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ノート:川中島の戦い

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決着について

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 決着はついてないとなっているが、結果的には信玄の勝ちだろう。--以上の署名のないコメントは、219.110.104.1会話/Whois)さんが 2003-08-29 04:56:42 (UTC) に投稿したものです。

川中島のおもちゃ持つ トル --以上の署名のないコメントは、220.21.37.64会話/Whois)さんが 2006-04-22 08:24:10 (UTC) に投稿したものです。

武田信繁の戦死と武田滅亡の因果関係について

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武田家の滅亡の一因に武田信繁の戦死を挙げられていますが、果たして直接的に因果関係があったのでしょうか?武田家の滅亡の内部的要因の大きなものに、勝頼の家督継承問題・国人衆の対立の面から義信事件が挙げられると思いますが、そもそも義信事件が起きた原因は、武田家が対上杉の北進策から対今川の南進策に転換したことです。親今川の国人衆(飯富・穴山等は南巨摩の国人で駿河との繋がりが大きい)の反乱に自ら今川に近い義信が絡んで発生した反乱です。つまり、義信事件・ひいては勝頼の家督継承問題という意味で考えると武田信繁の存在は主要な問題ではなく、武田の北進策(+関東進出)が挫折したことそのものが原因であると思われます。如何でしょうか?それと、「別の説」の項目で、桶狭間直後から武田に(甲斐国に)対する織田の脅威が高まったように書いてありますが、少なくとも信長が斉藤氏を降す以前ではありえない話だと思います。--Nubolari 2006年8月19日 (土) 14:51 (UTC)[返信]

加筆の趣旨

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大幅に加筆しました。自分の書けることは全部書くというのが個人的な方針ですので、30000バイトを越えてしまいました。なにしろ、この項目は5つの合戦をまとめて扱っています。

やや大き過ぎるので記事を合戦ごとに分割するという意見が後日出るかもしれませんが、あらかじめ反対に一票入れておきます。これは北信濃の支配権、そして後期には上杉氏と甲相駿三国同盟の対立を巡る一つのキャンペーン(戦役)であり、個々の合戦に分割すると全体的な意味が掌握しにくくなります。わたし自身、当初は第4次川中島の戦いだけは「八幡原の戦い」とでも項目を立てて分割しようと思ったのですが、無意味かつ逆効果と判断して止めています。あと、下手に分割するとこの項目に各合戦の概略ぐらいは書かねばならず、実はそれもとても面倒な作業であり、しかもこの項目のサイズを小さくする以上の意味がない。しかも、トータルでこの戦役の意味が把握しにくくなります。この合戦についてごくごく簡単に知りたい人は冒頭の概略の部分だけで十分でしょう。ちなみに、これより大きい記事は現在は2000以上ある模様です。

戦国自衛隊の川中島の戦いについてやや詳しく書きました。書いてみて自分でも長いかなと思うのですが、映像作品とは言え現代兵器と戦国武者の戦いを大規模に描いた興味深いヒット作品であり、なおかつ戦術的には大馬鹿をやらかしているという点に着目して経過をあえて詳述しています。子どもに頃に観て以来、この映画の戦いは大好きだったのですが、大学生になって友人と会話しているうちに、実は自衛隊員たちは戦術的に大間抜けをやっていることに気がつきました。つまり、それまで全く気がつかなかったのです。そして、感心したのは自衛隊員たちが間抜けなことをしたから、悲惨な結果になったオチですね。これは戦闘シミュレーションとして実に正しい。そして、川中島の戦いを扱っています。

バランス的に紹介した他の作品もある程度書こうと試みたのですが、同じ角川映画の「天と地と」は実は観ていて大笑いした作品で、実は細部をよく覚えていません。辛うじて、CMで何度も流れた黒の上杉が赤の武田を突き崩す上空からのシーンと榎木謙信と津川信玄の一騎討ちの川でのシーンを憶えているだけです。

大河ドラマ「武田信玄」は好きだったのですが、なにしろ20年近くも前の作品で、どんな合戦だったのかほとんど全く憶えてない。里見版「風林火山」はつまらなくて序盤で観るのを止めています。よって川中島の戦いのシーンは観ていません。昨年の北大路版も同様。以上、大幅加筆の趣旨でした。--味っ子 2007年1月7日 (日) 07:27 (UTC)[返信]

余りにも記事量が大きすぎて、読むのが大変なので一部を分割するのもありかと思います。最後のコメントから1年以上経った今になって、意見するのは遅すぎでしょうけど。--巴投 2008年2月24日 (日) 14:56 (UTC)[返信]

甲陽軍艦について

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甲陽軍艦を断定的に否定する「その「甲陽軍鑑」は史料性がほぼ否定された創作物の類であることに留意」という、主観的な記述があります。甲陽軍艦にはさまざまな誤りがあるものの、これは史料性を全否定する根拠にはなりえません。江戸時代以前の用法も見られるという研究があり、平山優著「山本勘助」など、これからのさらなる吟味、研究が待たれると主張する向きもあります。なので、この記述も、バランスをとれたものに近日中に変更したく思います。--緑山川海 2007年10月7日 (日) 16:47 (UTC)[返信]

