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ノート:日本の民族問題/過去ログ1

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2005年7月までの2件

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白紙とは安直すぎないか?書いた内容が理解できないのか、現実の民族問題を無いことにするのかな。自分の意見を書きなさい。--218.222.69.12 2003年11月20日 (木) 22:37

(ヒイラギの主張1)もう少し、元の記述を尊重していればよかったかとは反省している。しかし、日本の民族問題は他国で問題化しているものと比較して同程度あるいはそれ以上の深刻を持っているとは思えない。たとえば国連人権委員会の勧告が取り上げられているが、 委員会は明らかに深刻な人権侵害をしている独裁国家群(中国、北朝鮮、ビルマ、リビア・・・)にたいする追求に及び腰である。 また、同化政策にしても、戦時中を除き教育などを元にしたソフトなものが主であり、しばしば他国が行ってきた、多文化の破壊や弾圧と同じ言葉で語るのは無理があるこのよう差異を言及しないことは、百科事典としての中立性に疑問があったので改変させていただいた。

また、朝鮮系民族に対する就職差別、婚姻差別は帰化者に焦点を当てるべきではないか。外国籍を持つ人間にたいするものは外国人問題に過ぎず、よく区別する必要がある。さらには、少数民族への暴力と取れる記述があるが、本人たちの主張でしかなく 客観性に問題がある。また日本政府は暴力を完全に否定する立場にあり、しばしば他国が行う組織的弾圧と明確に区別するべきではないのか。率直に言って、以前の記述は人権派と呼ばれる人たち以外にとって価値の薄いものであった。私は、多くの人に読まれる記事を書きたい。理解を広めることこそ、偏見を取り除くのだから。もちろん、少数派の声を圧殺するつもりはなく、今後、あなたの意見も、一例として取り上げたい。--シラカバ 2005年7月31日 (日) 03:30

公平性に問題がある記述について

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従前の記述には断定的、意見的な部分が多く見られました。編集時には公平さを維持し「どのようである」ではなく、どんな意見があり、反論としてどのような記述があるかも合わせて書くことが望ましいと思われます。 WikiPediaは活動のための道具ではないので出来る限り公平さを意識して記述していただきたいと思います。--210.196.255.8 2005年11月9日 (水) 11:09

ノートへコメントを書く際にはチルダ4つを最後に入力して署名してください。Hermeneus (talk) 2005年11月9日 (水) 02:22 (UTC)

国連人権委員会及びドゥドゥ・ディエン氏の政治的中立性に関する記述を復活・追加しておきました。この記述は他の記事から参照されていますので(三国人など)、削除する場合は明確かつ客観的なソースを示してください。 --221.22.136.80 2005年11月16日 (水) 16:21 (UTC)

[1]ウィキペディアで他のユーザーに人格攻撃をするよりも更に無関係な「批判」なんですが。確かに中国に対する非難決議が封じ込められたりはするようですが、その点については国連人権委員会の記事を立てて、気に入らない国以外への批判も入れるようにお願いします。johncapistrano 2005年11月16日 (水) 17:30 (UTC)

コメントタグを使用した内容に対する質問(議論)を刈り込んでおきました。ちなみに、武者小路公秀氏に関する記事は読まれましたか? この記事を読んで(ドゥドゥ・ディエン氏はともかく、武者小路公秀氏、及び彼が参加する団体の)政治的中立性を疑わない方が存在する、という事自体が、私には信じられません。 --221.22.136.188 2005年11月17日 (木) 11:32 (UTC)

同じ委員会で、「北朝鮮による拉致問題」が取り上げられ、しかも一部の方には高く評価されていますが。それは片手落ちにしか見えません。--61.125.192.7 2005年12月31日 (土) 03:12 (UTC)
拉致に関する取り組みへの評価は(人権委員会そのものに対してではなく)問題を提起して委員会に取り上げさせた人々に対する評価でしょう。何せ件の委員会は公平でも中立でもないと自ら認めているそうですから。嘘だと思うならご自身でUNハウスの広報に聞いてみてください。(実際にこの問題で問い合わせた人に対して)「(人権委員会の活動は)裁判でなく強制力を持たない。だから中立義務を負わない」という返事が返ってきたそうです。よーするに「言ったモン勝ち」「取り上げさせたモン勝ち」ということですね。──まぁ確かに、日本のロビー活動に対する不甲斐なさ、という意味では憤りを禁じえないところですが……。--Stranger non general person 2006年3月7日 (火) 05:29 (UTC)

熊襲・隼人について

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この記事は「日本の『民族問題』」なので、熊襲や隼人は少しずれるとおもうのですが、いかがでしょうか。--kiku_b 2005年12月1日 (木) 09:05 (UTC)

韓国における民族問題は関連項目?

