ノート:安城市
この記事は過去に削除依頼の審議対象になりました。新しく依頼を提出する場合、以下を参考にしてください。
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- 項目を安城市(日本)に変更すべきです。韓国にも同名の都市があります。--H.L.LEE 2005年11月27日 (日) 04:37 (UTC)
- マスコミでは、大韓民国の地名や人名はカタカナ表記をすることが多いので、大韓民国の同名都市ははカタカナで表記すればいいと思います。 おはぐろ蜻蛉 2005年12月7日 (水) 15:37 (UTC)
- ノート:大韓民国の地方行政区画では見出しは常用漢字で記載することになっていますが。例:東海市 (韓国)--H.L.LEE 2005年12月8日 (木) 03:56 (UTC)
三河安城駅不要論を強引に挿入される編集者がいます。さらに、地元民もそれを願っているなど、デタラメです。
新聞紙で報道されたこともなければ、安城市役所(議会)で取り上げられたこともありません。
すでに設置されて20年経つ新幹線駅を廃止と叫ぶなど、ここは議論の場ではないでしょう。
また、利用者が少ないというのも捏造です。新幹線の7割がのぞみの時代に、こだま・ひかり停車駅はすべて不要になってしまいます。JR東海が発表していない事柄を百科事典として掲載するのは、おかしいでしょう。
三河安城駅不要論をインターネット上(ヤフー、2ちゃん、各種QAサイト、このwiki)で、急に言い出した勢力は、滋賀県のびわこ栗東新駅建設に絡んで、三河安城を模範としていることが挙げられます。びわこ栗東反対派は、三河安城駅を悪意を持って酷評するという卑劣な手段に出たのです。
三河安城駅不要論を叫んでいる地元民というのは、安城市民ではなく、隣接の岡崎市民・幸田町民です。JR幸田駅に新幹線を停車させ、新岡崎南駅と名乗るのが目的です。これは、岡崎市会議録や幸田町の都市計画などに平然と出ています。これらを後ろ盾に、三河安城駅の繁栄がねたましい岡崎市民・幸田町民による画策です。
岡崎市は、安城市よりも人口が多く、江戸時代は城下町だった。という思い上がりから来るものです。安城市の歴史を見ればわかるように、安城松平家が徳川家の前身であり、岡崎城ですら、この安城松平家が造ったものです。
このような悪態だから、求心力を失い、岡崎市は衰退するのでしょう。 --以上の署名のないコメントは、210.198.229.197(会話/Whois)さんが 2007年1月30日 (火) 02:48(UTC) に投稿したものです(おはぐろ蜻蛉による付記)。
保護解除に向けて
[編集]安城市並びに同様の編集合戦が発生し保護された西三河の保護解除に向けた議論をここで行おうと思います。 私も西三河の人間ですが三河安城駅不要論は聞いたことがありません。安城と幸田で激しい誘致合戦があったのは確かですが、三河安城駅設置後も幸田側で運動が続けられたというのは初耳です。情報源の提示をお願いしたいです。--おはぐろ蜻蛉 2007年1月31日 (水) 12:06 (UTC)
- 2ちゃんねる等には三河安城駅(新幹線)は要らないと言う書き込みがありますが、地元民が要らないと言うのは変ですね。地元民にとっては、あって困るものではないはずなのに。--M abe 2007年2月1日 (木) 15:36 (UTC)
回答ですが
[編集]平成16年 12月 定例会-12月02日-22号 P.19 ◆ 25番(山本雅宏) 岡崎市会議録検索
また、町が壊れるということは、コミュニティーの崩壊にもつながります。治安や青少年問題の深刻化、商店街の店主らが担っていた地域の伝統、文化の継承も困難となります。そうした中、今度はユニー東岡崎店の撤退が発表されました。康生地区とともに岡崎の顔である東岡崎駅地区も、岡ビルの老朽化もあり、今後に大きな課題を残す状況であります。両地区ともに本市の顔とはとても言えない昨今であります。 その反面、安城市は、新幹線の三河安城駅周辺の開発がすさまじく、他県から岡崎へ出張に来た人でこの駅で下車した人は、ここが家康で有名な中核市岡崎の玄関であると勘違いされる方も多いのではと思われます。本市は、早急に玄関づくりが必要であり、長期的視野に立てば、広域合併後に幸田町相見地区か本市正名町に新幹線の駅の誘致を図ることが得策かと思いますが、まずは名鉄岡崎公園駅と愛環中岡崎駅との一体化を皮切りに、4ビル周辺地区ににぎわいを取り戻すことが必要であると思います。
↑上記にあるように、いまだに幸田町または岡崎市に、新幹線駅の誘致をしようと目論む勢力がいるのです。 すでに、三河安城駅があるというのに、いまだに誘致合戦の時に敗れたのを根に持っているのなど陰湿です。 実際には、JR幸田駅に新幹線を停めようということで、真犯人(黒幕)は幸田町です。蒲郡市にとってもメリットがあるから、これもグルでしょうね。
また、幸田町役場にも確認しましたが、本気のようです。正気の沙汰とは思えませんね。妬みやひがみからくる妄想で、三河安城駅不要論を唱えているのでしょう。安城市の近隣自治体でありながら、このような嫌がらせや工作を画策するなど、このネット工作員は、公的自治体を隠れ蓑にしたゲリラやテロリストでしかないでしょう。
http://www.town.kota.aichi.jp/soukei/dai5/2hen.pdf#search='%E7%9B%B8%E8%A6%8B%E9%A7%85' ここには、JR幸田駅の真上下を通過している新幹線の都市計画が出ています。 さらに、JR相見駅という架空の駅まで登場します(JR東海では、出来る予定はないそうです)
