 (水) 14:52 (UTC)[返信]

ご意見有り難うございます。「独自見解」については、おっしゃることもよくわかります。また、失礼な言い方でしたらお詫びします。
以下に、記載理由を書きました。より多くの方の見解をお願いしたいものです。(編集には、現在も活動中の方としてPastrale氏もかかわっています。議論への参加がないのは残念です。)--Wikied 2008年12月15日 (月) 12:59 (UTC)[返信]

削除部分の復帰(加筆修正)について

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大幅に削除された部分の復帰(加筆修正)を行いました。見直しの余地も考慮しました。また、出典部分を脚注とし、補填しました。 百科事典として適当でないという指摘がありましたが、ガイドラインから逸脱しているとは思いませんし、Wikipediaの現状からみても、本記事内容が不適とは考え難いです。今回の一件まで、スタイルを変えるような大幅な削除が行われなかった(認められなかった)ことも、記事の妥当性を示しているのではないでしょうか。念のため、以下に個別の記述理由を記します。

  • 撮影会やツアー同行企画の記述について

一般的に、演奏家が演奏会終了後にサイン会を行うことはあります。この場合、CDやDVDなどの購入者という対象制限のある場合と特に制限のない場合があります。対して、演奏家が撮影会を行うことは知られていません(年間80公演程にかかわっていますが、少なくとも私は知りません)。撮影会はないものの、サイン会で希望者が撮影を願い出る場合があります。この場合、撮影はできるかできないかのどちらかしかありません。「時間の関係で1人1ショットだけ」などの制限がある場合はありますが、何かの購入者などという条件の下で行われる撮影はないといって良いと思います。撮影会を行う、というだけでも特異ではありますが、希望者全員に行われるものではないという点はことさら特徴的であり、記述に値すると考えています(条件を満たす人に限るという一般的ではない制限が、奥村愛の演奏家としての様態(ファンサービスやコンサート、イベントへの付加価値のつけ方)の特徴といえます)。後述する発言内容とも一致することで、より顕著な特徴といえるでしょう。またツアー同行企画も、ヴァイオリニストとしての特徴的な様態を表すものです。

  • 練習時間について

ヴァイオリニストが、日ごろの練習時間について質問されたり、言及したりすることは珍しくありません。しかし、練習しないこと、それも練習しないでだらだらするのが幸せなどと明言されるのは珍しいことです。また、これとは矛盾する発言(「練習は欠かしたことがない」)、そしてまたそれにも矛盾する発言(「今日は多分練習しない」)がメディア発信されている点も特徴的と思われます。練習時間は、演奏家としての姿勢や努力を示すものであり、削除に値するとは考えられません。

  • 音楽と人間性について

一演奏家の音楽に対する考え方や人間性を示すもので、削除理由が見当たりません。また、人間性の一端として、前記「撮影会・・・」「練習時間について」と相補的な意味もあると考えています。

  • コメンテーターとしてのコメントについて

特徴的な発言を示すのは、その人物ないしその人物の人間性を捉えるうえで有益と思われます。「コメンテーター」という、発言に責任を負う役を担っての発言で、私的な会話や閉じられた場での発言でない点も、削除には当たらない根拠と考えています。

  • メディアでの活動について

一部分が削除されましたが、削除理由が判然としません。露悪的との指摘を鑑み、一部修正しました。

「編集が寡占的だから異様」「参加者が増えるまで待つ」といった評価・企図に基づく削除は不当と思われます。大幅な編集を希望する場合、「たたき台として」などという実験的な強行はせず、合意を得てから行っていただきたくお願いします。--Wikied 2008年12月15日 (月) 12:45 (UTC)[返信]