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カレブさん(投稿履歴)が『ノートに書け』とおっしゃいますので、簡単に。

カレブさんがおっしゃいますには、韓国の外国人差別問題(華僑に対する差別問題)は『民族問題である。故に、日本の民族問題の関連項目である!』のだそうです。だったら、ここの関連項目にはIRAとかタミル・イーラム解放のトラとかアメリカ州の先住民族とかバスク人とかも並べないといかんのではないでしょうか。私は、それはどうかと思いますが。

ちなみに、「韓国の外国人差別問題」を読んでも、日本が直接的に関係する部分はありません。この問題が日本に影響を与えたという話もありません。

それにしても、どうしてこの方は(この方も?)、要約欄で「revetした」と一言も書かずにrevertしちゃうんでしょうか。それも、2度も。2回目なんか、私は「韓国の外国人差別問題」を関連項目から削ってないんですよね。意味不明になっている短いセクションをコメントアウトしたことを除けば、何一つ減らしていない。相手がどんな編集をしたか見ずにrevertしたことが明白ですね。困るなあ。 -- NiKe 2006年3月4日 (土) 20:30 (UTC)

NiKe 氏、まず編集合戦に誘導するリバートをせずに対話を心がけることは良い事ですよ。「民族問題」については世界中で存在するものです。項目名「日本の民族問題」を読み、「他国ではどうなんだろう」という疑問に対応した「関連項目」です。あと現在のように民族混在のない昔の他国や異境の呼称を民族問題と絡めるのは如何なものか。「相手がどんな編集をしたか見ずにrevertした」と決め付ける癖は困るなあ。--カレブ 2006年3月4日 (土) 20:56 (UTC)

でもrevertしましたよね。どうしてrevertしたんですか? -- NiKe 2006年3月4日 (土) 21:01 (UTC)

君が編集合戦に誘導するリバートをせずにノートに書き込んでからはしていないが?他のもっと博学 な人が加筆されている。脇道はさておき反論をどうぞ。--カレブ 2006年3月4日 (土) 21:10 (UTC)

「反論」って何を言えばいいんでしょうか。私が言っているのは『日本以外の民族問題を関連項目に挙げるのなら、韓国のそれだけを載せるのではなく、他の地域におけるものも列挙しなければおかしい』ということです。そして、関連項目は必要なものに絞って列挙する方が分かり良いと私は考えています。ですから、韓国の民族問題を特に挙げるのであれば、日本の民族問題と関連が強いということを示して欲しかったのです。なお、歴史的側面に関する記述は、現在の 日本の 民族問題について考える上で役立つものであると考えます。
さて、先にも述べた通り、今回私はrevertしていません。参考までに、私の編集と2つ前の版との差分を挙げておきます([2][3][4])。カレブさんが「韓国の外国人差別問題」を関連項目に戻した後、私がこれを削除していないことも分かるでしょう。
一方で、カレブさんの行った2度の編集はどちらもrevertでした([5][6])。
カレブさんが最も問題にしている点が「韓国の外国人問題」を関連項目に載せるか否かであるなら、私の編集を完全にrevetする必要はなかったはずです。また、私の編集を 編集合戦に誘導するリバート だと本当に思ったのなら、2度に渡るrevertではなくノートで自ら議論を始めれば良かったのではないでしょうか。ついでに言えば、他人がrevertしたかどうかを問題にしながら、自分がrevertした時に要約欄でそう書かないのは、何か狙いでもあるんでしょうか。 編集合戦に誘導 しているのは一体誰なんでしょうか? -- NiKe 2006年3月7日 (火) 01:37 (UTC)

多重ハンドルの人物がプロクシ経由で差別書き込みをしています。毎度のことながら某掲示板と勘違いしているのではないでしょうか。johncapistrano 2006年4月1日 (土) 20:42 (UTC)