幸田町HPには、会議録検索がないので、情報公開に閉鎖的な自治体です。 --以上の署名のないコメントは、219.125.29.186(会話/Whois)さんが 2007年2月1日 (木) 16:32(UTC) に投稿したものです(おはぐろ蜻蛉による付記)。
対立点を整理してみたいと思います。対立点は
- 三河安城駅の周辺
- 通勤者向けのマンションが中心(IP:218.179.108.73(会話 / 投稿記録)さん)なのか、企業本社が集積し西三河の広域拠点(IP:219.125.26.26(会話 / 投稿記録)さん)なのか。
- 三河安城駅不要論
この2つだと理解しているのですがこの理解でよろしいですか。
IP:219.125.29.186(会話 / 投稿記録)さん早速の回答有り難うございます。一つお願いがあります。ノートでは署名して下さい。(詳細はリンク先参照)理由は誰の発言か分からないと議論が混乱する虞があるからです。あとIPアドレスはすぐに変わってしまうので発言者の同一性を保つにログインして下さい。詳細はWikipedia:ログインの仕方を参考にして下さい。よろしくお願いします。--おはぐろ蜻蛉 2007年2月3日 (土) 12:11 (UTC)
だから、三河安城駅の発展を妬んだ幸田町民・岡崎市民による犯行でしょうが。新幹線駅(三河安城)が不要なわけないでしょ。新幹線駅が出来るから、在来線駅も同時に設置されたのですし。ネット上で、幸田が先に手を挙げたとか、トヨタの意向で決まった、とかは全部ウソですよ。安城の立地条件が勝っただけです。こういう悪質な嫌がらせは本当に迷惑だよ。企業本社もマンションも商業施設も、全部集積してますよ。--219.125.236.134 2007年2月7日 (水) 12:04 (UTC)
しばらく反応がありませんが三河安城駅周辺は「企業本社が集積し西三河の広域拠点」とすることに同意ということでよろしいのでしょうか。もしそうならば保護解除依頼をしようと思います。--おはぐろ蜻蛉 2007年2月16日 (金) 10:58 (UTC)
- 二つの対立点についての私の見解です。
- 地元民も三河安城駅が不要
- 否:地元民が不要と思う理由が見当たりません。
- 三河安城は広域拠点
- 否:下記URL参照
- http://blog.goo.ne.jp/tt22totoro/e/ae5ef09fbc18011aac9a775341c6e9ec
- 以上--M abe 2007年2月16日 (金) 14:08 (UTC)
↑その田村たかみつって言う元栗東市議のブログは、デタラメ!!滋賀県民に、三河安城駅の良し悪しを決める決定権はありません。 M abeさん、あんたがこのページに三河安城駅不要論を唱えてんじゃん、過去投稿記録でわかるよ。地元民てあやふやな表現だは。地元=安城市民のはず。安城市民は必要だから、駅を造った。妬んだ幸田町民・岡崎市民が新駅設置・三河安城不要論を唱えているのは、明らか。ここは、安城市のページだから、地元民が岡崎や幸田だったら、おかしいでしょ。
新幹線駅が、広域拠点なのはもともと、当たり前のことだし。企業本社と支所がたくさんあります。
スギ薬局、東祥(ホリデースポーツクラブ)、カリツー、アイシンリブラン、安城織物、三廣社、など。
最近も、ザ・ステイタスビルが出来た。ABホテル三河安城3号館の着工など、まだまだ発展。
これだけのインフラが結集してるのも、三河安城だけです。安城市のHPにも、新空港へのアクセスも睨んで広域拠点として構想整備していることは記載されております。
4つの駅前を、安城市が整備した順番で、第1都心(JR安城駅)、第2都心(新安城)、第3都心(三河安城)、第4都心(桜井)って、呼んでるのも事実です。勝手に消さないでください。--221.119.215.254 2007年2月17日 (土) 10:15 (UTC)
広域拠点と言うには程遠い状況である。←デタラメ!同じ西三河の中に比較対象となる新幹線駅自体、存在しないうえに、安城市は広域拠点として整備しているとはっきり言ってます。区画整理も完了し、企業集積も顕著。あなたが、知らないだけ。
名古屋への通勤者向けマンションが多数立地し、ベッドタウンとしての開発が進んでいる。←これも、ウソですね。快速停車の安城駅や、名鉄新安城駅のほうがむしろベッドタウンですね。三河安城という新しい街への移住者であって、名古屋のベッドタウンではない。いいかげんなこと言うな。
とにかく、安城市政を知らなさすぎ、明らかに安城市民ではない人物による妬みからの誹謗中傷。表面上をなぞった一部の論者の意見を真に受けすぎ。あるいは、アンチを利用して悪乗りするのも大概にしろ。--221.119.215.254 2007年2月17日 (土) 15:49 (UTC)
威嚇はお止めください
[編集]威嚇はお止めください。精神的に辛いです。改まらない限り保護解除に向けた議論は困難です。 参考:Wikipedia:個人攻撃はしない
立派な記事を書いておられる方なのに残念です。--M abe 2007年2月17日 (土) 22:52 (UTC)
共立総研と中日新聞の見解をまとめると
[編集]中部9県で「成長力」ナンバーワンは安城都市圏、トップの安城に続き、上位5位までを愛知県西三河地方が占めており、トヨタ自動車グループをはじめとする製造業が、中部の成長のリード役。安城(安城市)には電動工具のマキタが本社を置くほか、デンソー、アイシン精機などトヨタグループの工場がある。東海道新幹線三河安城駅や名鉄新安城駅を中心にマンションなどの開発も進み、トップに押し上げた。
