ノート:山本五十六
この記事は2009年9月12日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、特定版削除となりました。 |
ここは記事「山本五十六」の改善を目的とした議論用ノートページです。 |
この「山本五十六」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2022年4月18日 | 良質な記事の選考 | 取り下げ |
話題
[編集]英語版では、生まれたときの名前が貞吉五十六、「北海道クシ郡ソンショ村」生まれ、江田島の海軍学校に1896年に入学、と書いてあるのですが、日本で一般に流通しているプロフィールとこの部分が相当違います。 たぶん日本版のほうが正しいんだとは思いますが、ぜんぜん違うんだとしたら英語版の人にも教えてあげなきゃならないかと思いますので、真相をご存知の方がいましたら教えてください(もしくはあちらにも教えてやってください)。Modeha --以上の署名のないコメントは、Modeha(会話・投稿記録)さんが 2004年1月20日 (火) 08:56 (UTC) に投稿したものです(Kitimi(会話)による付記)。
- 日本語版の方が正しいですね。ちょっと英語版修正してみようKamakura 13:16 2004年1月20日 (UTC)
すいません。怪しい英語で直しちゃったのでもっといい英語に直してください。あと、山本家の養子になった年が英語版と日本版で違ってます。サダキチイソロクはまだわかるけどクシ郡ソンショ村ってどこから出てきたんでしょうかね。Modeha 13:24 2004年1月20日 (UTC)
- ちょっとそのあたりは曖昧なので今度調べてみますKamakura 13:39 2004年1月20日 (UTC)
- 古志郡のことかと思います。現在は存在しない群ですが、中越地震で被災した山古志村が有名です。Takanori222(会話) 2012年12月24日 (月) 01:42 (UTC)
山本姓をつぐ部分が唐突である。彼と山本家の関係は??そのあたりの説明が欲しい。0null0 2004年7月11日 (日) 09:57 (UTC)
猪一头 --以上の署名のないコメントは、218.1.115.99(会話/Whois)さんが 2005年2月3日 (木) 02:38 (UTC) に投稿したものです。
肖像写真の階級が中将となっていますが、階級章大将のものです。--以上の署名のないコメントは、210.239.123.53(会話/Whois)さんが 2005年10月12日 (水) 08:17 (UTC) に投稿したものです。
Should there be a link from En:Isoroku Yamamoto to this Japanese-language article? --以上の署名のないコメントは、192.195.66.44(会話/Whois)さんが 2005年12月5日 (月) 15:56 (UTC) に投稿したものです。
海軍士官学校→海軍兵学校 ではないでしょうか?Takanori222(会話) 2012年12月24日 (月) 01:42 (UTC)
長岡空襲
[編集]「長岡空襲は、当地が彼の故郷であったというだけの理由で行われた。」 信頼できるソース/参考文献を明記して下さい。Phonemonkey 2006年11月16日 (木) 11:14 (UTC)
博打が好きと記述されているところに将棋があるが、将棋は博打ではない。賭け将棋であるならば、それは別ものである。0null0 2007年11月3日 (土) 09:07 (UTC)
山本志勇について
[編集]先日、Wikipedia:削除依頼/山本志勇及びzh:Wikipedia:删除投票和请求/2008年4月7日で五十六の孫を自称する人物記事が作成されておりました。中国語版、日本語版、英語版に記事が作成されたのですが、虚偽と見るよりも実在したとしても一般人として他言語では削除されたようです。--Tiyoringo 2008年4月24日 (木) 13:59 (UTC)
