ノート:徳川義親

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2016年11月14日 (月) 02:51の編集について。[編集]

  • 2016年11月14日 (月) 02:51の利用者:Quark_Logoさんの編集についてですが、せっかく編集していただきましたが、記事の品質が維持・改善されているとは言いがたいと思いましたので(Wikipedia:荒らし)、差し戻します。
  • 「出典注のみの脚注」と「出典注だけでなく補足文も含む脚注」は、「分けた方が、出典注だけの注を読まなくて済む」とお考えかもしれませんが、両者を区分し、「出典注だけでなく補足文も含む脚注」についてrefのnestをすると(補足文を含む脚注に、更に出典注を付すと)視点の移動回数が増えて読みづらくなるし、nestすることで、脚注の総数が増えてしまいます。また、執筆するときに、もともと出典注しかない注に、補足文を加えたりするとき、いちいち別区分に移すための編集をするのは、いらない手間だと思っています。区分する・しないについて、どちらが優れている、劣っているということはなく、そのことは方針にも記載されていますし(WP:LAY#注と出典)、私は両者を区分してnestするスタイルを「できない」「知らない」わけでなく、「読みづらいし、編集しづらくて嫌だから使わないようにしている」だけです。
  • ref nameに、適当な名前を定義して複数個所で使う方法は、他の編集者にとって非常に分かりづらくなるので、なるべく避けていただきたいです。グルーピングの際には、{{Sfn}}や{{Efn}}を使えばref nameは指定しなくて済むと思いますので、Sfn、Efnをお使いいただけないでしょうか。
  • 結果的に編集後、脚注の数が400弱から500余に増えてしまっています(もともと多すぎるという話もありますが…)。
  • 本文の出典注を付して、更に補足文を記したとき、<ref>{{Harvtxt|A}}。補足文ほげほげ(同)。</ref>と書いていたものを{{refnest|group="注"|補足文ほげほげ{{Sfn|A}}。}}のように書き換えられましたが、結果として本文の出典注が脱落して除去されています。
  • reflistを2段・3段にすると、スマホで見づらくなります。
  • 徳川(1963)を「自著」と位置づけて「著書」から「参考文献」に移され、本文中で「徳川 (1963)では」のように記していた箇所を「義親は自著の中で」のように修正されていますが、他の徳川の著書も「自著」には違いなく、指示内容の曖昧さが増していますし、「参考文献」の中に「自著」は1つしか挙げられていませんが、私は他の「自著」も参考にして執筆しています。また徳川(1963)が「著書」のリストから除かれてしまっています。本文中ではHarvtxtを多様すると読みづらくなる、という感覚は私にもあり、なるべく減らそうと考えていますが、脚注の補足文にまで気を使う必要はないと思っています。
  • どちらかというと、内容の加筆にご協力いただいた方が、私としてはうれしいです。まだ未見の「自著」や「関連文献」があり、加筆の余地もあると思っていますし、スタイルに時間をとられたくないと思っております。--宇井木辺出夫会話2016年11月15日 (火) 15:36 (UTC)[返信]

荒し?? 正当な編集を荒しと決めつけるのは暴言ですよね。差し戻しは不当です。無意味でもありません。ガイドラインに沿ったものです。

脚注が「381個」もあれば、当然、注釈と出典は分けるべきです。

注釈リストと出典リストを分離したいとき

記事の中には、出典(参照した情報源)の書誌情報と、注釈(補足説明)が、脚注のなかに混在しているものもあります。しかし、それでは記事の文中に[1][2][3]がついていても、その箇所がきちんと出典が付加された箇所か、それとも補足説明のみで要出典な箇所か、一見では判別しにくくなります。

上記のガイドラインに完全に合致するので、これほどの数になれば、注釈と脚注を分けることは避けられません。それをまずご理解ください。というか、脚注が大量になってきたら、自分でまず整理して分離はやるべきことでした。

後で説明しますが、この記事の場合、奇妙な脚注表記があり、補足説明と出典情報の混在が問題でした。このことがわかってないとしたら、読者の視点をもっと考慮すべきです。

利用者:宇井木辺出夫会話 / 投稿記録 / 記録氏の好みの問題ではなく、そうするしかないです。全員がガイドラインに沿ってやってるのに、特定の記事で勝手に独自のルールを主張されても困ります。

  • 視点の移動回数が増えて読みづらくなる ⇒ こういうガイドラインはない。視点移動のためにリンクがあるわけで、そもそも読者は出典表記を全部追いかける必然性もなく、知らないのかもしれませんが、マウスオーバーだけで脚注の内容は表示されるので、ブラウザ上では視点は移動させる必要はないです。
  • 脚注の総数が増えてしまう。 ⇒ こういうガイドラインはない。脚注の数に制限はないし、増えることが悪いことではない。基本的にはすべての表記に出典を必要とするので、文書が長くなれば脚注数が増えるのは当然です。本質的に脚注数を減らすというのは。本文を削るか分割するかしかないでしょう。
  • 『「読みづらいし、編集しづらくて嫌だから使わないようにしている」だけです。』⇒それは明らかな記事の私物化でしょう・・。宇井木辺出夫氏が「嫌だ」というのは、コミュニティが尊重すべきことではないでしょう。脚注部はウィキペディアの基本的構造の1つであり、ガイドラインに従ってもらわないと困ります。
  • スマホで見づらくなる⇒現時点でスマホ表示のための配慮をするようなガイドラインはないので、それを希望するなら井戸端で提案でもして合意形成をしてください。ガイドラインにないものは、従う必要はないということになります。追記ですが、スマホでの表示というのはPC版なら小画面というだけの問題で、ユーザー環境は統一できないので、こちら側の問題ではありません。600ドットの小画面のパソコン画面を使ってもどんなページでも見づらいわけで、画面サイズの問題にすぎません。モバイル版の場合は、スタイルシートでタグの表現を最適化すればもっと見やすくなるのではないかと思いますが、他のタグについても未対応で、モバイル版は基本的に見づらい状態です。それも内容の編集側でどうこうする問題ではないです。--追記Quark Logo会話2016年11月16日 (水) 01:12 (UTC)[返信]

