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ノート:宇沢弘文

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逸話の項について

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この部分を書いた人に問いたいのですが、

  • 「経済学の基本原則」とはそもそも何なのですか?新古典派の公準のことですか?ならば宇沢がこれを否定的に見るのは当然だと思いますが?理解していない、とはどういう意味でしょうか?疑念を持っている人とはいったい誰ですか?
  • 公用車の使用と反自動車的言説との矛盾がどこにあるのでしょうか?車は「なるべく」使わないようにしている、という解釈であればまったく矛盾していませんが。反自動車的言説、という評価を与えている人はいったい誰ですか?
  • 自由主義経済や自由貿易を暴走を否定的に見て、自由もほどほどが良いとするのは宇沢やロビンソンなどに共通する見方だと思いますが、この意味では整合性に問題はないと思われますが、整合性について疑義を呈している人とはいったい誰ですか?

結論として、私のみたところ、これらは誤解に基づいた、まったく当たらない批判だと思いますし、そもそも出典がないため誰がそういうことを言ったのかわかりません。116.83.15.196 2011年2月7日 (月) 05:04 (UTC)[返信]

問題提起ありがとうございます。該当箇所を書きこまれたのはIP:123.225.65.6会話 / 投稿記録さんですが、一定期間待ってみて出典の提示や反論がなければ削除ということでどうでしょうか?--Zakinco 2011年2月7日 (月) 16:36 (UTC)[返信]
報告IP:119.47.36.161会話 / 投稿記録さんによって問題の箇所は削除されました。--Zakinco 2011年3月7日 (月) 11:26 (UTC)[返信]

宇沢の学派について

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宇沢の学派について、情報を求めます。英語版では、Neoclassical economicsになっており、日本語版でも新古典派経済学になっていましたが、John Robertson, for japaneseさんによって、ポストケインジアンになり、Ryo 625さんによって、今は「宇沢氏はポストケインジアンでないでしょう(どちらかというと制度学派に親和的)」ということで保留になっています。 私、経済学に詳しい方ではないので、詳しい方がいらしたら、情報お願いします。--アダム・スミスン会話2015年8月17日 (月) 08:57 (UTC)[返信]