大幅改稿お疲れ様でした。出典に関してはこれでかなり改善されたと思います。ただ、「窃盗犯」についてのコメントに関してはわざわざ記載するほどの重要性があるのかはいささか疑問であるように思います。テレビ的な意味での有名人の場合、番組出演の際の発言をいちいち記載することはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは単なる知識ベースではありませんの4, 5, 10項やWikipedia:性急な編集をしない#対象となる行動のケースc-3あたりに該当しますし、内容からすると否定的なニュアンスも含まれているのでWikipedia:存命人物の伝記#悪意のある記述にも抵触するように思われます。この記述は奥村愛のヴァイオリニストとしての活動への理解を深めることに何ら寄与することのない情報ですので、私としては記載しなくてもいいのではないかという気がしています。--sergei 2008年12月20日 (土) 09:36 (UTC)[返信]
えーっとしばらく留守をしていたらまた差し戻されたようです。この記事はあまり参加者がない状態からほぼ、Wikiedさんひとりで編集が行われてきました。その内容がおかしいと思った参加者のひとり(修理屋)が、記事を最初の状態に戻し(これがたたき台の意味です)ここから議論しようと言いました。もちろんこの状態でも誰もが編集できますが、こちらは議論という項目をつくり対話相手にもその他の人にも参加を呼び掛けていたのに、Wikiedさんは編集を行いました。これはWikiedさんが散々言ってきた編集を強行というやつじゃないんですか? Wikiedさんは合意を得てから編集しろと言いますが、これは合意を得た編集なんですか?  残念ながら議論される気がないようなので、こちらも理由を示して、編集を行いました。それから削除を何度も差し戻していた本人が、削除が認められてこなかったから記事は妥当だなどと自分で言うのはおかしいですね。現にここに妥当じゃないと言っている人間もいるのに。なんでそんなにこの記事を一人占めにしようとするのだろうか。捨てアカウントで複数を装わなきゃいけないほど参加者が少ないページだから、記事が妥当かどうかが見過ごされてきたというだけでしょう。
以下に編集の理由を述べます。突っ込みたいところは山ほどあるのですが、僕だけであまり長く文章を書くのも良くないと思うので、論点を絞りました。今のところこれ以外のところは編集しません。
・撮影会について
演奏家が撮影会を行うのが特別だというのはわかりました(僕ももともと削除してません)。本当はここもどういう風に特別なのか第三者からの情報があるといいのですが、Wikiedさんが公演に関わっておられるというので信じましょう。でもやはり限定性があるということが顕著な特徴とは言えないと思います。前から何度も言ってますが、希望者全員に行われないからそれが特殊な様態なんてことはありえません。有名人なら当然のことです。「条件を満たす人に限るという一般的ではない制限」というところの「一般的ではない」というところがWikiedさんの主観以外の点から一切説明されていません。これも前に言いましたし、あなたも言っておられるように他の演奏家のサイン会だって制限が必ずあるはずです(制限のない場合もあると言われましたが、これは「サイン会」や「撮影会」じゃなくてただ個別にサインしたり写真を撮ったりしてるだけでしょう)。たとえば東京で芸能人のサイン会、握手会が行われることで有名な福家書店の例を見てください。紀伊国屋もあります。整理券(権利)を手に入れるには必ず商品の購入が必要とされることがわかります。有名人のイベントで参加者がそこに参加するだけでなくなんらかの特典を得るためには制限があることは、いわば一般常識と言ってもいい周知の事実です。仮に稀にそのような制限がない人がいたとしても、制限のあるその他の多くの人たちのことを、ファンサービスが特徴的だとかイベントに付加価値を付けてるから特異だとかは全く言えない(言う必要がない)んじゃないでしょうか。
・“留学”
なぜ意味不明な引用符をつけるのか? なにか言いたいならはっきり言ってください。留学の名目というのもよくわからないので削除しました。そしてこの項目を人物・来歴に移しました。
・練習時間
「毎日練習するのですか?」という編集部の素朴で月並みな疑問にも「今日は多分しません(笑)」とステキな笑顔で返してくれました。
この程度のインタビューでの軽口を「矛盾する発言」だとか「演奏家としての姿勢や努力」などと大げさに取る必要性が全く理解できません。こんなのはただの雑談と言ってもいいし、奥村愛が演奏家としての自分を表明した声明でもなんでもない。どうしてそんなに悪い方に悪い方に取ろうとするのでしょうか。
・コメンテーターとして
ここは、sergeiさんも言われてますが、前述のWikipedia:存命人物の伝記#批判、あら探しWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#事実の暴露や報道をする場所ではありませんというルールに抵触すると思われます。存命人物の記事において保守的な記述を要求しているウィキペディアの基準から大幅に逸脱しているんじゃないでしょうか。