「<ref>A。補足文ほげほげ(同)。</ref」>ですが、本文の出典情報と、補足情報を混在させるよりも、ちゃんと本文の出典と補足部分の出典はわけなければないです。面倒くさいなんていっていたら話にならないわけで、面倒くさいことをやるのがガイドライン=正しい表記です。「(同)」という使い方も同って何なのという話で、ちゃんとタグを付けて参照できるようにできるし、紙の書籍ではないので、しなければならないレベルの編集です。何のための出典情報のリンクなのかという話で本末転倒でしょう。わざわざWEB上に作ってるわけで、「(同)」というのを使わないで良いように構造上できています。ちゃんとタグを付けるようにしてください。

name属性を使うと表記の繰り返しが避けられる利点があります。name属性の中身は何でも良いので好きに変えればいいのですが、(表記情報が多い場合は)Sfnよりもバイト数を少なくすることがきできる。これは使い分けて自分なりに整理してください。外面的に同じならば、どの編集表記法でもかまないことになっています。とりあえず未整理状態の脚注数が膨大だったので、工程の都合上、注釈と出典の分離の作業だけを優先しました。個別の調整は可能です。

「自著」などとしているのは、出典情報を主語として奇妙な文章の脚注が多々あったからです。「ハーバード方式」の表記を主語にする文章は日本文としてありえません。後から修正しにくいので、むしろ、最初からこういう書き方をしないで欲しいです。誰がどう言っているのか、何にどう書いてあるのか、それは当然明確にしないと話になりません。出典情報と主語は当然違います。そういう書き方は通常誰もしないようなもので、私はそれをみて驚きました。

最後「スタイルに時間をとられたくない」とおっしゃってますが、出典情報は重要なので、それは大きな間違いです。

  • 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  • 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

出典を明示できなければならず、出典(参照した情報源)の書誌情報と、注釈(補足説明)が、脚注のなかに混在した状況は改善させなければならないのは、書き加えようとする編集側の義務です。

ということで、ガイドラインに沿った注釈と出典の分離に戻させてもらいます。自著が何を指すかなど、細部の確認や文書の整形、name属性を何にしたいかとか、使用するタグの種類とかは、文章を書いた本人の方がやりやすいでしょうから、程よく、調節してください。--Quark Logo会話2016年11月16日 (水) 00:28 (UTC)[返信]

注釈と出典との混在(約400個)を分ける編集について[編集]

コメント 利用者:宇井木辺出夫会話 / 投稿記録 / 記録氏は「400近かった脚注が500超に増加。スタイルしか編集する気ないのに文意を変える。仕上がり悪くミス多数。WP:LAY不記載のHelp内容がmustだとの主張も無理がある。」と要約欄に書いてますが、別に私はこの徳川義親の本文の編集に参加しても意向いっこう(誤字訂正--Quark Logo会話2016年11月16日 (水) 14:46 (UTC))にかまいませんが、2人で文書を書き出したらゴチャゴチャになることは目に見えているといえるのではないでしょうか。本文の文書の執筆にも参加して下さいということでしょうか? この長い記事をさらに長くした上で複数の編集者で加筆するのが良いと? 脚注が増えると言ってますが、増えて何が悪いのでしょうか? 意味不明ですね。 そんなに出典と注釈を分けるのが嫌ということこそ、大いに無理があります。[返信]
仮に「mustでない」としても差し戻す理由が、(宇井木辺出夫氏が個人的に)嫌だから使わないようにしているという理由では、到底、他人が納得できるものではありません。コメント依頼か井戸端で意見を集めててみようかと思います。--Quark Logo会話2016年11月16日 (水) 08:31 (UTC)[返信]
コメント もう一点ですが、脚注が増えるのが嫌とかいってますが、脚注(注釈2・出典3)[1]だったのを、脚注381にしたのは主に宇井木辺出夫氏であり、増加率は+376です。私の編集は、脚注381から脚注502(注釈115と出典387)[2]で増加は+121ですが、そもそもの原因は、宇井木辺出夫氏の文章が、出典表記が注釈文のなかに多数あったからで、私はそれを”ほどいた”だけ。いや、いや、宇井木辺出夫氏がもともと織り込んでいた数です。500超にした、と謎の批判してますが、もともとあった混在。新しく付けた出典情報は一つも無い。あなた自身が増やした出典情報で、そちらのさじ加減でしょうに。
しかも言わせてもうならば、最初に宇井木辺出夫氏が主張していた、「視点の移動回数が増えて読みづらくなる」という理由はマウスオーバーで解決されるという初歩的かつ完全な間違いであったこと理解しましたよね。--Quark Logo会話2016年11月16日 (水) 08:51 (UTC)[返信]
 追記 あと言い忘れてましたが、「文意を変えた」といってますが、文意を変える意思はありません。「程よく、調節してください」というのは文意が違うと思う部分を修正してくださいということです。というのも、文章の書き手以外に、もともとどういう内容にしたいと思っていたのか、どうしたいのかわかる人間なんていません。特に出典情報を主語にしたり、書籍を二点掲示して同書とか書いたりして、指示代名詞が不明確な記述が多く見られました。だから細部を確認しろといっているのに理解されてないようだ。この種の作業は常に手がかかるわけで、根拠のなくリバートするのは、労を惜しむ口実にしかみえません。最初に宇井木辺出夫氏が記事の品質を改善しないのが、荒しだということを示唆していましたが、どっちが?という感じです。そっちでしょ。--Quark Logo会話2016年11月16日 (水) 09:07 (UTC)[返信]

事後報告ですが、コメント依頼をしました。これだけ脚注が大量になると分ける必然性は明らかであると思いますが、皆様のご意見をお聞かせ下さい。--Quark Logo会話2016年11月16日 (水) 09:37 (UTC)[返信]