要は、安城市は中核的な都市圏を形成している。マキタやトヨタなどの企業本社・工場も集積。それに伴ってマンション開発も進んだ、とあります。
どこにも、名古屋や近隣都市のベッドタウンという表現はないし、新幹線三河安城駅を取り上げて発展に貢献していることを強調している。
中部国際空港連絡鉄道建設促進協議会は、愛知環状鉄道を豊田・岡崎両市の市境付近から分岐し、新幹線三河安城駅を経由して中部国際空港に至る連絡鉄道(愛知環状鉄道分岐ルート構想)建設の実現をめざしています。安城市企画部企画政策課
安城市HPからですが、広域的なアクセスの改善にも動きはある。
JR東海の現業駅である三河安城駅不要論を唱えるヤツは、名誉毀損および鉄道往来危険罪に該当する可能性がある。--220.217.200.130 2007年3月5日 (月) 06:00 (UTC)
ヤフー掲示板・愛知県行政板が抹消されました
[編集]三河安城駅廃止論を唱えた人物のスレももうありません。現業駅の廃止不要を叫ぶ行為は犯罪に等しく。誹謗中傷が糾弾された結果です。
保護解除を提案します。
近代以降の節について
[編集]安祥城の争奪戦は、小豆坂の戦いでは無く安城合戦だと思うのですが。--利用者:曹洞2007年3月12日(月)07:10(UTC)
出身有名人について
[編集]VHSの父 高野鎮雄を安城市の出身有名人に追加することができます。 出典等: (1) 高野鎮雄の墓は刈谷市野田町 昌福寺にある。(刈谷中央図書館、刈谷市野田町 昌福寺、それぞれ電話確認) (2) その高野家はこの寺の檀家であり、もとは安城市二本木にお住まい、現在は横浜在住。(刈谷市野田町 昌福寺、電話確認) (3) 明治20年以降の「郷土開拓者の芳名とその家系」の一覧表に「士族 高野貞固→新三郎→栄→(長男)鎮雄」の記載あり(下記文献24ページ)。
「二本木町郷土史 資料編」 発行 昭和50年11月文化の日 発行者 二本木町郷土史資料編編集委員会 編集委員長 伊藤高次
(4)「20世紀日本人名事典」 高野鎮雄氏の項目に出身地として「愛知県安城市」と記載あり。(日外アソシエーツ編、出版 日外アソシエーツ)
なお、高野鎮雄が刈谷市の出身有名人として載っていますが、これは生家所在地としては間違いで上記のように生家は安城市にありました。--Dyt 2007年5月5日 (土) 16:20 (UTC)
「保健」の項の一部分割
[編集]だいぶ記事が長くなってきましたね。「保健」の項にある記述を「安城更生病院」と「八千代病院」に分割しようかと思います。--221.118.120.201 2007年10月20日 (土) 22:47 (UTC)
- 報告が遅くなりましたが、更生病院については分割しました。八千代病院は記事量から新しい記事にするのは見送り、内容を削減しました。--221.118.120.201 2007年10月31日 (水) 18:35 (UTC)
岡崎市 市のあゆみの記載は、誤り
[編集]岡崎幷に山中の兩城主松平彈正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。淸康君十四歲にてこ れをせめんとて。元老大久保左衛門五郞忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻拔かれ。猛威に乘じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおも ひ。をのが最愛の女子をもて 淸康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば。これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御 身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再此城本家 に歸せしなり。)世には安祥の三郞殿と稱しその武威を恐れける。
徳川実紀に、はっきり、岡崎城を奪取した後も、清康は安城にいた、となっています。
岡崎城に本拠を移動したと書いてあるという岡崎市史や安城市史の誤記と思われます。--180.197.157.21 2011年9月8日 (木) 08:15 (UTC)
岡崎市・市のあゆみの記載 大永4(1524) 年、七代松平清康が安城から岡崎に拠点を移し、城下町の形成に力を注いだ。 >> 徳川実紀の記述から、岡崎に本拠を移動した事実はない。また、岡崎城の城下町が形成したのは、石垣の調査から、豊臣秀吉の家臣の田中吉政の時代からと判明していますので、これも誤りですね。--180.197.157.21 2011年9月8日 (木) 08:23 (UTC)
- 見出しを付けておきました。貴方(180.197.157.21さん)は初心者ではありませんよね、もう投稿経験は5年近くになるのでしょうか?ノートに書き込む時は見出しぐらいつけてもらわないと、とても分かりづらいですよね。
- 『徳川実紀』ですか。『三河物語』や『改正三河後風土記』はチェックされましたか?松平清康は享禄から天文にかけての東三河征討では、岡崎城から出陣したことになっていますよ。それと、森山崩れで清康死亡の直後、嫡子・仙千代(後の広忠)の居城の岡崎城めがけて織田軍が攻勢を仕掛け、城下の井田野で決死の防戦をしてますが、なんで宗家嫡子が安祥城にいなかったのでしょうかね?清康が生前に岡崎移城をしてなければ説明付かないのでは?