・メディアでの活動
ブログをいつ始めて、いつ止めて、いつ移行して、記事は残したが、コメントとトラックバックは削除したなんて記述はどう考えても瑣末です。理由は初めの編集のときにも述べています。また「奥村愛のクラシック万華鏡」というウェブページを脚注から外部リンクに移しました。
ウィキペディアの現状ということを言われてますが、仮に現在の風潮というようなものがあったとして、それとウィキペディアの方針等がかち合った場合、優先されるべきなのは言うまでもなくルールの方でしょう。僕が削除を行ったのは、Wikiedさんが言われた理由からのみでなく、内容がウィキペディアのルールから見ておかしいんじゃないかと思ったからと最初の編集のときに言ってます。
それから、Sergeiさんにはぜひお答え願いたいと僕が言った以前の質問にお答えいただいてないのですが、Wikiedさんの編集は「大幅改稿お疲れ様でした」と言われるのに、どうして僕の編集は「かなり強引」だと断言されたんでしょうか。捨てアカウントを使って複数を装い、記事を独占的に編集しようとする人物の肩をどうしてそれほどまでに持とうとするのかどうにも解せません。sergeiさんはこの記事の編集には参加しておられませんが、Wikiedさんがノートページで発言されるとすぐに出てこられます。おふたりはお知り合いかなにかなんですか?--修理屋 2008年12月23日 (火) 13:52 (UTC)[返信]
修理屋氏の指摘も鑑みた編集ですから、「差し戻し」という表現はおかしいです。
修理屋氏は、当方が独占的に編集していると主張し続けていますが、確信でもあるのでしょうか。仮に当方が複数を演じたとしても、修理屋氏の出現まで異論がなかったことに変わりはありません。また、自由に編集できる状態で複数を演じることの意味はありません。それにもかかわらず、記事が維持されてきたという事実を無視し、自分の一意見による編集が改編されると「おまえは編集を強行している」と主張します。これでは合意不能です。
・撮影会について
「前から何度も言ってますが、希望者全員に行われないからそれが特殊な様態なんてことはありえません」――何を基準にそのようにお考えなのでしょうか?「サイン会には制限が必ずあるはずです(制限のない場合もあると言われましたが、これは「サイン会」や「撮影会」じゃなくてただ個別にサインしたり写真を撮ったりしてるだけでしょう)」とおっしゃいますが、誤解です。繰り返しになりますが、何かの購入者といった制限のないサイン会はあり、撮影会はありません(少なくとも私は知りません)。必ず制限があるとすれば、サイン会に参加できるのは、「その場にいる人」ということぐらいです(これでは詭弁でしょう)。書店云々といわれていますが、演奏会場での演奏家の振る舞いについてほとんどご存知ないのではありませんか?修理屋氏の発言からは、「有名人(芸能人)」と「ヴァイオリニスト(演奏家)」の混同を感じざるを得ません。一般常識だか何だか知りませんが、「ヴァイオリニスト(演奏家)」に、ヴァイオリニスト以外(「有名人(芸能人)」)の基準を適用させようとするのはお門違いです。(当初から修理屋氏は「有名人」を前面に出されており、的外れと感じておりました。これを回避すべく、演奏会に近しくない方にもわかるように理由を記載したのですが……。)
・練習時間について
「この程度のインタビュー」「軽口」という判断基準は何でしょうか。練習時間が演奏家の姿勢や努力を示すものである以上、それに関する発言にどのように優劣をつけるのでしょうか。修理屋氏のような判断をすれば、「軽口だからこそ本心だ」などと、憶測での主張合戦が始まってしまいます。発言内容に優劣があるとしても、それは読者の判断に委ねられれば良く、編集時に判断できるものではないのではありませんか。修理屋氏の編集とその根拠には同意しかねます。
・コメンテーターとして
これに関してはsergei氏の指摘も(一部)合意可能なものであり、記載を断行するつもりはありません。
・メディアでの活動について
「どう考えても瑣末」の根拠が不明で、合意できません。ブログの運営状況は、その人物がいつから公的に情報発信を始めたかという情報であり、また双方向性のあるメディアとして、活動様態を示すものと考えております。コメントなどのやり取りは、ヴァイオリニストとしてのファンサービスや交流を示すもので、それを一括で抹消するという行為も、ヴァイオリニストとしての様態を示すものと考えられます。
Wikipediaの現状云々については、付随として記しています。わざわざピックアップされなくとも問題ないのでご心配なさらぬよう。--Wikied 2008年12月23日 (火) 17:27 (UTC)[返信]