コメント  コメント依頼より来ました。私の意見としてQuark Logoさんの意見に賛成です。本記事の作成者ではない私としては、381個(ですか?)もある脚注なのであれば、大変探しにくいし、わかりにくい。せめて注釈と出典の整理ぐらい整理していただいた方が、読みやすいです。また、文章に対し出典となる文献となるのは1件のみとなるのが普通と理解していましたが、多数の文献から確認できるのであれば、それは注釈となるべきと思います。
また、縦にスクロールして400もの脚注を確認するのは、正直言って面倒です。せめて、脚注を注釈と出典に分け、出典を{{reflist|2}}か{{reflist|3}}を使用し整理することは、良好な編集と思います。したがって、この編集に対し「荒らし」とするのは少々違うのではと思いますし、正直なところ「失礼な発言」なのではないかとも思います。(もし、私が本記事を編集するときには、まず、Quark Logoさんと同じく脚注から手を付けますし、次に少々長すぎると思われる定義文を、定義文と概要に分けて整理しようとします)。以上です。--湖紫陽(koshi2016)会話2016年11月16日 (水) 10:42 (UTC)[返信]
コメント コメント依頼からです。正直言うと、どちらも「荒らし」では全くないと思いますし、どちらの言い分もわかります。ただ、基本的には、湖紫陽(koshi2016)さんもおっしゃるように、これだけ注釈/出典が多いのであれば、それらを分離するべきです。一般文献でもみられるように、いわゆる注釈情報と出典情報は、区別した方がいい、というニーズはおそらく広くあるでしょう(H:EXPLNOTE)。確かに宇井木辺出夫さんが示されたWP:LAY#注と出典もあって、お互いに相反しているようにも見えますがね。
  • ただ、Quark LogoさんはH:EXPLNOTEを持ちだして「ガイドラインに完全に合致するので…避けられません。」とおっしゃっていますけれど、これはヘルプページであって、ガイドラインとは違います。(ガイドラインは「推奨」であって、「義務」の方針文書とは違いますが、それはそれとして。)ヘルプページは技術的な解説を述べているのであって、「こうしないと駄目だよ」という趣旨とは違います(Wikipedia:ヘルプ)。でもやっぱり私も注釈と出典は分けたほうがいいと思いますけどね。
  • 他方、その記事を一生懸命執筆している執筆者からすると、主筆者でない人がスタイルだけを変えていくというのは、いい感じはしないものです。その気持はよくわかります。特に、出典周りのタグだとかは、もともと多様なスタイルがあって、自分が使い慣れているスタイルから、使い慣れていないスタイルに変えられるとものすごく執筆しにくくなるというものです。本当にスタイルの差異だけの問題なのであれば、それを理由に差し戻すというのは、私は共感したい。そこは「他人が納得できる」かどうかというよりは、「相手の意志を尊重する」という方向で。
  • もちろんQuark Logoさんもそこは酌んでらっしゃって、「外面的に同じならば、どの編集表記法でもかまないことになっています。」とおっしゃっていますし、配慮はなさっているようにも思います。(途中から熱が入って言葉が荒っぽくなってしまっていますが。)
  • たとえば宇井木辺出夫さんはこうおっしゃっています。
  • ref nameに、適当な名前を定義して複数個所で使う方法は、他の編集者にとって非常に分かりづらくなるので、なるべく避けていただきたいです。グルーピングの際には、{{Sfn}}や{{Efn}}を使えばref nameは指定しなくて済むと思いますので、Sfn、Efnをお使いいただけないでしょうか。
  • 私個人のことを言うと、完全に逆です。私は専ら{{Reflist}}、{{Refnest}}を使っておりまして、その流れで「ref name=○○」に慣れています。逆に{{Sfn}}、{{Harv}}、{{Cite}}系の出典テンプレートは苦手で「非常に分かりづらい」と感じます。しかしそれでも(手前味噌ですが)「良質な記事」や「月間記事賞」をなんどか頂いております。同様の他の選考でも、出典テンプレートがSfnじゃないからダメだ、ref nameじゃないから駄目だ、というご指摘を見かけたことはまず無いはずです。要は、それぞれの慣れの問題であり、どっちでもいいのです。
  • 最初にQuark Logoさんのことを「荒らし」と呼んでしまったのは誤りだと思うし、スマホだとかの閲覧環境を過度に気にする必要はないとか、マウスオーバーでポップアップするのだからいいだろうとか、脚注の数が増えることは問題ではないとか、というQuark Logoさんの指摘は私も同感です。
  • 方向として、どちらも悪いことをしているわけではないです。今はお互いが相手を非難しあっているような格好になってしまっていますが、それぞれ相手方にもう少し敬意を払っていただき、お互いに丁寧に接してほしいなと思います。--柒月例祭会話2016年11月16日 (水) 18:22 (UTC)[返信]
コメント 柒月例祭さんにおかれましては、仲裁いただきどうもありがとうございました。以下6点ほど述べます。
  • 最初にお断りですが、私はQuark Logoさんの1回目の編集が「荒らし行為」に該当するとは思っていませんし、書いてもいません。Wikipedia:荒らしによれば、「荒らし」とは「百科事典の品質を故意に低下させようとするあらゆる編集」であり、「一度の独断的な編集は、荒らしではありません(…)」。善意で編集していただいていると思いましたが(故意性は感じませんが)、要約欄はブランクだし、品質が維持・改善されたとは言い難いと判断し、差し戻したものです。理由についても(今見るといろいろ至らないところもありますが)上でわりと丁寧にご説明したつもりでおり、個人攻撃をするつもりはありませんし、善意にとっていただきたいです。書き方が誤解を招きやすかったようであれば、その点はお詫びしたいと思います。