上記に関して本日中国語版を確認したところ、白紙保護されておりました。--Tiyoringo 2008年7月23日 (水) 14:50 (UTC)
評価について
[編集]>また山本は嫌いな相手に対しては極端にこれを避け、言葉を惜しむかの如く切り口上で話したという。宇垣纏に対する冷遇はその顕著な例である。そして反対する相手を説得し、自分の考えを理解させるというプロセスを特に苦手とし、その為に彼の真珠湾やミッドウェー作戦における真の狙いや、戦争遂行そのものに関する構想を周囲の者は理解できず、この齟齬が作戦遂行に多大の支障をもたらした、と言われている。山本の失敗は、彼の戦略戦術そのものよりも、彼自身の本質的な内向性や人間不信に起因すると評する史家も少なくない(半藤一利など)。
- って史家ではないでしょ。史家の評価が無いのであれば、この一節を削除しますよ。らりた 2008年5月26日 (月) 15:31 (UTC)
この項目ですが、実際に指摘されている部分と独自研究記述が入り乱れて乱雑になっているように思います。--男梅 2009年4月18日 (土) 01:44 (UTC)
主張・意見に関するもの
[編集]「佐藤賢了によると」としてエピソードの記述がありますが、
1.連合艦隊司令長官の職にあるものが、御前会議に提出する資料を軍務局長に無断で改竄したというのがそもそもおかしな話で、にわかには信じがたい。 2.「戦争を遂行するのは不可能であると判断せざるを得ないような」データに改竄した=戦争指導者が不戦に傾くようなデータに改竄した事をもって、「佐藤は生涯山本の事を許さなかった。」のであるから、佐藤賢了という人間は非常な好戦思想の持ち主だった、という意味の記述なのでしょうか? どちらにしても出典の明示は必要ではないでしょうか?--ターニャ 2009年1月3日 (土) 08:10 (UTC)
- 要出典をつけました。--ターニャ 2009年1月7日 (水) 06:48 (UTC)
- タグが消されてましたので、再度、要出典をはり、8ヶ月経過しても出典の明記が無いため、削除しました。--Kamkamkam(会話) 2013年10月19日 (土) 02:18 (UTC)
仮置きさせて下さい
[編集]- 兵学校卒業時に教官より「もっと喋れ」と注意され、自身に対しても「温にして直」と戒めている。しかし、知己には明るく冗談好きで、上の人とはしっかり付き合い、下の者に対しては人情味があり礼儀正しく、面倒見もよかったので同僚や部下からの信頼が非常に高かった。
- 当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していた。
- 先見性があった。メキシコの油田を自費で見学し、各地の油田を調査した[1]。列強各国が大艦巨砲主義から抜けきれず、イギリスに至っては1946年(昭和21年)に戦艦「ヴァンガード」を完成させる中、いち早く航空機に着目し、陸上機爆撃機を加えた海軍航空隊育成に尽力した。1940年の戦技会で九七式艦上攻撃機による水平爆撃の成績が悪かったため廃止の方向に傾きかけたところ、山本が立ち上がって水平爆撃の断行を宣言した[2]。満座は静まり返り、居合わせた中村悌次(海軍少尉)は山本の迫力に関心している。
- 断固とした意思を持っていた。完成したばかりの最新鋭空母「翔鶴」、「瑞鶴」の真珠湾攻撃投入に反対した軍令部に対し、山本は黒島参謀を通じ「翔鶴と瑞鶴を真珠湾攻撃に用いぬなら、山本を含めた連合艦隊全幕僚は辞任する」と告げ、「翔鶴」・「瑞鶴」を南雲機動部隊に加えた[3]。9月と10月の真珠湾攻撃図上演習で日本軍空母が2-3隻沈没判定が出た時も、不安になった将官達に対し「俺が全責任をとる」と断言している[4]。