少なくとも、韓国の外国人差別問題は関連項目とは認められませんし、有効な反論がありません。世界には日本と朝鮮のみが存在するという妄想の持ち主が存在すると仮定しないかぎり、このようなことにこだわる理由が見つかりませんが、これは削除するということでよろしいでしょうか。--Iosif 2006年4月3日 (月) 18:24 (UTC)

縄文系云々と、民族の語の削除の編集について

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アイヌなどから民族の語を取り、アイヌ系国民と書く編集は、かれらの民族的な独自性と帰属意識を否定し、同化を主張する非常に政治的な編集。しかもリンクを取っているなど、全般的に情報を削減している。琉球民族は、沖縄県民にされていたが、戻して、異論もあることを追記した。そもそも、単に沖縄県民と表記するなら、少数民族の欄にリストする必要はない。民族かどうかは、個人的な意見で否定できる話ではない。
縄文系云々の演説は独自の研究・意見であり無用。そもそもそんなに昔の同一性をもって、本当の日本人であるというような言い方はレトリックでしかない。民族性は人種的同系性とは独立。日本国民として、政治的なアイデンティティにおいてかれらも統合されているんだ、といいたいのであれば、そのことは、かれらが大和民族とはことなる独自の民族であることとはまったく矛盾しないにもかかわらずそのことを否定しようとするのは理解できない。--Clinamen 2006年4月3日 (月) 17:24 (UTC)
同化を嫌悪し異化を賛美するとは正にC何とかはナチ。誰も漢化政策の様に同化を強制していないが、可能性として半島出身者が日本国籍を取得して統合日本に参加する可能性は残すべきと思う。アイヌの方々の帰属意識?アンタ調べたの?彼らは日本統合国民の一部。矛盾しない。半島の人は近代人としては未熟なので民族至上主義。筆者はそもそも民族とか人種などといったものを信じていない。-- 2006年4月4日 (火) 02:48 132.74.99.84履歴を参照のうえ署名付加。ゆえにUTCではない。付加はIosifによる。署名してください。Iosif 2006年4月3日 (月) 18:16 (UTC)
あなたは何を言っているのか自分でわかっているのですか?Iosif 2006年4月3日 (月) 18:16 (UTC)
あなたこそ日本語が解らないの?もう一度だけ繰り返してやるが
筆者はそもそも民族とか人種などといったものを信じていない。大和民族など存在しない。何故なら大和語など存在しないからだ。アイヌの方々の独自性も旧薩摩藩の独自性も同様に否定しない。世界には同化したくても出来ない人もいる。2006年4月4日 (火) 03:27 132.74.99.84履歴を参照のうえ署名付加。ゆえにUTCではない。付加はIosifによる。
▼繰り返してやっていただいて(いやみではなく)ありがとうございます。そのへんは読みましたのでちゃんと解しているつもりです。しかし、あなたが「民族とか人種などといったものを信じていない」ということについて私は関知しません。そうだったらいいなあと思うことはありますがそれはまた別の話です。ここから先はWikipediaには不要な“議論”ですが、そんな、国民の要件を明示して、それを満たせば国民たり得るような、同化の可能性に常に開かれたような国民国家があったらいいなあとは思いますよ。個人的にははそんな国家主義的国家がこの世にあと3つくらいはあってほしいと思う。私も可能性は排除しない。少数民族の帰属意識と統合の可能性は矛盾しないとも思う。▼いや、そんなことはどうでもよくて、私はお尋ねしているのは、あなたの立場をもって「同化を嫌悪し異化を賛美するとは(中略)ナチ」と決め付け、レイシストだとする心持ち・あり方が理解できないのです。だからお尋ねしたのです。それくらい言うのならば、日本の現状において、同化嫌悪にも(是非は別として)一定の根拠があることくらいはわかっているでしょう。朝鮮人と同じように、日本人にも(あなた以外には)多くの未熟な近代人=民族至上主義者がいることを日本の現状として把握しているでしょう。同化嫌悪が現状に対するリアクションであること(これをレイシズムと区別しないとレイシズムという語の意義を失うこと)も知っているでしょう。まるで、そんなことはなかったかのようなふりをして出てきた罵言に聞こえるので(なかったふりをしていないとすればそれまでですが)、しらばっくれながらカッコつけてんじゃないかと思っているわけです。もしももしも本気で「同化の可能性を排除するのはレイシスト」規定が正しいと思われているのであれば、独自の論考として展開していただきたいと思います。個人的には大変興味があります。しかし、ここではそういうルールで誰もプレイしていないと理解していたので、突然の決め付けには仰天するわけです。ってことを言わなければわからないわけではないでしょうに。--Iosif 2006年4月3日 (月) 19:45 (UTC)/あと、あなたのかわりにあなたの署名と投稿時刻を付加していることにちょっとは感謝してもらいたい。--Iosif 2006年4月3日 (月) 19:45 (UTC) 場を弁えない説教を自己削除。Iosif 2006年4月4日 (火) 05:54 (UTC)
