ノート:慈悲の瞑想
パーリ語和訳分の出典に関する疑問
[編集]本記事に、パーリ語(と思われる外国語)からの和訳文が3つくらい記述されていますが、それらの和訳文の出典が不明ですので、加筆したかたが出典情報を付けてくださいませんでしょうか?(Santi Greenさんが加筆者とお見受けします)。--Leonidjp(会話) 2016年6月3日 (金) 13:27 (UTC)
また、他人の成した翻訳が、翻訳者の許諾なくここに掲載されているのだとすれば、著作権法上の問題があるのではないでしょうか、大丈夫でしょうか?
また、もしこれらの和訳がSanti Greenさん自身による翻訳であった場合、外国語の翻訳(適切な出典のない翻訳)をウィキペディアの記事に記述するのは独自研究にならないでしょうか?(これについて判断基準になるような、ウィキペディアのガイドラインや編集方針があったら教えてくださるとたすかります。)
補足しておきます。上述の「適切な出典のない翻訳」というのは、和訳文自体に「適切な出典」が無いという意味です。原文たる外国語の文に出典が無いという意味ではありません。--Leonidjp(会話) 2016年6月3日 (金) 13:46 (UTC)
Santi Greenさんによるパーリ語からの和訳は、同氏自身による訳業であることが確認できました。したがって、翻訳結果が無出典であることが確定しましたので、「無出典で解釈を述べたもの」と見なして削除しました。翻訳は、原文に対する「解釈」の一種であるとの判断に基づくものです。「解釈」の出典がない場合、それをウィキペディアの記事に記述することは「独自研究の披露」にあたり、編集方針に反すると考えるものです。--Leonidjp(会話) 2016年6月5日 (日) 04:51 (UTC)
- 先日、上述のように申し上げましたが、Wikipediaの「井戸端」というページにて、「外国語からの翻訳結果そのものに出典がかならず必要なわけではない」旨の指摘を受けました(参照)。この指摘を受け入れることにしましたので、従って上述の「翻訳結果に出典がないなら独自研究に該当するだろう」という私の判断は翻意して取り下げます(取り消し線を付けました)。お騒がせして申し訳ありませんでした。
- 上述の旧い判断に基づいて削除した部分(2箇所)は、削除した部分を復元しておきました。ただし、削除箇所のうち片方は、Ryo 625さんが出典付きの和訳を新しく加筆なさったので、「出典付き」という点でこのRyo 625さんの新しい和訳のほうが良いだろうと思います。ですから、Santi Greenさんのこの部分の和訳は復元せず、Ryo 625さんの加筆した和訳をページに残すことにしました。--Leonidjp(会話) 2016年6月6日 (月) 05:48 (UTC)
出典に照らした検証
[編集]記事本文中の、【そのなかでも慈悲の心は命がけで守らなければならないと説かれている】という部分について。出典はこちらであるらしい。
この出典(そのなかでも直接に関係するのは1番の段落と7番の段落)が「命がけで守る」と言っている対象は「独り子」であるし、出典は、「〔慈愛の〕意“こころ”」については「守る」ではなく「修める」という表現を使っています。ですから上述の【】部分は、出典に照らして不正確ではないでしょうか。
そもそもこの出典は、「慈悲の心は命がけで守らなければならない」と述べているのでしょうか? 出典では、「守る(守るべし)」の目的語はむしろ「一切の生類」ではないのでしょうか? 「一切の生類」に対する「〔慈愛の〕意“こころ”」を「修める(修めるべし)」という表現のほうが正確ではありませんか?--Leonidjp(会話) 2016年6月5日 (日) 02:35 (UTC)
報告 この件はすでに対応がなされています(参照)。--Leonidjp(会話) 2017年7月13日 (木) 11:29 (UTC)