- 南雲機動部隊が日本を出撃する直前、日米交渉が妥結した場合には引き返すよう命じた。南雲忠一中将達が「ハワイ空襲のため攻撃隊が出発したあとは無理」と反論すると、山本は「百年兵を養うのは、何のためか、もし命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるなら、出動を禁ずる。辞表を出せ」と激怒している[5]。
- 1942年5月7-8日の#珊瑚海海戦で初めて日米両軍の空母機動部隊が激突した際、日本軍空母「翔鶴」は爆弾3発の命中により大火災にみまわれたが鎮火に成功し、日本に帰投した[6]。5月26日、山本は福地周夫翔鶴運用長(ダメージコントロール責任者)を戦艦「大和」に招き、空母被弾時の脆弱性と応急処置戦訓について講話を行わせた[7]。山本は熱心に聴いたが、南雲忠一中将や殆どの高級将校はミッドウェー作戦図上演習のため欠席している[8]。
- 日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとした。--以上の署名のないコメントは、男梅(会話・投稿記録)さんが 2011年8月14日 (日) 00:59 (UTC) に投稿したものです(Kitimi(会話)による付記)。
- 軍令部の作戦計画を退け、連合艦隊主導の攻勢作戦を立案し実施した。戦前の早くから連合艦隊にて真珠湾攻撃の事前準備に入っており、軍令部長が永野修身に交代した際には、“山本派”の福留繁や伊藤整一らを送り込み、作戦計画を下克上的に主導したとの意見もある[9]。一方、千早正隆は山本と永野の交流はほとんどなく、軍令部と連合艦隊のコミュニケーションが希薄だったと指摘している[10]。また福留と伊藤の人事は山本の意向ではないとしている。千早によれば、永野と近藤信竹軍令部次長の性格が合わず、永野は近藤を第二艦隊(最前線部隊)に転出させ、かわりに伊藤と福留を引き抜いたという[11]。
- 機材・人材の補給継続の困難な航空機を主体とする独断専行の攻勢作戦の長期化は国力の限界を超えるものとなった。
- 山本の「1年や2年は暴れてみせる」という発言について常岡滝雄(陸軍中佐)は「暴れるという思想が既に堅実性を欠いでいる。東郷元帥には暴れるなどという、落ち着きのない不徹底な思想は微塵もなかった」と述べた[12]。
- 真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に見られる様にその作戦計画は、投機的な危険を伴う作戦であった。草鹿によれば、、当初参加空母は第一航空戦隊(空母赤城、加賀)、第五航空戦隊(空母翔鶴、瑞鶴)の4隻だったが、兵力不足を懸念した草鹿が山本にひざ詰め談判することで、ようやく山口多聞少将の第二航空戦隊(空母蒼龍、飛龍)の参加が決まったという[13]。
- 真珠湾攻撃では事前の準備から相応の戦果を上げたが、目標設定もしくは遂行重要度の指示の不徹底の結果として、真珠湾の港湾施設や燃料タンク、空母2隻(エンタープライズ、レキシントン)を撃ち漏らした。残る5隻の正規空母は米本土と大西洋にいた。山本は南雲が真珠湾に反復攻撃をかけないことを見越し「南雲は帰ってくるだろう」と口走っている[14]。「泥棒だって帰りは怖い。南雲にまかせる」「一々相手が理解するまで説明などせん」という趣旨の発言だったともいう[15]。生出寿や吉田俊雄は、戦果の不徹底は断固とした命令を出さなかった山本に責任があり[16]、また上官と部下の意思統一をすべきだったと指摘している[17]。
- 真珠湾攻撃では、米空母2隻の捕捉失敗や石油タンクの破壊云々ではなく、真珠湾とハワイ諸島そのものを緒戦で占領しなかった山本構想の不徹底さも指摘されている[18]。実際、第一段階作戦が終わってからようやくハワイ諸島の占領を検討している。1943年に米軍捕虜となった豊田穣(海軍中尉、九九式艦上爆撃機操縦者)は、米軍情報将校から「なぜ真珠湾攻撃でハワイを占領しなかったのか。ハワイを占領されたら、シンガポール陥落と同時に米国は講和するしかなかった」と執拗に尋問されている[19]。その米情報将校は山本と南雲が引揚げ容易な湾内に戦艦を沈めた程度で満足したことを不思議がり「南雲は第二の東郷平八郎になるチャンスを逃がした」と評していたという[20]。