johncapistrano某とClinamen某とIosif某はその投稿傾向からして同一人物もしくは同一組織に所属する者、少なくとも同一のイデオロギーを共有するものと見る。(筆者の要らぬ妄想で公式に訂正。)まあ、それはどうでもよいが。一々線引いて見せなくても良いのですよ。筆者が推測するに3某は我が日本国に在住の"少数民族"に属するものかな。それはそれで尊重する。ようこそ言論の自由がある日本国へ。歓迎する。筆者は繰り返すが、同化したい者はすれば良いし、したくない者は外国人としてのリスクを追えば良いといっている訳で少なくとも選択の自由は日本国にはある訳。解った?シナでは強制的な漢化政策で満州"民族"が言語の使用を禁止された訳。日本ではあなたが何語を使用しようが公安に捕まったりしないよ。半島の日本統治時代でも朝鮮語は禁止された訳では無く、むしろ日本人が作った学校網では、ほとんど文盲だった半島の各エスニック集団の貧民にハングルを学ぶことを推奨し、それを通して(日本国民の範囲内ではあったが) 統合朝鮮人意識が成立したと言うことを隠すのはどういうわけ?仮に民族が存在するとしよう。例えば日本列島人が民族化したのは、①学校教育の普及②新聞・ラジオ等のメディアの発達③義務徴兵制と戦争による国民意識の形成によるもので、日本列島人が民族化或いは国民化したのはせいぜい第一次世界大戦後なの。『アイデンティティー』何てものは恒久的なものじゃなくて流動的なものなの。以上。
追加:「縄文系云々の"演説"は独自の研究・意見であり無用。」と言う"意見"は的を得ていない。何でそんな決め付けが出来るのか?それこそ独自な意見・感想。かつて日本の体制派歴史学者達はアイヌ系国民を"北海道土人"と言う極めて西洋的な言葉で表した。しかし今日、その土人とは日本人自身の事を表していると言う事に、歴史学者達は気が付いる。独自の研究だって?30年古いわ?現在北海道に住むアイヌ系国民が続縄文文化の担い手であると言う事は高校生でも知っているが?沖縄県民のルーツは黒潮に乗ってやって来た東南アジア系で本土の縄文人と一致。勿論縄文時代は1万年以上も続いた多文化かつ多言語社会であった訳で誰も今日の東京方言など百数十年前まで使っていなかったの。その様々な列島のエスニック集団が江戸時代の参勤交代などによって近代国民化の基礎を作り上げていった。日本国民はその蓄積の財産の上に存在。
もう一つ例を上げる。中東では古代から様々なエスニック集団が存在した。シュメール語から始まり、アッシリア語やアッカド語系の諸言語を話す者、アラム語、古代エジプト語、カナン語、ヘブライ語、モンゴル語、ギリシア語、ラテン語、フェニキア語などを話す者達もいた。彼らは何処へ消えたの?彼らはアラビア語を受け入れ話す事によってアラブ化した訳でしょう。アイデンティティー何てのは、欧州の現実に基づく近代人の病理であって絶対的なものではない。例えば中東ではどの宗教を信じているかが同一言語集団に優先する。後、アラブの征服占領の効用を見るまでも無いが征服事業には功罪がある。筆者はその片方を強調する立場にはない。132.74.99.84
署名をしていただけると助かります。--~~~~で署名になりますが、編集ボックスの右から二つ目のボタンでも挿入することができます。さて、まず、同化主義に関する論点です。同化主義を批判することは、永住権を持つ在日コリアンの帰化の可能性を排除することにはなりません。帰化は、国籍の問題です。もう少し踏み込んでも、愛国心や、ナショナリティの問題です。同化というのは、文化的独自性を奪われることをいいます。エスニックな生き方と誇りを奪われることです。たしかに、現在の帰化制度では、同化を暗黙に強要される側面がある、という批判も一部には存在しますが、本来、帰化にとって同化は義務ではありませんし、そうあるべきでもありません。合衆国的にいえば、国旗への忠誠が問題なので、アングロサクソンに同化することを求められるわけではありません。
つぎに、大和民族などいない、という論点ですが、アイヌ民族やイギリス人と異なる生活様式と習俗・信仰を日本国民の多数派集団が持っており、かれらを文化・習俗・言語の観点からひとつのグループ・コミュニティとして捉えることができるのは同意いただけるでしょう。まさしく、民俗学や文化人類学が研究しているものです。日本の多数派のエスニックな集団というものが存在することは明らかですし、かれらを日本民族・大和民族と呼ぶ、ということです。自分たちは「普通=文明」であり「特殊=民族」ではないという考えがもしあるとすれば、それは、まさしく自民族を特別視する観点ではないでしょうか。大和民族という呼称が適切でないということであれば、それがアイヌなど日本国内の他民族を含まないという留保において、日本民族という言い方で別にかまわないのです。