- cf.→『改正三河後風土記』 [第1冊]上、「清康君家督付、攻岡崎山中両城并昌安入道息女御婚姻の事」(後風土記第五巻、百四十八頁 - )。 「吉田川合戦牧野兄弟討死」(後風土記第五巻、百五十二頁 - 百五十六頁)。
- 清康が初めに移ったとされる岡崎城(旧)は前掲本で平野氏は、平野明夫著『三河松平一族』(224頁および240頁)で西郷氏本拠の明大寺の城を指すとしており、現在地の岡崎城には享禄3年に移ったということですね。
- あと、山中城のことですが、平野氏は山中移城説を、前掲本の223 - 224頁で詳しく説明しております。ご一読されてはいかがでしょうか。--故城一片之月 2011年9月8日 (木) 16:28 (UTC)
三河物語や改正三河後風土記に、清康が、安城から岡崎へ本拠を移動したと明記している箇所はないですよ。 東三河へ出陣するのに、岡崎から出たのは、単に近いからでしょ?本拠とは関係ない。
家康が浜松城に本拠を移動したとき、岡崎城は嫡男の信康の本拠でした。親子で本拠が違うのは普通です。 敵対している相手の前面つまり織田氏の領土に近いのは、安城ですので、軍事的に重要なほうに、 松平清康がいるのは当然かと、家康も対今川・武田で、浜松にいますし。
清康が守山で死亡。安城は織田が侵攻奪取。岡崎は、桜井松平家(織田と密約)が奪取。広忠は逃亡。今川の支援で岡崎に戻る。広忠死亡後は、代官配置。家康が、岡崎を奪還。
つまり、家康が岡崎を奪還するまで、安城松平=徳川家が、独立大名として本拠はないことがわかります。広忠は、今川の傀儡ですので、岡崎が徳川の本拠だとも言い難い。
それと、岡崎市の説明では出典不明ですので。岡崎市の願望なんでしょう。清康自身も、安祥二郎三郎って呼ばれていますし、岡崎城で強引に結びつけるのはムリがある。安城=本城。岡崎・山中両城=支城と位置づけるのが普通では?--180.197.157.21 2011年9月9日 (金) 04:43 (UTC)
- 東三河征討で単に近いから岡崎から出陣したなどと何の出典で言ってるのでしょうかお示し下さい(貴方の個人見解・独自研究では?)『徳川実紀』(正しくは『東照宮御実紀』)と同じ編者の成島司直からなる『改正三河後風土記』を見ても納得できないならこれは?
- 松平清康は天文4年(1535年)に大樹寺(岡崎市)に多宝塔を建立した。2月22日に真柱(心柱)を立て、同年4月29日に完成したが、その多宝塔の真柱に清康とその家臣・関係者ら寄進者名が記されている。この記名のうち、八角形の真柱の南西面に「大檀那世良田次郎三郎清康、安城四代岡崎殿」と墨書されており、これを見れば天文4年には清康が「安城松平家第四代」であるとともに当時、「岡崎殿」と呼ばれていたことが明確に判るのです。(出典→平野明夫『三河松平一族』新人物往来社、247頁「大樹寺多宝塔建立」。中島次太郎『徳川家臣団の研究』、187頁、「多宝塔銘文」・同左の写しの写真(巻頭写真 2 - 3頁))。--故城一片之月 2011年9月9日 (金) 14:30 (UTC)
- 私の上記の証拠資料提示後、反応がとくに無いので脚注併記としました。--故城一片之月 2011年9月18日 (日) 05:41 (UTC)
↑その銘文は、後世の偽作です。安城市史の出典が不明です。安城市史の編者が勝手に判断したのなら、間違いです。徳川実紀の記述により。--180.197.97.185 2011年9月24日 (土) 05:23 (UTC)
- 「その銘文は、後世の偽作です」と自分はろくに根拠も示さず、正当な出典表示に対しては自分は出典の出典を求めるなどという方針にもない馬鹿げた暴論を平気で投げかける貴方よりは、『安城市史』の執筆者・編集者の方がよほど専門的検討はしているはずですよ。貴方は何様なんですか?主に東海地方とりわけ三河地域の記事について、一つの史料を楯に他の典拠も資料も認めず、自説を展開する傾向から、貴方は、この人と同じ人でしょうか?--故城一片之月 2011年9月24日 (土) 12:49 (UTC)
安城市史入門講座 謎の人松平清康と松平信定◆
2007年8月11日 中京大学 村岡幹夫助教授
大樹寺多宝塔心柱銘に「世良田次郎三郎清康安城四代岡崎殿」とあるが、全体の内容からして本人が書いたものではなく住職が書いたっぽいのに、「清康」と名前を書くのは当時の礼儀に反する。後から誰がが付け加えたのでは?
はい、出典。中京大学の村岡幹夫助教授は、後人の偽作と指摘しています。
安城市史の出典は不要というのは、おかしいですね?安城市史の編集者も何らかの史料を基に書いているはずです。当然、出典は必要。
江戸幕府編纂の徳川実紀の記述がおかしくて、安城市史が正しいって、あなたの独自見解でしょ? 天皇が、東京から軽井沢の別荘に移動したら、軽井沢が首都って、言ってるようなもんです。 徳川氏本人が、清康は安城にいたって、公言している。それを、岡崎市役所や安城市役所が、岡崎に移動したって主張するなら、なぜってなるでしょう?だって、史料の提示ゼロなんだから。--180.197.97.185 2011年9月24日 (土) 22:35 (UTC)
- 貴方の持ち出した「安城市史入門講座 謎の人松平清康と松平信定」(2007年8月11日 中京大学 村岡幹夫助教授)は涼人日抄という、個人ブログの引き写しでしょ。しかも、都合の良いところだけの抜き出し。ブログ主は「……私がメモったものなので、内容を信じすぎませんようご注意を。」とわざわざ注意してくれてますね。だから出典としては貴方のは弱いですね……
- 「中京大学の村岡幹夫助教授」、正しくは中京大学国際教養学部教授 村岡幹生氏であり、同大学で日本史を専門に担当、「愛知県史中世史部会専門委員(愛知県)」も勤める方です。
- この村岡先生はその「安城市史入門講座」で多宝塔心柱銘を書いたのは松平清康本人ではないのに「清康」と名前(実名)を入れるのはおかしい、後から誰かが付け加えたのでは?と指摘しているのであって、銘文の全てを否定または疑問視しているわけでないのはブログ記事をよく読めばわかるでしょ?