  • 「注釈と出典注、分ける分けない」についてお願いしたいのは、「方針・ガイドラインとしてコンセンサスのあるところは遵守し、コンセンサスがないことを指示するのは指示の肥大化になるので、避けていただきたい」ということです。WP:LAY#注と出典には「出典と注を混在させることも、分けることも出来ます。」とあるので、どちらのスタイルでもいいのだということをご理解いただき、Help:脚注#注釈リストと出典リストを分離したいときは「注釈リストと出典リストを分離したいとき」に参照するヘルプであって方針・ガイドラインではないので、「注釈リストと出典注リストを分離したくない」人に対して何ら拘束力を持たないことをご理解ください。特に、この点に関しては、Help‐ノート:脚注#「注釈リストと出典リストを分離したいとき」の節の置換えについてでも議論になっているように、私のほかにも反対される方もいらっしゃると思います。ikedat76さんが言及されているように、『「脚注」と「注釈」を分離しないとオカシイかの如き「ウィキペディア語」化にそもそも反対という人だってい』るということを、ご理解ください。何を補足文の注(注釈)とし、何を出典注とするかも、個人の判断次第、というところがあり、私はQuark Logoさんが「注釈」とした記述のほとんどは「出典Aではこう書いてあったが、出典Bでは少し違った」みたいな話であり、区分するにしても出典注でいい、と思っています。出典注は読んでくれなくていい、みたいな扱いが妥当だとも思わないので、区分を設けず、注を読む人は全部読んでくれたらいいと思っています。また通し番号が共通のほうが、読みやすいと思います。
  • 3点目。注の数の増加とrefのnestは「注釈(補足文の注)と出典注を区分する・しない」の話とはまた別の話であることに気が付きました。例えば、Wikipedia:良質な記事にある仏足跡歌碑を見てみてください。この記事では、「注釈」と「出典」注を区分していますが、「注釈」の補足文の出典注は「出典」節にリンクさせずに、注釈の中にイン・テキストで記載しています。これなら、視点の移動は「本文→注釈→出典注→参考文献」の4回ではなく「本文→注釈→参考文献」の3回で済みますし、出典注の数が増えることもないと思いますので、そういうやり方もある(し、私は脚注をネストするよりそうしてもらったほうがいいと思っている)ということをご理解ください。
  • 4点目。スマホでの見にくさの問題については、Template‐ノート:Reflistの「{{Reflist|2}}のスマホでの見難さ」をご参照ください。日本語版はまだスマホで1段に矯正する機能には未対応になっていると思うので、当面自主規制しないと、細長くて見難いと思います。
  • 5点目。本記事に関しては、「要出典になっている箇所の出典をあたる」とか「赤リンクの記事を立項する」とかやることはまだ色々あると思っています。
  • 6点目。{{Sfn}}などハーバード方式の支援テンプレが不人気なのが不思議に思っています。同テンプレには、(1)同じ出典注を自動で集約する機能のほかに、(2)出典注と参考文献をリンクさせる機能もあるので、ref nameを使っても(2)の機能は代替できないし、どうしているのかな、と思いましたが、執筆された記事を拝見した限りでは、御3方とも出典注と参考文献をリンクさせていない、のですね。特にkoshi2016さんのように、出典注をハーバード方式で記されているなら、使った方が編集が楽ですし、見易さも改善するので、私は使用された方がいいと思います。方針などをみて、使い方の説明文などが不案内なのかもしれないと思いましたので、そちらを少し編集してみようと思います。--宇井木辺出夫会話2016年11月19日 (土) 11:19 (UTC)[返信]
コメント 今回は、脚注の体裁について、どちらが正しい、正しくないかをコメントしたのわけではありません。したがって、宇井木辺出夫 さんの執筆方法を間違えているとコメントしているわけではないことを、初めに示しておきます。
  • 脚注において、注釈と出典が一緒であろうとも、分れていようともそれは、個々の方針によるものあるのでしょう(・・・小生は分けますが)。また、wikipediaでは、どうかわかりませんが、書籍の脚注には頁毎にまとめられているものや、章・節毎にまとめられているものもあります。そのやり方については個々人の執筆の仕方によって変わっているのであり、ウィキペディアのガイドラインなどで厳密に規定されている点を逸脱していなければ、問題ないのでしょう。多様なやり方があろうとも拘りはありません。
  • 但し、脚注における異なる整理(編集)を一度に「差し戻し」をし、本意でなく「誤解」であったとしてもそれを「荒らし」と説明することはいかがでしょうか。そのような発言を受けた側のお気持ちは、宇井木辺出夫(会話)( 2016年11月15日 (火) 15:36 (UTC))さんの説明後に、続く、Quark Logoさんのコメントを確認すれば明らかであると思います。
  • 最後に体裁の組み方については、Quark Logoさんに賛成であり、宇井木辺出夫さんとは異なる考えによる書き方をしている方にも理解を示して頂きたいとの気持ちを示しておきます。--湖紫陽(koshi2016)会話) 2016年11月19日 (土) 12:36 (UTC) 一部編集 --湖紫陽(koshi2016)会話2016年11月19日 (土) 13:06 (UTC)[返信]
コメント 「区分する方法」「区分しない方法」それぞれの方針があるのではなく、「区分しても、区分しなくてもよい」というガイドラインがあり、それ以上の方針・ガイドラインはない、という認識です。「荒らし」の2要件は「品質を改善しない」ことと「その故意性」であり、私は「故意性」はないと考えたので「荒らし」扱いはしていませんが、「『区分する方法』が『区分しない方法』に優れている」と考えて区分を改廃するような編集はガイドラインを無視しており、「品質を改善しない」と判断したから差し戻したので、そこは「誤解」してやったわけではありません。
その後、Quark Logoさんが私が加筆した記事のスタイルを修正して回っておられる[3][4][5]ことからしても、あまり歓迎できない編集だったと思っています。
私は、他の人が私がSfnを使って書いた参照をわざわざref nameを使って書き直して、自動名寄せできなくなったり、参考文献へのリンクが切れてしまっても、記事内容に貢献されている限りで、その編集を充分に尊重する心積もりでおります。--宇井木辺出夫会話2016年11月19日 (土) 14:43 (UTC)[返信]