遅ればせながら、脚注で甲陽軍鑑に関する概述を記しておきました。甲陽軍鑑に関しては確かに近年は再評価がありますし研究が展開されている部分でもあります。とりあえず表現を史料性の疑問視から「慎重視」と改めておきました。--でここ 2011年1月5日 (水) 16:54 (UTC)[返信]

地理上の誤認について

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川中島や善光寺平は、信越国境ではありません。また、高梨氏や井上一族らは、善光寺以北の豪族です。この点で間違った記述がなされていたので、背景や川中島の項を全面的に書き改めました。今後加筆する際は、少なくとも地図ぐらいは見て確認してください。--カイの迷宮 2008年2月6日 (水) 08:50 (UTC)[返信]

第四回川中島の合戦の感状について

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武田側に伝わる2通の感状が偽文書です。上杉側に伝わる感状は第一次史料ですので、 訂正しました。--Funhouse 2008年6月6日 (金) 22:01 (UTC)[返信]

中途半端な訂正だったので訂正。出された感状の数は7通、そのうち3通が現存、後は記録か写しです。--218.41.79.194 2009年3月11日 (水) 10:02 (UTC)[返信]

長篠の戦いの撤退について

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利用者:香川二郎さんご指摘の点ですが、まずは手順を踏まずに差し戻してしまった点は不注意であったかもしれません。申し訳ありません。ご指摘の点ですが、出典が『甲陽軍鑑』とのことですが、まず甲陽軍鑑を出典として記述してしまうことが、wikipediaにおいては避けられるべき点です。甲陽軍鑑はご存知の通り、史料性に議論がありますし、現在では再評価されるようになったものの、あくまでも1次史料と付きあわせて、この部分は信頼できるかどうかと専門的な判断をした上での使用が認められるというのが、近年の歴史学界の風潮ですが、wikipediaにおいて我々匿名の執筆者がそれをしてしまうと、これは「独自研究」にあたってしまうのです。つまり『甲陽軍鑑』を使う場合は、まず川中島の戦いについて著述された専門的文献を探して、その文献のなかで専門研究者が判断した上で、価値ある部分と引用していると確認できなければ、使えないことになっています。まずこの点を指摘するべきでした。すいません。

たとえば平山優氏の『長篠合戦と武田勝頼』を読むと甲陽軍鑑も随所に使われていますが、長篠敗戦から撤退までの部分を再読してみると、勝頼は長篠敗戦を見て戦場から離脱し、信濃において戦後処理をして、甲府に帰還した、とあります。私は不勉強ながらこのとき上杉氏が勝頼を救援したと甲陽軍鑑に記されているか未確認なのですが、平山氏はこの点に関してはまったく触れていません。他の文献も後日精査していく必要はありますが、長篠合戦時に甲越関係はまだ同盟締結に至っていませんから、私としても上杉氏からの救援が事実であったのか疑わしいと思う部分もあります。専門家がはっきりとこの問題を言及したものを探してこられない限り、この問題ははっきり解決しないと思われますが、私は現時点では出典文献不足であろうと思いますが、如何でしょうか?--でここ会話2015年9月24日 (木) 15:03 (UTC)[返信]

(追記)利用者:香川二郎さんのおっしゃる出典とは長篠の戦いの記事そのもののことなのですね。了解しました。しかし同記事を見ても典拠文献が示されていませんので、問題はあろうと思います。

うちにあるいろんな文献を見てみたのですが、巻末年表の天正3年末に、勝頼は上杉謙信と「甲越和睦」を結んだと記されているのを見つけました。では実際に出兵はあったのかと調べてみたのですが、『武田氏家臣団人名辞典』の春日虎綱の項を見ても記されていませんし、取り敢えず手元にある文献では見つけられませんでした。

長篠合戦が天正3年の5月21日で、甲府へ帰陣したのが6月2日とのことです。信濃で10日あまり滞在し、戦後処理をして帰国したわけですが、上杉氏との「甲越和睦」は同年末のことです。かなり先ですね。この間、武田氏は東海方面において織田・徳川氏の猛烈な反攻を受けていて、おそらく背後を固める意味で上杉氏との外交をやっていたのではないかと思うのですが、こうした状況を踏まえると、やはり長篠敗戦以後に上杉氏が勝頼の脱出を助力したというのは本当だろうかと思うのですが。

これ以上の調査は後日にします。--でここ会話2015年9月24日 (木) 15:17 (UTC)[返信]