民族(ネーション)の成立が近代のものであり、その境界線はしばしば揺れ動くものであり、実在するのは、エスニックな文化の連続的な差異であるということは十分に承知しています。しかし、現に今や差異は存在するのです。本来存在する必然性はない、本質的な存在ではない、ということは、現にそれが、存在するようになってしまっている、ということと両立します。差異が実在し、その差異によって差別や人間のアイデンティティが左右されるとき、それを軽視することは、生きた人間を圧殺することにしかなりません。文化的独自性を尊重するといいながら、独自の存在であることを否定し、日本人の下位分類にすぎないとみなすのは傲慢です。なぜなら、このとき、「日本人」という言葉には、暗黙のうちに、エスニックな意味での日本民族・大和民族の意味合いが忍び込んでいるからです。純粋に法的・国籍的な意味なら、間違っていませんが、そうでないかぎり、明らかにそこには、相手の独自性を二次的なものに削減することにならないでしょうか。
縄文文化と原日本人という言い方にも同様の混同があります。現在の日本民族・大和民族の大陸系と並ぶ源流として在来系である縄文人がある、そして、アイヌと琉球人が縄文系であることが、遺伝的な証拠から分かっている、ということも、よく知っていますし、あえていえば、よくある話です。しかし、そのことは、何ら、同化主義の根拠にはならないのです。第一にそれ以来生じた差異こそが問題なのです。オランダ人とドイツ人はもっと近いですよ。でも異民族です。現にある差異と当人たちの現在の意識が指標なのであって、「起源」はこの際、問題にも論拠にもなりません。琉球人とヤマトンチューくらい文化的に近ければ、そして、異民族であるかに当人たちのなかにもいろいろ意見の揺らぎがあるような場合には、大いに議論の余地がありますが、アイヌの場合には、論を待たないでしょう。アイヌは、たしかに非常に文化的に和人化し、その伝統的文化・言語を暴力的に奪われていますが、言語は復興の途上にあり、アイヌ民族意識も高揚しつつあります。同化を選ぶ人もいますが、これは個々の選択の問題です。そういう人でも自分はアイヌであり、和人になるのだ、という意識でしょう。
ですから、私は同化が可能であり、民族境界も帰属も変動しうるということは否定していません。勿論、民族は本質主義的な存在ではない。いいですか、問題は、同化を強制したり、同化しないことよりも肯定的に評価することです。同化は個人の選択として否定されるべきではない。しかしまた、そうしたい人々は、自己のエスニックな帰属意識と文化・生活様式を維持し、エスニックな共同性や連帯を持つ権利は擁護されなければならない、ということです。民族的なアイデンティティというのは、たしかに歴史的に形成されたものですが、同時に、個人にとって簡単に取替え可能なものではないでしょうし、それを強いるとすればそれはある種の暴力でしょう。いかに些細な歴史の偶然で民族というものが「でっちあげ」られるか、にもかかわらず、それは、その民族に生まれた人間にとって、かなりの程度、選択できない、そして自己を、内面的にも、そしてこちらがより重大ですが、社会的・政治的立場をも、大きく規定する問題です。--Clinamen 2006年4月5日 (水) 16:34 (UTC)
○今回は時間が無いので手短に。『同化』と言う言葉から何を連想するかと言うところで既にズレが生じている模様。察するところClinamen氏は中世イベリア半島などに於ける異端裁判でも想像されているのではないか。筆者は同化からemancipation(解放)を連想し、そこから生じる社会参加の可能性が念頭にあったと言う事を明らかにしたい。アメリカに於いては極度にアングロサクソン化を強制される事は無いと言う事ですが、筆者は逆に何時まで経っても米国の多数派に成れない黒人の事を念頭に入れると、或いは欧州に於けるユダヤ教各派など非キリスト教徒の事を考える時に他者による異化つまりレイシズムの深みにぞっとさせられる者である。因みにイスラエルに於いては今日でも市民法が宗教横断的な結婚を(その領土内に内に於いて)保障していない。明治以来、日本政府が日本国民多数派とアイヌ系国民、半島系その他の人達との婚姻関係を禁止して来なかったというのは日本国が南アフリカやイスラエルの様な人種主義政策を持たなかったと言う事を示すものであるし、『列島及び半島のレイシスト』はその事に危機感を感じているのであろう。又、50年代まで米国では異化された黒人は大学に入学する事もままならなかったので、コンドリーサ・ライス女史の活躍は無意味では無いと筆者は理解している。132.74.99.842006年4月6日(木) 16:45 (UTC)
アメリカで同化政策はごく最近まで採られていましたが、この記事の主題ではないので措いておくべきでしょう。(色々な意味で用いられる「白い黒人」など象徴的と思います。)米移民帰化局辺りか別記事かで論じるのが適切だと思います。johncapistrano 2006年4月6日 (木) 17:45 (UTC)
口を挟んで申し訳ありません。「民族の語の削除の編集」についての解決案です。--せんべい屋の寄宿人 2006年4月7日 (金) 11:28 (UTC)
    • 1)アイヌ、ニブフ、ウィルタの単語の後ろに単語を続けない。「民族」を続けるか「系国民」を続けるかもめないように。
    • 2)上記の単語にリンクを付ける。利用者の便を考えるとリンクされているほうが便利。
    • 3)上記の単語の後ろにあった補足「(どの地域の)少数民族」は取る。リンクされていれば、リンク先のページを見ることで代用可能かと思われます。