コメント - 利用者:宇井木辺出夫会話 / 投稿記録 / 記録氏の謝罪は一応受け入れるが、Help:以前の版にページを戻す方法をまず呼んでもらいたい。

取り消しや差し戻しを行うときは、例えば記事が乱暴に破壊されたり、編集ミスなど不適切に改変されてしまった場合などです。一般に、これらの行為は荒らし行為への対処として推奨される行為です。通常の投稿者が記事に対して寄与すると確信して行った編集への対処としては、推奨される行為ではありません。編集された内容に疑問がある場合は、まずノートページなどで議論を提起してください。要約欄に理由を書けば取り消したり差し戻したりしてもいいということではありません。議論では礼儀を忘れず、白熱しても冷静に対応してください。

安易なリバートはそもそもするべきではないし、改善がないなんて暴言は言うべきでもない。個別の編集に対応すべきで、一括拒否するような権限はユーザーにないです。そんなことをすれば記事の私物化といわれてもしょうがないでしょう。

「注釈と出典注、分ける分けない」についてお願いしたい」とおっしゃってますが、お願いされたのがそもそも今が初めてですし、必要なのはお願いではなくて合意形成です。返信なく、合意形成なく、二度目のリバートをしたのは違反行為(対話拒否)とみられてもしょうがないでしょう。

注釈と出典の分離ついては、総合すると、総数の件と個人的に「嫌だ」とい理由は繰り返さされないので取り下げたものと思われますので、特殊相対性理論の記事の脚注部のようにすれば文句はいう理由はないものと思われますので、そういうふうに実施したいと思います。

視点の移動の話はまだしますか??? 仕様として移動させる必要はありません。

それから宇井木氏については内部的な作動の誤解と無知があると思われる点が多々あります。EnfでもSnfでもrefnestでもref nameでも同じく作動します。混在しても何の問題も無く作動します。どれか一つを使わなければならないと思ってるようなところがありますが、どう書いても変わりません。Enfを使う場合は、groupの属性が「注釈」に限定されるだけで、他は括弧付きとか外見的変化があるものも、内的には同じように動きます。

「(2)出典注と参考文献をリンクさせる機能」なんてものはなくて、それはただページ番号を書いてないだけです。特別な機能でもなんでもない。ref Harv /refでも全く同じにできますというか、内的に同じでしょう。Snf=ref Harv /ref。Enf=refnest|group="注釈"です。まさにイコール。

作動しないのは、Cite booK(Citation他でも同じ)などでref(id 属性)を書くのが悪いのです。著者名と年号だけで良い場合、ここは空欄にしなければなりません。それで全て動く。id属性を指定すると、それ以外は動かない。当たり前ですね。多数の列挙ある著者名を一つにしたい場合とか、同じ年号と著者の書籍が複数ある場合とか、著者名と年号で照合させない場合に、ref(id 属性)は使います。宇井木氏はこれをわかってないものと思われます。ref nameは脚注一個のidですが、Cite booKのref(id 属性)は書籍のものなので、こっちを設定するとその書籍情報に対する全部の脚注で融通が利かなくなる。(以下追記 --Quark Logo会話2016年11月21日 (月) 01:58 (UTC) Harvb側にもにref属性を付けてciteと同じ固有のidを書けば、年号や著者名が違っても、アンカーとリンクが働く。[返信]

氏のいう「自動名寄」ができない場合の多くは、内部記述の間違いであって、参考文献のところの不整合が多いです、容易く、改善可能です。できないことはありません。どれを使っても同じということは何度も言いませんが、動かない場合はどこか間違ってるので、私はそういう間違いもしばしば巡回して直して回っています。できないのを見つけたらご自分でも直せるようになるべきでは? ともかく、リバートするのは編集合戦に等しいのでやめてください。

あと、最後になりましたが、湖紫陽(koshi2016)氏と柒月例祭氏につきましては、コメントありがとうございました。お二方の意見はほとんど全く同感です。--Quark Logo会話2016年11月20日 (日) 05:32 (UTC)[返信]

コメント Quark Logoさんのこの編集[6]について、私は賛同していないし、合意も成立していない、ということを言明しておきます。上で指摘した問題点も解消されていない、と感じています。--宇井木辺出夫会話2016年11月24日 (木) 09:10 (UTC)[返信]
コメント 宇井木辺出夫氏は、まだ注釈と出典を分けることに反対しているということですか? 編集合戦は避けなければならないわけで、さらに多くの人のコメントを依頼しますか? --Quark Logo会話2016年11月24日 (木) 10:59 (UTC)[返信]
(インデントなおしました)以下のとおり修正希望します。
  • 冒頭部の要約文の書き方については貴方のノートで要請したとおりです。
  • 冒頭の{{Infobox 学者}}については、記載内容に出典注を付してください。その際、現在の記載内容には誤記・虚偽の記載がありますので、それを修正してください。また、徳川義親は「学究肌」ではあっても学者ではない(本文にそんなこと書いてない)と思いますので、学者テンプレではないテンプレを使ってください。「政治家」とか「実業家」とかでいいと思います。
  • 若い頃の写真は、「生い立ち」のところに入れてください。
  • 注釈と出典を分ける編集は、WP:LAY#注と出典の「出典と注を混在させることも、分けることも出来ます。」という規定に反しますので、元に戻してください。特に、私が「出典注だ」と思っている脚注を、無理にバラして出典注と注釈に振り分けるような編集は迷惑にしか感じないので、やめてください。
  • 「注釈」の中に出典注を付す際のスタイルは、特殊相対性理論ではなく、仏足跡歌碑を参考にして、インラインで書くようにした方がいいと思いますし、脚注をネストさせるのはやめてください。脚注の数が増えるだけです。
  • refのnameやcitationのref指定についてはまだ誤解があるようですが、私はrefのnameにせよ、citationのref指定にせよ、ユーザーが自分で勝手に検索子を書くようなやり方は他の編集者にとって分かりづらいので、予約語やキーワードを使って書くようにしてほしい、と思っています。例えば、Quark Logoさんは、参考文献を{{Citation|和書|last= 徳川 |year= 1959|first= 義親 |<!--authorlink= 徳川義親 |-->author-mask= 2 |title= とくがわエチケット教室 |publisher= 黎明書房 |id= {{NDLJP|9543592}}{{クローズドアクセス}} |ref=59b}}のように書き直し、その中で「ref=59b」と書かれましたが、版年は4桁で書くところを、勝手に2桁に変えていますよね?そういう、個々の編集者の性癖を反映するような用法は避けて、なるべくlastやyearで指定したキーワードを使って脚注参照をするようにしていただきたい、ということです。cite book|和書のauthor-maskが効かない点とかは、こだわらないので、citationになおさず、そのままにしておいてください。
  • あと、コメントアウトしていた記述をむやみに本文や脚注に加えないでください。コメントに戻しておいてください。
以上、よろしくお願いします。--宇井木辺出夫会話2016年12月1日 (木) 13:27 (UTC)[返信]