すいません、ちょっと環境が変わって大幅に留守をしてしまいました。こちらの挙げた論点の大体は認めていただいたようで、ありがたいです。「合意不能」だから自分の記述を乗せるという部分は意味がわからないので差し戻しました。合意不能なら載せるべきではないんじゃないですか? せめてここで議論しましょうよ。以下、お返事。
まず、履歴をよく見ていただくとわかりますが、僕の出現まで「異論がなかったことには変わりません」という状態じゃありません。何度かWikiedさんの編集を削除しようと人がいて、それをWikiedさんが「不可解な削除」だからという理由で元に戻してます。自分は複数を装い、さらに自分で編集を戻しておきながら、自分でこの記事の正当性を言うのはおかしいです。他の人が言うならともかく。このような状態で「長らく異見はありませんでした」と言うんじゃ、編集を独占しようとしてると言われても仕方ないんじゃないでしょうか。また先に言ったように合意不能と言いながら自分の記述を何としてでもウィキペディアに載せようとするやり方が僕には記事を独占的に編集しようとする姿勢に見えます。それから「編集を強行」と最初に言ってきたのはWikiedさんで、僕はそれに反論しただけですよ。よくご確認ください。
複数アカウントの根拠については最初に述べてます。奥村愛瞳 (朝ドラ)でしか編集履歴のない松浩WikiedWikiedさんが短期間のうちにほぼまったく同じ編集をしてます。ぜんぜん関係のない記事でこんな偶然が起こることなんてまずありえないでしょうね。もうひとつの捨てアカウントCogito dもWikiedさんがこだわっている点を編集していますし、この3者は同一人物だと判断しました。僕は管理者じゃないから断定はできませんが、当初からWikiedさんも否定されませんし、あとはこの状況証拠をもとに他の閲覧者の方が個々に判断すればいいんじゃないでしょうか。なんでWikiedさんがそんなことをしたのかは、僕はWikiedさんじゃないのでわかりませんが、この記事を編集しているのが複数であると装いたかったのだろうと僕は考えてます。
・撮影会について
この部分は、こちらの「『条件を満たす人に限るという一般的ではない制限』というところの『一般的ではない』というところがWikiedさんの主観以外の点から一切説明されていません」という問いについて説明してからお答えして欲しいですね。僕はそういう制限はごく普通の一般常識だとこれまで主張してきて、その例として福家書店と紀伊国屋書店の例を挙げました。有名人と演奏家の混同などと言われてますが、まさにおっしゃる通りです。有名な、著名な演奏家だからこそサイン会やら撮影会が行われるわけで、条件を満たした特典の受け手が限定的にサービスを受けるという原理も全く一緒です。そのあり方が特殊だと言われるWikiedさんは、その理由・根拠を自らの主観以外の点から説明してません。「ファンに線引きし、待遇を差異化する」などとことさらに言ってそのさまをウィキペディアに載せようとするのなら、それがどれくらい特徴的なことでウィキペディアに載せるべきことなのか第三者にも分かるように説明する義務があるんじゃないでしょうか。また脚注の部分もWikiedさんがそう言ってるだけで、出典でもないし検証可能性を満たすものでもありません。
僕は一番初めに言ったように、本当はガイドラインを振りかざしてどうこう言うのは好きじゃありません。しかし、Wikiedさんの「自分は関わっている」と言うだけで根拠を示さず、逆にこちらには執拗に判断基準と根拠を問う姿勢には納得できないので、どうしても強硬にならざるをえません。
・練習時間について
・メディアでの活動について
この部分でもこちらの判断基準と根拠を問うておられますが、ウィキペディアのルールで言えば、Wikipedia:特筆性Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかの「事実の暴露や報道をする場所ではありません」、「ウィキペディアは単なる知識ベースではありません」、といったところです。いずれの記述も「ヴァイオリニストとしての様態を示すもの」とは到底考えられないものだと思います。
ウィキペディアの現状ということについては、Wikiedさんももう主張されないようなので安心しました。これからはせめてこのページだけでもウィキペディアのルールに従った記述を心がけるようにしていただきたい。
ところでこの項目をしばらく前からウォッチしていたというsergeiさんは、どうして僕の問いかけには答えてくれないんでしょうか? もう一度書きますが「捨てアカウントを使って多数を装う人物の何度もの理由なき編集には強引とは言わなくて、僕のたった2回の理由をきちんと述べた編集を『かなり強引』だと断言されるのはどうしてなんでしょうか?」、「Wikiedさんの編集は『大幅改稿お疲れ様でした』と言われるのに、どうして僕の編集は『かなり強引』だと断言されたんでしょうか」。もしかして本当にお知り合いかなにかなんですか? sergeiさんのノートページに書いた方がいいのかな?--修理屋 2009年6月5日 (金) 05:10 (UTC)[返信]