- 戦艦「大和」で行われたミッドウェー海戦前の図上演習では、前線指揮官達から懸念が寄せられた[21]。近藤信竹中将は同作戦に対し「米軍空母部隊は無傷であり、ミッドウェー基地航空隊を作戦に投入できる」点を指摘し、反対論を唱えた[22]。すると山本は奇襲が出来れば勝てると請け負った[22]。納得しない近藤がミッドウェー島を占領した場合の維持と補給について質問すると、連合艦隊司令部は返答に窮した[23]。山本は何も答えなかった[23]。会議終了後の訓示では「異議のある艦長は直ちに申し出よ。早速退艦してもらう」と強硬発言をしている[24]。
- 三代辰吉(中佐、軍令部)はミッドウェー作戦時に山本が「作戦をやらせてもらえないなら辞任する」と伝えてきたことに「辞めてもらおう」と怒り、戦後も「山本を尊敬する気持ちに変わりはないが、あの時だけは心底腹がたった」と語気を荒げている[25]。山本の『辞任』発言は、渡辺安次参謀が戦艦「大和」へ電話した直後の東京・軍令部会議で飛び出した[26]。この時、渡辺が「大和」の電話に呼び出した相手は山本でない可能性がある。「大和」の左舷作戦室片隅にある電話ボックスから山本がいる右舷長官室まではかなりの距離があり、千早は黒島亀人と渡辺が山本の名前を勝手に借り、独断で用いたと指摘している[27]。生出は仮に事実だとしても、重大作戦に対し「大和」から動こうとせず渡辺参謀一人に軍令部との折衝をまかせた山本の責任を指摘している[28]。
- ミッドウェー海戦では、杜撰な作戦準備と作戦指導の失敗により正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失った。特に貴重な空母「隼鷹」・「龍驤」を米軍が殆どいないアリューシャン諸島に投入したことによる戦力分散は、ニミッツ提督やスプールアンス少将を始め、米軍側も山本最大の過誤と指摘している[29]。
- 南雲機動部隊の空母4隻が撃沈されても、日本軍の戦力は米軍機動部隊より優勢だった。山本の指揮下には戦艦「大和」、「長門」、「陸奥」、軽空母「鳳翔」、「瑞鳳」を中核とする強力な戦艦部隊と、北方に展開していて無傷だった空母「隼鷹」、「龍驤」があった。空母4隻合計(零戦50機、艦爆・艦攻60機)が残っていたが、山本は撤退の道を選んだ。米国歴史学者ゴードン・ウィリアム・プランゲ博士は著書の中で「山本は尻尾をまいて逃げ出した」と評している[30]。
- もっとも、ミッドウェー作戦については米軍によるドーリットル本土初空襲の影響から、本土防衛に対する陸海軍の威信をかけた作戦へと発展したこともあり、その作戦準備にかけられる時間が不足していた。南雲忠一中将や山口多聞少将以下第一航空艦隊司令部は艦の補修、人事異動による航空隊能力低下を理由に作戦延期を求めたが、山本は聞き入れなかった[31]。また、山本長官をさしおいてミッドウェー作戦の許可が出された可能性がある[32][33]。
- 山本自らが座乗した戦艦「大和」以下戦艦部隊を南雲機動部隊の後方に展開させたため、戦局に全く寄与しなかった[34]。日本海軍では大艦巨砲主義論者と航空主兵主義(戦艦無用論者)が激しく対立していたが、山本は両者の長所を取り入れられなかった[35]。逆にニミッツ提督は、戦艦と空母の双方の長所を組み合わせることが可能であることを戦争後半で実証した[35]。またニミッツが戦艦の軍楽隊員を暗号解読班に転属させたのに対し、山本は軍楽隊の演奏の元、「長門」、「大和」、「武蔵」でフランス料理フルコースの昼食をとっている[36]。