要するに、議論継続ということのようですので、再びコメント依頼をしてみなさんの意見を聞きたいと思います。--Quark Logo会話2016年12月1日 (木) 13:48 (UTC)[返信]

返信 (宇井木辺出夫氏宛)  まず先ほどの件を箇条書きで返事をします。 
  • 概要節を設ける現状の方に賛成で、冒頭部に要約としてまとめるには本文は長すぎます。(会話回答済)。概要節の必要性についても、コメント依頼しています。
  • 本文に植物生理学者という節もあるし、「義親は日本植物学会編『日本の植物学100年の歩み』(1982年)でも植物生理学者として扱われている」と本文に書いたのは、宇井木辺出夫さん、あなたです!!! これはどう理解すれば良いのでしょうか? 嘘情報を本文に書いたと理解すれば良いのか、自分で書いた内容も忘れたと云うことでしょうか・・・。理解に苦しみます。難癖ですか? 宇井木辺出夫さん自身が書いた本文に植物生物学者としての業績が評価されているので、学者にしました。政治家も同時に付けることは可能ですが、貴族議員の場合、書く内容がないので付けないことがほとんどです。実業家については、Infobox 実業家は、・・ありません。普通の人物ですかね。
  • 写真については、概要節が議論の対象になっているので、スルー。
  • 注釈と脚注に分ける編集については、コメント依頼をしているところで、私と、湖紫陽(koshi2016)さん、㭍月例祭さんは、脚注数が多いので分割を支持しています。宇井木辺出夫氏については、そうしない理由が「嫌だから」としか聞いていませんから、説得力がまるでありません。
  • 注釈の中で、出典注を付す際のスタイルは、HarvtxtとHarvnbの使い分けをはっきりさせました徳川義親の脚注をよく見て下さい。文中でHarvtxtで示す必要がある場合と、出典を示すだけのHarvnbは別のものですから、出典だけは出典節へが正しい編集です。仏足跡歌碑は議論中のため新潮国語辞典などだけの残しましたが、改善済みです。
  • 和書で用いる場合は「citation」の方が著者名が綺麗に表示されます。「版年は4桁で書くところを、勝手に2桁に変えていますよね?」という氏の発言は意味不明です。だいたい、宇井木辺出夫氏自身が版年を1959bと5桁で書いていたし、refはid属性の部分です。版年はちゃんと1959で4桁ですが・・・。宇井木辺出夫氏はharvを使わないのにref=harvとしてましたが、それが間違いですね。だいたい同年の場合などこそ、refで分ける必要があるので、使い方は私の方が正しいのですけど。
  • そもそも安易にコメントアウトするのがよろしくないです。コメントアウトは本来、編集者用のメッセージのためのものなので、使い方を間違ってる思う部分を戻しました。そのような使い方をするべきではありません。下書的なものならば、むしろ下書ページを作ることを勧めます。--Quark Logo会話2016年12月1日 (木) 14:59 (UTC)[返信]
  • 「要約がそれ以上短くできない」ということは「それ以上要約できないほど要約できている」ということだから、その要約でいいだろうし、「要約が長すぎる」というなら、もっと要約できるはずだろうから、要約してください。いずれにしても、「概要」節を作る必要はないと思います。「要約あらし(=本文に書いていないことを要約に書く編集)」を助長するので、迷惑です。
  • 「植物生理学者」の話は非常に分かりやすくQuark Logoさんの編集の問題点を示唆していると思います。徳川義親#植物学者としての中で私は、コーナーの回想録や日本植物学会の出版物の中で植物学者として紹介されていることに言及しましたが、次の段落で、東大の動植物学科に入るまで全く生物に興味がなかったとされていることや、卒業後研究所を設立したものの貴族院議員として多忙になってきたので研究を止めてしまったとの回想があることにも言及しています。上でQuark Logoさんは、評価の最初の段落の内容にしか言及されていませんよね。でも、正しい要約の仕方は「両論併記」だと思います(そして最も重要な点—あらゆる著名な論争も要約することが推奨されますWP:LS)。だから敢えて要約して書くなら「植物学者だったといわれているが、植物学の研究はあまりしていなかったともいわれている」みたいな内容にしてほしいし、別に要約に何も書かなくてもいいと思っているのですよ。要約した文章に書くべきことは他に色々あると思います。
  • 方針・ガイドラインの解釈についても同じことがいえると思います。Help:脚注WP:LAY#注と出典の「出典と注を混在させることも、分けることも出来ます。」という規定と矛盾したことがヘルプに書いてあり、しかもノートで「ヘルプのその規定はガイドラインでもなんでもない」と否定的に書かれているのを見かけたら、ガイドラインの規定に沿って編集し、「ヘルプの規定はガイドラインに反している」と解釈すべきであって、いいとこ取りをしてガイドラインの規定を無視し、ヘルプの規定を他人に強要するようなやり方は間違ったやり方だと思います。仏足跡歌碑のスタイル改変はまた「一度の独断的な編集は、荒らしではありません――それはただ役立たないだけであり、単純に取り除かれるか、書き直されるべきものです。WP:VAN」になっていますから、差し戻されても全然おかしくないと思うし、まともな執筆者に嫌われたくなかったらそういうスタイルのみ編集は止めるべきだと思います。私はその良質な記事の執筆者の方に本当に申し訳ないと思っています。
  • 脚注の中ではHarvtxtではなくてHarvnbでいい、というのはちょっと思いましたけど、脚注を注釈と出典注に分ける理由には全然ならないと思います。区分しない方がいい理由については上に書いてあると思うので、見返してみてください。
  • ref=59bの話は意味がうまく伝わっていないようですね…。私がいいたいのは、cite bookやcite journalでは(「last=」または)「author=」ならびに「year=」を指定することによって、それを参考文献一覧に著者(の姓)および版年として表示すると同時に、SfnやHarvを書くときの検索子(キーワード)として使用可能になり、参考文献一覧の表示と脚注の表示が一致しているので読者や他の執筆者に分かりやすいが、cite bookやcite journalのref=の引数を各編集者が独自に指定すると、そのマイルールは編集者ごとに違ってくるので、読者や他の編集者にとってわかりにくい、ということです。あまり分かりやすくなってないかもしれませんが、ご理解いただけないでしょうか。
  • コメントには他の編集者へのメッセージ以外にも一時的に除去せずにとっておくという目的もあるのでむやみに表示しないでください(Help:ページの編集#コメント
  • 別に議論がしたい、というわけではなくて、今後の編集のときどうするか、というお話ですので、そのつもりでいていただければと思います。この記事を急いでどうこうしてくれという話ではありません。「仏足跡歌碑」の記事は早急に差し戻しといてください。--宇井木辺出夫会話2016年12月4日 (日) 09:39 (UTC)[返信]
返信 (宇井木辺出夫氏宛)