(インデント戻します)Wikiedさんが「合意不能」としているのはあなたが根拠なく複数アカウントを使用したと決めつけていることに対してです。そしてそれは、私があなたの編集を支持しない最も大きな理由でもあります。

私はWikiedさんの知り合いでも何でもありません。つい最近はこの方と大論争をやらかしました。それは双方の会話ページをご覧いただけばおわかりになります。はっきり申し上げますが、根拠なく人をソックパペットだとかミートパペットだとか決めつけるのは極めて非礼な行為ですので、今後一切おやめ下さい。

一般論として、参考資料がすでに提示されている項目においていきなり大量の削除を行うのは望ましいことではありません。ですので私は修理屋さんの編集を「強引」と申しました。

撮影会やサイン会に関する記述については私は特に意見を持ちませんが、一般的にいって演奏家がコンサート後に行うサイン会というのは来場している人全てが制限なく参加できるのが普通なのではないでしょうか? コンサートのチケットを買った人に限られるというのが制限といえば制限には違いありませんが。--sergei 2009年6月5日 (金) 09:27 (UTC)一部発言を撤回。--sergei 2009年6月6日 (土) 11:07 (UTC)[返信]

「合意不能」に誤解があるようなので、再度説明します。
複数アカウント云々以前に、修理屋氏は、演奏家の振る舞いをご存知ないうえで、有名人云々とおっしゃっていますよね?
当方の記述内容は、(当方の知る限り)ヴァイオリニストとしては特異な事実です。ヴァイオリニストについて、ヴァイオリニストないし演奏家の基準をもとに議論しようとしているのに、修理屋氏は有名人の書店でのイベントを例にするばかり(お門違い)なので、「合意不能」としています。
演奏家を有名人に置き換え、演奏会場を書店に置き換えたのでは対照として成り立ちません。奥村の振る舞いがヴァイオリニストないし演奏家として珍しくないことなら、演奏家の具体例を提示していただきたいものです(仮にいたとしても、珍しい部類であることに違いはないと思われます)。因みに、当方の脚注が出典ではない、とのことですが、「今年もスタンプラリーを行う」という旨の出典の用意があるのでお知らせしておきます。
「ヴァイオリニストとしては独特」という記述は、出典に基づかないので改めます。--Wikied 2009年6月5日 (金) 18:24 (UTC)[返信]
まずは、sergeiさんに。
Wikied さんが合意不能って言ってるのは、僕がWikiedさんのことを捨てアカウントを使ってると言ってるからじゃないですね。勘違いで合意不能だって言ってるんだから。修理屋が「根拠なく複数アカウントを使用したと決めつけている」から合意不能で自分の記述を載せるという論理にはどうやってもなりません。wikiedさんは、自分は知っていて、修理屋は無知だから自分が優先されると言ってるんです。
根拠もなくWikiedさんが捨てアカウントを使ってると言ってるわけじゃないのは何度も書いている通りです。ほぼこの記事でしか使われてない捨てアカウントが、同じ時期に全く違う記事でwikiedさんと全く同じ編集をしている(松浩WikiedWikied)。これは両者が同一人物であると疑うに十分な理由です。僕が最初から何度も言ってるのに本人も否定しませんしね。僕が示した例を見ても、僕が根拠なくwikiedさんが捨てアカウントを使っていると言っているとsergeiさんが思われるなら仕方ありません。しかし、他の閲覧者のためにそれを指摘しておくことは無駄じゃありません。今後一切やめろとのことですが、なぜそんなことをsergeiさんに言われなきゃいけないのか全く理解できません。捨てアカウントを使って複数を装うような人物にそのことを指摘することを僕が止めるなんてことは今後一切ないでしょうね。