「敵に塩を送る」という謙信の行為に信玄は感動したのか、しなかったのかわかりませんが「困ったときが来たら謙信を頼るように」との遺言を残しています(出典:甲陽軍鑑)。そして長篠の戦いではwikipediaに「上杉の抑え部隊10,000を率いる海津城代 高坂昌信と合流し帰国したという」と出典付きで記述されています。このことから、少なくとも信玄の死以降は川中島をめぐる敵対関係にはなかったということがよみとれます。もしあくまでも争いが続いていたと主張されるなら、そういう証拠を出して頂きたいものです。--かがわじろ会話2015年9月24日 (木) 16:51 (UTC)[返信]
私の書いた文章を良く読んでください。出典とは『史料+その史料を妥当と解釈した専門家による文献』のことです。私は第4次川中島から御館の乱にかけての時期に、甲越間の争いが続いていたと主張しているわけではありません。この点についてもやはり、詳しく調べてみないとわかりません。ただ、長篠合戦敗退後に上杉氏が勝頼に「抑え部隊」を出したという点についてには、それを妥当として記述している専門文献が、取り敢えずのところ見当たりませんが?ということです。
香川二郎さんは信玄の遺言を例示されましたが、たとえば専門家は信玄の遺言に関して、こういう論を立てます。『甲陽軍鑑』における信玄の遺言では、「自身の死の三年秘匿」と「勝頼が嫡男・信勝の陣代となる」が記されています。ではこのふたつの事項について、信頼できる一次史料を用いて検討を行うと、どちらも行われている気配がある。だから『甲陽軍鑑』のこの部分は信頼できるであろうと、そういう極めて高度で専門的な判断を行います。
『甲陽軍鑑』は極めてアクの強い史料です。事実でないこともたくさん記されています。ですから用いる際には、他の史料や一次史料と付きあわせて妥当かどうか検討した専門家の判断が重要になってきます。上杉氏の「抑えの部隊」の件についても同様で、単に甲陽軍鑑に記されているから事実であろう、では問題があります。これも他の史料と突き合わせ、当時の甲越関係を踏まえた上でありえた話かどうかという、専門的な判断が必要になってきます。そして我々は専門家ではないか、もしくは専門的知識を有していても客観的にそれを示すことができないので、「史料+文献」が確保できない記述には問題がある、ということになります。--でここ会話2015年9月25日 (金) 01:55 (UTC)[返信]
「史料+その史料を妥当と解釈した専門家による文献」をもって出典とするというのがwikipediaの公式なルールですか?そもそも専門家の定義は曖昧ですよね。矢追純一さんだってUFO専門家と言えるし--かがわじろ会話2015年9月25日 (金) 10:13 (UTC)[返信]

Wikipedia:独自研究は載せないの「一次資料と二次資料」をお読みください。--でここ会話2015年9月25日 (金) 10:50 (UTC)[返信]

(追記)失礼ですが、あまり硬便なさらないほうが良いと思います。現在のwikipediaは出典に関してかなり厳しくなっています。一文単位で出典が求められます。その点、ご理解ください。--でここ会話2015年9月25日 (金) 11:02 (UTC)[返信]

(追記)かなり様々な資料を調べました。具体的には高柳光寿、上野晴朗、柴辻俊六、笹本正治、平山優、丸島和洋各氏の著作や、『武田氏年表』『上杉氏年表』などです。結果は、まず『甲陽軍鑑』の原文に「抑えの部隊」について記されているのは事実ですが、各氏のどの論考を見ても、私の見落としがなければ言及されているものは見つけられませんでした。つまり、『甲陽軍鑑』のこの部分については眉唾であると判断されている可能性が、かなりあると思います。

この時期の外交情勢を考えてみても、確かに第四次川中島以降に武田・上杉両氏の関係が変化していたのは確かですし、甲越和与という一時的な和睦も成立しています。しかし甲越和与は甲相同盟の再締結により無くなりましたし、上杉氏は北条と敵対し、武田と敵対する織田と友好的関係を築いているという状況です。長篠合戦の起きた天正3年に和睦が成立し、さらに将軍義昭が仲介した武田・上杉・北条の三和構想を経て、天正6年に御館の乱・甲越同盟という経緯です。

つまり長篠合戦直後では和睦・同盟が成立していないわけで、その段階で上杉氏の軍勢が武田の領内を通過するというのは、かなり考えにくいと私は思います。これは私の想像ですが、『甲陽軍鑑』は甲越同盟の締結にも携わった春日虎綱の後述記録を元に関係者が編纂し、『甲陽軍鑑』では虎綱は長篠合戦後に勝頼に対し、北条との同盟強化など外交に関する進言をしたとする逸話を記しています。ですから具体的にはわかりませんけど、何らかの意図があって創作された話とも考えられると思います。

もちろん長篠敗戦という緊急事態ですから、北信濃において虎綱が上杉氏と何らかの約定をかわして、『甲陽軍鑑』が記すほどでなくても上杉氏の兵がともに領内を通過した事実はあったのかもしれません。しかし、それを記述するためには証明する史料と、それを紹介・論考した文献が必須です。我々は文献にもとづいて執筆するという制約がありますから、現段階ではこの逸話は採用することができないと思います。

しばらく待ちますが、文献を調査してもこういう状況ですので、恐縮ですが客観的に妥当と示される文献が提示できない場合は、記述を除去したいと考えています。--でここ会話2015年9月27日 (日) 13:48 (UTC)[返信]

車懸りの陣について

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本稿では波状攻撃であると明記されてますが、ソースの提示をお願いします。 私の知る限りでは、現在も謎の戦法だったはずです。 --Km 2016年7月10日 (日) 04:26 (UTC)[返信]