  • 誤解ですね。宇井木辺出夫氏の文章を完全に無視するならば、短くすることもできます。簡潔な冒頭部にするだけなら、要するに概要節に今書いてあることをカットすればいいだけですから、簡単です。しかしそれでは可哀相というものなので、包摂主義として、概要節を作って残すというものなので、長すぎるから概要節をつくるという結論です。短くできないわけでもないですが、宇井木辺出夫氏のオリジナリティは全く無視すると言うやり方は、対立を悪化させるだけだと思うのですが、会話ページでも「無理矢理」やれ的なことをおっしゃってますが、どんな冒頭部を短い要約だけに変えても宇井木辺出夫氏は文句を言うことはないという合意を形成できるならば、概要節の内容をバッサリ削除した文章を作ってもいいですが、そういう覚悟がありますか? 要約を短くするということは、多くのことには触れない内容ということですよ。要約で様々なことに触れたいから宇井木辺出夫氏は長く書いたわけでしょうし、主張が矛盾していると思わざる得ません。概要節の文章はほぼ宇井木辺出夫氏の文章であって、これを残したいんじゃないのでしょうか? 宇井木辺出夫氏自身が自分の文章を残したくない、全く無視されてもいいと思っているのか確認させてもらいます。編集合戦をしないということが守れるのでしょうか。
  • 今更、取り繕っても無理でしょう。『「植物学者だったといわれているが、植物学の研究はあまりしていなかったともいわれている」みたいな内容』は、どこにも本文に書いてない。それは独自研究というか、今作った話でしょうか?? 少なくとも現時点で本文に書いてないことを要約に書くことはないです。その議論に打ち勝つ為に虚構を作るような姿勢は、非常に不誠実と言わざる得ません。全く逆の内容を本文に書いておいて、そう思ってなかった、が宇井木辺出夫氏の普通の思考ならば、宇井木辺出夫氏の文章は支離滅裂で全く信用ならないということになりますが・・。
  • 水掛け論にしかなりませんが、宇井木辺出夫氏の主張はここまでくると単に独善的なだけですね。これこそ、コメント依頼の対象としてい相応しいものだと思います。
大量の脚注を、注釈と出典にわけるのは普通の編集であり、単に宇井木辺出夫氏1人が個人的に編集に不慣れで面倒という利己的に理由で反対しているだけです。もともと、宇井木辺出夫氏以前の編集状態でも、注釈と出典はわけられており、それを改悪したのは宇井木辺出夫氏の方でしょう。宇井木辺出夫氏は、他の記事でも、注釈と出典を分ける編集ができていなくて、注釈文を出典の中に書いてしまってる例が散見されます。group名を設定するかEfnを使うだけでいいのに、それができない理由は、(記述能力が無いとは思えないので)単に意固地になっているだけにしかこちらからは見えません。合理的理由が全く示されず、宇井木辺出夫氏以外の編集は改悪だといわんばかりの自己中心的な態度は、コミュニティを疲弊させるものであり、自覚をしてもらいたいです。Sfnを使うなら、Efnもつかえばいいだけ。過去には「Efnをお使いいただけないでしょうか。」とも発言しているではないですか。Efnを使えば、注釈節ができるということなのです。何も難しくない。ログを見る限り、宇井木辺出夫氏は、ここ数ヶ月の間に様々な人から同種の厳しい指摘を受けてきているのではないでしょうか。
  • 注釈と出典注に分ける理由は、数が多くなって見づらくなってるからです。簡単明瞭な理由であり、私以外の多くの編集者がやっています。
  • リンクの動きは、本質的にアンカーとリンクでしかないのです。アンカーにidを付けるというだけであり、HTML的なことです。検索子については、「1959b」みたいなのを勝手に宇井木辺出夫氏が書いてるほうが本来ダメなんです。版年に変えたのは宇井木辺出夫氏であり、版年欄に個別の執筆者が勝手に表記に符号等をいれても、全く同じくそれを参照しないとリンクは動かない。結局はソースコードを理解しないとリンクは動かないので、何の意味もありません。宇井木辺出夫氏の主張は全くの無意味です。アンカーとリンクを符合させるというのは、リンクの知識の初歩です。
で、言い忘れましたが、参考文献には、書誌情報という側面もあるので、”1959b年”というのは無いのです。
返信 (Quark Logo氏宛)
  • 「お前が書いた本文を無視して、思い切って短い要約を書くことは簡単だ。」と書かれているように思いますが、それはWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に反しており、「本文の記載内容に応じて、適切な要約となるように要約文を書く」べきだろうと思います。だから本文を書いてない編集者が概要だけ書くのは難しいと思いますし、別に要約だけ書いて欲しいとも思っていません。逆に本文を書いていれば概要を書くのはそれほど難しいことではありませんし、本記事についていえば、概要は本文を直した後にまた書き直す必要があると思いますので、直していただかなくてけっこうです。「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の方で、概要文中のin-textの出典参照に要ページ番号を付したりしているのを見かけましたが、概要では本文の記載を逸脱しない限りで出典注は省略していいことになっていますから、これもスタイルマニュアル(導入部)の不理解に由来する不要なタグ付けだと思います。時間が余っていらっしゃるのでしたら、修正しておかれた方がいいと思います。
  • 「植物学者」は見出しは語弊のないように変更するつもりですが、要約文に書いていなかったのはそういう理由からで、後付けで言っているわけではありません。政治家テンプレがあるなら、政治家テンプレでいいと思います。まあ学者テンプレでもいいのですが、それはさておき、出典注を付して、誤記を訂正するようにしていただきたいのですが。
  • 注釈と出典については「分けても分けなくてもいい」とWP:LAY#注と出典に規定があり、Helpの記載を強要するのは指示の肥大化だから止めてほしい、私は「分けないほうがいい」と思っているから分けないのであって、技術的な制約があるわけでも、「労力を惜しんで」いるわけでもない、と再度言明しておきます。スタイルは内容の加筆に付随する「どちらでもいい」ことなので、スタイルだけ改変するような編集は止めていただきたいですし、それは「記事の改善」とはみなされないと思います。
  • 「1959b」みたいなのを勝手に宇井木辺出夫氏が書いてるほうが本来ダメなんです。‐という記述を見て思いましたが、僭越ながら、Quark Logoさんはハーバード方式の決まりごとと、cite系のテンプレートの仕様の対応関係を見落としておられるのではないでしょうか。「同一著者で同一版年の著書が複数文献あるときは西暦4桁+アルファベットで識別する」は一般的なやり方だし、cite系のテンプレのyear引数は検索のためのキーになるので「1959b」のように記し、本当の出版年は別にdate引数で指定するという対処が一般的で、ref引数をharv以外に指定するようなやり方は推奨されていないと思います。ハーバード方式#書誌の書き方とその参照方法Wikipedia:出典テンプレート#一年に複数著書がある場合などをご参照ください。--宇井木辺出夫会話2016年12月13日 (火) 16:44 (UTC)[返信]

