ノート:日本のダムの歴史

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木曽中央水力発電所計画中止の理由について[編集]

http://www.chuden.co.jp/corpo/publicity/press2004/0303_1.html

中部電力が進めていた木曽中央水力発電所の計画を田中康夫長野県知事(当時)が「却下して事業中止に追い込んだ」とする一文について、根拠とされる出典を明らかにしてください。--Qurren 2007年10月25日 (木) 15:30 (UTC)[返信]

  • 中電は2004年に「電力需要低下で採算が合わない」という理由で中止をしたので直接事業中止に追い込んだようではないですが、その前年2003年3月12日付け朝日新聞記事の中で「脱ダムの趣旨に合わない」として阿寺川の河川管理者である長野県知事(田中康夫)が揚水発電計画を容認しない姿勢を表明しているので、これも「脱ダム宣言」政策の一環として木曽中央揚水発電計画が中止に追い込まれた一因であると思われます(河川管理者である都道府県知事の同意・承認は事業推進に不可欠ですから)。ですが、直接「却下」したわけではないので誤解を与える文章であり、その辺りについては修正を行いました。参考資料として「阿寺渓谷データベース」を追記しました。--河川一等兵 2007年11月5日 (月) 16:21 (UTC)[返信]

プレスリリースによると木曽中央水力発電所中止の直接の原因は「電力需要の伸び悩み」であり、「電力需要の低下」という記述は販売電力量の推移を見ても明らかに事実と異なります。また、一定の反対運動はありましたが、大桑・王滝両村は発電所立地による固定資産税収入に期待を寄せており、文中にあるような「地元の理解が得られない」という記述だけでは誤解を生じさせるでしょう。本項目の性質からすれば、当該の節では脱ダム宣言について大まかに述べれば十分です(参考:信濃毎日新聞2004年3月4日4面)。それから「阿寺渓谷データベース」ですが、新聞記事から見出しを抜粋しただけの「中身のない」サイトは参考たり得ません。--Qurren 2007年11月6日 (火) 10:43 (UTC)[返信]

中世の治水について[編集]

「近世」の節(中世を含むので「中世・近世」と改題しました)に戦国大名の治水に関する記述があるのですが、「応仁の乱や明応の政変、関東地方における享徳の乱を契機に日本は中央政府たる室町幕府の統制力が衰微し、群雄割拠の時代に突入する。弱肉強食の乱世の中で各地の戦国大名は富国強兵の観点から灌漑整備の強化や治水整備といった内政を法整備と共に充実することで自国の勢力を強化させた。甲斐国を本拠とした武田信玄による富士川(釜無川)の信玄堤建設はその好例である。」(私による編集前の文章)とありますが、果たしてこうした論述は典拠文献があるのでしょうか?

あまり歴史学的な治水史研究を踏まえていない一般的な土木工学書(?)などでこうした記述はあるのかもしれませんが、典型例として挙げられてる甲斐武田氏の治水を法整備と絡めて「富国強兵」と論じた見解は、少なくとも最近の武田研究では見かけませんし、私もこうした論述があるのかわかりません。「武田信玄による信玄堤建築」とありますが、武田信玄が信玄堤の築造を命じた史料が残っていないくらいです。あくまでも傍証として、信玄の時代に堤防を管理する竜王河原宿が成立していることから、大規模な堤防普請は「戦国大名」の権力なしにはありえなかったであろうと考えられているのが実情です。

「治水整備により自国の勢力を強化させた」とありますが、最近になって甲斐国の治水史研究では江戸時代の検地帳の分析が行われ、治水の進捗による生産性の向上性や開発の変化などが検討されていて、確かに江戸時代にかけて治水による生産性の向上はあります。しかし治水は戦国時代から江戸時代にかけて面々として行われていますので、あくまでも戦国から江戸時代にかけての生産性の向上が把握できてきた感じで、中世については史料が乏しく、十分に立証されていません。治水が進捗すれば生産性が向上して「自国の勢力を強化させる」ことになろうとは予測は付くのですが、この部分は十分に証明されていないのではないかと思います。--でここ会話2015年9月6日 (日) 06:03 (UTC)[返信]