「参考資料がすでに提示されてる項目においていきなり大量の削除」というのも、とんだ言い掛かりですね。出典付きの文章を僕がいつ削除したのか教えてください。僕が削除を行ったときには参考資料なんてありませんでしたよ。「参考メディア」といってただいくつかのメディアが列挙されているだけでした。検証可能性に則り編集するという人が、あの程度の記述を出典としておくというのはかなり作為的です。前にも書きましたが、作為的だったからこそ「出典」とはできずに「参考」としたんでしょう。そのような作為に満ちた記事を、この記事をずっとウォッチしてきたという人が興味本位でも露悪的でもないと断言できたなんて信じられません。その後なぜかsergeiさんは意見を変えましたけどね。それに「強引」じゃなくて「かなり強引」だと言われたのですよ僕は。思いこみを元にそのように一方的に言われたのは甚だ遺憾です。
sergeiさんの挙げたサイン会の例をもってして何を言われたいのかよくわかりません。サインが欲しいからコンサートに行くっていうのは大いにありうることなんじゃないでしょうか。普通本人から直接サインしてもらうなんてことなかなかないですしね。wikiedさん風に言うと「イベントへの付加価値のつけ方」ということです。その先の制限についてはwikiedさんも「CDやDVDなどの購入者という対象制限のある場合」があると言われてます。いずれもごく普通のことです。
ところでWikiedさんのノートページ見ましたけど、あそこで僕の方に非があるとか言われてるのはなんだか納得できないですね。しかも誤解を元に。ここで言われるならいいですけど、僕の知らないところで一方的にそんなこと言われて、他の閲覧者にろくでもない奴だと思われるのはたまりません。あのページに来た人が必ずこっちに来るわけでもないだろうし、なんとかしてもらえないもんでしょうか。
Wikiedさんへ
まず最初に確認させてください。僕は今まであえて直接は聞きませんでしたが、松浩Cogito dはWikiedさんの捨てアカウントですか? 前述してきた通り、編集履歴からこの2者はwikiedさんと同一人物に間違いないように僕には思われます。こんなことを直接聞くような野暮なことはしたくないのですが、sergeiさんが修理屋は根拠もなくwikiedさんを疑っている非礼な野郎だとはっきり申されたので仕方ありません。どうかお答え願います。
さて、お返事ですが、同じことの繰り返しになりますね。修理屋は初めに知らないということを言っている。「一般的な演奏家のサイン会と奥村愛の撮影会の差異はぜひ知りたいですね」。そして自分の出せる例として著名人のサイン会、撮影会のことを具体例として出した。それに対してwikiedさんは「自分の知る限り」、「少なくとも私はしりません」といった自分を基準にした判断しか提示してくれません。珍しくないならそれを証明しろとのことですが、こちらは著名人の例を挙げているし、そもそもそれはこちらの任ではありません。こういうのは特筆性があると言っている人が具体的にどのように特筆性があるのか説明しなきゃいけないんです。著名人と演奏家を置き換えてと連呼されてますが、置き換えてる(すり換えてる)んじゃなくて、著名性を元に経済活動(コンサート・サイン会・撮影会等)を行っているのだから同じように例えられると僕は前から一貫して主張していることを理解して頂きたい。演奏者の撮影会だけが特別なんだと言うのなら、奥村愛の撮影会だけが「ファンに線引きし、待遇を差異化する」ものだと言うのなら、それを説明する客観的な証拠をwikiedさんが出さなきゃ駄目なんです。
お門違いという言葉がお好きなようですが、自分は知っているということ以上のことを説明できないから門前払いで合意不能だなどと言うのは、人と議論するときの態度としてあまり歓迎できません。--修理屋 2009年6月6日 (土) 10:15 (UTC)[返信]
複数のアカウントについてですが、これらは当方のものではありません。(当初から不可解なのですが、複数アカウントによって記事の編集が結果的に寡占されたからといって何の意味があるのでしょうか。)