- 同ブログで村岡教授はまた、『三河物語』に安祥譜代と別に山中譜代や岡崎譜代の言葉があることを指摘し、「……清康は安祥から山中へ転出し、そこから大草松平(岡崎松平?)を踏み台にし、安祥松平と対抗したのでは。」と清康が安祥城を出て山中城・岡崎城と移り、安祥松平家とむしろ対抗関係であったとも取れる発言をしている(180.197.97.185さんはこの部分は言及していないのは何故?つまり都合が良い引用しかしてないですよね)。
- 同ブログで、『宗長手記』に宗長が守山(森山)の松平信定の屋敷に泊まった後、清康の城(岡崎)に一泊との記述のあることも言及されてますよね(原文には「岡崎家城一宿」と書いていたと思いますが)。
- このようにブログの読み方さえ、間違ってなのか、意図的なのか都合の良い部分を都合良くしか解釈できていないのに、ここの出典付き記事を削除する理由も根拠も認めるわけにはいきませんね。だいたい、『徳川実紀』の一文のみを楯に取って、松平清康の岡崎移城は無かったとする、論者はあなた以外にどの人が居るんでしょうか?その論者と出典情報をここに列挙してみて下さい。
- ちなみに清康の岡崎移城の方は記述・論述する人も団体も沢山ありますが、上のブログの村岡幹生教授、『三河松平一族』(新人物往来社)の平野明夫氏(國學院)、『家康の族葉』(講談社)中村孝也氏(元東京大学教授)、安城市/安祥城跡と挙げれば充分でしょう。--故城一片之月 2011年9月25日 (日) 09:47 (UTC)
↑あなたは、古事記(原史料)が間違っていて、古事記伝(歴史観)が正しいと主張するようなもんです。 だいたい、安城市史に、清康が岡崎に本拠地を移動させたなんて、出ていませんよ。 出ているというなら、該当箇所のデジタル画像をUPしてください。 それを読めば、はっきりする。
ネット上に、岡崎市役所の流したデマが大量に流布していますが、徳川実紀の記述により、ウソであることは、証明しました。
江戸幕府編纂の公文書;徳川実紀の動かぬ記述。 岡崎の城を受取りて御 身は猶安祥におはしける =岡崎城を奪取したが、その後も安城にいました。
この記述を覆す史料は、一切ありません。--180.197.97.185 2011年9月26日 (月) 00:57 (UTC)
清康、岡崎移城の出典等
[編集]長いので、節区分しました。
- ろくに他史料も調べもせず、「この記述を覆す史料は、一切ありません」とは笑止千万、「デマ」・「ウソ」は御自分自身に帰ってくる言葉と自覚すべきです。
- 「清康、世良田次郎三郎、大永三年十三歳にて父の譲をうく。同六年山中城をせめとり、岡崎の城に移住す。享禄二年五月廿八日三河國下地にて合戦……(以下略)」→出典:続群書類従完成会編 『寛永諸家系図伝・第一』 1988年、116頁、(清和源氏・義家流之内新田流(甲一)松平清康の項より)。
- 「御年十三にして父君の譲をうけ安城に住したまひ、後山中城を攻めとり、岡崎城に移りたまふ……」→出典:続群書類従完成会編 『新訂 寛政重修諸家譜 第一』 1983年、22頁(寛政重修諸家譜第二巻・清和源氏義家流松平諸流略図、松平清康の項より)。これらはいずれも、徳川幕府公式編纂の系譜書ですよ。
- それから、『徳川実紀』は「岡崎の城を受取りて御 身は猶安祥におはしける」の解釈の誤り。「猶、安祥城にいらしたようだ」とすべき。「ける」=助動詞「けり」(の連体形)であって、伝聞推定または感嘆をあらわすもの。連体止めなのは省略形であって、本来「猶安城におはしける」につづいて 「…とぞいふ」、「…とぞつたふ」のようになるものの省略。単なる過去形は助動詞「き」を用いるから「猶安城におはしき。」なら「なお、安城にいらっしゃいました」で良いのですが。高等学校レベルの古典古文法の基礎知識です。原文(厳密にはその活字版で原本ではないが)を読むならその辺も宜しく。伝聞の形で『徳川実紀』が書いているのは、明暦の大火で明暦3年以前の幕府公用の日記等が焼けたためであって、それを補うために『野史』や他の残編を参考に記述したために「記載の事実はおおむね正確であるが、初期の部分に誤りがある。」というのが『徳川実紀』の史料評価である(→出典:荒川法勝 『日本の歴史書120選』 秋田書店、1993年。100 - 101頁 )。清康が岡崎の城を受け取った後に安祥城になお居たようだと書いてあっても、何時まで居たかは、その後に岡崎城へ移ったかも含めて書かれていないだけである。
- 「だいたい、安城市史に、清康が岡崎に本拠地を移動させたなんて、出ていませんよ。」→これも違ってますね。私はちゃんと『新編 安城市史 1 通史編(原始・古代・中世)』(安城市、2007年)の第10章第3節で確認しています。ちなみに本節の執筆担当者は村岡幹生氏、つまり、あなたが持ち出したブログの「安城市史入門講座 謎の人松平清康と松平信定」の講師をなさった、中京大学教授です。この中で(同書の553頁)、「……いまだ信忠が家督の地位にあったとき、清康(清孝)は安城にはおらず、山中城を拠点としていた。この事実と『三河物語』の叙述を整合的に理解すれば、清康は安城の本城において確たる居場所を占めることができず、…(中略)…そこを拠点に安城の一門とは独立した家中を築いていたというのが真相であろう。」と山中移城をハッキリ示唆しています。つづいて岡崎移城については『宗長手記』や岡崎市六供町の『甲山寺由緒書き』なども用いながら、「史実としては、享禄3年(1530)より早く大永7年(1527)以前に清康は山中から岡崎(明大寺の地)に移っていた……」と同書の558頁、第3節 松平信定と松平清康 - 「岡崎城主清康の立場」の項で述べられています。