《Clinamen氏への返答、前編》

○昨日、浅学な筆者は現在『同化主義』なる用語がどの様に使われてるかを今の今まで存じておりません。察するに多文化主義のアンチテーゼとして、流行してるものと取り敢えずは仮の理解をしました。筆者は排外的ショービニズム(それが中華・日本、又は半島諸国のそれであれ)や(米国における日系人異化と強制所収用などの)人種優越主義に対する解毒剤としての『同化』の有効性を素直に信じている超保守派に位置付けられ得るのかもしれません。又、国家は (ユーゴスラビアやレバノンなどの分裂故の憎しみ合いなど) 常に異化の地獄へ引きずり込もうとする大衆運動に対して、(内蒙古などの漢化政策の様な強制では無い)同化の可能性をもって対抗すべきであるとも信じております。  

Clin氏の書いた物をプリントアウトして読み直しました。そして『同化する事』とは何かと考えたところ、「他者に受け入れられる事」だと思い浮かびました。又、その為に受け入れ先の集団の『文化的コード』を習得する事でないかとも。卑近な例ですが、新参者の筆者がウィキペディアで作文の真似事を始め出した瞬間から、その場の『文化的コード』である、細々とした編集者ルールやウィキペディア編者特有の慇懃無礼な言い回し等を早急に身に着ける必要に迫られます。これが現在筆者が直面している『同化問題』の実例です。確かにかなり苦痛が伴う事は否定出来ません。場合によっては強制追放も有り得るとも脅かされました。