- ミッドウェー海戦直前、山本の座乗する戦艦「大和」は米軍機動部隊が発信したとおぼしき電波をとらえた[37]。だが、最前線の南雲機動部隊に伝達しなかった[38]。草鹿龍之介機動部隊参謀長は、出撃前の作戦会議で山本達に「米軍空母出現の徴候があれば知らせてくれ」と頼んでいるが、山本以下連合艦隊司令部は無視したことになる[39]。参謀達が発信か秘匿で論争となり、宇垣参謀長が山本に決済を仰いだところ、山本は宇垣の判断に従って転電をしない事に決定したという[40]。さらに試作レーダーを装備した戦艦「伊勢」「日向」を後方に置いて無用の長物にした[41]。
- 山本は「海軍も空軍が大事で、大艦巨砲はいらなくなる。戦艦などは床の間の飾りみたいなもので、旗艦用に2隻あればいい」「戦艦用の予算で数千機の航空機をつくれる」と佐々木彰(連合艦隊航空参謀)や周囲に語り、世界最大の大和型戦艦を「大和ホテル」にしてしまった[42]。「大和」を訪れた辻政信陸軍参謀は、同艦の黒塗り膳・ビール・鯛の刺身や塩焼きという食事に皮肉を言うと、福崎昇(海軍中佐)が「前線から帰ってくる将兵の慰労のためだ」となだめた[43]。実は連合艦隊司令部の日常の食事だった。対象的に米軍は大和型戦艦と同世代のノースカロライナ級戦艦、サウスダコタ級戦艦、アイオワ級戦艦をガダルカナル島の戦いを含むあらゆる戦線に投入し、これら米戦艦は各戦線で活躍した。
- マレー沖海戦では、「巡洋戦艦レパルスは撃沈できるだろうが、プリンス・オブ・ウェールズ(英国新鋭戦艦)は無理(沈まない)だろう」と三和義勇参謀に話しかけ、山本は撃沈失敗にビール10ダース、三和は撃沈にビール1ダースを賭けた[44]。洋上航行中の戦艦を航空機(一式陸上攻撃機)が撃沈した画期的な戦史だったが、英軍戦艦2隻に護衛機が1機もついていなかったことを深く考えなかった[45]。1942年2月のニューギニア沖海戦では米空母「レキシントン」に一式陸攻17機を向かわせ、米軍戦闘機の迎撃によって陸攻15機を撃墜されている[46]。
- 吉田俊雄は防弾能力を軽視した日本軍航空機の設計(特に九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)を例に出し、山本を含めて航空要職の者が航空戦の本質を知らず、バランス感覚もなかったとしている[47]。淵田美津雄は、山本が戦艦「大和」を遊兵化させ、安全な戦線後方に温存したことを厳しく批判した[48]。さらに、「い号作戦」で圧倒的物量を持つ米軍相手に航空消耗戦を挑み、再建したばかりの空母機動部隊搭乗員を消耗させたことを「山本五十六凡将論」の根拠としている[49]。
- ミッドウェー海戦後、呉工廠の朝熊利英水雷部長に特殊潜航艇1000隻を発注し、朝熊が魚雷と発射管が間に合わないと答えると山本は「魚雷はいらん。頭部爆装でよい」と命じた[50]。
- 他にも山本は日米の国力差を考えた時、政府が大戦前に計画した南方方面を主軸とした長期的な作戦(南方資源の確保と漸減邀撃を主軸とした防衛・持久戦の構え)では、国力に勝る米国には勝てないと考え、太平洋を主軸とした短期決戦型の作戦を立案し実行していったが、調整不足のため陸海軍間の共同作戦や海軍内部での意思統一にも歪みを生じさせ、政府が当初考えていた戦線を大幅に拡大させる事態を招いた。“真珠湾のだまし討ち”に対するアメリカ国民の反感は予想以上に大きく、戦争をどう終わらせるかという見通しを見出せぬまま、攻勢終末点を越える広大な太平洋でエンドレスに作戦を展開せざるを得ない事態を生んだ。これによって当初の目論見とは逆に国力(消耗戦・補給戦)による戦いに巻き込まれ、国力が小さい日本にとってより不利な条件で戦争を継続しなければならない状況を生んでしまったという意見も存在する。山本はじめ日本海軍の攻守のうち“攻め”に重きを置く思想に由来するともいわれている[9]。山本本人は、戦艦「長門」の艦橋で藤井参謀に対し「野村大使の書類(宣戦布告文書)は間に合ったか?」と何度も尋ねている[51]。吉田俊雄は「陛下に、山本はそんなこと絶対に考えておりませんでしたと伝えてくれ」と山本から頼まれた将官の証言を紹介している[52]。