- さて、180.197.97.185さんは、いったい『安城市史』のどこを見て先の発言をしているんでしょうか?本当に貴方こそこの本書を読んでいるんですか?お答え下さい。
- 私の質問には全くろくな回答もしてませんよね、出典提示もきちんとしない。それでこれ以上の削除するならば、記事破壊行為・対話拒否とみなし、投稿ブロック依頼を提出します。あなたは、かつて、アカウント名: Reonareonaを名乗り、「LTA:OTASUKE」として無期限ブロックになっている方ですよね、違いますか?--故城一片之月 2011年9月26日 (月) 16:23 (UTC)
↑安城市史に、出典はない。筆者の推測ですね。
あと、寛永譜・寛政譜を引用・校正してつくったのが、徳川実紀です。 引用書目一覧に、寛永譜・寛政譜があり、それらを、引用・校正して完成したのが、徳川実紀です。 徳川実紀が一番最後につくられている幕府編纂史料です。 当然、徳川実紀の記述が優先する。
※安城から岡崎に移動していないと、困る理由があるんですか?岡崎市役所の関係者なんですか?あなた?徳川実紀の記述を否定するとは、あなた独自研究ですよ?--180.197.97.185 2011年9月26日 (月) 22:46 (UTC)
あと、あなた自信満々に言ってるけど、間違ってるけど。 寛政譜の、昌安、岡崎城を進めらる、を岡崎城に移動したって、訳しているけど。
昌安が、岡崎城を進呈したという意味です。進呈する
徳川実紀の記述でも。 淸康君十四歲にてこ れをせめんとて。元老大久保左衛門五郞忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻拔かれ。猛威に乘じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおも ひ。をのが最愛の女子をもて 淸康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば。これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御 身は猶安祥におはしける。
まいらせる〔2〕(他動詞)[1] 貴人に対する下の者の動作の謙譲語。(ア)貴人に品物を献上する。進上する。さしあげる。
寛政譜の記述とまったく一緒です。寛永譜の誤りを校正してつくったのが、寛政譜ですので、改めて、寛永譜の記述を検証するまでもありません。証明終了。--180.197.97.185 2011年9月26日 (月) 23:19 (UTC)
- 全く違いますね。あなたは見当違いのことを言っている。私は「清康」の項目と言ったはずだ。『寛永諸家譜』も『寛政譜』も松平清康の項目には「昌安」の文字は一箇所も書かれていないですよ。これであなたは、私の提示した出典を少しも見ていないか別の箇所を見たのか兎に角、的外れなのに「証明終了」などといい加減なことを言っているのは明らか。
- 「一番後に作ったから『徳川実紀』を優先する。」こんな史料解釈だれがしたんです?あなた自身でしょう。完全に独自研究です。私は上記の『新編 安城市史 1 』の村岡幹生教授の記述に従って引用もし、出典箇所の提示もしたんです。他に平野明夫氏や中村孝也氏のことも触れた。あなたの出典要求にはほぼ応えたているのにあなたは私の質問にも応じず、ただ、『徳川実紀』の一文のみを金科玉条のごとく主張するのみで、その徳川実記がどの本・資料を出典にしているのか何の情報も示してはいない。おおかた「国会図書館デジタル・アーカイブ」あたりでしょうけど。こんな、一方通行ではおよそ議論なんかじゃないですねこれは、まともな記事編集の対話になってないです。
- あなたの間違いを自分の目で確認して貰うために特別サービス。グーグルブックス検索、『寛政重修諸家譜 第一』「松平」、7ページをご覧なさい。「寛政重修諸家譜・巻第三・松平-三木、信孝」の上方に「清康」(寛政重修諸家譜・巻第二・清和源氏(義家流)松平諸流図の最後尾部分)があるから、じっくりその目で御確認ください。並んでいるウィンドウの「7ページ」の文字をクリックするのですよ、お間違えなく。大草松平なんかではなく「松平清康」の項目ですからねと念を押しときます。
- 『寛永譜』や『新編 安城市史 1』は、あなたは安城市民でしょうから、地元の「安城市中央図書館」に御自分の足で行って現物を閲覧して確認して下さい。それくらいの労力はするべきでしょ。下にその所蔵情報貼って置きますからよく確認してみて下さい。
- 『新編安城市史 1 通史編 原始・古代・中世』、 安城市史編集委員会、2007年、一般書。
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一 』、続群書類従完成会、1980年、一般書、置き場所:参考室。
- 『寛永諸家系図伝 第一 』、続群書類従完成会、1980年、一般書、置き場所:参考室。
- さて、私はあなたに意を尽くし、理を尽くし説明に努めてまいりました。しかし、これに対して現状まともな回答も対応もあなたは全くしていません。これ以上あなたの真摯でない対応には付き合いかねます。こっちもこの記事の対応だけしてる訳にいきませんので。
- なによりも、議論の最中に両論併記されている記事を平気で削除する行為は「Wikipedia:中立的な観点」の違背行為。
