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ノート:富士山本宮浅間大社

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富士宮駅前にあった大鳥居に関して

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撤去の部分のみ削除されているがそれはおかしいと思います。敷地外と理由で、削除するなら1934年と2006年の建設(奉献)もカットすべきと思います。 ただ、確かに鳥居は敷地外ではありますが、浅間大社に奉献され、浅間大社の鳥居には間違いなく、記述してもなんらおかしくないと思え、削除の必要はなく戻しました。 (富士山せせらぎ広場でも、「富士山本宮浅間大社の本宮および奥宮(富士山頂上)の鳥居を含めても最大の大きさである。」と、浅間大社の物と読み取れる記述になっております。) --220.151.114.10 2009年1月15日 (木) 14:38 (UTC)[返信]

私がこの記事を削除した理由については、大鳥居が富士山本宮浅間大社という神社の敷地内にあるという錯覚を起こさせるのではないかという危惧、富士山本宮浅間大社の歴史と捉えるのは妥当ではない、富士山せせらぎ広場というページが存在することを知っていたため、そこに載せれば問題ないだろうという考えです。しかし、これはあなたがおっしゃるように、1934年と2006年の記事も削除すべきであるということを示します。これは私がそこまで目にいっていなかったためであります。なのでもし、削除の方針となった場合はこれらの文も削除すべきであるという意思をここで示しておきたいと思います。「記述してもなんらおかしくない・浅間大社の物と読み取れる記述」についての件はこう説明したいと思います。富士山本宮浅間大社の鳥居は、大鳥居以外にもたくさんあります。例えば、富士山の頂上にある鳥居ですね。ですが、これは富士山本宮浅間大社の境内とされているため、記事として載せるのは適当であると考えます。しかし、それ以外にも登山道の途中などに複数鳥居は存在します。この鳥居も富士山頂上の鳥居と同じ経緯で建てられた、つまり富士山本宮浅間大社の鳥居であると言えます。しかし、「富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の境内である」という規定があり、これにより登山道にある(8合目未満の)鳥居は「富士山本宮浅間大社の境内のものではない」となってしまうのです。ですから、これらについてはむしろ「富士山」のページで書くのが正しいと考えます。この「富士山のページで書くのが正しい」という意見が、私が「富士山せせらぎ広場」へと記事を移行したという理由へとつながります。そしてこれにより、浅間大社の物と読み取れる記述であること自体は問題はないと考えます。また、登山道の途中にある鳥居についての写真・記事を富士山本宮浅間大社のページに載せたとした場合、これらが富士山本宮浅間大社の境内にあるという勘違いをする可能性が少ないとは言えないと思います。記事の質を求めた上の理由です。219.48.222.99 2009年1月16日 (金) 09:33 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。富士山8合目以下の件は理解できる部分もありますが、富士山に浅間大社の記述を書きすぎるのもとも感じながらも、それは富士山で議論で、
さて当件ですが、浅間大社のHPをご覧になってください。「富士山せせらぎ広場の鳥居」の写真がトップページの飾っております。また境内マップにせせらぎ広場と大鳥居が含まれております。また富士宮市の都市計画にも「浅間大社、神田川周辺の都市のシンボル軸としての整備」とうたっております。これだけの条件があれば、無理に消す必要もないと思います。あと今回問題になっている記述項目は「歴史」です。浅間大社の歴史として、浅間大社の為に作られ、大社の所有物が壊され、再建されたのは事実ですので記載は問題ないと感じます。--220.151.114.10 2009年1月17日 (土) 13:12 (UTC)[返信]
写真のこと、境内マップのことですが、私は大鳥居が富士山本宮浅間大社のものであるというのは明言しております。また境内といいますが、富士山せせらぎ広場が作られたのは2006年です。これが表すことは、「2006年に新たに富士山せせらぎ広場が富士山本宮浅間大社の領域となった」という意味になります。ですが、これはあまりに無理があります。「境内」とホームページで表現していますが、HPでの図という表現上でのものでしょう。後に、広場と神社の入口をつなげることは考えられますが、そうしたら記事を一体化させればいい話です。「歴史」のとらえ方ですが、あなたは富士宮市のシンボルとして大鳥居が建てられた=富士山本宮浅間大社の歴史と言っていると解釈してよろしいでしょうか?この広場ができたときにそれを人々が見て、浅間大社の歴史とつなげるのであろうか?徳川家康やその他武将の名、節目を迎えたという歴史的内容がある中で、これを「歴史」と捉えるのは無理がある気がします。無理に消す必要もないとおっしゃりますが、私から言わせればわざわざ載せる必要もない。領域内でもない、そしてその鳥居のある富士山せせらぎ広場のページがある。なぜそれでいけないのかと感じます。ですが、後につなげる可能性があると既述したように、限りなく密接な関係にあるというのは確かであると思います。私は再び当分編集できない環境へとなります。なのであなたとこのノートで議論はできないでしょう。この「密接な関係にある」という部分を認め、このページにその旨の文を載せるのは妥当であるとしたいと思います。219.48.222.99 2009年1月17日 (土) 16:21 (UTC)[返信]

富士山八合目以上の寄進の経緯

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神体山でも一応「要出典範囲」を記したのですが、現在の版における本項の文脈では、

徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営し、1777年(安永8年)には、富士山八合目以上の土地を寄進している。その後も歴代の将軍が祈祷料・修理料の寄進を行った。

となっておりますが、徳川家康は1616年(元和2年)に死去しており、1777年(安永8年)に土地を寄進することは不可能です。考えられるのは、寄進が行われた年代に誤りがあるか、それとも1777年に当時の将軍である徳川家治が寄進を行ったのを誤ったのかのいずれかであると思われるのですが、現在の文章では家康が社殿を造営したと言うのは問題がないとしても、その後の寄進に関してはどうしても年代的な矛盾が生じるように思えます。そこをはっきりとさせた方が宜しいのではないかと考えます。--水野白楓 2009年3月15日 (日) 10:01 (UTC)[返信]

その件について調べてみたところ、私の持つ書籍の中に答えがありました。貴方様のおっしゃる通り、1777年に家康公が土地を寄進することは不可能です。どうも、家康公は1609年に土地を寄進していて、その経緯から後に「寺社奉公」なるものにより、8合目以上が浅間大社へ寄進されたようです。念のため、裁判の年も一致するか調べてみたところ、1974年(昭和49年)とあり、間違いなく一致しておりました。参考文献も記載しました。貴方様の指摘により間違いが訂正できてよかったです。--Oiseau tonnerre 2009年3月16日 (月) 16:23 (UTC)[返信]