- 米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮とは言えない。また真珠湾攻撃後の南雲機動部隊を西太平洋・インド洋方面に転用したことで、米軍に衝撃から立ち直る時間を与えてしまった[53]。ニミッツはプランゲとのインタビューで、この時間が最大の助けになったと語っている[53]。
- 人物を、己の好き嫌いで分ける傾向があり、好きな人物には肝胆相照らす親密さを見せるが、嫌いな人物には必要最低限の事しか喋らず、それが公務にも及んだ[54]。また人材の多様化に消極的であった。真珠湾攻撃や第一次ソロモン海戦の目的不徹底も、作戦部隊のミスというよりも、山本自身が実施部隊に作戦目的を伝えなかった事が原因と言われている。また、ミッドウェー海戦やソロモン攻防戦に於ける連合艦隊の暴走も、山本が特定の幕僚を贔屓にした為、その幕僚達が勘違いを起した事が原因とされている。
- 山本の人の好き嫌いが極端に現れた例として、黒島亀人(連合艦隊先任参謀)と宇垣纏(連合艦隊参謀長)の関係を指摘する例は多い[55]。山本は他の参謀・幕僚とは違う観点から意見をのべる黒島を重用し、自身の戦死の寸前の頃まで4年間も黒島を手元に置いた[56]。真珠湾攻撃前、山本、黒島、渡辺と作戦室にこもり、時折笑い声が聞こえたという[57]。「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」との忠告に山本は「黒島は独創的なアイデアを出すので手放せない」「黒島は俺の言ったことに反対する奴だ」と断り[58]、あるいは「黒島のような人物がいないと天下の大事は成し遂げられない」とかばった事がある[59]。千早正隆は、山本が宇垣参謀長を経由せず直接黒島に指示することで司令部の命令系統が崩壊し、黒島と渡辺安次(もう一人の寵児)が専横することになったと指摘している[60]。中沢佑(第五艦隊参謀長)は山本が黒島亀人を信頼しすぎたことはマイナスであると述べた[61]。
- ただし、山本は戦死の直前、「黒島を他の者に代えようと思う。誰が良いと思うか」と小沢治三郎と草鹿任一に相談していた、と言われている[62]。小沢は宮崎俊男大佐を推薦したという[63]。後に、黒島は宇垣の回顧録を借り出すと、自分に関連する部分を削除した[64]。また人材面で黒島に代わる適当で有能な人物がいたのかどうかという反対意見もある[誰によって?]。
- 山本は、山本の親友であり同期生である堀悌吉中将を予備役に追いやった南雲忠一中将(当時大佐)に対しても好印象を持っておらず、南雲が第一航空艦隊司令長官に任命された時には「南雲の水雷屋が」と悪態をついている[65]。真珠湾攻撃の際には「南雲は1回で引き返してくるだろう」と「長門」艦橋で独り言をつぶやいた[66]。もっとも宇垣纏参謀長が長門型戦艦や伊勢型戦艦の主砲で真珠湾を砲撃することを主張し、黒島亀人先任参謀が撤退を主張して深夜にまで至る激論になった際には「帰ろう」と黒島の意見を採用している[67]。ミッドウェー海戦で日本軍主力空母4隻が撃沈された際にも「南雲は帰ってくるだろう」と述べた[68]。
- 麾下の各艦隊司令長官、戦隊司令官に対して適材人事改革を行なわず、賞罰において、(兵学校出身者のハンモックナンバーに根ざしたエリート集団の団結ないし年功序列人事を重んじるがあまり)失敗した部下に対する責任を曖昧にした。これは後に作戦の分析・評価が機能しない土壌を生み出した。宇垣によれば、山本の内心は「全責任は自分にある」「下手の所ありたらば今一度使えば必ず立派に仕遂げるべし」だったという[69]。