- 一次史料でしかない『徳川実紀』の原文とやらのみ提示し、信頼に足る第3者の言及すなわち、公表された学術論文や刊本による2次資料の出典提示が全くなされていない。これは「Wikipedia:検証可能性」を満たしていない。
- にも拘わらず、「徳川氏本人が、清康は安城にいたって、公言している。それを、岡崎市役所や安城市役所が、岡崎に移動したって主張するなら、なぜってなるでしょう?だって、史料の提示ゼロなんだから」や「だいたい、安城市史に、清康が岡崎に本拠地を移動させたなんて、出ていませんよ。」や「安城市史に、出典はない。筆者の推測ですね。」など独自研究・個人見解の枚挙に暇がない。そしてそれを理由に削除の暴挙。これは「Wikipedia:独自研究は載せない」への抵触。
- 以上のWikipediaの基本方針に対する無理解による行為は全く容認できません。方針理解のために暫く編集は控えて貰うのが良いと思います。--故城一片之月 2011年9月27日 (火) 13:17 (UTC)
東照宮御実紀巻一 その太郎清康君。これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日十三歳にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみ/\ならず。萬にいみじくわたらせ給へば。御内外様のともがらも。この君成長ましまさば。終に中國に旗挙し給ふべしと末頼母しく思ひ。なびきしたがふ事父祖にもこえ。信忠の御時に離散せし者どもゝ。ふたたび来りて旗下に属するやから少からず。」岡崎并に山中の両城主松平弾正左衛門信貞入道昌安は。信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに。清康君十四歳にてこれをせめんとて。元老大久保左衛門五郎忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ。難なく山中城を攻抜かれ。其猛威に乗じ終に岡崎をせめられしに。昌安入道敵しがたくおもひ。をのが最愛の女子をもて清康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひしかば、これをゆるされ。その女をむかへて北の方となされ。岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが。信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ。昌安入道までこゝにありしが。此とき再び此城本家に帰せしなり)世には安祥の三郎殿と称し。その武威を恐れける。」享禄二年五月の頃西三河は皆御手に属しければ。是より東三河を打したがへ三州を一統さられんとの御志にて。牧野伝蔵信成が吉田の城を乗とらんとて。安祥を打立ち給ふ。
徳川実紀の記述から、安城にいたのは確実。岡崎領主古記の記述は誤り。
安城市史や岡崎市史が典拠とする岡崎領主古記は、江戸末期編纂の地誌で信憑性ゼロ。--115.39.231.198 2012年3月13日 (火) 05:25 (UTC)
- 上でも説明しているように、出典は『新編 安城市史 1 通史編(原始・古代・中世)』(安城市、2007年)の第10章第3節であり、筆者の村岡准教授はあなたの言う「岡崎領主記」は該当部分で、まったく出典として用いている形跡はなく、『三河物語』、『松平氏由緒書』、「松平一門・家臣奉加帳」、『宗長手記』、「甲山寺由緒書」(安城市安城町・甲山寺)、「大樹寺多宝塔心柱銘(写)」などの諸資料を検討した上で専門的見地から、同市史の担当記述をしているのです。
- また、この安城市のページでは『岡崎市史』を出典表示していません。お尋ねしますが、あなたは、表示されている、出典資料を本当に読んでいるんでしょうか?まさか、旧版(1971年2月)の『安城市史』を見て言ってるのじゃないでしょうね?
- 出典表示のある記述を記事から、個人的見解で削除するのは記事破壊行為になりますが、そもそも「信憑性ゼロ」とかはいったいどの研究家あるいは著述者の見解なんでしょうか、その根拠資料をお示し下さい。
- 以上のお尋ねに回答せずに、現状の『徳川実紀』の記述の両論併記さえも認めず、同様な記事削除を繰り返す場合には、当ページの記事保護依頼も検討されます。あるいはまた、これまでの貴方の編集行動・発言から、LTA:OTASUKEのブロック破りの疑いも審議する必要があるかも知れません。--故城一片之月(会話) 2012年3月13日 (火) 12:10 (UTC)
安城市歴史博物館の公式見解ですが、該当の新編安城市史に、岡崎に移動したと記述されていません。 確認しました。ウソツキは、あなたです。--180.197.146.221 2012年3月13日 (火) 15:28 (UTC)
『新編 安城市史 1 通史編』による出典箇所
[編集]長いので、節を立てました。該当出典箇所の詳細は以下に示します。
- たとえば、ウィキペディア「安城市」の該当の記述の当初の出典引用箇所の『新編 安城市史 1 通史編(原始・古代・中世)』(安城市、2007年)の553頁では「『三河物語』には、こうして清康が山中に進出したことの意義について、のちの岡崎進出と同等に並べて説明している。」という指摘がなされ、
- 更に詳しい説明として、同市史・557頁に「安城城を立った宗長は、…(中略)…そしてこの地について「今は岡崎といふ、松平二郎三郎の家城也」と記している。…(中略)…このときまでに、清康は山中城からの移住を終えていることが知られる。」、