すいません、僕も経済学について全く詳しくないことを先に弁明させてください。宇沢氏は『社会的共通資本』(岩波新書)で新古典派理論に対して強く批判的な態度を取っています。その際にオルタナティブな選択肢としてとても高く評価しているのが、ソースティン・ヴェブレンと彼の属する制度派経済学です(p.20)。ポストケインジアンにも接近しており、ケインズの『一般理論』への宇沢氏の解説書はポストケンジアン的だといわれていますが、ケインズ主義的な財政・金融政策にも限界を見ているようで(p.40)、ケインジアンとするのはちょっと無理があるかなと思います。--Ryo 625会話2015年8月17日 (月) 10:06 (UTC)[返信]
そうですね。宇沢氏は新古典派のモデルを限りなく発展させて、その限界を見極めようとしていて、その点ではアローと似ているところもあると思うですが、少なくとも新古典派には厳しく批判していましたね。『社会的共通資本』は読んだことがないのですが、宇沢氏が、ソースティン・ヴェブレンを尊敬?よく取り上げていた感じがあります。とわ言っても、もう少し情報を待って、急がない方がいいですね。『社会的共通資本』読んでみます。コメントありがとうございました。--アダム・スミスン会話2015年8月17日 (月) 12:48 (UTC)[返信]
「新古典派経済学」ではあまりに問題があると感じ、独断で「ポストケインジアン」にしてしまい、申し訳ありませんでした。ノートで問題提起を行うべきでしたね。私個人の意見としては、WilberとJamesonの著書An Inquiry into the Poverty of Economicsに出てくる「Post-Keynesianism Institutionalism(ポストケインズ主義的制度学派?)」がしっくりくるのですが、この学派自体が一般的ではありませんよね。
>ケインズ主義的な財政・金融政策にも限界を見ているようで(p.40)、ケインジアンとするのはちょっと無理があるかなと思います。
ポストケインジアンにとって「ケインズ的な財政・金融政策」は決して本質的ではないと思います。たとえば、ラヴォアの『ポストケインズ派経済学入門』は「ポストケインズ派の本質的特長」として、「有効需要原理」(「貯蓄を決定するのは投資であり、逆ではない」)と「歴史的時間と動学的時間」(「つねに1つの均衡から別の均衡までの移行過程を考えなければならない」)の2点を挙げていますが(pp.16-20)、日本国内のPK研究者で宇沢をポストケインジアンと考える方は宇沢の動学的不均衡理論の業績が後者の意味でPK的であると考えている方が多い、というのが私の印象です。そもそも経済学者個人をナニガシ派などと類型化してレッテルを貼ること自体に無理があると思うので、特に宇沢のような既存の枠組みを打ち破ろうとされていた経済学者に関しては、無理な類型化を保留しておくのが良いと思います(反省)。--John Robertson, for japanese会話2015年10月29日 (木) 04:08 (UTC)[返信]
宇沢氏、PK、制度派などの関係についてもう少し調べてみたので報告を。宇沢氏は『ポスト・ケインズ派の経済理論』(キング編、2009年)で「『ポスト・ケインズ派の経済理論』日本語訳の刊行に寄せて」というタイトルで「ポスト・ケインズ派経済理論の歴史的、理論的背景について、簡単な解説」(vii頁)を寄稿されていますが、その15頁の内、7頁半をジョーン・ロビンソンの業績の解説に費やしています。中でも特に彼女の著書『現代経済学』を「私たちにとって汲むとも尽きることのない叡智の泉であり、同時に私たちの進むべき方向を指し示す灯台の役割を果たしている」(xxi頁)と評価されています。また、宇沢氏は、ご自身が精力的に研究されていた不均衡動学は『現代経済学』において語られた新しい構想(xx頁)と述べられていることなどから、私の印象として宇沢氏はポスト・ケンジアンに分類しても良いのではないかなあ、と思っています(ちなみにロビンソンの『現代経済学』を邦訳したのも宇沢氏です)。次に、制度派とPKの関係についてですが、前掲書には「制度主義(Institutionism)」なる節がありまして(pp.286-290)、そこでは、「制度主義は、経済生活を社会的文脈の中で行われているものとみなす、経済学のひとつのアプローチである。制度主義者は、新古典派の経済学者とは違って、人間行動が熟慮の上での個人の意向によってというよりもむしろ社会的要因によって決定されるものとみなしている。」、「ポスト・ケインジアンは、個人の選択について制度主義的ないし社会的な見方を採用することによって、経済主体の判断がどのようにして制度や習慣によって形作られるのかを理解することができる」とあります。つまり、(少なくともこの節の執筆を担当したSteven Pressmanという方は)新しい古典派ニュー・ケインジアンが新古典派理論に基礎付けられているのと同様に、PKは制度主義的な人間観・社会観によって基礎付けられている、と考えているようです。この解釈によれば、宇沢氏が「制度主義思想の開祖の一人とみなされているヴェブレン」(前掲書287頁)を高く評価しているという事実は、彼をポスト・ケインジアンとする解釈と何ら矛盾しないことが理解していただけると思います。--John Robertson, for japanese会話2015年11月5日 (木) 05:58 (UTC)[返信]

客観的な記述も

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お亡くなりになられてから1年経ちます。大御所的存在で批判を向けられることはあまりありませんでしたが、もうそろそろ高邁な思想が現実的であったのかというような客観的な評価の記述もあってしかるべきと思います。--219.35.22.28 2015年9月5日 (土) 06:53 (UTC)[返信]

外部リンク修正

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編集者の皆さんこんにちは、

宇沢弘文」上の3個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

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ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月1日 (日) 13:41 (UTC)[返信]