- 適材人事改革の不備や賞罰の不徹底の例として、南雲忠一と草鹿龍之介に対しての対応が上げられる事がある[70]。序列の関係で第一航空艦隊司令官となった南雲が航空部隊指揮官として適任ではない事を十分に承知していながら、航空戦に詳しい草鹿と源田実を参謀として配しただけで、長官任務を小沢治三郎・塚原二四三・大西瀧治郎・山口多聞など、より適任と言える者に交代させる事をしなかった[71]。ミッドウェーでの大敗の後も更迭するどころか、南雲と草鹿の「雪辱の機会を与えて欲しい」との涙ながら言葉に流されて[72]、二人に再編された空母機動部隊(第三艦隊)を指揮をとらせた[73]。山本は南雲に『今次の戦果に関しては同憂の次第なるも、貴隊既往赫々たる戦績に比すれば、なお失うところ大なりとはせず。幸に貴長官再起復讐の決意烈々たるを拝聞し、君国のため真に感激に堪えず、願わくば最善をつくして貴艦隊の再編成を完了し、過去の神技に加ふるに、今次の教訓を加え、一挙敵を覆滅するの大策に邁進せられんことを。切に貴官のご勇健を祈る』との手紙を送っている[74]。二人は第二次ソロモン海戦では日本軍軽空母1隻喪失・米主力空母1隻大破で敗北、南太平洋海戦では日本軍空母2隻大破中破・米主力空母1隻撃沈1隻大破という勝利をおさめ、これは日本軍機動部隊最後の勝利となった。
- 南雲に再度機動部隊の指揮をとらせた件に関しては、連合艦隊作戦参謀の三和義勇大佐も「…3F長官参謀長更迭と聞く、遅過ぎたり、決して勇将に非ず…」と、南雲の更迭が遅すぎたことを述べている[75]。山本が南雲と草鹿の人事について悩んでいたことは、宇垣纏参謀長の「戦藻録」にも記載されている。1941年10月22日には『南雲と草鹿を更迭し、後任に小沢治三郎をあてると進言、山本長官も同意された』とあり、千早がプランゲ博士のため終戦直後に英訳した版に残っている[76]。
蛇足的な部分、末節的な記述が多すぎている部分を整理したいと思います。すみませんが、此方に仮置きさせて下さい。出典の明記がある部分などを推敲した上で、本文に戻したいと思います。--男梅 2011年8月14日 (日) 01:04 (UTC)
戦後の創作ではないでしょうか
[編集]>1934年(昭和9年)9月「俺も軍人だからね。どうしてもアメリカとやれといわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。……俺の夢なんだからね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで真珠湾とマニラを空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」「少なくとも一年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機が存在しないってわけさ。それだけの戦争はやって見せる」と斉藤博駐米大使に語った[68]。
……まず、こういう会話をしたという山本や斉藤本人の証言ではなく、「『山本が斉藤に語った』と『斉藤の娘婿が岳父の思い出をまとめた中にある』と中川八洋が主張した」のが初出と認識しております。ちなみに、斉藤の娘婿は1934年当時六歳で、斉藤は1939年に没しています。つまり、娘婿はその時十一歳ですね。 この年齢的な問題だけでも思い出云々というのはかなり疑わしいのですが、議論しないことにしましょう。全くあり得ないとは言えませんし、そもそも、私の認識が間違っている可能性もあります。 また、「当時は真珠港と言うのが普通で、真珠湾とは言わなかったのではないか」「当時のアメリカ海軍に太平洋艦隊という組織は存在しない、合衆国艦隊だ」の問題も議論しないことにしましょう。戦後の回想なので戦後の用語を使った可能性がないとは言えません。 しかし、1934年当時なら、太平洋艦隊(前述の通り、この用語自体が存在しませんが)の母港はサンディエゴです。これは百パーセント覆らない事実です。 真珠湾を空襲することで、サンディエゴにいる艦隊をどうやって潰せるのでしょうか?