- また、同558頁に「岡崎城主清康」というずばりそのものの見出しの文章があって、「岡崎市六供町の甲山寺にあった同寺由緒書きには、「享禄三年に安城城主であった清康が安城から岡崎のお城にお移りになったときに、…(中略)…安城村の薬師堂と六つの坊をお城の鬼門の方角にあたる甲山に移され、甲山寺となった」旨の記述を紹介し、「史実としては享禄三年(1530)より早く大永七年(1527)以前に清康は山中から岡崎(明大寺)の地に移っていたことは先にみたとおりである」と前置きし、
- この甲山寺史料や岡崎市の他の寺院の寺伝の検討から「……清康はこの年に明大寺の地から乙川をはさんだ今の岡崎城の地に新城を築いて移転したとみるのが通説である。」(同市史、559頁)と明確に指摘しています(以上、「」内引用文は、『新編 安城市史 1 通史編』(執筆者・村岡幹生)の原文から部分引用)。
- >安城市歴史博物館の公式見解って何です?ここで言ってる出典と関わりは何も説明していないですね。あなたは『新編 安城市史 1 通史編』の該当箇所を読んでいないとしか考えられないです。これで、あなたの私に対する「ウソツキ」呼ばわりは中傷行為にあたることは明白になりました。複数のIPアドレスを使用して、独自研究による削除を繰り返す行為は投稿ブロック対象になりますし、そもそも被無期限ブロック者のあなたがウィキペデイアの書込みをしているのも即時ブロックの対象のはずですね。ただ、正当な反論説明はしておく必要があると思いますので手を掛けてここまで説明しておきました。--故城一片之月(会話) 2012年3月13日 (火) 18:19 (UTC)
- 記事該当箇所は脚注にて、松平清康が「安祥城→山中城→岡崎城」と移住した説の出典表示および、清康の安祥城在城を継続したとする説に関連した『徳川実紀』の記述の両論併記がなされていますが、可変IP利用者:180.197.146.221(会話 / 投稿記録)氏とその関連すると思われるIP利用者によって、記述削除が繰り返されています。両論併記も認めず、Wikipedia:検証可能性を満たさない仕方で、自らの主張についてのみ通そうという姿勢は、LTA:OTASUKEのブロック破りによる編集の疑いは濃厚と思われますので、管理者伝言板にその旨を報告致しました。--故城一片之月(会話) 2012年3月14日 (水) 13:16 (UTC)
↑岡崎市役所の捏造であることは、徳川実紀の記述により、証明しました。
江戸幕府編纂の公文書;徳川実紀の動かぬ記述。 岡崎の城を受取りて御 身は猶安祥におはしける =岡崎城を奪取したが、その後も安城にいました。--Fyjjjyyy888888(会話) 2012年5月12日 (土) 03:15 (UTC)
- >↑岡崎市役所の捏造であることは、徳川実紀の記述により、証明しました。
- とのことですが、Fyjjjyyy888888さん、あなたが上のどこで証明されたんでしょうか?どこにも見当たりませんが。--故城一片之月(会話) 2012年5月12日 (土) 05:25 (UTC)
『徳川実紀』による反論
[編集]- そもそも、Fyjjjyyy888888さんは、「岡崎の城を受取りて御 身は猶安祥におはしける 」の部分を念仏のように繰り返すだけで、同じ『徳川実紀』のそのあとの記述を読んではいないようですね、貴方にも閲覧し易いように「国会図書館近代デジタルライブラリー」の内藤耻叟校訂『徳川実紀』を出典として説明します。
- この『徳川実紀(東照宮御実紀)』の巻一(13頁)に天文四年十二月尾州森山で清康横死後、「かくて御家人等深く御喪を秘して 岡崎に立ち帰り 其ほとり菅生の丸山において烟となしまいらせ御骨をば大樹寺にをさめ善徳院殿とおくり奉る」とあり、清康の家臣達は岡崎に帰って菅生で主君を荼毘に付したとする記述。つづいて、
- 『天文五年二月のはしめ織田信秀ハ清康君の御事を聞き定め、今は岡崎も空虚なるべし西三河を併呑せん事この時にありと八千の人数ををして三河に発向せしむ。岡崎方小勢なりと雖もさすが 故君の居城を馬蹄に掛けん事口惜しと宗徒の輩、血をすすって誓いをなし、井田郷に於いて敵をむかえて決戦し……』(巻一、14頁)
- 織田信秀の岡崎を目指した進攻に「故君の居城」を踏みにじられまいと宗徒の輩(清康遺臣)の岡崎方は、城下井田郷で迎撃した記述。
- このように『徳川実紀』も年月日をとくに何時とは書いてはいないが清康が居城を安祥城から岡崎城に遷していたことを示す記述をしています。以上出典:『徳川実紀 巻1−186 』[第1冊]巻1−4 (国会図書館近代デジタルライブラリー)。
- つまり、松平昌安(西郷信貞)の岡崎城を奪取後に、清康は安祥城に暫く居城したが、少なくとも森山崩れのあたりまでには既に岡崎城に移城していたことは『徳川実紀』の記述だけでも推察できるのです。つまり、Fyjjjyyy888888さんは『徳川実紀』の一部分しか見ずに松平清康がずっと安祥城に居城し続けていた、岡崎城は本城ではなく一属城であり続けたと誤解しているのではないですか?何度も言いますが、清康が岡崎城に遷らなかったとする、2次資料の出典(つまり、研究者や専門家の書いた論文・書籍)を提示して下さい、あなたは、肝心の『徳川実紀』(1次資料)についてでさえ、どの本を出典としたかの書誌情報さえ提示することを怠っています(検証可能性を満たしていません)。--故城一片之月(会話) 2012年5月13日 (日) 18:08 (UTC)