コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:小川祐忠

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

話題

[編集]

現在の生没年は何が根拠となっているのでしょうか?詳しい事がわかる人の補記をお願いします。自分の調べた限りでは「武徳安眠記」という資料で「関ヶ原で改易された後、程なく没した」という記述があることしか判明しませんでした。(生年についてはまったく不明)--ポテンシャル0 2009年10月12日 (月) 05:46 (UTC)[返信]

生没年に関する裏付けが見当たらないので(信長の野望嵐世記のマスクデータくらいしかない)、生没年不詳とします。--ポテンシャル0 2010年3月15日 (月) 16:34 (UTC)[返信]

また生まれ年が設定されている…ちょいちょい適当な生まれ年が設定されるが、何をソースにされているのだろうか…--ポテンシャル0会話2024年4月27日 (土) 08:36 (UTC)[返信]

小川祐忠の出生について

[編集]

小川祐忠の生没年を含む小川家の系譜について、小川明『戦国大名小川土佐守祐忠と小川家の歴史』の中に詳しい記述がありますので、今後の検証のために記載いたします。

小川義祐 生誕 延徳三年(1491年) 小川丹後守 幼名・孫一郎 近江神崎郡栗見荘小川ノ城に居住。軍功ありて佐和山城に住す。後再び小川ノ城に戻る。

小川祐重 生誕 永正七年(1510年) 小川丹後守 幼名・孫一郎 小川ノ城に居住。

小川祐忠 生誕 天文四年(1535年) 實父・吉田出雲守重高 幼名・岩松 後に孫一郎、土佐守。養父・祐重の家禄を継ぎ小川ノ城に住す。室は一柳直高の女子・慶春。

小川祐滋 生誕 天文二十三年(1554年) 祐忠嫡男。石田三成と親交深く、父に同せず、父子に出入があった。後に京都の西山に隠居し、発病して没した。

實乗 生誕 弘治二年(1556年) 祐忠次男。幼名・虎之助。法名・實乗。八幡山瀧本坊住侶(住僧)。慶長十五年(1610年)舎弟・光氏卒後、後継無く断絶する為、實乗に家督継承を願ったが、還続せず。

小川忠久 生誕 永禄元年(1558年) 祐忠三男。天正十一年(1583年)に二十六歳にして卒。舎弟・光氏が日田を領する時、豊後日田学林寺に石塔を建立。女子三人。摘女・小川太兵衛妻。次女・小川藤左衛門妻。三女・小川太郎右衛門妻。

小川光氏 生誕 永禄三年(1560年) 祐忠四男。貞氏、壱岐守。父・祐忠と共に関ケ原の合戦に出陣。東軍に御味方し、其の後、故ありて高野山に引き籠る。秀忠公は召し出し、父・土佐守名跡(跡目)御立てになり、豊後国日田郡壱万石、玖珠郡に壱万石、都合弐万石と金山領壱万石は預かり、武蔵(江戸)、神田社邊に宅地を賜った。慶長十五年七月十八日卒。嗣子無く、家臣の内、小川喜助(藤左衛門正信)、小川又左衛門氏綱(政重)は、江戸にて家兄・實乗に家督を願い出るが、拒否され断絶した。両人は共に日田御代官に召し出され、其の子、藤左衛門も日田の御代官を務めた。位牌・日田大超寺、秋光院前臺列太守遊月満空大居士。

上記の出典元として小川憲慶氏所「小川家文書」福岡市史編さん室が挙げられています。


--HONONOMO会話2024年12月1日 (日) 17:03 (UTC)[返信]