……よって、百パーセントありえない話だと断言してよいと思います。
「語った」ではなく、「〜語ったとする説がある[68]。なお、実際には1934年当時、米艦隊の母港はサンディエゴであって真珠湾ではない」とするべきだと思いますがどうでしょうか?180.43.126.21 2013年2月4日 (月) 05:41 (UTC)
- 脚注
- ^ #人間・山本237頁、#海燃ゆ102-104頁
- ^ #生涯海軍士官59頁
- ^ #海軍驕り100-101頁
- ^ #蝦名 特攻機130-133頁
- ^ #人間・山本456頁、#吉田指揮官83頁、#山本と黒島183頁
- ^ #海軍美談133頁
- ^ #海軍美談133、244頁
- ^ #海軍美談205頁
- ^ a b 是本信義 『誰も言わなかった海軍の失敗』、光人社、2008年7月
- ^ #海軍驕り104頁
- ^ #海軍驕り110頁
- ^ #山本愚将120頁、「大東亜戦争の敗因と日本の将来」から孫引き。
- ^ #草鹿回想43頁
- ^ #吉田指揮官60-61頁、#人間・山本464-465頁、#従兵長91頁
- ^ #山本と黒島189頁、#山本愚将329-332頁
- ^ #ニミッツと山本30頁
- ^ #吉田指揮官61頁
- ^ #山本大罪77-78頁
- ^ #波まくらいくたびぞ88-89頁
- ^ #波まくらいくたびぞ89-90頁
- ^ #従兵長105頁、#戦藻録(九版)110頁
- ^ a b #海軍驕り293頁、#ニミッツと山本125頁
- ^ a b #プランゲ上42頁、#海軍驕り293頁
- ^ #従兵長106頁、#山本大罪125頁
- ^ #亀井戦記28-29頁。亀井の取材に。
- ^ #海軍驕り240頁。大和は海底ケーブルを通じて陸上と電話可能
- ^ #海軍驕り241-242頁。千早は有馬高秦(連合艦隊水雷参謀、山本の幕僚)から聞いた話としている。
- ^ #ニミッツと山本96頁
- ^ #プランゲ下226頁
- ^ #プランゲ下232頁
- ^ #亀井戦記11頁、85-86頁
- ^ 阿川弘之『山本五十六』、新潮文庫全2巻ほか
- ^ 「世界の艦船」1990年6月号, 特集・艦隊旗艦物語
- ^ #プランゲ下227頁
- ^ a b #プランゲ下230頁
- ^ #海軍驕り185頁、#従兵長26頁
- ^ #山本大罪163頁。佐々木彰(航空参謀)談。
- ^ #山本愚将231頁
- ^ #世界史・山本五十六194頁
- ^ #世界史・山本五十六195-196.200-201頁
- ^ #山本愚将233頁
- ^ #ニミッツと山本82-83頁.229頁.269-270頁
- ^ #ニミッツと山本293頁
- ^ #海燃ゆ329頁、#海軍驕り74頁、#ニミッツと山本53頁。三和義勇『山本元帥の想出』から孫引き。
- ^ #ニミッツと山本54頁
- ^ #山本愚将327頁
- ^ #海軍功罪43-44頁
- ^ #淵田自叙伝169頁、179-180頁
- ^ #淵田自叙伝210-211頁
- ^ #山本大罪147頁。鳥巣建之助、編『回天』、回天刊行会43-44頁より孫引き。
- ^ #人間・山本466-467頁、#海燃ゆ335頁、#従兵長57頁
- ^ #吉田指揮官76頁。ただし将官の名前は伏せられている。
- ^ a b #プランゲ下230頁
- ^ #吉田指揮官62頁
- ^ #吉田指揮官69-70頁
- ^ #海軍功罪35頁、#山本と黒島202頁
- ^ #従兵長70頁
- ^ #山本と黒島68頁、#亀井戦記54頁
- ^ #人間・山本485頁、#山本と黒島69-70頁、#海軍驕り409-410頁。三和義勇『山本元帥を憶ぶ』からの孫引き。
- ^ #海軍功罪256-257頁、#海軍驕り121頁
- ^ #亀井戦記22頁、亀井の取材に。
- ^ #山本と黒島295頁、#海軍功罪261頁(千早正隆談)
- ^ #山本と黒島304頁
- ^ #海軍功罪261頁、#海軍驕り130頁
- ^ #従兵長41、79頁
- ^ #海燃ゆ382頁、#従兵長83頁
- ^ #従兵長84頁、#ニミッツと山本25頁
- ^ #海燃ゆ382頁、#従兵長111頁
- ^ #戦藻録(九版)200頁
- ^ #山本と黒島264頁
- ^ #世界史・山本五十六204頁
- ^ #草鹿回顧147頁、#従兵長112-113頁、#戦藻録(九版)147頁
- ^ #海燃ゆ389頁
- ^ #海軍驕り384頁
- ^ 『三和日誌』一文は、是本信義 『誰も言わなかった海軍の失敗』 P147 - P148 より引用。
- ^ #海軍驕り104頁。千早は何者かが原本から抹消したとしている。