これを関門海峡間の移民問題に置き換えます。仮に筆者が韓国出身の女性と国際結婚をしたとします。そして、配偶者の母国である韓国で暮らす事に同意しました。この場合、筆者が必要に幾ら必死に韓国語を覚えたとしても韓国へは同化出来ません。不可能です。無論、筆者は日本人で在る事や日本国籍を保持している事に満足しています。だが、筆者と韓国人配偶者の間の子供(達)は自分が日本人なのか、それとも韓国人なのかと悩むでしょう。更に筆者の孫の代、つまり三世になると『文化的コード』としての日本語や日本人としての振舞い方を身に着けていません。厄介な事に国籍は日本のままです。さぁ、筆者の孫は周りの韓国社会から異化し続けるべきでしょうか?この場合、土着(韓国)化するのが自然です。

筆者の考えでは、日本在住の半島出身者の三世御呼び四世は日本人であって韓国朝鮮人ではありません。彼らが身に付けている『文化的コード』は日本のものであり半島のそれでは無いからです。日本人と半島人との間には共通の先祖も在ると言う事も有り、著しい外見的相違は無く(異論が有るかも知れ無いが逆に半島人間での相違も有る)、両者を積極的に異化する宗教的理由も無い。現在出ている異化の考えは、歴史上に置いて半島や大陸からの移民を受け入れてきた列島の吸収性に対する恐れ、人種優越主義の臭いのプンプンする半島民族主義に他なりません。多文化主義は都合の良い隠れ蓑となります。蛇足になりますが、最も半島人の人権を蹂躙して来たのは、強権的な歴代韓国政権でも、脱北者を追い返すシナでも無ければ、ましてや金大中元大統領が政治的亡命を求めた日本ではありません。朝鮮民主主義人民共和国です。


追記:数年前日本の新聞各社が今上天皇に「韓国について、お感じになられる事は?」と言う質問をした時に、天皇陛下は「そうですね、桓武天皇の母君が半島出身の家の出だったと言う事を想い浮かべます。」とお答えになった。だが、五大紙のうち朝日を除いて全て自己検閲した。何と日本のメディアは皇室の人種主義的純粋性を捏造せんが為に、恐れ多くも陛下御自身の御言葉を国民の前に封殺したのだ。一方、日頃何かと日本を目の敵にしているはずの韓国全紙は、勇気を出して一面トップで報道。筆者はこの列島と半島の双方に起源を持つ天皇家が近代の一時期に列島と半島双方のシンボルで在り得たと言う事実を想う時に感無量の念が打ち寄せるのを禁じ得ない。

132.74.99.842006年4月7日(金)10時36分

ディエン報告への懐疑について

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コメントアウトになっていますが、批判する声もあることそれ自体を記載することは有益だと思います。根拠が薄いためコメントアウトにしたそうですが、根拠の強度評価は読者の仕事ではないかと。試しにドゥドゥ・ディエンで検索してみましたが 検索結果批判的に紹介しているブログが多数ヒットしました。またその多くが武者小路氏についてもふれています。従って

  1. 批判する声もある。
  2. 批判的な立場の人の多くは武者小路氏の背後関係を問題視している。

この二つの事実を過不足なくまとめ、読者の判断の手助けをするのがここでとるべき態度だと考えるのですが如何でしょうか。 おはぐろ蜻蛉 2006年4月5日 (水) 10:00 (UTC)