「一般的な演奏家のサイン会と奥村愛の撮影会の差異はぜひ知りたい」とのことですが、当方のコメント[1]は読みましたか?
奥村の振る舞いが特筆性を満たすという根拠は、当方が知らないだけでなく、同様の撮影会の存在を確認できないことによります。執拗に特筆性への疑問を呈すなら、対照として適当な具体例を示していただきたいとお願いしている次第です。修理屋氏の編集では、単に撮影会を行うという意味になり、事実と異なります(前回お知らせしたように、対象制限を設けた撮影会の出典明記の用意はあります)。
修理屋氏は、ヴァイオリニストないし演奏家という観点を無視し、(演奏家以外の)著名人の書店の例に拘泥されているようですから、コメント依頼を出して広く意見を募ります。--Wikied 2009年6月6日 (土) 12:47 (UTC)[返信]
この展開、前にも見ましたね。こちらの編集の「独自見解」を延々と非難するばかりで、自らの編集の正当性を示す具体的な証拠を出したり、ウィキペディアに載せるべき具体的な文例を提示したりすることは、なぜかされない。そうして欲しいと何度も言ってるのに。どうしてなんでしょうか。対案も出さずにこちらばかり非難して議論にならないなどと荒唐無稽なこと言われても、こちらもどうしようもないし、ちっとも建設的じゃありません。コメント依頼に出したというのは少し前進なのかな。今いちどこちらから提案するなら、やはり新聞やら雑誌記事があったらいいんじゃないでしょうか。奥村愛の撮影会のみが「ファンに線引きし、待遇を差異化する」特徴的なものであると書いてある記事が。
複数アカウントについては否定されたようで残念ですね。僕としては、同じ時期に全く違う記事で複雑な編集が重なるなんてことはありえないと思うんですが、本人が否定されるんならそうなんでしょう。疑ってすいません。となると、Wikied さんしかこだわってない点について編集している松浩さんとCogito dさんに是非出てきてもらって説明してもらいたいもんですね。仮に捨てアカウントだとしてそれが何か問題があるのかと何度か聞かれてますが、それには前から答えてます。仮にそうだとすると看過することはできません。捨てアカウントで複数を装わなきゃいけないような参加者が少ないページで、その当の本人が、自分の意に沿わない編集は自分で戻しておいた状態を「長らく意見がなかった」から良いと主張しているのだから。
「一般的な演奏家のサイン会と奥村愛の撮影会の差異はぜひ知りたいですね」という先の問いを引いたのは、こちらが最初に知らないということを言ってるのに(「どうか具体的に説明してもらえないでしょうか」)、wikiedさんが何度も同じことを聞いてくるので、僕は最初から言ってますよと証明するためです。そしてそれに対する回答には納得していないと答えてます(「『一般的ではない』というところがWikiedさんの主観以外の点から一切説明されていません」)。もう一度会話の流れを確認してみてください。--修理屋 2009年6月12日 (金) 09:16 (UTC)[返信]

「撮影会」の特筆性について

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奥村愛は、富士山河口湖音楽祭において、自分のコンサートすべてに参加した人を対象に(対象制限を設けて)撮影会を行っています(今年もスタンプラリーを実施)。
執筆者Wikiedは、他にこのような例を知らず、また存在を確認できないため特筆性のある活動内容として記載しました。これに対し、編集者修理屋氏が、著名人の書店でのイベントを引き合いに出し[2]、特筆性を否定し、事実と異なる内容への編集[3][4]を繰り返しています。
ヴァイオリニストないし演奏家について議論を試みましたが、修理屋氏は、(演奏家以外の)著名人の書店の例を繰り返すのみで議論が成り立ちません。
奥村愛の、対象を制限した撮影会の特筆性について、広くご意見をいただきたくお願いいたします。--Wikied 2009年6月6日 (土) 12:53 (UTC)[返信]