返信 (宇井木辺出夫氏宛)

そもそもですが、最初に、無理矢理削除して短くしろと言ったのは宇井木辺出夫氏本人です。当方の会話ページの記述だと以下のように言われてます[7]

・・・私は、本文が長いので、冒頭部が長くなっても仕方ないし、冗長な文章にしたつもりもないと思うので、そのままでもいいと思っていますが、段落数を減らしたければ、無理矢理くっつけて減らしてください。

また、同ガイドラインでは、冒頭部は全体の要約になるようにすべき、とされています(全体を要約している限りで出典注などの省略も許容されています)ので、本文を要約せずに、冒頭部だけ「コトバンク」を参照して作成するような編集が歓迎されるわけがないでしょう。本文を要約するように、書き直してください。

— 宇井木辺出夫(会話) 2016年12月1日 (木) 12:53 (UTC)

宇井木辺出夫氏の言っているように、「無理矢理くっつけて減らし」たら、あなたの書いた文章をバッサリ削除することになるので、それをわかっているのか? 対立を煽るだけではないのか? と思うので、やらないて概要節化したということを言っているのに、それを「要約がそれ以上短くできない」なんて曲解されると困るわけです。こっちは配慮して、できないんじゃなくてやらないだけだと言っているのです・・・。宇井木辺出夫氏の書いた冒頭部は11行・1085字もあるので、3分の1程度にすれば冒頭に残せますが、現状程度やそれより長くなるならば、概要節という結論です。

概要節がどうしても嫌だという、宇井木辺出夫氏の考えは理解し難いところですが、「概要は本文を直した後にまた書き直す必要があると思いますので、直していただかなくてけっこうです。」と言っているということは、概要節の存在は受け入れたということでよろしいでしょうか? その簡単なこと(ウィキペディアの編集者の間で一般的に行われている行為を説明する)のために長々と議論させられた側からすれば、もっと、わかりやすく返事をして欲しいものです。

宇井木辺出夫氏は「Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に反しており」みたいなことを様々な場所で何度となく繰り返してますが、どう読めばそうなるのでしょうか。前回は(宇井木辺出夫氏が)下の部分を読み忘れるという失態をしたWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)ですが、『「本文の記載内容に応じて、適切な要約となるように要約文を書く」べきだろうと思います。』というのは宇井木辺出夫氏の念いであって、そういうことは書いてありません。逆に「非常に長い段落や、過剰に細かな説明は避けるようにします。」と明確に指示が書いてあるのです。宇井木辺出夫氏ついては、スタイルマニュアルをもう一度熟読していただきたい。まさに非常に長すぎる段落であり、過剰に細かい説明が導入部にあったから、概要節にしたのですからね。宇井木辺出夫氏の方がスタイルマニュアルに反していて、適切ではないのです。これを理解していただきたい。理解してないマニュアルを振りかざすみたいな行為はいかがなものでしょうか、二度目ですし。

「徳川家康三方ヶ原戦役画像」については、宇井木辺出夫氏の変更によって、最初の趣旨がグチャグチャになっています。論点がぼやけて、良質な記事選考時のインパクトが失われている。この記事は論説記事になっていますが、最初から否定してしまっていたり、変な時系列になっていたり、結果的に何を言いたいのかわからない文章になっています。簡単にいうと論の構成に問題がある。説明になってない。こうなると本格的に書き直す必要があるので、導入部がどうこういう問題ではなくて、時間をかけて全体の見直す必要があるので時間がかかります。

「植物学者」「注釈と出典を分ける」については私からはこれ以上いうことはありません。コメント依頼でこられた方にコメントをいただきたいです。

「1959b」については、宇井木辺出夫氏が「版年は4桁で書くところを、勝手に2桁に変えていますよね」といっていたので、いやいや、宇井木辺出夫氏は5桁で書いてると言ってるだけなんで、どっちにしろ、4桁じゃないよね、という話ですよ。そこを認めないから話がややこしくなる。last、author、editor、yearなどが検索子になっているので、yearもrefも対照して合わせなければならないのは同じだから、実質同じことなんです。「ref=harv を指定」は、harvを使う場合だけで、harvnb、sfn、efnなどのときには必要ありません。日本の書籍の場合、ハーバード式では判別や表記が難しいものがあります。例えば、多数の編者・監修者がいる場合、共著などは、refを上手く使えば省略できる。状況に応じて、より実務的な方法をとっているということ。--Quark Logo会話2016年12月14日 (水) 04:56 (UTC)[返信]