難しいところだと感じています。もちろん「批判の存在」は記載するべきです。当該記述については必ず削除すべきと考えているわけではないのですが、先に編集意図(コメントアウトした意図)だけ説明いたします。▼当該記述については、当初「批判が紹介されている記述」であると認識しませんでした。これは勇み足だったかもしれません。しかし今もまだ、当該部分の記載が適切かどうかについて、議論の余地があるのではないかと考えています。根拠の強度評価を読者に委ねるといっても、程度問題だと思うからです。ある程度は「読者の判断の手助けとなる記述であるか否か」について投稿者複数の議論に付した後にしてもいいと思いますし、そう考えて物言いをつけるのは許されると考えております。▼当該記述を「批判」として認識しなかったというのは、どうも両論併記にそぐわない=併記しようがない事柄ではないかと思ったからです(あくまで“現状どおりの記述では”です)。この場合、背後関係と言っても、たまたま2つの組織に同時に関わっているというものです。私も(検索しただけですが)それ以上のことを見つけられませんでした。これだけでは「批判未満・中傷容疑」ではないかと考えました。もう少し、内容がふくらんでいれば「批判」として扱い得ると思うのですが。▼武者小路公秀氏がチュチェ思想国際研究所なんぞに関わっていたとは心の底から驚きでしたが、複数ブログをもって「批判の声がある」と取り上げるのでしたら「そのようなモノは中傷であるという反論」を取り上げることも可だということになると思います。すると、武者小路批判を取り上げた直後に「それはそれとして、武者小路公秀氏は業績を残した国際政治学者である」ことを含めて、彼を評する両論を併記するということになるのでしょうか。もちろん、それはこの項目の役割ではなく項目:武者小路公秀の役割だと思います。▼しかも、ディエン報告に武者小路氏がどう影響を与えたのかもよくわかりません。もしもディエン氏がチュチェ思想国際研究所と関わりがあるというのなら話は別で、すごい情報価値だと思います。しかし当該記述そのものでは、「ダレソレのイトコのハトコはアカだから、ダレソレの言うことは検証するまでもなく全部、偏向しているんだ」とか「誰某がああいう主張をするのはきっと在日だからに違いない」という論法に聞こえるのです。そういった“中傷”はよくありますよね。さらに言うと、新井将敬のポスターに「北朝鮮から帰化」とシールを貼る類のネガティブキャンペーンの域を出ないのではないかと思いました。そういった政治キャンペーンからは距離を置いているべきだと考えた次第です。▼何が「批判」で何が「中傷」なのかというのは難しいですが、うんと極端なことを言えば、たとえばチュチェ思想国際研究所から出た言説とディエン報告に表現・論法等が酷似していたり一致箇所が多かったりするため、影響が疑われるとかいう批判があれば完璧だと思います。もちろん、そこまで求めるわけではありません。ご紹介のブログ類には「ディエン氏はどれくらい日本に滞在したんだ」とか「どれほどの調査をやったのだ」という批判がありました。そのような論点が、事実関係を踏まえたうえで紹介されるのであれば、納得がいくのですが。そうではなく、武者小路つながりだけでチュチェ思想国際研究所の影響を疑うというのは、あまりに無理筋だと思いました。いくら、紹介するにあたって「批判」の内容に立ち入らないのがルールだとしても。▼個人的な感想を言うと、「反差別国際運動」の理事長を(名誉職か何かはわかりませんが)引き受けた人間が、チュチェ思想国際研究所という特定の国家の立場を代弁していると言われても仕方のない組織(とIosifは思う)の要職も引き受けているというのが、立場が右だ左だという問題以前に、オレノオノレのやっていることの責任をどう考えているのかとあきれかえっています。
▼しかし、それとディエン報告への評価と、どう関係するのか?という思いが“今のところ”ぬぐえません。▼……とはいえ、当該箇所を読んで私のように感じる者が出る可能性も含めて、読者の判断に委ね得るという趣旨ですよね。ひょっとすると書き方次第なのかもしれませんし、もうちょっと考えてみます。--Iosif 2006年4月5日 (水) 19:11 (UTC)typoIosif 2006年4月6日 (木) 23:28 (UTC)

武者小路氏の言動・立場が報告に影響を与えたか否かは議論の余地があるとは思います。しかしながら、批判的な立場の人はその根拠・理由として武者小路氏の立場を挙げているのですから影響の有無にかかわらず武者小路氏についてふれるべきです。ただ批判する声もあるとだけ書いて、その立場の人がそのように考える理由について説明しないのは読者に対して不親切ですよ。あと、この部分は報告への賛否とでも改題して、賛同する声やその根拠についても記載する必要がありますね。 おはぐろ蜻蛉 2006年4月6日 (木) 12:39 (UTC)

「ただ批判する声もあるとだけ書いて、その立場の人がそのように考える理由について説明しない」でいるべきとは思っておりません。。。そんな意味不明な記述はあり得ませんから。ひょっとして、そう読める箇所があったでしょうか? だとしたらごめんなさい。取り急ぎ。--Iosif 2006年4月6日 (木) 23:28 (UTC)
続いて、取り急ぎというか大急ぎ。「中傷の類ではないか」もしくは「政治キャンペーンではないか」という点については言及されていませんが、いかがお考えですが? それは議論の対象になり得ないと思われますか?--Iosif 2006年4月7日 (金) 15:13 (UTC)